月の裏側〜幸せの続き〜
第1章 Still Mooning -曖昧-
2.嫌われてもかまわない
駅から通りに出ると風が吹き抜ける。まだ肌寒く、鈴亜は肩をすくめた。
駅から転校先の青学東高校までは、同じ制服の子が何人もいて迷うまでもなかった。佳乃がついてきていれば目立ったに違いなく、独りで来てよかった。
学校は駅からそう遠くもなく、五分も歩けば校舎の三階部分が見えてくる。
青学東高は、香奈が通う青南学院の系属校で、もとが女子校だから、いまだにいくらか女子の生徒数のほうが多いらしい。
転入試験を受けるには青南も青学東も難易度は大して変わらなかったが、鈴亜は香奈と同じ高校を選ぶ気にはなれなかった。そうしたときの光景は目に見える。
寮生活を楽しいと云う香奈が学校でおとなしくしているとは思えないし、これまでと同様、鈴亜がその姉だとわかって、一時にせよ無駄な注目を浴びたくなどなかった。マンモス校だからそう神経質に考えることもないだろうが、香奈からしても“変わった”姉の存在はきっと迷惑だ。
鈴亜よりも背の高い塀に沿い、それが途切れると歩道から少し引っこんで門扉があった。通学時間中、開けっ放しにされたロートアイアンの門扉は、上の部分が唐草(からくさ)模様と凝(こ)っている。門柱も豪華な額縁みたいな彫刻がされ、ずっと奥に見える校舎は、木枠をわざと外側に出して昔の洋館を思わせる造りだ。
昔はお嬢さま学校と云われていたようで、佳乃曰(いわ)く、学生たちはもとより親が勧めたくなるほど人気があるという。
鈴亜はまず事務室に行くと、担任の先生を呼んでくるから、と職員室まで案内されて廊下に待たされた。
その間、生徒たちのざわめきや校舎に染みついた匂いに気を留めた。それらのカラーに馴染むことで、そのなかにずっと存在したかのように鈴亜を見過ごしてくれるだろう。
いったん閉められていた職員室の戸が開く。
「ありがとうございました」
なんのことかと疑問に思ったと同時に、その男性の声にも疑問を感じた。鈴亜は、生徒たちの昇降口があるほうに向けていた目を正面に戻していく。
「いいえ。終わったあとに校内を案内しますので連れてきていただいたら……」
「いえ、それは私がやりますよ。担任に慣れてもらうにはいい機会なので」
「そうですね。ではお願いします」
事務職員は担任に会釈をすると、鈴亜に向かい――
「どんなことでもいいから質問があれば訊ねてくださいね」
と、声をかけて立ち去った。
そうして、目を合わせているのに沈黙したままという、奇妙な時間が流れる。
めずらしく鈴亜は目のまえの顔を憶えていた。綺麗だ、という最初の感想のとおり、明るく陽が差すなかでも顔は端整だった。
目は二重でもすっとした鋭さを備えて、鼻はくっきり筋が通って高め、そして厚くはないくちびるは完璧なバランスで一文字を描いている。
担任は、土曜日につかの間だけ会った日高という人だった。
日高はあの時点で少なくとも、鈴亜がここの転校生だと知っていたのだ。柏木という名に反応していた理由がわかると、鈴亜はなぜかほっとした。
「柏木鈴亜」
日高は一語一語ゆっくりと確かめるような響きで名を呼んだ。
「はい」
名を呼ばれて応じた返事に日高はうなずいて、そうする間も日高の目が鈴亜から逸れることはない。
なんだろう。ほっとしたのも一瞬で、また疑問が浮かぶ。
日高は少し視線をずらして、エジプト版クレオパトラみたいな鈴亜のおかっぱの髪型に目を留めた。そして視線は流れるようにして肩までの髪を滑り、制服のセーラーカラーに移る。そのまま藍色のワンピースを下へとたどっていった。
ローウエストで切り替えたスカート部分はボックスプリーツで、いったんそこまでおりた目は折り返してきて、フロントのボタンをまっすぐ這いあがる。ブルーのリボン、そして鈴亜の顔に戻ってきた。
父親に似てくっきりした顔立ちの香奈とは違い、鈴亜は母親に似て線が細く、よく云えば清楚な、悪く云えばさみしそうな印象を与える。二重の目だけがくっきりして、それが唯一、鈴亜に意志があることを示している。
「担任の日高だ。日高良哉(りょうや)。数学を担当している」
「はい」
短い返事のあとはまた沈黙がはびこる。何を思ったのか、じっと鈴亜を見下ろしていた日高はふっと口を歪めて笑った。
「ちょっと待ってろ。一緒に――」
「わざわざ紹介はいりません。教室と席を教えてもらえれば独りで大丈夫です」
鈴亜は日高が申し出ようとするそのさきを察してさえぎった。背中を向けようとしていた日高は鈴亜に向き直る。
そういうわけにはいかない、などそれらしいことを云われるかと思ったが、考えこむように眉をひそめていた日高はやがて肩をそびやかした。
「わかった。ただし、新学期だ。クラス編成したついでに自己紹介は全員にやってもらう。いいな」
「はい」
「オーケー。じゃあ、こっちだ」
日高は廊下が交差するところまで出て、鈴亜に教室への行き道を教えた。
「ホームルームが終わったら帰る準備をしてここに来てくれ」
「はい。ありがとうございました」
鈴亜は会釈をしてから教室に向かった。
*
良哉はその背中が見えなくなるまでそこに佇(たたず)んでいた。
小雨の舞うあの日――二年半まえ、帰りがけに見かけた少女は柏木鈴亜だったのか否か。
あの時、小雨のなかずぶ濡れだった彼女は、それだけ長時間そこにいたということだ。腰まで届きそうな長い髪は顔にも躰にも貼りついていた。同一人物ではなく、たまたま似ているという可能性もある。似ているから惹かれる、というだけなのかもしれない。
ありがとう。
そう云ったかぼそい声が、ついさっきの鈴亜の言葉で鮮明に甦った。
*
講堂での始業式が終わったあと教室に戻ると、日高は簡単に自己紹介やら挨拶やらをして、ごく自然な流れで生徒たちにもそうさせた。
それが鈴亜のばんになると、日高は特別なことは云わずにさり気なく転校生だと云い添えた。一学年七クラスあると、初対面という人も多いのだろう、転校生ということもそう特別視されることなくすんだ。
正午直前になり、帰りの挨拶をすませれば、雑談して残る人、のんびり帰る支度をしている人、そしてさっさと帰る人とに別れる。鈴亜は三番めの人たちに紛れ、だれとも接することなく教室を出た。
職員室まで行くと、出入りがあるなか、そう待たされることもなく日高が出てきた。
「あれでよかったか?」
そう問う言葉は砕けている。教室では、“ですます”で話していたのに、一対一になると違うようだ。
「……あれで?」
「紹介のことだ」
「……問題ありません。気を遣わせました」
思いがけず日高にプレッシャーを与えていたようで、鈴亜は軽く頭を下げた。
「おれは転校したことないからよくわからないけど、柏木の場合、普通に転校というには状況が違う。見たら、一年以上、同じ学校にいるってことのほうがめずらしかった。そのたびに挨拶とか、面倒くさいだろうな」
「もう慣れました」
鈴亜があっさりと応じると、日高は首をひねって問いかけるようなしぐさをする。そして、呆れたように首を横に振るとため息をついた。
「案内しよう」
案内されながら気づいたのは、ここは女子が多く、それゆえに“日高”に案内されることがいかに目立ってしまうかという誤算だった。
帰る生徒たちとすれ違うたびに、日高先生、さようなら! という軽快な挨拶が飛んできて、そのあとは必ず日高についてまわる鈴亜がじろりと値踏みするように見られる。
人気俳優にも負けていない日高のことだ、当然、生徒たちに人気があるだろう。
案内などだれでもかまわなかったのだが、順当に事務職員に頼めばよかった。鈴亜は後悔しながら、一方で、些細な時間にすぎず無視すればいいと、どうにか自分をなだめて片づけた。
保健室から体育館までひととおり巡ってから、もとの三年生教室のフロアに戻ってきた。日高は奥のほうにある、資料室だ、と云った部屋の一つ手前で立ち止まる。
「職員室は最初のとこになるけど、通常、三年の担任はここにいる。些細なことでも何かあれば遠慮なく来ていい」
「はい」
来ることはないだろう、そんなことを思っていると、それを見透かしたように、日高は眉を跳ねあげた。おもしろがっているのだろうか。
「待ってろ」
そう云うと、日高は部屋のなかに入り、すぐに戻ってきた。鈴亜へと差しだされた手にはパンがある。
鈴亜は日高を見上げてわずかに目を見開いた。
「学校出るまで隠していけよ」
「隠す?」
「もらいものだ。クリームは苦手なんだ。賄賂(わいろ)じゃない」
おそらく生徒からもらったものだろう。逆のパターンなら賄賂という言葉も当てはまりそうだが、教師が生徒に贈り物をしてもなんの得もない。強いて云えば、困らせないでくれというご機嫌とりか。
――と考えた瞬間、あの男を思いだした。
「いりません」
気づいたときはきっぱりと言葉を突き返していた。
「案内ありがとうございました。さようなら」
これで嫌われようがかまわない。鈴亜は淡々と云って、日高の表情を確認することなく背を向けた。