ミスターマシーンは恋にかしずく

第4章 人の恋路を邪魔する奴は

1.ミスターマシーンの急所

 仕事中に雑念が湧くほど南奈に余裕はないが。
「今日はため息多いね」
 七時になり、オフィスを出てエレベーターに乗ると、いつの間にか後ろを来ていたらしい小泉が南奈の隣を陣取って囁いた。
 南奈にとって、仕事が終わった安堵感をいちばんさきに味わえる場所はエレベーターのなかで、ため息をつくことが多い。今日は、小泉の発言を聞くかぎり、仕事中も無意識にため息をついていたようだ。ただし、安堵感からくるものではきっとない。
「たぶん、これから苦手な人と出かけるからですよ」
 率直に云うと小泉は考えこむように眉をひそめた。
「もしかしてこのまえの彼女? えーっと……」
「川田さん」
「そうそう」
「そうです」
 三つも『そう』が続いて、なんとなく南奈は小泉と顔を見合わせて笑う。
 まもなくエレベーターのドアが開き、南奈は小泉に続いて降りた。
「小泉主任、今日はもう帰りですか」
「ああ。用事があってね。子供を産むのに里帰りしていた従姉が……小泉会長の娘だけど、明日、旦那さんのところに帰るっていうから食事に誘われてる」
「あ、十五歳でしたっけ、年の差ありの業平グループ内結婚でニューヨークにいるって話、聞いてます」
「入社して半年なのに、耳ざといね。会ったこともないのによく知ってる」
「業平はいろんな噂あるみたいですよ。同期の子が云ってました」
「怖いな」
 小泉はエスカレーターに乗り換えると、その言葉とは裏腹に興味がありそうな様子で隣に立つ南奈を見下ろした。

「小泉主任のことは有望株だって話はありますけど、悪い噂はないですよ。カノジョいるかいないか訊かれて、いないって云っておきましたけど」
「いるのに藤本さんを口説いたりしたら……しかも、上司のまえでやったんだ、人格が疑われるくらいじゃすまない」
「……本気じゃないですよね」
「その質問は侮辱だ。おれとしては川田さんて子の誤解を本物にしていいけど」
「無理です」
 即行で否定すると、小泉はお手上げだといったふうに笑った。
「加納課長代理を狙ってるらしいね」
 南奈はぎょっとして小泉を見上げた。
「おっと。下に着くよ」
 小泉が南奈の腕をつかみ、タイミングよく引っ張ったから南奈は転ばずにすんだ。通行の邪魔にならないよう、小泉が端によけて足を止めてくれ、よろけるようにしていた南奈は体勢を立て直した。
「塚田さん、そんなことまで小泉主任に話したんですか」
「おれだから話したんじゃないかな。よけいな手出しはするなってね。塚田さんは、藤本さんと加納課長代理を応援したいみたいだ」

 そう云われると南奈は疾(やま)しくなる。隠すべきことじゃない。
 いずれにしろ、南奈にとってのタイムリミットは旭人が云ったよりも早く、披露宴の招待状が出されるまえだ。
 加納家に恥を掻かせてはいけない。南奈を旭人の妻にし続けることのリスクを打ち明けるか、南奈が妊娠できるか、南奈はそのどちらかの結果を差しださなければならない。

「どうかした?」
 小泉が覗きこむように首をかしげて南奈を見つめた。
「ああ、なんでもないです。わたし、そこで待ち合わせてるので」
 南奈はすぐさきにあるロビーの待合所 を指差した。同時に顔を向けると、視界に旭人が飛びこんでくる。南奈が旭人を認識するより早く、旭人は南奈を認めていたのだろう、視線がぴったり合った。
 このまえと同じ雰囲気に感じた。違うのは、挨拶だけで素通りせずに、旭人はわざわざ南奈たちのところへやってきて立ち止まったことだ。
「もう出先から戻ったんですか」
 南奈の質問にすぐには答えず、旭人はちらりと目を伏せた。すると、腕をつかんでいた小泉の手が離れる。
「これからデスクワークだ」
 南奈に目を向けて淡々と云い、それから旭人は小泉へと転じた。
「うまくやれてるか」
「いいお手本がありましたので」
「おれをおだててもなんの得もない。小泉主任の実力だ」
「そうおっしゃっるのは早いですよ。ポストを与(あずか)ったのははじめてですし、アドバイスいただきに伺うこともあると思うので」
 旭人は口を歪めてかすかにうなずいた。
「代理、藤本さんがいないから毎日張り合いないんじゃないですか」
「清々した、の間違いだろ」
「ひどい! ……です!」
 部下らしくない言葉遣いに気を配っているうちに――
「じゃあ、僕は監視がなくなったって単純に喜んでいいみたいですね」
 小泉が口を挟んだ。明らかに旭人に挑んでいる。
「監視? そうするならおれは徹底的にする」
「でしょうね。ミスターマシーンに隙は考えられませんから」
 旭人は肩をすくめ、南奈を見下ろした。
「一緒に帰るんなら酒はやめておけ。おれみたいに無傷で帰す 奴ばかりじゃない」
 南奈が出かける相手は美穂だ。それを知っているのに。単に、ふたりの関係をごまかそうとしてくれただけなのか。どういう意味だろう。
 そう疑問に思っているうちに、旭人は小泉に「お疲れさま」と言葉をかけて立ち去った。
「わざわざ立ち止まったのは、あのひと言を云うためだったかもな」
 小泉が旭人を追いながらつぶやいた。
「なんですか、ひと言って」
「お酒、飲まないほうがいいってさ」
 小泉は旭人の云い方を変えただけで、南奈が答えをだす手助けにはならなかった。

 小泉がさきに帰ってまもなく美穂は一階ロビーの待合スペースにやってきた。
 二階のエレベーターホールで旭人と鉢合わせしなかっただろうかという、微妙な合間のすれ違いだ。
 合流するとすぐ、美穂は自分が予約していた店へと南奈を先導した。
「お疲れさま」と声をかけ合ったときも、美穂がこれから行く店のことを話しながら目的地に向かう間も、気を配らなければならないことはなく、南奈は少しほっとした。
 入ったのは、業平ビルの通りを一つ折れたさきにあるパスタ専門店“Salute(サルーテ)”だった。壁や仕切りはレンガ調のサイディングが使われていて欧米風の温かみを感じる。明るめの店内は女性が圧倒的に多い。
 ふたりは席に着くと、注文したものがくるまで音信不通の間の出来事を互いに話した。どこの大学を出たかとか、業平でどんな仕事をしているかとか当たり障りのない話題で、だからこそ南奈は、本題が控えているような気がして終始、緊張は解けない。
 サラダとスープ、そしてメインのパスタがくると、南奈のタラコ&しそのパスタと、美穂の海鮮パスタをそれぞれ別にもらった取り皿に分けた。

「南奈のとこは三十五階だっけ、すごく見晴らしいいよね? 行ってみたいな」
「だったら、美穂も不動産にすればよかったのに」
 南奈はミネストローネをスプーンですくいながら心にもないことを云ってみる。すると、その真意を察したのかと思うくらい、美穂はじっと見返してくる。返事は、すぐとはいえないほど不自然に間が空いた。
「自信を持ちたかったんだよね。だから、不動産よりもグループ筆頭の商事を選んだ」
「自信? 美穂はいつもありそうに見えてるよ」
 美穂の発言はどこか弱音に思えて、南奈は意外に思う。
「結果が出ないと自信なんて持てないよ。わたしに比べたら、南奈はいろんなことでツイてるよね」
「ツイてるって何が?」
「不動産に就職できて、さっそくそこでカレつくって」

 ふた口めのミネストローネを口に含んで一瞬、南奈は制止した。
『ツイてる』という言葉に鑑みれば、南奈がやってきたことは努力の結果ではなく、ただ運だけで乗りきってきたみたいな云い方だ。
 不本意だという不快な気持ちが湧いたものの、南奈の脳裡にはすぐさま代償という言葉が浮かんだ。
 どうしてこんな病気になったのだろう。入院していた間も、美穂から指摘されて答えを出すまでの日々も、そんな疑問を抱いていた。
 けれど、病気だったから旭人と会えて、いまいちばん近くにいられる。皮肉なのは、その病気のせいで、旭人とはおしまいになるかもしれないことだ。良いことと悪いことは表裏の区別がつかないまま、ぐるぐると巡っている。

「わたしはリスク持ってるし、ツイてないと割に合わない気がする。美穂の膝、問題ないんだよね?」
「困ることはないよ。強いて問題点を挙げれば傷痕くらいかな」
「モデルとかだったらともかく、傷痕は全然問題にならないよ」
 南奈のフォローは美穂の気を引いたらしく、パスタを巻きとっていた手が止まる。
「断言するね」
「……え?」
「南奈にも傷痕あるし、気にしてたのに、いまは全然そうじゃないみたい。カレに云われたんだ。傷痕なんてなんでもない、とか」
 正確にはカレではなく夫だが、そう云えるはずもなく、ましてや美穂が何を想像しているかと思うと南奈は、蒼くなったり赤くなったりするような気分で彼女を見つめた。
 返事に窮している南奈を見て、美穂は笑い声を漏らす。
「なんだか幸せそうでいいね。分けてもらえないかなぁ」
 意味ありげな眼差しが南奈を捕らえる。
「分けられるものじゃないよ」
「だよね。パスタを半分こするみたいにはいかないし。でも」
 美穂はもったいぶったように言葉を切った。
 そして。
「旭人くんに会うセッティングくらいできない?」

 もしかしたら、と怖れていたことを美穂は呆気ないほど真っ向から要求してきた。
 “架空のカレ”がいなければ、旭人のことがまだ好きだから、と簡単に断れたのに。小泉をカレに仕立てたのは南奈で、自業自得以外のなんでもない。
 どっちにしても、実際にそんなことを云えるのか、甚だ疑問だ。南奈はどんなにずうずうしく振る舞えても、恋愛に関しては弊害を超えられなくてうまく立ちまわれない。

「……セッティングしてどうするの?」
「カノジョいないって噂だし、アプローチしておこうかなって思って」
「無理!」
 南奈はとっさに拒絶した。そうしてから、露骨すぎて、あまつさえ疑惑を持たせかねないとおののいた。
「無理って、わたしには旭人くんに見合わないってこと?」
 なじるようでも怪訝そうでもない。両側の口角を上げ、見かけでは美穂は単純におもしろがっている。
「そういう意味じゃなくて……上司だし、いまは部署も離れてるの。そんなこと頼めないよ」
「南奈ならいけそうだけど」
「……どういう意味?」
 美穂はめずらしく答えを溜めこんで、口を噤むような気配になった。

 塚田が云ったように、たぶん南奈と美穂は似ている。それは、南奈が美穂の率直さを見習ったから似ているのだ。
 引っこみ思案で害なくしているつもりが、知らないうちに気に障ることをしている。原因はわからなくても、少なくとも、美穂からすると南奈はそうしたのだ。夢が消えた日はそれがはね返ってきただけのこと。
 一方的に傷つけていることが怖くて、けれどそのせいばかりではなく、高校二年生の春、南奈が変わったいちばんの理由は自分を守るためだ。普段からずけずけとものを云う人間だと定着していれば、怒ったり呆れられたりという反応があって、南奈が気づいたり謝ったりする機会をくれる。

「南奈、会いにいかなかったの?」
 食欲に押されてと云うよりは、沈黙という気まずさを解消するのにパスタを口に運ぶこと三度め、南奈の質問は無視したまま、美穂は唐突に質問した。
「なんのこと?」
「だから、高二のとき、業平に旭人くんを訪ねていかなかったの?」
「……行ってない」
 ただでさえ訪ねることは勇気を必要としていたのに、行けない理由がつけばそうできるはずがなかった。そんなことはとっくに美穂は承知しているはずで、あらためて問うのはなぜだろう。
「行かなかったこと後悔してない?」
「してない」
 あのとき会いにいかなかった結果がいまだとわかっていながら、南奈が後悔することはあり得ない。
「だよね。よかった」
 美穂ははしゃぐような様だ。
「美穂、なんのこと?」
「旭人くんのこと、南奈にとってはやっぱり初恋でお兄ちゃん以上の存在だったと思うし、でも乗り越えてるってこと。心置きなくわたしも恋ができそう。ほんと、南奈に再会できてよかった」

 美穂が何を云いたいのか、南奈はまったく真意を推し量れない。ただ、胸騒ぎのようなざらざらした感触を覚えた。
 早く帰りたいと思うなか、幸いにしてその後の話は美容やファッションの話題が占めて、気が張っていた南奈もだんだんとリラックスしていった。
 美穂に合わせて急ぐでもなく食事をしていると、旭人から携帯電話にメッセージが入る。
『八時半以降ならいつでも会社を出られる。彼女と方向が違うんなら改札口で待ち合わせだ』
『反対だから大丈夫』
『OK。時間は気にしなくていい』
 すぐさま返事がきて、南奈は携帯電話をバッグにしまった。
「カレ?」
「うん」
「やさしそうな人だよね。あのときは知らなかったけど、小泉さんて不動産会長の甥でしょ。南奈にはそういう人が集まりやすいのかな。せっかく南奈と友だちなんだし、わたしもあやかるべきよね」
 美穂は勝手に決めつけた。

 食事は二時間くらい居座ったのち店を出て、南奈と美穂は駅までやってきた。
「じゃ、わたしはこっちだから」
「南奈、こっちじゃないの?」
 実家は美穂と同じ方向になるが、加納家は反対方向になる。美穂は怪訝そうに首をかしげた。
「ううん。ちょっと寄り道していくから」
「……あーそっか。理由は聞かないことにする。じゃあね!」
 少し考えこんですぐに自前の結論を出すと、美穂は小さく手を振った。背中を向けたかと思うとすぐさま振り向いて、安堵しかけていた南奈の緊張感がぶり返す。
「今度は飲みにいこうね。ついでに南奈んちに泊めてくれたら、遠慮なく酔っぱらえるんだけど。じゃあね」
「うん、じゃあ」
 美穂の背中を見送りつつ、南奈はため息をついた。ますます窮地に立たされたような気分だ。

 しばらく立ち尽くしていると。
「南奈」
 ふいに背中のほうから旭人の声が聞こえた。
 南奈はびくっと肩をふるわせた直後、ぱっと振り向く。
 三メートルさきの太い柱の傍に立った旭人は、いつからそこにいるのか、スーツパンツのポケットから右手を出し、南奈が運ぶには両手で抱えないと持てないくらい重いダレスバッグを軽々と揺らしながら近づいてくる。
「来てたの!? いまから連絡しようと思ってた」
 すぐ正面に立った旭人は右耳をふさいで、構内に響いた南奈の声をうるさいとほのめかす。
「向かいのホテルで兄さんに食事に付き合ってもらってた。そしたら、大道を闊歩(かっぽ)して歩くゴシックホラーな小悪魔が目についた」
「そんなに目立ってない」
 南奈はいちおう訂正し、「お義兄さんは食べなかったの?」と訊ねた。
「義姉さんの手料理のほうがいいんだってさ」
 そんな答えが返ってくると、南奈は考えこんでしまう。
「なんだ」
「わたしにもお料理つくってほしいって思う?」
「南奈と義姉さんの見た目は、黒と白、ノイズと沈黙。対照的だ」
 まるで咬み合っていない答えだが、旭人が云おうとしていることはなんとなく伝わってくる。旭人の薄らとした笑い方は、浅木に弟子入りの話をしたときと同じ反応で、期待も望んでもいないということだ。

「お料理にも子供にもこだわっていない。旭人が結婚に望むものって何?」
 旭人は反応せず、むしろ人形みたいに空っぽの表情に様変わりする。こういうときは本音は聞けない。案の定――
「急所をついてくるな」
 と微妙に南奈がした質問の起点をずらした。
 ちょっとした腹立ち紛れに、何気なく旭人に向けた疑問は自分でも的確だったと思う。
「風邪ひくまえに帰るぞ。夜は冷える」
 旭人はあからさまだ。注意を逸らすつもりかもしれないが、南奈もばかではない。
 ただ、直後に、南奈の右肩から落ちかけているストールを旭人が引きあげてくれて、たったそれだけのしぐさが南奈を幸せな気分にした。旭人が結婚に望むものがなんであれ、南奈を見ているからできることだ。
 ホームに向かいながら、旭人はいつものごとく、南奈のまえではなく半歩あとをついてくる。男女という組み合わせの場合、大抵は横に並ぶか女性が追う側なのに、不思議でしかたない。それは、南奈が何をしでかすかと監視するためなのか。
 手を繋げば順番は逆になってしまうのかもしれないけれど、そうしたことはまだない。いや、記憶が途切れ途切れという送別会の夜に、手を繋いだ、もしくは腕を組んだ憶えはかすかにある。
 たった二週間まえの出来事だ。やっぱり、結婚している自分なんて、夢を見ているみたいに信じられないという気持ちが強い。

 ホームに着くとすぐに来た電車に乗りこんだ。
「あいつは?」
 反対側のドアのところに行き、スタンションポールに寄りかかると、電車内ではめずらしく旭人が声をかけてくる。それはともかくとして――
「あいつ、って?」
「小泉だ」
 旭人は顔をしかめて渋々といった様子で口にした。南奈は驚いて目を丸くする。
「話が見えないんだけど。わたしが出かけた相手は美穂だよ?」
 業平ビルのロビーでのことを思いだしながら南奈は首をかしげた。
 すると旭人は、何かを遮断するように目をつむり、うつむきかげんにした顔を南奈から逸らす。すぐさま戻ってくると、旭人はため息をついた。
「小泉はおまえの“カレシ”らしいからな。一緒にいたからボディガードで連れていったのかと思った」
「……あのとき、聞こえてた?」
「うるさいのが二匹もいれば聞きたくなくても聞こえる」
「だから、『酒はやめておけ』だったの?」
 旭人は答えず、そうすることにもなんらかの意味があるように思えたが、南奈が考え至る間もなく――
「どうだった。嫌な奴との食事は」
 と露骨に話題を飛ばした。

「……なんとか乗りきれた。でも……」
「“でも”、なんだ」
「何がなんだかわかんない感じ。今度は飲みにいこうって」
「彼女と何があったんだ」
 あらためて問われると、南奈はふとさみしさを覚える。知りたくなかったことを指摘されたけれど、けんか別れになったわけではない。会いたくない、傷つきたくない、そんな気持ちからただ疎遠になった。
「今日も昔も、お喋りしただけ」
 旭人のことを。心のなかで付け加えた。
 旭人は肩をすくめ、追及はしなかった。
「その彼女と酒飲んだら間違いなく悪酔いするな。加納家に恥を掻かせたくないんなら、飲み会は禁止だ」
 美穂から南奈の家に泊まりたいなどと駄々をこねられたくはないし、旭人から通達されなくてもそうする気はやまやまだ。どうやって誘いを避けるかが問題だというだけで。

 家に帰るとリビングに顔を出して、南奈だけさきに二階の部屋に行った。旭人は日課で、父親兼社長の孝志と書斎にこもった。
 お風呂に入る準備をしたあと、南奈はパウダールームに行ってクレンジングを始めた。
 鏡に映る自分の顔からチークが落ちていくのを見ながら、旭人から『ゴシックホラーな小悪魔』だと云われたことを思いだす。ゴシックホラーは南奈も認めるところだが、小悪魔というのは解(げ)せない。
 どういう意味だろう。悪魔がしたがる災いなんて起こしていないし、誘惑もしていない。うるさくはしているかもしれないけれど。
 だいたいが、小悪魔というあまりありがたくない形容だろうがそれが憚(はばか)られるくらい、南奈はメイクを落としてしまえばメリハリのない平面図っぽい顔だ。旭人がメイクとすっぴんの落差によく文句を云わないなと思う。
 南奈は洗顔をすませると、パウダールームの内ドアからバスルームへと移った。ブラウスとスカートを脱いでタイツを脚から抜きとったところで、廊下のほうのドアが開いた。

「入ってる!」
 だれかと判断がつくまえに南奈は叫んだ。にもかかわらず、パーティションを横切って侵入者が現れる。そうするのは旭人にほかならず。いや、この状況下、加納家に住む人に限定すれば旭人でなければならず。
「知ってる」
 旭人は平然と応じて、南奈を頭から足先まで見回した。
 いま以上の裸体を隅々まで見られているのだから、恥ずかしいと思うのは滑稽だろうが、条件反射的な感情だ。
 旭人の目は南奈の顔まで戻ってきた。
「わからないな」
 旭人こそ、訳のわからないことを口にする。
「何?」
「なんで化けるんだ? ナチュラルなメイクできないのか?」
 旭人の云い分から判断すると、ゴシックメイクよりもすっぴんが好みらしい。メイクのほうにケチがつくとは思っていなかった。
「区別がつきやすいし。ナチュラルだと、闊歩してても旭人はわたしを見つけられないと思う」
「反対だろ。おれは、南奈と絵本がセットになってても“南奈”だと気づいてなかった」
 南奈は旭人の云った言葉を反すうする。
「……もしかして、わたしがわたしだってこと、わかってなかったってこと?」
「メイクにしろ性格にしろ、どう考えても中学生の南奈とは正反対だ」
「だって、名前を聞けば……! ……もしかして忘れてた!?」
 云っている途中でどういうことか察した南奈は旭人に詰め寄る。脱衣所にわんわんと声が響くが、このときばかりは耳をふさぐことなく、旭人はどこ吹く風で薄く笑う。

「九年まえにたった一週間会っただけの奴の名前をどうして憶えていられる? なんとなくどこかで会ったような既視感はあった。南奈があの日、会ったのは面接がはじめてじゃないと云ったから、既視感じゃなく確かにあったことだという認識はした。家に送っていって、お義母さんから“ボランティアの加納くん”て云われて気づいた。とどのつまり、朝すっぴん見て確信した、ってとこだな」
 南奈が絶句しているうちに旭人は云い訳をのたまった。まさかとは思っていたが、こうやって堂々と記憶力のなさを威張れる神経はまさに冷血漢だ。
「マシーンなら記憶してるべき!」
「名前は忘れても顔は憶えてた。充分だろ」
「名前と会社名を書いてくれたメモのことは?」
「さあな。おれは南奈をもらってやるって云ったらしいし、それは実行した。なんの不満がある?」
「すんごくショックです!」
「そのぶん、おれは害を被ってるってことか?」

 旭人が憶えていない可能性は心構えをしていたけれど、いざ本当にそうだったと知ると南奈はなんともいえない衝撃を受けた。
 そんな南奈におかまいなしで、ため息混じりに吐いた旭人の発言はなんのことか。記憶のなかから探していると、旭人は目のまえでシャツを脱いだ。
 南奈はそのシャツを突きつけられる。くっきりと浮かぶリップの痕が嫌でも目に入った。
 南奈は旭人の手からシャツを奪う。

「害……って?」
 胸もとに引き寄せながら、おそるおそる訊いてみた。
「外勤ではジャケットを脱ぐことはないけど、それでも会社に戻るまではちゃんと憶えてたんだ。雑音が入ったのが運の尽きだ。取っぱらいたいって気持ちでつい脱いだ」
 雑音というのは南奈のことに違いない。ロビーではうるさくしていなかったという抗議はできる雰囲気ではなく、南奈は呑みこんだ。
「……見られた?」
「来週には、仕事を放りだして女としけこんでたって悪評が立ってるだろうな。どうする?」
「どうする、って?」
「このままだとおれは加納家に汚点を残すことになるな。直截簡明な払拭方法はなんだ?」
 旭人の云い方は、答えを出してほしいのではなく、すでに出ているうえで南奈に同じ返答を求めているのだ。
 云わんとするところは程なく南奈にもわかった。
「旭人だったら何云われても平然とやりすごせるでしょ。少なくとも見た目は。有能だって定評あるんだし、愛嬌ですませられる。ちょっと残業の活力補給してきたとか云い訳すれば。公表とか、ぜーったいにノーサンキューです」
 公表を回避するべくどうにか旭人とは別の答えを出したものの、最後の主張を聞き遂げたとたん、旭人は目を細め、気に喰わなそうなオーラを放った。
「……だって、わたし、矢面に立つほど度胸ないから」
 云い訳をせざるを得ない気配で、南奈は肩をすくめて自らを擁護した。

 しばらくふたりは蝋人形みたいに身動き一つしないで見合っていた。
 旭人の気分がどうだかはわからないが、南奈は蛇に睨まれた蛙、猫のまえの鼠、もしくは鷹のまえの雀という気分で息が詰まりそうだ。
 やがて、旭人は南奈の手からシャツを取り返すとランドリーバスケットに放った。次にはベルトを解き、アンダーシャツに手をかける。
「お風呂、わたし、まだすませてないんだけど!」
「明日は休みだ。今朝、南奈も乗り気だったな。スルーしたらまたあることないことくだを巻かれて面倒だ。有言実行は可能なかぎり早く、できるだけ長く。だろ?」
 南奈はなんとなく身をすくめた。が、旭人を不機嫌のまま放置するより、機嫌が直るようセックスでやられるほうがずっとましだ。その“まし”という云い方は控えめで、ぴったりな表現ではない。旭人が南奈にがむしゃらになる瞬間が見られて、ベッドの上は南奈にとって至福の場所だ。
「一緒に寝坊してくれる?」
「南奈の努力次第だ」
 と云いながらも、旭人のほうからせっかちに南奈に手を伸ばして、キャミソールから剥ぎとっていく。ショーツをおろすと、旭人はかがんだついでに傷に口づけた。舌が触れるとその感触に全身が粟立って、南奈は小さく悲鳴をあげて飛びのく。
 旭人はゆっくりと立ちあがってくちびるを歪めた。
「反応過多。やり甲斐があるな」
「まだ感覚に慣れてないだけ」
「慣れなくていい。早く入れよ。風邪ひかれたら面倒だ」

 加納家の生活スペースはどこもかしこも空調が効いていて、季節を忘れるほど快適に保たれている。だから家のなかで風邪をひくとは思えないが、と考えてみると何かをごまかすための口実だというところまでは見当をつけた。
 いや、旭人は駅でも同じことを云ったから、単純に『気をつけろよ』と一緒で口癖かもしれない。
 旭人から追われるようにさきに入った南奈は、バスタブの縁に腕を預け、そこに顎をのせて、恥ずかしげもなく旭人の一挙一動を眺めていた。一緒に風呂に入るのははじめてだが、旭人は当然ながら隠すことなく堂々としている。シャワーの下で顔を洗うしぐさとか躰を撫でるしぐさとか、南奈は結婚してはじめて、男っぽさがどういうことか知った気がした。動くたびに筋が見えたり筋肉が隆起したり、見た者にいつでも迎撃できるという印象を与える。
 円形のバスタブはふたりで入っても余裕があるが、旭人は湯に浸かると南奈の背中を引き寄せた。

「バスタブが大きいから、最初の日、こんなふうに寄りかかろうってしたら溺れそうになった」
 いまは旭人の腕が南奈を拘束しているから、躰が湯のなかへと滑ることもない。
 南奈の打ち明け話に旭人が笑い、その振動が背中から伝わってきて、くすぐったくて心地がいい。
 旭人の右腕だけほどいて、南奈はその手首をつかんで湯のなかから持ちあげる。さっき旭人がしてくれたように傷痕に舌を這わせると、南奈の腰に押しつけられているオスがぴくりとふるえる。
 そんなオスのしるしは、南奈が旭人の男っぽさに魅せられているように、旭人も南奈のなんらかに反応しているという証拠のはず。
 手首を放すと南奈のウエストに戻った。南奈は髪が濡れるのもかまわず、首をのけ反らせて旭人を振り仰いだ。
「旭人」
 オスの本能は南奈という存在に対してちゃんと機能していて、今日の旭人の言動を咬み合わせると一つのキーワードが見いだされる。
 旭人は南奈を見下ろし――
「なんだ」
 と至って通常どおりに問う。
「ちょっとかもしれないけど、旭人は嫉妬してるみたい」
 南奈はからかってみた。
 笑い飛ばされるかと思っていたのに、予想に反して旭人の腕はこわばった。

 ただの戯れ言のつもりが、否定すらもしないで、まるで本当にマシーンになったように固まるという、旭人の反応は不自然に思えた。
 伴って、旭人に無造作に躰を任せ、それをごく自然に預かって南奈の首を支えていた左腕は、役割を放棄したようにふと緩む。頭が湯のなかに沈んでいく。耳が浸かる寸前で、南奈はもがくようにしながら旭人の右腕を両手でつかみ、自分を支えた。起きあがると躰を反転させて旭人と向き合う。

「くだらないって怒った?」
「期待には応えられないって云ったのはそのとおり、いまも変わらない」
 旭人はじっと見つめて、感情を知らないマシーンぶりを発揮した。
「でも、小泉主任のことはすごく気にしてる。それはわたしの勘違いじゃない。塚田さんもそう云ってたし」
「勘違いするな。結婚したいと云ったのはおれだ。南奈に対して感じているのは夫としての責任だ。小泉から守る義務も権利もある」
 リラックスできるはずのバスタイムにはそぐわない、睨み合いのような時間が流れる。
「真面目に答えることないのに! 合わせてくれたってだれも損なんてしないでしょ。結婚してるんだから!」
 南奈の批難はバスルームのなかで反響する。ひょっとしたら、壁を飛び越して廊下に漏れているかもしれない。
 南奈は腹立ち紛れに手でお湯をはね、旭人の顔に浴びせた。旭人が水滴を飛ばすように顔を振る間にバスタブを出ると、振り向きざま。
「わたしには好きな人がいたの。べつに結婚してとかしたいとか、わたしはひと言も旭人に云った憶えないし、旭人のほうこそ、わたしの気持ちを勘違いしないで。期待されるのも“以ての外”だから!」
 そう云い捨て、南奈はバスルームを退散した。

 手早くパジャマを着ると、少しでも遠く離れようと、パウダールームからドライヤーを引っこ抜いて部屋に持っていった。
 南奈はドレッサーの椅子に座って、鏡に映る自分の不機嫌な顔と向き合いながら髪を乾かす。
 まったく気に入らない。
 けれど、旭人からすれば、南奈が結婚を秘密にしてしまうことを気に入らないのだ。
 嫌いなところは見つからないのに、むしろ康哉のことを忘れるくらい旭人を好きだと思うのに、あまつさえ、旭人だってきっと南奈のそのままを受けとめているはずで、だからうまくいくはずなのにつまずいてしまう。それは、互いに大事な本心を語り合っていないからかもしれない。
 云わなくちゃいけない。
 そんなわだかまりは常に頭にある。そして、その機会は南奈の覚悟が決まるのを待たず、すぐにやってくる気がした。

「簡単には手に負えないな」
 いきなり傍で声がしたと思うと、ドライヤーが取りあげられてスイッチが切られた。
「まだ……!」
「じゃじゃ馬っていうのは南奈のことだ。馴らすのは戯曲ほど簡単じゃないらしい」
 ふざけているのか怒っているのか、そう放ちながら旭人は南奈をすくうと、ベッドに放り投げた。
「旭人っ」
 反射的に逃げようと試みるも、それが隙になって身につけたばかりのパジャマや下着が剥ぎとられていく。そうしたすえ、旭人が腿の上にのって南奈を逃げられなくした。
「何より不貞を働くってどうなんだ」
「不貞ってそんなの働いてない!」
 南奈の手をひとまとめにして旭人の左手が頭上で括る。間近に顔を寄せて、旭人の目が南奈を射貫く。
「ふーん」
 歪んだ笑みとともにもったいぶったような相づちは薄気味悪い。
「確かに、南奈は『好きな人が“いた”』って云ったな」
 旭人は過去形を強調する。そういう細かいところをついてくるとは、やはり頭脳は鋭敏だ。けれど、やはり矛盾している。
「そう。だから、また違う人を好きになれるの」
「無理だ。結婚は絶対だ」
 南奈の挑発に乗り旭人は云いきると、くちびるを荒っぽく重ねた。

 左側の胸に旭人の右手が被さる。こねるように動きだして、南奈は身をよじったが、手も脚もしっかりと固定されて身動きがかなわない。
 う、んっ。
 旭人の口のなかに呻き声を吐くとキスはやんだ。手のほうは変わらず動き続け、だんだんと胸は熱を帯びていき、やわらかく、それでいてふくらんだように感じる。
 ん、ふっ。
 胸のトップが弾かれると、吐息まで熱く湿っていく。
 セックスのときに旭人を観察できたのは最初の日だけで、それから、南奈はそうする余裕がないほど屈服している。どうにか快楽に逆らおうとするも、どうにもならない。見ていることすら難しくなって、今日もやはり南奈は目を閉じた。そうすると感覚が鋭くなるという悪循環に嵌まる。
 もっと触って、とそう訴えるように胸先はたぶん尖っている。旭人の指先が生む摩擦は痛いのか熱いのか区別がつかない。ただ、躰の中心が潤うのがわかった。躰が突っぱる。
「旭人……っ」
「イクのは自由だ。いつでもそうすればいい。むしろ、今日はおれがいいと思うまでとことんそうしてもらう」

 旭人は、結婚は絶対と云うくせに、期待には絶対の拒絶をする。セックスはこれ以上のことはないだろうと経験のない南奈が思うほど親密で満ち足りるのに――それは、寝ている間中、南奈を放さない旭人も同じだろうと思うのに、ベッドを離れると旭人はどこか距離を置く。
 たったいまは、ただ熱いのではなく、ぶつかってくるように感じた。南奈の発言の何かしらが旭人の癇に触れたのは確かだった。

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