ミスターマシーンは恋にかしずく

第4章 人の恋路を邪魔する奴は

2.タイムアウト

 十一月も間もなく終わるという日曜日、ぽかぽか陽気に恵まれた。とはいえ、外出するのに厚手のコートは欠かせない。
「永都くん、風邪ひかない? 大丈夫かな」
 南奈はベビーカーを覗きこんで千雪に訊ねた。
 永都はもこもこしたカバーオールにくるまって暖かそうには見えるものの、一陣の風が吹くと、いくら日差しが暖かくても大人の南奈ですら身をすくめる。
 昼食後すぐ、加納家から歩いていける距離の公園に行って、一時間くらいそこですごして帰るところだ。南奈の心配をよそに、ベビーカーの乗り心地はよさそうで、永都はぐずることなくご機嫌だ。
「温室で育てるほうが問題だと思う。体力つけないと。それに、気分転換もね。退屈しちゃうと機嫌が悪くなるから。夜はちゃんと眠ってほしいし」
 千雪が答えると、すぐ背後を来る旭人が吐息を漏らした。南奈が振り向いてみると、どうやら笑ったらしい気配が見える。
「気分転換が必要なのは永都よりも義姉さんじゃないのか」
「旭人くん、二年まえまでとは違うよ。加納家はすごく居心地よくなってる」
 千雪は心外だといった様で旭人の意見を正した。

 建留の中東への長期出張に際して、ちょうど一週間まえから、建留と千雪は加納家に滞在している。週の半ばに建留は旅立った。
 千雪は至って加納家になじんでいるが、旭人との会話から、どうやらずっと居心地よくいたわけではないと察せられた。
「二年まえに何かあったの?」
 南奈が問いかけると、千雪は苦笑いで応じ、旭人へと目を転じると首をひねってすかした。
「二年まえというよりはもっとずっと長い間、加納家ではいろいろあったの」
「義姉さん」
「わかってないけどわかってる」
 明らかに千雪をさえぎった旭人に向かい、彼女は矛盾したことを云って、それからまた視線は南奈に戻った。
「南奈ちゃんもいつか知ったほうがいいかも。少なくとも、旭人くんに関しては」
「義姉さん」
「旭人?」
 南奈と旭人はほぼ同時に別の名を呼んだ。旭人がゆっくりと南奈を見やる。
「詮索する必要はない。おれたちの結婚とはまったく関係ない話だ」
 旭人自身のことなら、まったく関係ないことはないはずだ。千雪の云い方からもそう感じとれた。けれど、南奈にだって触れてほしくないことはあって、旭人を責めることも追及することもできない。

「話したくなったら話してほしいかも」
 話してくれたらうれしいだろう。そんなあたりまえの気持ちで云ったのに。
「過去のことなんてどうだっていいだろ」
 旭人は無下に却下した。
「だから、大学生のときのこと、旭人は全然憶えてなかったんだ。自分がナンパしたくせに。わたしがほんとに業平を訪ねていってたら大恥を掻くところだったんだよね」
「全然じゃないし、ナンパじゃない。中学生を口説いてどうするんだ」
 まったくもって旭人はロマンティックじゃない。わずかな願望として縋っている南奈の幻想をもこてんぱんに打ち砕く。
「旭人は落第決定!」
 南奈が云い渡しても、旭人は少しもこたえることなくせせら笑った。
「結婚しているんだ、なんの痛手もないな」
「旭人くん」
 見かねたのか千雪が素早く口を挟む。
「往来で夫婦げんかなんてどうかしてる。南奈ちゃんはともかく、旭人くんは守る立場でしょ」
 千雪のなかで南奈はどういう評価を受けているのか微妙な云い回しだ。複雑な気分でいると。
「見てるほうはおもしろいんだけど」
 と、千雪は南奈に向かい、お手柄だといわんばかりのおどけた雰囲気を醸しだした。けっして評価が悪いわけではないらしい。

「お義姉さん、お義兄さんてやさしいでしょ。旭人はお義兄さんが大好きみたいだし、少しは見習ってくれるといいって思うのに」
 千雪は小さく笑った。
「旭人くんも……」
 千雪が云いかけたところで、永都が俄に自己主張を始めた。大人たちばかり話しているから自分も加わりたいと不満を示しているのかもしれない。
 三人そろってベビーカーを覗き、「退屈したか?」と母親である千雪よりも早く旭人が手を伸ばす。
「お昼寝したいんだと思う」
「じゃあ早く帰るか」
 旭人が抱きあげて永都に話しかける。
「わたしも眠たいかも」
 千雪が肩をすくめて賛同した。
 何時頃か、おぼろげだが夜中に永都の泣き声が聞こえるときがある。授乳するんだと千雪は教えてくれた。そう聞くと、寝坊助(ねぼすけ)の南奈が母親業をちゃんとやれるのか疑問に思う。ただし、南奈にはそれ以前の問題がある。そのことを考えるとため息が漏れてしまう。
 いまは独りではないのだからと、ため息を押し殺して踏ん切るように顔を上げたとたん、南奈はハッと息を詰めた。

「南奈?」
 歩道を南奈たちとは反対側からやってきて、首をかしげて呼びかけたのは美穂だった。
 旭人の視線が向くのを察したが、南奈はどうしようという言葉ばかりが脳裡を巡って微動だにできないまま立ち尽くすだけだった。
「南奈ちゃん、友だち?」
 千雪に問われてやっと思考が回転し始める。
「うん」
 途方を失っていたのは長いようでいて短かったのか、南奈がうなずくのと同時に美穂が歩きだして距離を縮めてくる。そうなって、南奈が反応するまで美穂もまた立ち止まっていたことに気づいた。
「美穂……どうしたの?」
「友だちを訪ねてきたんだけど」
 そう答えた美穂は旭人に向かい――
「旭人くん、だよね?」
 屈託なく問いかけた。
 旭人は眉をひそめ、南奈を見やり、それから美穂に向いた。肯定するわけでもなく、逆に疑問を投げるようにわずかに首をひねっている。
「ずるいよね。旭人くん、南奈のことは憶えててもわたしのことは憶えてない?」
 美穂の声がおもしろがって聞こえるのは強がり、もしくはプライドだろうか。

 旭人は再び南奈を振り向く。そうして南奈の顔に答えを見たように、旭人の表情には見当がついたような気配が覗く。美穂に向き直った旭人は、永都を抱いていないほうの肩をそびやかした。
「云われるまでおれはどっちも憶えてなかった。いまそう云われて君のことは気づいた。悪いけど」
 悪いとは少しも思っていないのは重々承知なのだろう、美穂はくすっと笑った。その様子からは、南奈みたいに怒ることもショックを受けているようなところも見受けられない。
「でも、南奈とはこうやっているんだ。わたしも不動産に行けばよかったか……」
「美穂、誤解しないで」
 南奈はとっさに口を挟んだ。美穂は旭人から南奈へと視線を転じると、すっぴんの南奈と違い、きれいに化粧をした顔ににっこりした笑みを浮かべる。
「誤解?」
「こっちは千雪さん。千雪さんは会社の先輩なの。千雪さんが出産でやめて、そのあとに入ったのがわたし。会社では入れ違いになって会ったことないんだけど、あさ……加納課長代理の義理のお姉さんだったし、だから教わりたいことあって会わせてもらって……それから仲良くしてもらってる。今日も千雪さんに会いに遊びにきてる。そういうことなの」

 捲(まく)し立てたあとの空気感は、銃口を向け合い、瞬き一つで銃撃戦に転じそうな、なんともいえない緊張を孕(はら)んでいた。
 南奈の思いすごしではとてもすまされない。少なくとも、旭人と千雪は、南奈の云ったことすべてが嘘だとわかっている。ふたりには目も向けられなかった。
 かといって、美穂とこのまま見つめ合っているのも息苦しい。
 その美穂は、にっこりした表情が貼りついているだけで、その実、なんの感情もないように見えた。あるいは隠しきっている。

「そういうこと、ね」
 美穂が相づちを打つまでどれくらい時間がたったのだろう。さっきから南奈の時間の感覚は狂ってしまっている。
 続いて、美穂が漏らしたため息は、南奈と旭人がなんでもないとわかっての安堵なのか。
「旭人くん、いまだから話せるってことあると思うんだよね。今度、食事でも飲みでも一緒に行かない? もちろん、南奈がいてもかまわないし」
 もちろん、とその言葉にどういう意味が込められているのだろう。
 美穂はどう? 口にするかわりに首をかしげた。
「考えておく」
 即答とはいかないまでも、旭人は乗り気を滲ませた声音で返事をした。行かないつもりなのに期待を持たせるような発言をする旭人ではない。
「ありがと。じゃあね、南奈」

 美穂と会うようになって一カ月がすぎ――とはいえ、誘われるたびに応じているわけではないから、会ったのは片手に足りるくらいで、そんなときといまの『じゃあね』は変わらない。
 旭人とは部署が離れていることを理由にして、南奈は美穂が旭人に会える道をふさいだ。さっき説明したこととは歴然と矛盾があり、理由を理由でなくさせた。それ以上に、嘘という卑劣な行為に見えるだろう。
 けれど、美穂は責めない。気づかないなんて美穂にかぎってあり得ない。怒らないのは旭人や千雪がいる手前、そうしないというだけのことか。
 南奈のかすかな「うん」というひと言返事を聞き遂げると、美穂はくるりと背中を向けて立ち去った。
 美穂がいなくなったところで、南奈のなかからは少しもきまりの悪さは抜けない。旭人も千雪もただでさえお喋りではなく、かえって異様に居心地が悪くなっていく。
 やがて、千雪がくすっと笑みをこぼし、はびこった気まずさを吹き払った。

「南奈ちゃん、事情があるみたい。旭人くんが怒ってるとしたらいい兆候かも」
「怒ってない。行くぞ」
 怒っていなくても、あの日みたいに不機嫌だ。疲れて自然と眠りについたのか気絶したのか区別がつかないほど、セックスという手段でとことんやりこめられた日の翌日、旭人は寝坊には付き合ってくれたけれど、それ以来、南奈に対してかまえた印象が強くなっている。千雪たちが来て、やっと改善されたのにまたぶり返しそうだ。
 旭人は背を向けてすぐそこに見える加納家へと、さっさと歩きだした。
 思わず千雪を見ると、あとでね、と云いたそうにした眼差しと合った。

 旭人から背中を向けられたとき、排除されたような感覚を覚えたのだが、家に戻ってからも旭人は一度も南奈を見ようとしない。
 旭人はリビングに入ると、メインソファの横に置いたベビーベッドのところに行き、うとうとしかけている永都をそっと寝かせた。そのあと旭人は、仕事をする気なのかテーブルに置いていたタブレットを取ってから、ローソファ側の一つのソファを占領して寝そべった。
 リビングにはほかに滋夫婦がいて、窓際のテーブルに着き、滋は読書、茅乃は最近になって始めたという塗り絵をやっている。孝志夫婦は出かけていた。
 普段、茅乃が昼間をすごすお気に入りの場所はバラ園の見えるティルームであり、旭人は部屋に引っこむことが多く、リビングに一緒にいるのが習慣というわけではない。
 子供が一人いるだけでその永都を中心に生活パターンが変わるなんて偉大な存在だと感心している。それに並行して現実問題が迫り、南奈は不安も覚えた。

「南奈ちゃん、絵本、永都に読んであげてくれる? 外に出て機嫌いいし、このまま眠ってくれそう」
「お義姉さんの声じゃなくても大丈夫?」
「きっと大丈夫。もう一週間ここにいるし、永都は南奈ちゃんの声をいちばん聞き分けてると思う」
 それは、加納家のなかで南奈がいちばんお喋りだと云っているに違いない。最初の印象どおり、千雪は喋らないぶん、ぐうの音も出ないような急所をずばりと突いてきて手強い。
「じゃあ」
 南奈は旭人の向こうにある書棚に行って絵本をチョイスした。

 棚には、堅苦しい政治経済の本から文芸までという知的な本たちのなかに絵本が紛れこんでいる。永都が生まれてから絵本が加わったらしいが、加納家のなかで南奈が気に入っている風景の一つだ。そんなふうに自然と変わっていけるのは家柄、とどのつまり加納一族の人柄だろうか。だから、なんの取り柄もない生い立ちにもかかわらず、南奈が受け入れられているのだと思う。
 南奈は絵本を持ってベビーベッドの傍に行き、床にクッションを置いて座った。永都をわずかに見下ろせるちょうどいい高さだし、床暖房が利いていて寒くもない。

 南奈は、「読むね」と永都の手のひらをつついてから読み始めた。
 千雪は日中、永都とふたりきりと、ただでさえ家のなかは静かだから、絵本の読み聞かせをすることも多いという。千雪でなくても赤ちゃんとふたりだったら、結局は口を開いても独り言になりかねない。
 意味はわからなくても音読というトーンが心地いいようで、南奈が読んでもぐずることなく、永都は手足をパタパタさせながら聞いていた。それもやがて静かになって、胸の上下も呼吸も規則正しくなった。万歳して眠っている。抱きしめたくなるくらい無防備だ。
「可愛い」
 思わずつぶやくと、ベビーベッドの向こうにいる千雪が「南奈ちゃん」と囁くように呼ぶ。南奈が顔を上げると、千雪は笑みを浮かべて一点を指差した。その方向には旭人がいる。
 千雪の指をたどって横を向くと、旭人はタブレットをおなかの上に伏せ、ソファから飛びだした腕は床にだらりと垂れている。どう見ても旭人は眠っていた。
 南奈は千雪と目を合わせてくすっと笑い合った。

「永都の生態は叔父さん似かもね」
 千雪の言葉を受けて、南奈はつと宙を見て昔のことを思い浮かべた。
「そうかも。ずっとまえ、似たようなことあったって思いだした」
 千雪は首を傾け、無言でさきを促した。
「旭人がボランティアしてたときのこと。拗ねてたわたしに絵本読んでってご機嫌取りしてくれたことがあって、でも読み終わったときは寝てた」
「旭人くんがご機嫌取り?」
 千雪の関心は違うところに移り、彼女は可笑しそうに、なお且つわずかに驚いた面持ちで問い返した。
 千雪が感じている意外性は南奈も同様に感じている。結婚しなければなかった、旭人の南奈に対するあしらい方だ。そんなささやかなご機嫌取りはたまにあって、対等である証しを示して南奈にも主導権があるように思わせてくれる。けれど、それが“夫として”という振る舞いだとしたら、手放しで喜ぶには微妙だ。
 つかの間、書棚に行くときまえを通っても見向きもしなかった旭人に、今日はどうご機嫌取りをしようかと南奈は考えた。
「ちょっとわかりにくいけど」
「でも、南奈ちゃんはわかるんだ」
 千雪は独り納得したようにうなずいた。
 そこへ――
「旭人は寝るまえによく、母親から本を読んでもらっていたわ」
 茅乃が口を挟んできた。

 テーブルの椅子に座った茅乃を見やると、ちょうど茅乃は旭人に目を向けたところだった。
 そうして茅乃がついたため息にはどういった意味があるのだろう。そう疑問に感じたのは、茅乃が云った言葉にどこか違和感を覚えたからだった。なんとなく感じたもので、だからはっきりはしない。
「旭人が昼寝するなんて子供の頃以来、はじめて見たわ。南奈さん、旭人は夜、ちゃんと眠れてるかしら」
 茅乃は訳のわからないことを問いかけてきた。
「眠れてる、と思いますけど」
「そう……よかったわ。ほんとに」
 茅乃の言葉はしみじみとしていた。
 南奈は千雪と顔を見合わせたが、千雪もなんのことかわからないようで肩をすくめた。
 南奈は立ちあがると、千雪が座るソファからブランケットを一枚取った。
「お義姉さん、寝るんでしょ。永都くんが起きてもわたしがみるからゆっくりして」
「ありがとう。実を云うと、わたしも南奈ちゃんの声に催眠術かけられそうになってた。どうにか起きてておもしろいもの見れたけど」
 千雪はちらっと旭人を見やった。
「褒め言葉って取っておく」
「そうして。何かあれば起こしていいから」
 千雪は、残ったブランケットを羽織ってそのままソファの上で横になった。

 南奈はローソファのところに行ってかがむと、ブランケットで旭人の躰を覆う。
 そうしながら、旭人の寝顔を見るのははじめてだと気づいた。寝起きが悪くて朝は旭人から起こされる側だし、夜は力尽きた南奈のほうが早く眠りにつく。
 茅乃の発言を考えれば、旭人は寝つきが悪いということになる。それとも、茅乃がただ旭人の成長をないがしろにしているのか。旭人は半年後には三十歳になるけれど、孫が孫であることにはかわりなく、茅乃にとってはずっと子供のままなのかもしれない。

「南奈さん」
 茅乃が呼びかけ、南奈は顔を上げた。
「子供は苦手って云ってたけど、永都の扱いは無理しているようには見えないわ。よその子はともかく、自分の子供だったら充分、南奈さんも可愛がってあげられるんじゃないかしら」
 何を云われるかと思えば、入ってほしくない領域に踏みこまれたような話題だった。すぐさま切り返そうにも、美穂と会った不安が邪魔して南奈はそうできなかった。
「……そうですね――」
「無理強いしないでくれ」
 どうしようもなくて、南奈が相づちですまそうとていると、すぐ下からいままで眠っていたとは思えないくらい鋭い声が飛んだ。
 見下ろすと、家に帰ってからやっと旭人と目が合う。
 ブランケットをかけたちょっとのことで目を覚ましたのだろうか、その声のとおり、寝ぼけることなく瞳には意思がしっかり見える。
「苦手なら苦手らしくしてろ。期待してほしくないなら」
 今度は南奈に向けて素っ気なく云い捨て、それから旭人は立ちあがった。何を云い返す間もなく、リビングを出ていった。

 こういうふうに気まずさを残していくなんて無責任だ。南奈は途方にくれながら内心でそんな強がりを吐いた。
「無理強いしているつもりはないのよ。希望は持っているけれど」
 茅乃はため息混じりながらも期待を投げつけるのは忘れていない。つい今し方のように旭人から冷血漢ぶりが消えないのと同じく、茅乃の歯に衣着せぬ物云いはおさまることがない。
 ただ、結婚したのだから、本人たちの意向に関係なく家族が子孫を望むことは当然だ。
 千雪に目を向けると物云いたそうにした眼差しが迎える。
 南奈はおどけて肩をすくめてみせ、立ちあがった。そこへ浅木が顔を覗かせた。
「奥さま、お茶はこちらでよろしいですか」
「ええ。お願いするわ」
「あ、わたし、手伝う!」
 リビングを抜けだす格好の機会を得て南奈は手を上げた。

 浅木についてキッチンに行くと、すでにショコラティができていてカカオ風味の香りが満ちていた。
「いい匂い」
 南奈はカウンターからティポットを取った。
「南奈奥さま、体調におかわりありませんか」
 甘い香りを満喫していると、カップを用意しながら浅木が改まった口調で訊ねた。
 南奈は振り向いてダイニングテーブルに行くと、不思議そうに首を傾ける。
「体調? 全然悪くないけど」
 浅木はしげしげと南奈を見つめた。顔から足先まで全身を見回すと納得したようにうなずく。
「食欲も落ちてないようですし……わたしの思いすごしですね。不規則な人はたくさんいますし、こう云うわたしもそうですから」
「浅木さん、じれったい! 思いすごしでいいから何を思ったか教えて」
 浅木は宙に視線をさまよわせ、それから吐息を漏らして口を開いた。
「さっきのお話がちょっと聞こえて気づいたんですけど。南奈奥さま、お月のものが今月はございませんね。それで……。詮索して申し訳ありません」
 南奈が大きく目を開くと、浅木は言葉を濁し、そして謝った。

 自分の躰なのに南奈はまったく気づいていなかった。ピルで調整するのが習慣づいていたのに、いまは薬を離れていることに慣れてしまって、休薬という感覚を忘れたすえ生理のことはまるで頭になかった。
「ううん。心配してくれてうれしい」
 南奈は混乱しつつ、なんとか応えた。
「不安がらなくてもほんの少しの手助けで子供は育っていくものだと思いますよ。親がちゃんとした姿を見せていれば。加納家のお坊ちゃんたちも立派に育ったでしょう?」
 浅木がおどけて云う『お坊ちゃん』という言葉に南奈は笑った。
「浅木さんのこと、訊いていい?」
「なんでもお答えしますよ」
「ずっと独身か、それはなぜかってことも?」
「もう訊いているじゃありませんか」
 浅木は可笑しそうに笑い声をあげた。
「あーごめんなさい」
「いいんです。ずっと独身ですよ。結婚相手に巡り会うのは難しいですね。子供を持つ経験も残念ながらできませんでしたけど、ここに住まわせていただいて、子育てのお手伝いができたので充分です。心配されるのも幸せですけど、心配する相手がいるのも幸せ なことですよ」
 言葉遣いをはじめとして仕事という一線は引いているが、加納家にとっては浅木も家族同然だ。もう少ししたら南奈も気兼ねなく、本物の加納家の一員になれるだろうか。
 浅木が気づいたことは南奈のなかにそんな希望を生んだ。
 ぬか喜びにならないよう、そして打ち明けることももう少し待ってからでいい。南奈は自分に猶予を与えた。

 不機嫌な理由は南奈がつくったのであって、文句を云う筋合いはない。けれど、そうしたくなるくらい、今日の旭人の不機嫌は徹底している。
 ふたりきりのときならともかく、夕食のときなどだれかがいるところでも南奈の話は無視をしているか、つれない相づちが返ってくるだけだ。
 旭人のデスクに座って開いたパソコンを眺めながら、南奈はうっとうしいほどの文字列を見てため息をついた。
 希望と失望と、目に見えない空間に情報は溢れているからこそその二つは混載していて、だからこれまであえて覗くことはなかった。希望を信じても結果が伴わなければ失望に転じる。絶対ではない“不可能”を信じて、その気持ちが揺るがなければ結婚するまえに旭人に云えただろうに、心底では臆病な自分が居残っていて南奈はずるい選択をした。
 南奈はまた吐息を漏らす。ひとまず、明日は薬局に行くこと。それだけは決めた。
 ブラウザを閉じたところで着信音が鳴った。携帯電話を手にして画面を見ると相手は母だ。

『こんばんは。南奈?』
 南奈が返事をするより早く美紀の声がする。
『こんばんは』という結婚まえではあり得ない挨拶が、おかしくてさみしいという複雑な気持ちを招く。結婚をしていても同居している春奈には使わない言葉だ。ただし、他人行儀なのはそこまでで、加納家にいくら歓迎されて居心地がいいとはいえ、美紀に対して言動を気遣うことがほぼないことを考えると、加納家では自然と抑制が働いているのだと実感する。
「こんばんは。お母さん、どうしたの?」
『今日、美穂ちゃん来たでしょ?』
 美紀が云いだしたことは意外という以上に理解できなかった。
「え?」
 そう発したまでで南奈の思考の流れは止まる。
 南奈の一語をどう捉えたのか、あるいは聞こえなかったのか、美紀は続けた。
『美穂ちゃん、きれいになって。懐かしい再会はどうだった? 美穂ちゃんと会わなくなって南奈には特別な友だちもいなかったし。よほどの行き違いがあったと思ってたけど、あんなに仲がよかったんだし、時間がたって大人になって会えばまた違ったんじゃない? 業平で南奈のこと見かけたらしいの……。あ、そういうことは直接、話したわよね。結婚してるって云ったらびっくりしてたわ。旭人さんのことはもちろん、美穂ちゃんも知ってるし』

 美紀の言葉は幸いにしてなのか、耳から耳へと抜けることはなく南奈の脳裡で循環している。思考回路が繋がってやがて推測が形成されていく。
 それなら、美穂は結婚を承知しているうえで南奈の嘘に付き合ったのだ。美穂と会っていることを美紀にはまだ知らせていなかった。藤本家を訪ねたとき美紀がどんな反応をしたのか、美穂はすでに再会していることを伏せて話を合わせたようだ。
 どういうつもりで美穂は加納家にやってきたのだろう。

『南奈、どうだったの?』
 南奈の沈黙に痺れを切らし、美紀が返事を求めてくる。
「会ったよ。今度、食事とか一緒にしようって話になったから」
『ほんと? よかった』
「お母さん」
『……何?』
 南奈の改まった口調に気づいたのか、美紀は戸惑ったように問い返した。
「結婚……わたしが結婚することにためらいなかった?」
『……どういうこと?』
「赤ちゃん、できないかもって」
 息の詰まったような一瞬の沈黙のあと、電話越しに美紀のため息が届いた。
『リスクがあるのは否定できないわ。だからこそ、南奈は早く結婚したほうがいいとずっと思ってた』
「でも、相手が大谷先輩と旭人では全然違うよ」
『確かに立場というのを深く考えていなかったかもしれない。ただ、娘の好きな人が娘を望むのなら、お母さんは何が障害になろうと目をつぶるわ』
 そう答えた美紀の声に後悔はなかったが――
『何かあったの?』
 と訊ねた声は陰り、自責が見えた。
「何もない。居心地がよすぎるから戸惑ってるんだと思う。旭人は気分屋さんだけど弱点はつかんでるし」
 南奈が付け加えたことは美紀を笑わせた。
 電話を切って、パソコンの電源をオフにしていると、バスルームから旭人が戻った。

「旭人」
 南奈の呼びかけに頓着せず、肩にかけたタオルで髪の水分を取りながら、旭人はベッドに腰かけた。ちらっとした視線は向いても返事が期待できない眼差しだ。
 南奈はデスクを離れ、ベッドに近づくと旭人のまえに立った。
「ちゃんと話したいことがあるの。でも、もう少し待ってほしいんだけど」
「いまじゃだめな理由がわからないな」
 やはり素っ気ない。まっすぐに目を注いでくるぶんだけましなのか。
「旭人はわたしに期待するなって云う。わたしも旭人に期待してほしくないから」
「云い訳は一端(いっぱし)だ。それ次第でどうなるんだ?」
「それは……旭人次第」
 旭人はひどく顔をしかめた。
「違う。南奈次第だろ」
「だから」
「だから、なんだ」
「美穂とはそれまで会わないでほしいの」
 どういうつもりなのかは美穂の心のなかのことだから、南奈がいくら考えても結論は出てこない。けれど、もう引き延ばせないことだけはわかっている。
 旭人は険しい面持ちで見上げてくる。
「彼女に何をこだわってる?」
「それがつまり話したいことに繋がるから話せない」
「……なんだ?」
 それは南奈が云ったことに対してではなく、南奈が纏うなんらかの気配を感じとっての問いかけだった。
「……今日、美穂が訪ねてきた友だちってわたしのことだったみたい」
「つまり、偶然、通りかかったわけじゃないってことか」
「うん。でも大丈夫。もう子供じゃないし、美穂ともちゃんと話さなくちゃっていうのもわかってるから」
 しばらくふたりは押し黙った。沈黙を破ったのは旭人のほうで――
「憶えてろ。結婚は絶対だ」
 そう放ちながら、南奈の腰を捕らえるとベッドに引き倒した。
 結婚という契約は呪文のように旭人を縛っている。そんなふうに感じた。

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