ミスターマシーンは恋にかしずく

第4章 人の恋路を邪魔する奴は

3.結婚は絶対

『昼休み、一緒に食べない?』
 翌日、早朝から南奈が美穂宛てに送っていたメッセージには、『OK』というスタンプで返信が来た。南奈から誘うのははじめてで、そのイラストを単純に解釈するなら美穂ははしゃいでいる。
 帰りは、何時になるかわからない待ち合わせでも相変わらず旭人と一緒だから、昼休みの間に薬局に妊娠検査薬を買いにいこうと思っていたが、今日は中止にした。美穂が結婚を知っている以上、“ちゃんと話す”のは引き延ばすほどそうする気持ちが萎(な)えていく気がした。
 昼休みになって一階の待合スペースに行き、美穂と合流して、業平ビルから歩いて十分くらいかかるクラブハウスサンドイッチの専門店“YummyClub”に入った。
 小さいテーブルを軸に立って食べるお店で、BGMの音量も大きめだからくっついて喋れば人に聞かれることがない。サンドイッチはそれぞれ気ままに中身をチョイスして注文をし、コーヒーを添えると、ちょうど隅のほうが空いていてふたりでテーブル一つを陣取った。

「美味しい。あと一個くらいいけちゃいそうだけど」
 合流したときから美穂は至っていつものとおりだ。彼女が手にしたサンドイッチは南奈よりも早く、口のなかに消えている。
「もう一つ頼めばよかったのに」
「どこで見られてるかわかんないんだよ。大食いだって思われたら嫌じゃない」
「だれに見られてるの?」
「将来の旦那さま」
「……いるの、そういう特定の人?」
 ためらいがちに訊くと美穂は口角をめいっぱい上げた。本物の笑顔かどうかは判別がつかないまま、直後、美穂はいったん息を吸いこんでから吐きだした。ため息にほかならない。
「いないよ。いたら、わたしが誘ってもその半分しか乗ってこない南奈をかまってるより、その人選ぶ」
 美穂はずばりと云っているようで、肝心要(かんじんかなめ)なことで言葉を濁す。
 試されているような感覚に陥り、南奈の迷いが会話を途切れさせた。
 南奈の手が止まっている間にも、美穂はサンドイッチとコーヒーをかわりばんこに口に運ぶ。
「美穂、美穂に黙ってることがあって……わたし、美穂と業平で会う直前……十月に旭人と結婚したの」
「ふーん」
 どうでもいいといった相づちだ。美穂は口のなかに残ったサンドイッチの欠片を呑みこみ、一つ呼吸を置いたあと続けた。
「おめでと。よかったね、初恋が実って。なかなか、そういう人いないよ」
 皮肉でも嫌味でもなく、たださり気ない。南奈は合わせられなかった目線を上げた。

「美穂は旭人と心置きなく恋ができそうって云ったよね?」
「旭人くんと? わたし、そんなこと云った憶えないよ」
 美穂はあっさり否定した。それは嘘なのか、本当に憶えていないのか。けれど、南奈はちゃんと聞いて憶えている。自分にとって大事なことを聞き間違えるはずがない。
「美穂。最後に会ったとき、美穂が云ったことがずっと忘れられなくて、わたしは自分のこと恋愛失格者だって思ってきた。ううん、いまもそう。わたし、旭人に云ってないの、再発するかもってことも子供ができないかもっていうことも。だから結婚できたんだよ。後ろめたくて……公表を延ばしてもらってるし、だれにも云えてない。美穂に云えなかったのは、旭人にばらされるのが怖かったから。でも、自分で云う。だから邪魔しないで。それは美穂には関係のないことだから」
「わたしが云ったこと、全部鵜呑みにしちゃったの? 担当のドクターいるんだから訊くことできるし、そうじゃなくても調べるとかしなかったの?」
 美穂は自分が故意に最悪の事態をわざわざ教えたことを棚に上げ、南奈の落ち度を指摘する。
「訊けば大丈夫だって云われるし、調べればプラスもマイナスも出てくる。どれも嘘じゃないけど、あとからがっかりするよりは信じないほうがマシ。そんなふうに思う気持ちも、知りたくないことを知るかもしれない怖さもわからないよ、当事者にしか」
 云ったことは思いがけず強い口調になった。
 美穂はしばらく口を噤んでいた。ふたりともが食べる手を止めていて、周囲の雰囲気から浮いている。

「嫉妬」
 美穂のつぶやきは店内の音楽に紛れてうまく聞きとれない。
「え?」
「ただの意地悪。あの日、メモの話を聞いて、どうして南奈だけ? ってそう思ったの。南奈が旭人くんのこと忘れてないのはわかってたし、でも、学校の先輩に憧れるのと同じで、卒業して離れ離れになったら二度と再会することはないって……そのまま南奈の気持ちもだれか別の人が現れたら消えていく。そんな関係だと思いこんでた。わたしも旭人くんのことはいいなって思ってたから、うらやましくて嫉妬した」
 南奈は入院したときのことを思い起こした。美穂の打ち明け話が意外だと感じたのはそうするまでの一瞬で、あの頃は南奈の気持ちも美穂の気持ちも大差なかったのだと気づいた。
 美穂は深くため息をついて続けた。
「だからよけいなこと云った。ごめんね、南奈。傷つけたことは充分わかってた。云い訳すると、傷つけようって思ったわけじゃなくて、ホントに子供っぽい意地悪。何度も謝ろうって思った。でも実行に移せなくて、意地悪な気持ちと後悔と闘ってたかな。それで、やっと決心がついたらケータイが繋がらなくなってた」
 南奈は自分がひどく子供っぽいことを思い知った。美穂は謝りたいと変われたのに、南奈は美穂のせいにして思考回路がマイナス方向にしか働いていない。

「昨日、美穂は知っててわたしの嘘に付き合った」
「南奈はパニクってたから、話すのはあとでいいって思っただけ」
「……話す、って?」
「ああ、旭人くんに曝露するってことじゃないよ。南奈の云うとおり、それは南奈の問題だから。もしくは旭人くんとふたりの問題。南奈んちに――あ、実家のほうね――行って結婚してるって聞いて、そしたら、南奈はいまでもわたしの云ったことに傷ついてるんだなって……南奈がわたしに黙ってる理由もわかった気がした。だから、わたしは何も口出すつもりはなくて、よかったって思ってるんだってことを伝えなくちゃって」
「“よかった”?」
「旭人くんのことは、南奈に意地悪するまえから終わってる気持ちなの。南奈の初恋を壊した罪悪感あったから、いまはやっと解放された感じ。わたしも南奈みたいに幸せになる権利あるよね?」
 幸せだけれど、幸せとは云いきれない。それは美穂とは中身が違っても、同じ罪悪感があるからだ。
 それは美穂とは関係ない。南奈は幸せを認めてうなずいた。
「わたしが幸せじゃなくても美穂には権利がある」
 最初の食事をしたとき美穂が云ったこと、それがいまようやくしっくりと南奈のわだかまりに浸透した。

 会社に戻る途中、反対方向から小泉がやってくるのが見えた。気づいたのは美穂のほうがさきだった。歩きながら美穂は小泉に視線を定めている。
「南奈のカレシ、義理のお兄さんじゃなくて小泉さんだって聞いたときからちょっと疑ってたんだよね」
「え?」
「だって小泉さん、南奈がカレシだって紹介して『らしいね』って云ったんだよ。普通に疑う」
 南奈はお粗末ぶりに首をすくめた。美穂は笑って続ける。
「まあ、照れてたりしてそういう云い方しかできない人もいるけど。食事したときはだから、旭人くんを持ちだして鎌をかけてみたけど南奈は云わなかった。疑惑は消えなかったけど、どっちにしろカレシがいるってことについては南奈が嘘を吐く必要はないし、旭人くんのことを乗り越えてるんならそれはそれでよかったし。でも……ほんとに南奈と旭人くんの邪魔をしてないってことがいちばんの救い」
 やはり美穂は頭がまわる。
 南奈はまるで空回りをしていたようだ。独りでもやっていけるように、とそう思って自分を変えてきたつもりだが、気を遣われているとわかるとまだまだだとため息をつきたくなる。

「南奈、南奈の話に合わせたってことは、小泉さんてフリーってこと?」
「……と思うけど」
「小泉会長の甥だもんね。ラッキーかも」
「美穂、わたしと旭人のことはまだ内緒だから」
「わかってる」
 軽快な返事のすぐあと、業平ビルのエントランス正面で小泉と合流した。
「外で食事? めずらしいな」
 小泉は南奈に向かって首をかしげる。美穂のことを苦手にしていると知っているから、気遣いが覗いている。
「小泉主任、付き合ってないってことばれてますからお気遣いなく」
「なんだ。疑似でもうれしかったのに」
 残念そうな口ぶりは本心かどうか、小泉は肩をすくめてみせた。
「つまり、今日のランチは相互理解と友好を温めてました」
 美穂が口を出すと、小泉は吹きだして笑う。ビルのなかに入りかけたところで、わずかにロビーに笑い声が響いた。
「政治的な云い回しだね」
「今度、商事ガールズと不動産メンズで合コンしませんか」
 美穂は身を乗りだすようにして南奈越しに小泉を覗きこんだ。
「考えておくよ」
「残念ながら、それを断り文句と取るほどネガティブな性格じゃないんですよね」
「じゃ、おてやわらかに頼むよ」
「了解です」

 ふたりの会話は冗談と本気の境目がわからず、南奈が少々唖然としていると、ふいにエスカレーターに気を取られた。そうする気配を放つ人は一人しか考えられず、そのとおり、旭人が降りてきた。外に出るのだろう、ダレスバッグを持っている。
 思わず立ち止まった南奈に合わせて、小泉と美穂も足を止める。
「お疲れさまです」
 南奈だけ置いてけぼりにして、小泉と美穂は口をそろえた。
「お疲れさま」
 旭人はどこかもったいぶったようにふたりをそれぞれ目に留め、それから南奈へと移した。
 刺を感じるような雰囲気で、南奈は怪訝にしながら旭人を見上げた。
「お疲れさまです」
「今日の帰り、旅行会社に行く。スケジュールを確認してほしいそうだ。また連絡する」
 一方的に云うと、旭人は南奈たちを置いてエントランスに向かう。
「わぁ南奈、旅行するんだ。お正月?」
 奇妙な様相を断ちきったのは美穂のざっくばらんな問いかけだった。ついさっき内緒にしてほしいと頼んだのに、まったく無視している。もとい、悪いのは美穂じゃなくて旭人だ。

「やっぱりそうだったんだ。キスマークは藤本さんのだ」
 南奈が答えられないでいるうちに、小泉がため息混じりにしみじみとした口調でつぶやいた。
「小泉主任、やっぱり、って」
 ため息をつきたくなるのはこっちだ。キスマークの件は一週間くらい社内で持ち切りの話題だった。旭人はノーリアクションを通して乗りきっていたが、ばれてしまえば相手イコール南奈という等式が成立する。
 自業自得というのがなんとも情けない。今日はとことんそんなことを感じる一日かもしれない、などと、嫌な兆しを予感した。
「先月、川田さんとここで待ち合わせてるって云ったとき、こんなふうにばったり帰社した加納代理と会っただろう。そのとき南奈ちゃん、『もう出先から戻ったんですか』って云ってた。『もう』って外出を知っていた云い方だ。部署は違うのにね。ということは別のところで繋がってるってことだ」
 小泉をカレに見立てたすえ美穂には見破られ、加えて小泉も南奈の失言を聞き逃さないという洞察力を誇示した。南奈は予兆を感じた傍から情けなくなる。ほかにボロを出していることはないだろうかと不安になった。いや、きっとふたりとも頭が切れすぎるのだ。
「小泉主任、内緒にしてくれたらうれしいんですけど」
「そう? 加納代理は吹聴したがってると見たけどね。旅行って人前で堂々と口にするってことは結婚が視野に入ってるわけだ。加納家も安泰だ」
 安泰、その意味を掘りさげると南奈の心配事に深く関わってくる。とりあえず明日までは考えないでいよう。そうしても何も生まないから。
「名誉のために云っておきますけど。送別会のときは食べられてませんから! 家にちゃんと送ってもらいました」
「いちおう信じておく。けど、これからいろいろ楽しめそうだな。ミスターマシーンと南奈ちゃんの組み合わせって最高だ」
 南奈への気持ちは本気だとほのめかしていたわりに小泉はあっさり受け入れている。
「美穂、小泉主任て移り気みたいだから気をつけて」
 南奈は逆襲した。


 終業時間になっても旭人からの連絡はなく、南奈は携帯電話を見てそっと息をついた。旅行会社は八時までだからまだ余裕はあるが、帰るタイミングがつかめないでいた。
 ひとまず片づけを始める。すると、今日二度めという感覚に陥った。案の定、おなじみの一日の終わりに交わされる労い言葉があがるなか、「お疲れさま」と応じる旭人の声が聞こえた。
 ぱっと顔を上げると、旭人はまっすぐこっちにやってくる。その瞳は、自分にかけられる挨拶言葉に頓着せず、南奈を捕らえている。
 嫌な予感がする――というセリフが脳裡に浮かびあがったとたん。
「帰るぞ」
 と、南奈のデスクの向かい側から声がかかった。旭人の声音は上司としてとは云いがたい。あまつさえ、南奈の帰る仕度を待たず放置して旭人は背中を向ける。
 塚田の仰天した眼差しが南奈のほうに向かってきたのは、旭人が声をかけた相手を勘で見当をつけた結果だとしても、なぐさめにはならない。
 差し当たり、旭人は南奈の名を口にしていない。南奈はよっぽど知らないふりをしようかと思った。
「藤本さん、お疲れさま」
 小泉のそんな追い討ちがなければ。

「ひどいです!」
 そう声を張りあげたつもりはないが、南奈の声は届いたようで旭人が立ち止まり、そして振り向く。
「隠して周囲を欺くほうがどうかしてる。早く来い。区切りつかないんなら下で待ってる」
「いま放りだすほうがどうかしてます!」
 反感を訴えつつ、南奈は急いでデスクに鍵をかけた。
「なんだか懐かしい。千雪さんと藤本さんじゃ性格まったく違うけど、キスマーク事件の加害者側が藤本さんだったら納得するかな。しばらく楽しめそう」
「藤本さん、がんばって。お疲れさま」
 先輩に後押ししてもらうのは幸か不幸か。塚田と三沢の無責任な言葉に追い立てられるようにして南奈は旭人を追った。

 会社を出ても、旭人と公共の場で云い合いをするなんていう、みっともないことはさすがに南奈も控えた。横槍が入って話を中断させられるのも避けたくて、帰るまで、と自分を抑制した。
 昨夜、不機嫌でも抱くことは忘れなくて、それで機嫌が直ったかといえばそうじゃなかったらしく、朝も冷血漢ぶりに曇りはなかった。もしくは何かに気を取られて、南奈をかまっている暇がないのか。
 旅行の打ち合わせ以外、喋らない南奈をどう捉えているのか、旭人もむっつり感を前面に出している。
 オーダーメイドの旅行で費用がいくらかかろうと厭わないとなれば、旅行会社にとってふたりは上得意だ。ハネムーンなのに少しも楽しそうではないふたりに接した担当者はどう思ったのか、上得意のリピーターを失ってはたいへんとばかりにおべっかを使っていたのは確かだ。
 けれど、旅行の話を詰めている最中に、またもや南奈は不安要素を見いだした。

 家に帰り着くと普段どおり、リビングに顔を出してからふたりともいったん部屋に行った。南奈はソファにバッグを置いてコートを脱いだ。
「旭人……旅行やめるとしたらキャンセル料いる?」
 ためらいつつ南奈は訊ねてみた。デスクのところに立っていた旭人はジャケットのボタンを外す手を止めた。ゆっくりと顔を巡らせ、その瞳は威嚇するように南奈を見据える。そうしたすえ南奈から視線を逸らすと、南奈が見守っているうちに旭人はジャケットを脱ぎ、無言のまま部屋を出ていった。ピリピリと殺気立った旭人の気配だけが居残る。
 ただ妊娠していたらと思って口にしたことがそんなに怒りに触れたのだろうか。南奈は途方にくれる。
 ジャケットを脱いでかわりにセーターを着ると、南奈は旭人のあとを追った。
 八時をすぎた夕食はふたりきりだ。いつになく食器の音が目立つ。好物のポトフも味がよくわからず、南奈はじゃがいもをのどに詰まらせそうになる。のんびりしか食事を進められない南奈を置いて、旭人はさっさと平らげた。

「旭人、明日ま……」
「今日はやけに静かね」
 南奈が云いかけたことはリビングからやってきた茅乃にさえぎられた。茅乃はかわるがわるふたりを見て首をかしげる。
「触らぬ神に祟りなし、ってところです」
「そのようね」
 おそらく、昨日から続く旭人の不機嫌さは筒抜けになっている。南奈の言葉に茅乃は興じた様子で相づちを打った。
 何をしにきたのかと思っていると、浅木に「お茶を淹れてくれないかしら」と云って茅乃はふたりの正面で腰を落ち着けた。
「そろそろ招待状のリストをあげなくてはね」
 茅乃はさっそく本題を切りだした。南奈と旭人をまえにして招待状といえば、披露宴の話でしかない。
「日取りもはっきり決めなくちゃ。忙しい方が多いから、予定に入れていただけるように早めに知らせないとね」
 あとから入ってきた華世が茅乃の提案を継いだ。
 ここまでだ。
 強者が劣勢に立つ者を追いつめたときの決めゼリフが南奈の頭に浮かんだ。云うまでもなく南奈は追いつめられた側だ。
 せめて、明日だったら心構えもできてはっきり応じられただろうに、そのちょっとした差で崖っぷちぎりぎりに立たされた気分になる。
「そうですね」
 南奈は隣の旭人を見やったが、旭人は南奈に見向きもせず茅乃に向かった。
「南奈は取りやめたがってるようですよ。結婚は落第を喰らいました」

 ダイニングは、いきなり時計の針が止まったかのようにフリーズした。その間、旭人を除いてだれも思考には及ばなかったかもしれない。浅木ですら、湯呑み茶碗をのせたトレイを持ってきかけたまま、ぱたりと立ち止まっている。
「わたしはまだそんなこと云ってない!」
「“まだ”だろ。いずれ云うってことだ」
 旭人は抜かりなく南奈の発言を聞き留め、軽率な言葉をつついてきた。
「そうじゃなくて……! 結婚に落第するとしたらわたしだから!」
 旭人は眉をひそめる。
「結婚はおれが南奈とって決めたんだ。そのおれがなんで落第させるんだ」
「だから! 云わなきゃいけないことがあるから」
「だから、なんだと訊いてる」
「旭人、やめなさい」
 見かねた華世が口を挟む。
 旭人は必要以上に苛々しているように感じた。
「もう少し待ってって頼んだのに!」
「だれの答えを待つんだ?」
 意味不明の言葉を発した旭人は立ちあがって、「父さんは?」と華世に問いかけた。
「書斎よ」
 旭人が立ち去ったあと。
「どうしたことかしら」
 とつぶやく茅乃のため息が蔓延した。

 きまりの悪さを食べることでごまかして、南奈は部屋に戻った。おなかが重苦しく感じるのは、なんとか食べてしまおうと呑みこむように口に放りこんでいたからかもしれない。気分まで重たい。
 待たせる理由は期待させないためだと旭人には云ったけれど、結局は結婚失格だとか責められるのを避けるためだという自分のずるさにいま頃気づく。
 旭人が結婚した理由はいまだにはっきりしない。もし南奈の事情を知っても、旭人の結婚は絶対だという気持ちになんら差し支えがなかったら、結婚したのが南奈だから、という理由がつく気がした。メリットが何一つないからこそ、そうであれば特別になれた気になる。
 そうして結婚がふたりの意志で成立しても、家族という単位がある以上、その家族には納得してもらいたい。そんな気持ちが南奈に湧いた。
 南奈が頼れるのは、結婚したいと云ったのはおれだ、そして絶対だという旭人の言葉だけだ。
 バスルームを出るとちょうど千雪と鉢合わせをした。

「永都くん、寝た?」
「うん。のど渇いたからお茶を飲もうかと思って。風呂上がりみたいだし、南奈ちゃんもどう?」
「いただく!」
 南奈は千雪と下に向かった。
「昨日、話せなかったけど。結婚のこと、会社だけじゃなくって友だちにも内緒にしてるの?」
「いろいろあって。でも今日話したから、それは大丈夫」
「あとは会社だね」
「それも内緒じゃなくなった。旭人が堂々と一緒に帰ろうって云いにきたから」
 千雪は驚きもせずにくすっとおもしろがっている。
「建留と似たようなことしてる」
「結婚てことまでは知られてないけど……」
 キッチンに入るとリビングのほうから声がして、南奈は口を噤んだ。
 なんと云ったかはわからないが茅乃の声だ。もう九時をとっくにすぎているのに今日はいつになく遅くまで起きているようだ。
 気に留まったのはその理由だけではなく。
「おれは結婚したんだ。それで満足だろ。おれたちのことに口出ししないでくれ」
 旭人の苛立った声が聞こえた。同じように、さきに聞こえた茅乃の声も尖っていたから南奈の注意を引いたのだ。
 無自覚に、目を丸くした千雪と顔を見合わせたあと、南奈はダイニングを通り、リビングへと続く内ドアに近寄った。

「旭人、わたしはお見合い話を持ちだしたけれど、無理やりに成立させようとしたわけじゃないわ。あなたがわたしを嫌ってることは知っているし、理解もしているの。もしくは当然だと思っているわ。でもね、旭人。わたしの意図を誤解してお見合いを蹴ったすえ、反抗という気持ちだけで南奈さんを連れてきたんだとしたら、あなたは取り返しのつかないことをしたのよ」
 とくんと鼓動が一つ高鳴って、それから南奈は生体機能がすべて停止したような感覚に陥った。
 南奈が疑問に思っていたこと――旭人が結婚した理由は、このあとの茅乃への答えでわかる気がした。息を呑んで待った答えは。
「わかってる」
 それではまるで後悔しているような返事だった。
「南奈ちゃん、違うよ」
 千雪もまたふたりの会話を聞き遂げたようで、背後から南奈の背中に手を添えてなだめた。
「母さん、旭人はそんな理由で結婚しない」
 千雪と同じように否定したのは孝志だ。けれど、本人がすでに肯定した。
 南奈はドアノブに手をかけた。

「どうあっても、おれは結婚したからには……」
「取り返しがつかないとか、旭人が責任を感じる必要はないから」
 ドアを開けるなり南奈がうそぶいたのが早かったのか、旭人が南奈を認めたのが早かったのか、旭人は南奈を見据えて口を閉じた。険しい様で目を閉じ、顔を背け、そして旭人の目は再び南奈を捕らえる。
「南奈」
 ゆっくりと旭人は立ちあがった。
「わたしも! わたしも一度くらい結婚できればって思ってて、旭人を利用してる。結婚するのに大事なこと黙ってた。だから旭人は悪くない。責任なんて取らなくてもいい。離婚しても全然平気。おばあちゃん、お義父さん、ごめんなさい」
 口早に云って、だれもが唖然としているうちに南奈はくるりと背中を向けた。驚きのあまり立ち尽くしている千雪を横切って二階に向かう。
「南奈」
 旭人の声が追いかけてきたが、かまわず部屋に急いだ。
 部屋に入ってドアを閉めたかと思うとまた開く。

「南奈、おれは……」
「だから、いいの!」
 南奈は背中から聞こえてくる声を素早くさえぎった。
「旭人が、三沢補佐じゃなくわたしを選んだのは正解。ミスターマシーンがどう計算していたのか知らないけど、見る目があったのは確かだってわたしが保証する。全然疾しいとか思わなくていいから」
「どういうことだ」
「わたし、旭人を騙してる」
 そう云ったあとの沈黙は何を意味しているのだろう。自分の呼吸音だけがはびこる部屋は不気味で、南奈は不規則にふるえる自分の息づかいに怯えてしまう。
「好きな奴とは終わってなかったってことか」
 やがて沈黙を破った旭人の声が苛立っているというのはわかっても、内容はまったく南奈の頭に入ってこない。
「好きな奴とは終わってない?」
 ばかみたいに旭人の言葉を繰り返した。
「女同士うまくいかなくなるのは大抵が男が原因だろ。川田って彼女の男と南奈が好きだという男が同一人物だって見当はつく。あのエレベーターのところで鉢合わせしそうになったときの会話からすると、彼女はいまフリーだ。つまり、その男もフリーだって可能性はある。その男から答えがくるのを待ってるってわけだ」

 あまりに飛躍した、あまつさえ、まったくの事実無根だと叫びたくなるような旭人の解釈に南奈は呆気にとられた。
 旭人は、美穂のことは憶えてなくても、その日に何が南奈を怯えさせていたか、そのおおもとである声の主――美穂の会話はちゃんと把握していた。惚(ほう)けた気分で、そんなふうに南奈はいまの旭人の主張からするとどうでもいいことを思う。
 南奈はゆっくり振り向いた。

「わたし、だれかとだれかを天秤にかけるほどひどい人間じゃない。ふたり同時に好きになるとか器用なことなんてできない! 勝手な思いこみで怒ったり無視したり、旭人のほうが子供っぽくてずっとひどい!」
 その抗議は伝わったのかどうか、旭人は微動だにしない。挙げ句の果て、まるでいまの状況にそぐわない可笑しそうにした気配が顔に表れる。そうして旭人は笑った。
「笑うなんて……っ」
「好きな奴を忘れるために違う奴と、ってこともある」
「だから、ホントに好きだって気持ちを違う人に持ったままだったたら、結婚なんてしなかったし、ヴァージンだってあげない! 結婚を利用したのは旭人のほう!」
 そうやり返すと旭人は薄ら笑いを潜めた。
「旭人が期待するなって云ったのは、利用してるだけで、生活の保障はしても好きって気持ちはうるさいし、ほかに何も与えるつもりはないからだったんだね」
「安定した……いや、それ以上に贅沢な生活のほかに与えてほしい物ってなんだ」
 旭人は焦点をすり替え、それどころか南奈の隙をつついてくる。ぐっと詰まったすえ。
「話を逸らさないで!」
 おなかの底から叫んだとたん、トクンと体内を伝うものがあった。

 な、に……。
 はじめての感触に南奈は大きく目を開く。おなかの重たさが鮮明になり腰が痛んだ。
「南奈?」
 異変を察したらしい旭人が呼びかける。
「旭人……どうしよう」
「どうしたんだ」
 一歩でも動くのが怖い。そんな南奈の気持ちを感じとったかのように、云うが早いか旭人は顔を険しくしながら近寄ってきた。
「……トイレ、連れてって」
 南奈の依頼はなんでもなければひどく滑稽だ。けれど、旭人は笑い飛ばすことなく、南奈が手を伸ばすのと同時に躰をすくった。
 パウダールームに入って南奈をおろすと、外に行ってて、という言葉に従い、旭人はいったん引き下がった。
 そうして南奈は卒倒しそうな状況に遭った。

「南奈」
 どれくらいトイレのなかで座ったままでいるのか、旭人がわずかに大きな声を出す。その直後。
「旭人くん、そこで何してるの?」
 千雪の声がした。
「南奈ちゃんにお茶を持ってきたんだけど……南奈ちゃん、大丈夫? ちゃんと誤解は解けた?」
「義姉さんが心配することじゃない」
 千雪の矢継ぎ早の質問にうんざりした声が聞こえる。
「そうやって旭人くんは何も話さないから、みんな心配するんだよ。南奈ちゃんにも、旭人くんにとって大事なことはちゃんと話さなくちゃ。わたしも、赤の他人からじゃなくてちゃんと建留から話してほしかったってことある。旭人くんの場合は特に人から聞かされるなんてことになったら、南奈ちゃんはどうして話してくれなかったのかって傷つくよ」
 南奈はさっぱり内容がわからないまま、旭人が何か云うのをなんとなく待った。
「わかってる」
 ため息混じりの返事だったが――。
「旭人」
 自分にはつぶやくような声量に聞こえたが、旭人はパウダールームに入ってきた。
「開けていいか」
 南奈は立ちあがって身を整えると「うん」と、見られてもいないのにうなずいて答える。
「どうした」
 旭人は、顔から答えが探せるかのように南奈を見つめている。
「赤ちゃん……いなくなったかもしれない」
 旭人がそれを理解するまでに、いつになく時間を要した。
「病院に連れていく。いいな」
 旭人は云い聞かせるようだった。

 病院へ行く車中も帰りにつく車中も、ほぼ会話はなく静かだった。けれど、二つの沈黙の意味合いは微妙に違っている。共通点は何も云い様がないことだろうか。
 行きは手がふるえるほどおののき、帰りは泣きたくなるほど笑いたい。つまり、帰宅途中の南奈の心境は支離滅裂だ。
 本題を少しでも持ちだせば、運転する旭人の気を散らしてしまいそうで云いだせない。
 家には連絡しているから大丈夫だと旭人は云ったけれど、車が加納家のフェンス沿いを走るようになると南奈はますます気が滅入る。
 家を出るとき、旭人が隠すことなく症状を伝えたせいで家中を大騒ぎさせた。その挙げ句、ただの生理と生理痛だったとかお粗末すぎる。
 経口避妊薬をやめたときは、生理不順があってもおかしくないし、薬の服用の有無にかかわらず出血するときに塊が出てくることもあるという。ほかの病気だとしても次回まで様子を見ることになるでしょうと、ドクターからのお達しだ。
 慶永大学病院は手術入院の時以来、定期的に検査に通っているが、担当医は不在で、ひとまず平日に担当医の診察を受けることを勧められた。休薬するなら相談するべきだったと当然ながら叱責されると、南奈はまるで判断のできない子供だと反省した。
 車庫に車が入ってエンジンが止まっても、南奈は助手席から動かなかった。

「着いたぞ」
 車をまわってきた旭人は助手席のドアを開け、一向に出ようとしない南奈の腕を取る。同時に冷たい風が纏わりついて、南奈は顔をうつむけてわずかに身を縮めた。
「なんだか……」
「ばつが悪いのはわかるけど、だれも南奈に理知的だっていう幻想は抱いてない。いまさらだ」
「……云い方、なんとかならない? もう少し気を遣ってくれてもいいと思う」
「どうせ落第したからな。努力するぶんだけ無駄だ。それに、そうして調子に乗ってもらっても面倒見きれない」
 普段なら抗議するところだが、いまの南奈に気力はない。もうみんな眠っているだろうが、明朝、顔を合わせることを思うとため息が漏れる。
「南奈、ここに長居したからってどうにかなるもんじゃない。風邪ひいて体調崩したいのか。そうして面倒をかける気か」
「そんなことしたくないに決まってる」
「おれたちは話し合うべきだ。南奈が結婚を続けたければ」
 旭人は本題に触れ、南奈はようやく顔を上げた。
 加納家ではなく、旭人と、話し合う。“おれたち”。ほんの二カ月まえまでは康哉がそう云うのをさみしいと思っていたのに、いまは旭人がうれしくさせる。けれど、根本にあるのが責任という大義名分でなければ、と理想を思うとうれしさも半減する。
「旭人は……」
 旭人はもう南奈の事情は知っている。続けたいの? と、そう最後までは訊けなかった。
「結婚は絶対だ」
 それでも察した旭人は南奈の疑問に答える。「行くぞ」と続けた呼びかけとどちらが早かったのか、南奈は自分から車を降りた。

 玄関アプローチのスロープをのぼりきるまで、旭人はやはり後ろをやってくる。南奈は玄関に着くまえに振り返った。
「旭人って手を繋いでいないときはいつも後ろにいるけど、何か理由ある?」
「……なんでそう思う?」
「なんとなく」
「南奈は勘が働くな。動物の勘て云うけど、さすがじゃじゃ馬だ」
 旭人は南奈の手を取って、今度はさきを歩いていく。話をまたもや逸らされたと気づいたときには玄関の扉が開いた。
 驚いたことに茅乃と華世が迎えに出ていた。防犯システムがあるから、ふたりの帰宅を知っていてもおかしくはないが、それよりも日付は変わってしまっているのにこうして起きて待っていたことは思いがけなかった。
「すみません、お騒がせしました」
「南奈ちゃん、いいから。遅いけど、ちょっと温かいものいただきましょう」
 頭を下げて、それから起こしたあとに見えた華世の微笑みで充分、南奈は暖かくなれた気がする。
「大事じゃなくて何よりだわね。早くいらっしゃい」
 そう云った茅乃についてリビングに行くと、孝志も滋も起きていた。せめて千雪が永都に付き添って眠っていると聞いて南奈はほっとした。そうでなかったら申し訳なさすぎる。

 コートを脱いで旭人と隣同士でソファに座り、浅木が出してくれたリキュール入りのホットチョコレートを飲むと、躰の内側から温まって落ち着いていく。
 それを待っていたかのように「南奈さん」と茅乃が口を開く。
「旭人にお見合い話があったのは本当よ。わたしが旭人に押しつけようとしたのも本当で本気だったわ。そうしたら、好意を持っている女性が旭人にいれば連れてくるだろうと思ったの。そうしなければ、旭人は一生、独身でいる気がしたから」
 それは、結婚は絶対という旭人の言葉とは矛盾している気がした。矛盾どころか、独身でいることと絶対な結婚はまるで対義語だ。
「おれは嵌められたわけだ」
 見上げた旭人は皮肉っぽく口を歪めているが、声に刺はない。
 茅乃はその言葉には取り合わず、南奈に向かって続けた。
「旭人は結婚した人を裏切ることはない。だから、その人にとっては悪いようにはけしてならない。そう思って、結果的にそうしてよかったわ。南奈さん、わたしが何を云いたいかはわかるかしら」
 不意打ちで茅乃は南奈に問う。
「……わたしでよかったんですか」
 答えを質問に変えると、茅乃はゆっくりと一度、首を横に振った。
「その答えは、いまの状況下ではちょっとずれているわね。旭人が伴侶を見いだして結婚してくれること。それ以上のことは何も欲張っていないってことよ」
 よく把握できないうちに、華世が「南奈ちゃん」と加わってきた。
「わたしもね、子供なんて欲しくないって強がりを云ってた頃があるの。だから、南奈ちゃんの気持ちはだれよりもわかるつもり。あとは、旭人から聞いて」
 そう云った華世の横で孝志は重々しくうなずいた。
「旭人、わかっていると思うが」
「ああ。肝心なことを話さないということの弊害はわかってる。わかってるなら、って小言も必要ない。心配かけました。早く休んでください」
 パウダールームのまえで千雪と話しているときも、旭人は『わかってる』と云った。南奈は、その言葉で助けられた気がしたのだ。ベッド以外で旭人が纏う、『触るな、危険』というテリトリーを取り払ってくれそうな予感がして。
 旭人の言葉を受けて、茅乃は口もとに手を添え、あくびを咬み殺しながら立ちあがる。そして、四人ともリビングから退散した。

 南奈がホットチョコレートを飲んでしまうのを待って、ふたりも二階に引きあげた。
 空っぽのカップを浅木に渡したときは、よけいなことを云って、と申し訳なさそうにしたが、そもそも南奈が知識と思慮に欠けているせいだ。
 二階に行って、南奈がパウダールームにあるマルチシンクで汚れたものを下洗いしている間、旭人は横のシャンプードレッサーのまえで歯を磨いていた。終われば何も云うことはなく出ていく。歯を磨きながら喋っても通じるかどうか怪しいし、ここで話し合うことでもない。
 南奈も歯を磨いて部屋に戻ると、旭人は明日の準備でもしているのだろう、デスクでダレスバッグのなかを整理していた。
 時計を見ると、まもなく一時になる。話すのも明日に延ばしたほうがいいかもしれない。
 ベッドにあがって南奈がふとんのなかに潜ろうとしたとき、旭人はやってきた。片脚だけ、あぐらを掻くようにしてベッドに腰かけ、話し合いの延期はしないと態度で示した。
 南奈はベッドヘッドに枕を立ててそこに背中を預けた。

 旭人の目は何を得ようとしているのか南奈の目をしっかりと捕らえる。その気配は呼吸するのが難しいくらいだ。
「痛みは?」
 旭人の何気ない問いは、大げさに云えば小動物を追いつめた猛獣さながら南奈を簡単に伸(の)す。
「大丈夫」
 うなずきながら応じたが、納得していないような眼差しが向いて、南奈は渋々続けた。
「あのときはホントに痛いって感じたけど、我慢できる程度だったし、生理痛だって聞けばその程度だって思う。ずっと薬で調整していたからその感覚を忘れてた」
 情けない云い訳だ。旭人はため息まがいでわずかに笑みを漏らし、何かを払うように首を横に振った。
「ああいう訳のわからない感覚は、おれも久しくなかったな」
「旭人?」
「子供は苦手じゃなく、欲しくてもできないかもしれないってこだわってたわけだ」
 旭人は旭人らしくずばりと核心に触れてくる。対して南奈はなんと答えようもなく押し黙ってしまう。
「それで?」
 何を食べる? そんな雰囲気で旭人は促す。
「結婚するには切り離せない問題だから」
「確かに結婚を考えるだれもが未来には当然と描いてることかもしれない。けど、おれにとっては絶対じゃない」
 その言葉を素直に、そしてなんの負い目もなく受け入れられたらいいのにと思う。
「でも……旭人は永都くんの父親みたいにしてる」
 千雪が来て、旭人が永都をかまうシーンを幾度となく見ている。南奈は憧憬しながら胸に疼くような痛みを覚えることがある。

「子供ができるのに卵巣が片方だろうが両方だろうが、ドクターはそこは問題にならないって云ってただろ」
 そのとおり、赤ちゃんできますかと思わず訊ねた南奈に、ドクターはそう説明してくれた。あとは卵巣が機能しているかどうかの問題で、それが気になるなら調べることはいつでもできるとアドバイスもあった。
 会話を逐一聞いていた旭人は、それからドクターに病気のことを穿鑿(せんさく)した。ドクターは、夜中にまったく、などと内心では愚痴をこぼしていたかもしれない。
「でもわたしの場合は残ってるほうも同じ症状あったの」
 そう云うと旭人はしばらく黙った。
「埒が明かないな。めずらしい病気じゃないっていう。受け入れられる男だっておれだけじゃないはずだ。何を洗脳されてるんだ……」
 旭人は考えこむように云いつつ、ふと言葉を途切れさせたあと、何か思いついたような面持ちになった。
「そういうこと、か。お義母さんが結婚の障害になるって南奈と同じ考えを持ってるなら打ち明けるはずだ。もしくは南奈に打ち明けさせる。結局は、娘をつらくさせることになる。いまの南奈みたいに。そうしなかったってことはお義母さんの考えじゃないんだな。つまり、川田って彼女だ。話したいことは病気のことで、南奈はそれに彼女が繋がると云った。入れ知恵されたってところだな」
 さすがだ。そう感心したまでで南奈は答えず、けれど、否定しないことが即ち肯定になる。
 旭人は待ったものの、やがてため息をついた。

「おれはボランティアのとき、なんて云ったんだ?」
 旭人が何を聞きたがっているのか、すぐにはぴんと来なかった。旭人から云われたことはいくつも憶えている。そのなかから選びだすとすれば。
「どうにもならなくなったら来いって」
「そのとおり、どうにもならなくなってたんだろ。南奈はそのときに来るべきだった」
 そうだったんだ。
 旭人の批難に視界が開けたような気分になる。
 好きという気持ちが邪魔をしそうだけれど、どうせゼロ地点にいたふたりだから南奈が失うものは何もなかったはず。少なくとも、旭人なら別の方向へと導いてくれたかもしれない。いま、期待が現実化しそうに思えているように。

「南奈」
 呼ばれて、遙か遠い過去に向けていた目を旭人へ戻した。
「子供を欲しくないとは云わない。けど、再発するリスクを負うよりも、おれは予防の継続を望む」
 裏に隠れた意味をすぐには悟れなかったが、南奈の目はだんだんと大きく開いていく。
「旭人、それ……落第、取り消しても間違ってない感じ?」
「それはどうだろうな。これから話すことを南奈が受け入れられるかどうか。それ次第だ」
 そう云って、旭人はめずらしく消極的な様で目を逸らした。
「旭人?」
「おれは母さんを殺した」
 旭人は独白のように吐いて、ゆっくりと南奈に目を戻した。
 突拍子もない告白に驚くよりも理解が困難で、南奈は何も考えられず、たった一秒まえに何を考えていたかもわからないような心もとなさを覚えた。
「……殺した……って、お母さん、いるよ?」
 南奈は痞えながら旭人が発した言葉の修正を試みた。旭人は目を逸らしたときとは打って変わって、つぶさに南奈の反応を見ている。そのくちびるが歪んだ弧を描いた。
「いまの母さん――華世さんは、おれを産んだ人とは違う」

 あとは旭人から聞いて。南奈は華世の言葉を思いだし、そういうことだったのかと納得する傍らで、信じられない気持ちもある。旭人と華世は親子だと疑わなかった。いま思い返しても、親子じゃないなどと違和感があったシーンは一度も見当たらない。
「ほんとに? そんなふうに見えたことない」
「嘘を吐いてどうするんだ。けど、いまから話すことで誤解しないでほしいことはある。傍から見れば普通に親子に見えるほど、華世さんはちゃんとおれたちと接してくれた。華世さんは……それが問題というなら南奈以上に問題を抱えていた。生まれつき子供ができない躰らしい」
 南奈は目を見開いて旭人を見つめた。
 強がりという言葉が甦った。華世は、南奈の問題をもしかしたら察していた可能性もある。
「あまり云いたいことじゃないけど、結婚するとき藤本家の身辺調査をしてる」
 旭人がため息混じりで打ち明けると、南奈は心外な批難を眼差しに込めてぶつけた。
「知ってたの、わたしのこと?」
「知らない。あくまで顧問弁護士の――常井さんだ。何度かうちに来たときに会ってるだろ――その常井さんの仕事で、何も問題なければ加納家のだれも何も知らされない。つまり、だ。華世さんがいて、子供ができないかもしれないからって追いだすのはおかしな話になる。だから、今後その点でうじうじクサるのはやめてくれ」
 常井とは確かに三回会っている。なぜか南奈を見るたびに失笑して、「美味しいと聞いたので」とまるで南奈が小さな子供のように一人分の手土産をくれる。
 そのことはともかく、やっぱり旭人の云い方はなってない。そんな南奈の不満はそっちのけにして旭人は話しだした。

「おれを産んだ母親はばあさんと折り合いが悪かったんだ。そのすえ追いだされた」
「旭人がいくつのときの話?」
「五歳だ」
「産みのお母さんは亡くなったの? 殺した、って?」
「おれをかばって自動車事故で死んだ。おれは……」
 旭人は云いかけていったん口を閉ざした。それは、人間になりかけているマシーンが自制と感情の間でもがいているように見えた。
「旭人」
 思わず呼びかけると旭人はわずかにうなずく。
「母さんは、自分の意思はあるけど、それを外に向かっては主張できない人だったと思う。だから、離婚自体はほっとしたんだろうな。定期的に母さんを訪ねるたびに笑った顔が本物になっていった。けど、おれはそれを違うように受けとった」
 旭人は言葉を区切る。それは、思いだしながら云うせいか、それとも思いだしたくないことを無理やり引きだしているからなのか。
 母親の像を語るときに、『思う』という言葉を使わなければならないことに胸を痛めながら、南奈は何も口出しせずに待った。
「おれには母さんが幸せだった頃の記憶がない。恋愛結婚だったっていうし、それならそういう時期があったはずだ。けど、母さんが陰りもなく笑う顔を見たのは離婚してからだ。母さんはおれよりも、自分がらくになることを、もしくは自分の幸せを選んで、おれを捨てたんだと思うようになった」
 南奈は息を呑んだ。
「そんなこと……!」
 あるはずがない、とその言葉は最後まで云えなかった。南奈は旭人の実の母親に会ったこともないのだから、無責任な発言になってしまう。そんななぐさめは旭人にとってきっとなんにもならない。
「ああ。そんなことはなかった。母さんは命と引き換えにそれを証明した。離婚後、おれは定期的に母さんに会いにいってた。その日、おれは帰りたくないってわがままを吐いた。迎えの車に乗らずに道路に飛びだしたんだ。車が通ってるかどうかなんて考えてなかった。ぶつかる寸前で背中から突き飛ばされたんだ。母さんはおれの身代わりで死んだ」

 目のまえに広がる光景を旭人はどう受けとめたのだろう。南奈はその後悔がどれほどのものだろうかと考えてみる。けれど、どんな考えも想像にすぎず、計り知ることはできない。
 凝視するように旭人から目を離せないでいると、旭人はふっと笑みをこぼした。
「なんで泣くんだ?」
 そう云われて気づく。南奈はとっさに躰を起こして旭人に抱きついた。
「笑ってごまかすなんて旭人のバカ! わたしが泣いてるんじゃなくて、これは旭人の涙が伝染しただけだから」
 涙声で訴えても説得力はなく、くっつけ合った躰が小刻みに揺れる。笑っているのだろうと思っていると長いため息が聞こえ、次には旭人の腕が強く南奈を引き寄せた。そうして旭人は南奈の肩にうなだれた。そのしぐさに南奈は及第点がもらえたような気分にさせられて、そして、なぜかほっとした。
 口を開く気分になれないのは旭人も同じなのだろう。しばらくくっついたままでいると呼吸と鼓動が同じリズムになっていくから不思議で、睡魔と勘違いしそうなくらい心地よい。自然とこれまであったシーンが思い浮かんでくる。そうしながら、南奈のなかで辻褄が合っていった。

「旭人、見せてくれた腕の傷痕ってそのときの?」
「ああ」
「ちゃんと泣いた?」
「ああ。兄さんが泣かせてくれた」
 旭人がするべき後悔じゃないと思うのに、五歳でも――いや幼かったからこそ、そのときの感情は強烈で、ずっと旭人のなかに居残っているはず。だから、人に打ち明けることも難しい。
 きっと我慢していたに違いないと訊ねてみると、ちょっと驚く答えが返ってきた。
「それでブラコンなの?」
 わずかに責めるような口調になったかもしれない。旭人は笑って躰を離す。手が伸びてきたかと思うと南奈の涙の痕を拭った。
「兄さんに嫉妬か?」
「嫉妬? って、まるでわたしが旭人を好きみたいな云い方」
 南奈は自分でも足掻いていると思ったが、旭人はお見通しといったふうに鼻先で笑った。
「トイレって云うまえまで、好きって何回も叫んでたと思うけどな」
 云われて記憶を探ってみるものの、南奈は自分が何を口にしたかほとんど憶えていない。次に起きたことがあまりにもショックだったからよけいに飛んでしまっている。
 ただ、云い合いの途中で、笑うシーンじゃないのに旭人がたったいまのように笑ったのを思いだすと、そうした理由は無意識に南奈が告白していたからかもしれない。要するに、旭人は悦に入っていたのだ。告白をうるさいとか面倒だとかはね除けるのではなく。
 それは単なる矛盾なのか、旭人が変わったのか。

「旭人は期待するなって云った」
 南奈は確かめたくて訊ねてみた。
「おれは落第してないか?」
「……いまの旭人の話でそうはならない」
 話がずれた気がしながら南奈は答えた。
「なら、落第を取り消しても間違ってない感じ、だ」
「……それって、期待していいってこと?」
 消極的な解釈でもって訊ねてみると、旭人はにやついた顔つきになる。
「結婚はずっとおれの選択外だった。母さんを見てきたから。ばあさんから縁談の話が出るようになっても耳をふさいでたな。けど、南奈が結婚してもいい気にさせた」
「わたし、何かした?」
「面接のとき、終わったあと同じグループディスカッションにいた女からやられてただろ」
 南奈は目を丸くした。
「もしかして見てた?」
「見てたからこうして云ってる」
「やられてない。どう考えても陰口じゃない声で、喋りすぎだってわたしのこと話してるから知らないふりしないで、ごめんなさいってちゃんと謝っただけ」
「ああ、云い間違った。やられてたのはあっちだ」
 旭人は可笑しそうにした。

 集団面接はディスカッション式で、南奈の発言は多かったかもしれないが、だれかをさえぎってまで喋ったつもりはないし、意見を否定もしていない。その子に限らず発言の少ない子には振ってもみた。終わってしまってから仲間内だか何かは知らないが、待合室で文句を云われたのだ。普通に謝ったら奇妙な顔をされた。
「見られてるとは思わなかった」
「ディスカッションが終わったあとの待合室の様子まで評価の対象だったって云ったら?」
「……それで五分待たされたの? 知らなかった」
「あたりまえだ。意見をぶつけ合ったあとだ。コミュニケーション能力はそこで最大値が量れる」
「そうなんだ」
 覗き見されていたことに複雑な気持ちになりながらも感心したが、いま話している要点はそこじゃなかった。
 つまり、旭人はそこで南奈に何を見たのか。
「もしかしてわたしに一目惚れ?」
「気に入っただけだ」
 まさかと思いつつ云ってみたことは旭人の呆れた笑みを誘ったが、それからずっと南奈を気に入った気持ちが旭人のなかにあったのなら、うれしい以上の言葉は見つからない。
「運命、っぽい」
「ずうずうしい」
「ほんとに一生ふたりっきりってことになるとしても、それでいいの?」
「うんざりするくらいしつこい」
 云い放ったかと思うと旭人は黙らせるべく顔を近づけてきた。

 くちびるが吸盤をくっつけたみたいにぺたりと触れ合い、舌がくちびるの裏側をくすぐって、それから抉じ開ける。背中から倒れそうになって旭人が南奈の頭の後ろを支えた。
 奥まで侵略され絡まれると、キスのときに生じる甘さがいまもまた感じられる。だから食べたくなって、南奈は旭人の舌をかじって吸いつく。旭人は呻いてくちびるから遠ざかった。

「いつもキスって甘いって思ってて、なんの甘さだろうって思ってて、そしたらいまわかった」
「なんの甘さだ」
「チョコレート! さっきホットチョコを飲んだから?」
「チョコレートならチョコマウンテンの味だろ」
 それは大好物だが、南奈はコンビニのスイーツに限定される意味がわからず首をかしげる。
 旭人は含み笑い――
「寝るぞ」
 と南奈をベッドに押し倒した。
「今日はダメなんだけど」
「嫌というほどわかってる」
 吐き捨てるような口調で冷血漢ぶりを発揮した発言は、怒るより気に入りそうな予感がする。
 南奈はうつぶせになって、仰向けに寝た旭人の肩に頬をのせた。

「おばあちゃんが、旭人は夜ちゃんと眠れてるかって心配してた。不眠症なの?」
 旭人の胸が上下して、同時に漏れた呼吸音から笑ったのがわかる。
「いつの頃の話だ。母さんがいた頃は、寝るまえによく読み聞かせをやってくれた。それがなくなって、そして事故で死んでから一年たつくらいまでは寝つきが悪かったかもしれない。いまはそうひどくない」
「“そう”ってことは少し残ってるってこと?」
「わからない」
 答えの曖昧さがかえってそうなのだとはっきりさせる。
 読み聞かせのことは茅乃も云っていた。あのとき茅乃の言葉に違和感を覚えたのは、『華世』ではなく『母親』と口にして、まるでここにいない人のことを云うようだったからで、そのとおり生きてすらいなかったのだ。
「普通っていう基準自体わからないし、南奈はおれより早く寝ても寝坊助だ。人それぞれだろ」
 と続けた旭人は肩をそびやかした。
「おれは、ばあさんを責めて母さんの死から逃げたんだろうな。それが残響している。いま結婚してみて、父さんも母さんも、お互いに気持ちが離れていったんだろうと思うようになった。片方に続けていく意思があったら違った結果になっていたかもしれない」

 旭人は息をついた。そのため息は自分への幻滅にも思えて、もしかしたら旭人のなかにはずっと捨てきれない“もしも”が存在している。それを弱さだと思っているのなら、旭人は強くあろうとするだろうし、孤独でいようとする。傷つきたくないし、傷つけたくないから。
 旭人が冷血漢に見えることと、南奈が傍若無人に見せることは同じだ。そうやって、ずけずけと心のなかに入ろうとする人をはね除けてしまう。旭人は、結婚した南奈にさえベッドのなか以外ではよそよそしくなりがちだった。というよりは、そうであろうとしていたのかもしれない。
 そうして、結婚は絶対だ、と云いだしてまもなく、視覚では捉えきれない旭人のバリアは少しずつ崩壊していた気がする。

「うん。お母さんのことで憶えてること話して。写真ある?」
「ああ」
「明日、見せて。ついでに旭人の小さい頃の写真も見たいかも」
 旭人は吹くように笑う。
 それから、二階にあるラウンジのバルコニーから眺めるバラ園の景色が好きだったことやら、読書が好きだったことやら、旭人は母親のことを少しだけ語ってくれた。
「おれは、母さんの時間を奪ったぶんだけ、だれかを幸せにするためにいる。南奈と結婚すればその焦りが安らぐ気がした」
 云い換えるなら『おれは幸せになっちゃいけない』とそんな言葉が浮かんでくる。南奈は肘をついて上体を少し起こした。
「わたしを幸せにしようって思うんなら、旭人がそうならないときっと長続きしないと思う。わたしが幸せならおれも幸せだって云うんなら別だけど」
「はっ。そしたら恋愛講座も卒業か?」
「落第をしてないだけ。卒業はまだまだ!」
「南奈、何を幸せだって思う?」
「もちろん、絵本を眺めてるとき。あ、でもいまは、旭人とベッドのなかにいるときとどっちが一番か選べないかも」
「挑発してるのか」
 旭人は襲いかかる寸前のような気配を漂わせる。
「幸せな時間のリストつくってるんだから黙ってて」
 南奈がぴしゃりと釘を刺すと、笑みを含んだため息が返ってくる。
「三番め以降は順不同だから。まず、旭人との待ち合わせ時間と帰りのデート、あと、ホテル並みのブレックファストを食べてるときとか、あ、寝坊できるときも! それに、メイクしてるときとか……」

 南奈はそんなくだらないリストアップをしながら、それを思い描くシーンには旭人がどこかしらに存在すると気づく。いま南奈の幸せの基準は旭人の存在に左右されている。怖い気もしながら独り喋っていると、目を閉じて聞いていた旭人の胸の上下が規則正しく静かになった。
 退屈なのか心地よいのか、うるさいと云いながら、絵本を読んだときがそうであるように南奈のお喋りが旭人の睡眠導入剤になっているのなら、旭人にとっても南奈の存在はなくてはならないのかもしれない。
 眠りについた旭人は無防備だ。南奈はちょっと伸びあがって耳もとにくちびるを寄せた。
「旭人。愛してる」
 このまえみたいに突然起きあがったらどうしようとどきどきしながら囁いたが、はじめての告白は独り善がりで終わった。
 旭人から“愛してる”は聞けそうになくても、恋愛講座の初心者コースはふたりともクリアできた気がするし、それなら中級者コースは、アイシテルと云えるまで、だ。
 それまでは、旭人が口にする言葉のなかから間接告白を拾い集めていくことにしよう。
 南奈は旭人の首もとに額をうずめた。
 旭人のまえで南奈のコンプレックスはなんの障害にもならなくて、あまつさえ、旭人に結婚を裏切る気はない。そう思えば至極贅沢な気分だ。独りでに満足げなため息がこぼれて南奈は目を閉じた。

BACKNEXTDOOR