月の裏側〜幸せの続き〜
prologue HazyMoon
彼女は幸せなんだと思う。
彼女と会うことも彼女を見ることもないけれど。
いま幸せですか。
その返事は、はい、と短かくて、でも彼女の声のなかに聞き遂げた。
よかった。
それはそのときの正直な気持ちだったはずが、だんだんとわからなくなっていった。
よかったね。
そう呼びかけても答えてくれる声はないから。
彼女の幸せを妬んでいるわけでも恨んでいるわけでもなかったのに。
だれだかわからない手があたしに触れて、だれだかわからない人があたしのなかを侵して、おまえが悪い、と責め立てる。
穢されながら、あたしは救われたのかもしれない。
冷たいコンクリートの上で躰を揺すられながら、曖昧になっていた月がくっきりと目に映った。
この人は違う――
*
この街の夜はいつもこうなのだろうか。各々の店から漏れる明かりと外灯で、目を凝らすまでもなくすれ違う人の顔がはっきり浮かびあがる。
当てもなく歩きながらふと見上げた空は、月が見えるとしてもかすんでいて輪郭がはっきりしないだろう。
同じ輪郭が滲む現象でも、あの日とは違う。ずっとまえ、水中に沈み見上げた月は、まだきらきらと輝いていた。それとも、あたしの記憶が過去の月をそう美しく塗り替えたのか。
いまとなってはわからない。
目を瞬いても空の暗ささえすっきりは見えなくて、もしかしたらあたしの目が曇っているのかもしれなかった。
耳をすませば、聞きたい声は聞きとれずに、かわりに人混みにいるようなこもったノイズを感知する。それに引きずられるように足が動いた。
来た道を憶えているだろうかというほど、コンクリート街を曲がりくねる。やがて、森のなかから抜けだしたように視界が広がった。
道路の向こう側には公園があった。植樹された緑の連なりはやはり森のように見えたが、コンクリートのような無機質さはなく、ライトアップされていて幻想的だ。
言葉もはっきりしない雑音にすぎなかった声は、笑い声に様変わりする。幻想的な様は油断を誘う囮(おとり)ではなかった。あとは散るだけという桜を口実にした、無味乾燥な集まりにすぎない。
もっとも、罪人を待つ門番たちのざわめきではない、という保証はない。
そうであってもかまわない。むしろ、そうだったらいいのにと思う。
公園に入って奥に進むと、風に桜がそよいでぼたん雪のように花びらを散らす。一週間まえまで札幌にいたけれど、一瞬、まだ札幌にいるのかとあたしを混乱させた。
桜の木が並ぶ通りに入れば、陽気な声が飛び交っている。グループごとに敷かれたシートの間を縫うように歩いた。
東京に戻ってきたのは二年半ぶりだ。けれど、そのときに住んでいた海沿いの街とは全然違う。懐かしむ気持ちはまったく湧かずに、それがかえってあたしを息苦しくさせていた。
歩きながら空を仰ぎ、かすむ月が夜中をすぎたらやがて見えるだろう在り処を探した。けれど、どこも桜の木が邪魔している。ここでは見つからないのだ、とあきらめた矢先。
「良……じゃなかった日高(ひだか)先生、待って!」
そんな声が後ろから響いた直後に、あたしはだれかの背中にぶつかった。
「おっと……すみません」
云いながら振り向いた人はよろけたあたしの腕をつかんだ。
「大丈夫です」
顔を見ることもなく、つかんだ腕から離れようとした矢先、頭上ですっと息を呑む音が聞こえた。何かに気づいたような、もしくは驚いたような気配に感じて顔を上げると、そのとおり、あたしを見下ろす眼差しはどこか喰い入るような雰囲気だった。
背が高くて、男の人なのに綺麗な人だと思った。
「急に立ち止まって悪かった」
ついさっきとは違い、あたしを自分よりずいぶんと幼いと見切ったのだろう、言葉遣いが砕けた。
ただ、そんなことよりも、知っているかもしれない、とあたしはそう思った。
だれ?
「日高先生、わたしも一緒に行く。ビールよりもサワーがいいから」
内心でつぶやいたあたしの質問には女性が答えた。
日高など聞き憶えがなかった。この人なら、会って話していたら顔を忘れない気がする。だれかと似た声なのかもしれない。もっとも、あたしの記憶は頼りなくて当てにはならない。
「ずうずうしくないか。ビールが苦手なら飲まなきゃいい話だ」
「これがわたし。知ってるでしょ。わたしを自分の高校に紹介したのが運の尽き。観念したほうがいいよ」
あたしの腕をつかんだまま、日高という人は深々といったため息をついた。
この人でいいかもしれない。一瞬そう思った。けれど、腕をつかむ手がしっかりとあたしを捕らえているのに痛くない。この人じゃだめだ、と内心で直感じみた言葉を吐いて切り捨てた。
腕を放そうとすると、日高という人の関心があたしに戻ってくる。
「名前は?」
「……鈴亜」
「フルネームだ」
せっかちに聞こえて、ましてや、フルネームを必要とされるとは思わなくてあたしは少しためらった。
「ちょっと、補導する気?」
「柏木鈴亜(かしわぎれあ)」
女性の怪訝そうな声とあたしの声が重なる。そのどっちの返事に対してか、日高という人は眉宇をひそめた。
「柏木……?」
つぶやきながら記憶を探っているようだった。それが何か、思い当たったような表情と同時に手が緩んだ。
その隙にあたしは手から逃れた。
そのまま歩きだしても引き止められることはなく、ほっとした反面、疑問も生まれる。
何を思い当たったのだろう。あの場の流れからすれば、あたしに関することになる。いくら考えてもやっぱり何も見いだせない。
「おい」
桜並木を通りすぎてまもなく、あたしの思考は背中のほうから呼びかける声に中断された。