月の裏側〜幸せの続き〜

第1章 Still Mooning -曖昧-
1.呼吸の仕方がわからない

 柏木家の食卓がにぎやかだったことはない。少なくともここ数年は食器の音がメインで、咬み砕くかすかな音、そしてプレートの上で切り分ける音さえ聞こえるほど静かだ。
 それを鈴亜の横から大げさなため息がさえぎった。
「もしかして、あたしがいない間、ずっとこんな感じだったの?」
 一つ下の妹、香奈(かな)が呆れた声で問う。云いたくてたまらなかったという気配がありありだ。
「あなたがいなくなっただけで、お母さんもお姉ちゃんも変わりないわ」
 母、佳乃(よしの)は至って穏やかに、なお且つ順当に香奈に応じた。
「寮、楽しかったんだけどなぁ」
 香奈の声には心底からの後悔が滲んでいる。

「東京にいるときくらい、一緒にいてちょうだい。香奈ったら、勝手に志望校を変えるなんて、お母さんはまだ納得してるわけじゃないのよ」
「納得できないのはこっち。なんでお父さんに合わせなくちゃならないの? 転勤するたびに編入試験なんてうんざり。子供を犠牲にするなんて間違ってる。今度はどれくらいこっちにいるのか知らないけど、また転勤てことになってもあたしは寮に戻るだけだから」
 香奈はきっぱりと宣言した。
 佳乃は説得の余地を探しているのかじっと香奈を見つめ、断固とした意志を見取ってやがてあきらめたようなため息をついた。

「こっちにいるのはいつもと同じよ。最低一年としか云えないわ」
「お父さんて、いつまで転勤族でいなくちゃならないの? お母さんもいちいちついていくことないのに。家なんて、どうせお父さんは寝に帰ってくるようなもんじゃない」
「だから少しでも一緒にいるべきでしょ。家族なんだから。札幌も、そのまえの広島も、観光巡りができてよかったわ。長い旅行だと思えばそれなりに楽しいのに」
「旅行は旅行。しょっちゅう新入生でいなきゃいけない子供の身にもなってよ。家族だからって無理強いしていいなんていう理由にはならない!」
 香奈は口を尖らせて母親に不満をぶつけた。その不機嫌な顔が鈴亜のほうに向かってくるのを目の隅に捉えた。
「お姉ちゃんも我慢してないで、あたしみたいにすればよかったのに。でも、やっと解放されるよね。大学はこっち受けるんでしょ? 青学東(せいがくひがし)高は青南(せいなん)大だったら有利だし」
「そうだね」
 ひと言返事に、香奈は信じられないといった面持ちで鈴亜を見つめる。

 香奈は、前髪を短く切りそろえ、顎のラインのショートボブで、いかにも快活そうに見える。見えるだけでなく中身もそのとおりだ。
 父、多一朗(たいちろう)は大手電機メーカーのシステムエンジニアで、国内をあちこち飛びまわっている。家族だから一緒にいるべきだというのは佳乃の考えなのか、文句も云わずに夫に連れ添い、必然的に鈴亜たちも引っ越しを繰り返してきた。
 ただ、鈴亜が自分で動けなかったのと違い、香奈は独断で高校の受験先を青南学院の高等部一本に決めていた。提出物をどう偽ったのか、佳乃がそれを知ったのは、ほとんどの受験受付が締め切り日をすぎてからだった。
 いまだに納得できない佳乃を、いいじゃないか、となだめたのは多一朗だった。そう考えれば、一緒にいるべきだとこだわっているのは佳乃だけかもしれない。

「お姉ちゃんて強いよね」
「強い?」
 鈴亜は眉をひそめた。
「いろんなこと経験してるのに、いっつも同じだから」
 いろんなこと。
 確かに鈴亜はいろんなことを経験してきたかもしれない。けれど、香奈はそのうちの一つしか知らないはずだ。
「やめなさい」
 鈴亜のかわりに佳乃がさえぎった。反射的に佳乃に目を向けた鈴亜と対照的に、佳乃は意識して鈴亜と目を合わさないようにしているのが感じられた。
「お母さん、なかったことにしないで。香奈、あんたは知ってる気になってるかもしれないけど、あたしの経験はあたしにしかわからないことだから。干渉しないで」
 鈴亜は食べかけたままお箸を置いて席を立った。ソファから鞄を取って玄関へと向かう。
「鈴亜、待ちなさい。一緒に……」
「来なくていい。場所はわかってるから」
 呼びかけた佳乃を背中越しにさえぎり、鈴亜は靴を履いて玄関を出た。

 編入ではじめて登校する日が新学年というのは、クラス替えがあるぶん少しだけ気がらくだ。だからといって、友だちが欲しいとか思うわけでもない。鈴亜が独りでいることに周りが早く慣れてくれればいいだけの話だ。
 だれかと深く関わるほど、忘れてはいけないことを忘れてしまう気がした。
 駅に行けば人混みに紛れ、電車に乗れば人のなかに埋もれる。そんなふうに、だれの目にも留まらなくていい。
 その点、この東京は鈴亜にとって住みやすいのかもしれない。
 ただ人が多すぎることを忘れていた。電車に乗るとつかまるものもなく人同士が支え合うなかに押しこまれる。
 だれかのバッグが背中に当たると、鈴亜は顔をしかめた。否応もなく、一昨日――土曜日の夜のことが脳裡に甦った。

 おい――とそう呼びかけた声は、最初だれだかわからなかった。
 ずっと、だれのせいでもなくあたしのせいだ、とそう思ってきたから。
 人の将来の邪魔をして憶えてないってことはないだろ。
 男は云い放ち、強引に手を引いて公園の片隅に連れていかれた。日高の手と違ってただ痛かった。それが鈴亜にはちょうどよかった。

 投げ飛ばされるように木陰に転がった鈴亜に男が跨がる。薄手のセーターが下着ごとたくしあげられても、スカートを捲られショーツが剥ぎ取られてもどうでもよかった。
 男は勝手に動き、乱暴で何も感じない。
 ただ、地面から飛びだしている石ころが鈴亜の背中に痛みを与える。
 服の上にかかろうがかまわず鈴亜の上半身に欲望を放った男は、満足げなため息をついて躰を離した。
 柏木。名乗った憶えはなかったのに、そう呼ぶ男の顔にはじめて鈴亜は目を向けた。

 罪人を――鈴亜を待ちかねた門番はやっぱりいた。

 何も感じなかった。いや、安堵したのかもしれない。
 こんなに人が溢れる街で、会うはずのない男に会う。それが、忘れたくない記憶を本物だと裏づけたから。
 木の葉の間から覗く、滑稽なフェイクムーンが鈴亜の目に鮮明に映った。

 あの男はどうしたんだ?
 あなたが殺した。

 鈴亜の答えを冗談だと捉えたのか、男は笑ってあしらった。

 男は二年半まえのあのとき、人を殺したと思って逃げたはずが――少なくとも、ケガをさせたと思っていたはずが、大したことがなかったように笑った。花見用のライトと月の灯りだけという暗闇のなか、鈴亜を見下ろした顔には木の葉の影ができ、男はまるで死に神に見えた。

 鈴亜のせいで――執拗(しつよう)に絡んでくる男から鈴亜をかばったすえ、一週間後。
 おれは月の裏側に逝くんだ。
 神瀬祐真(かんぜゆうま)はそんな言葉を鈴亜に遺(のこ)して、二度と会えない場所に逝った。

 鈴亜に足らなかったもの――体温を感じる愛、がんばれそうと思える幸せ、何よりも信じられる言葉、そして人を好きになること、それらを教えてくれたのは祐真だった。
 約束はやっぱり儚くて、知りたくなどなかった離別も教わった。祐真は結局すべてを鈴亜に与えてくれて、だからもう鈴亜には何も感じるものがなくなった。

 妹の幸せを見届けてほしい。
 祐真とその従妹との恋は叶うことなく、その結末を託されて、一年後。
 祐真に鈴亜がいたように、彼女にも“彼”が待っていた。
 祐真の予想図どおりの結末を鈴亜は見届けた。

 祐真が彼女を愛さなければ、そして鈴亜が男と係わっていなければ。
 そんな否定条件が片方でも成立していたら会うことのなかったふたりだった。その男が引き金を引いたのだから、ふたりは最初から離れるために出会った。祐真と鈴亜の結末はもうどう変えようもなく、そんな堂々巡りのなかにある。
 三週間ぽっちの恋はそれでも鈴亜にとっては何もかもが凝縮された時間で、きっとだれかに恋することはもうない。
 祐真にした約束を見届けてしまってから、呼吸の仕方がわからない、鈴亜はそんな感覚のなかにいる。

 彼女の幸せを願うことは鈴亜の支えになっていたのかもしれない。その支えがなくなって、鮮明にあった祐真の気吹(いぶき)を見失いそうで怖くなった。
 すぐに忘れる。最初からいなかったみたいに。
 転校を繰り返しているうちに、自分はそんな宙ぶらりんな存在なのだと気づいた。けれど、だれも責められない。鈴亜もまた祐真をそんな存在にしようとしているのだから。
 鈴亜をくるんだ体温を、腕を、その抱きしめられる感覚を、そんないちばん忘れたくないことをだんだんと思いだせなくなっていった。
 鈴亜ではなく、レア、と歌うように鈴亜を呼ぶ声も。

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