ミスターマシーンは恋にかしずく
第3章 トライアル&エラー〜結婚はアイの始まり〜
4.恋愛失格者
『帰ってるか?』
業平ビルがもうすぐというところで旭人からメッセージが届いた。
『もうすぐ!』
ちょっと立ち止まって南奈はメッセージを返す。
小泉はそのちょっとしたやり取りを適当に想像つけて気にかけたのか――
「遅くなって悪かったね」
と、業平ビルのエントランスを通りながら、斜め後ろにいる南奈を振り向き、ホームに帰った安堵感の覗く口調で声をかけた。
ロビーの受付のところにある時計を見ると、そろそろ七時になろうかとしていた。
「残業したと思えば普通です。すぐ帰りますけど」
「かまわないよ」
「ありがとうございます。それに外回りも楽しいです……って仕事だから楽しんじゃいけませんよね」
「そんなことないわ。仕事を楽しむことって大事だと思う。そうじゃなきゃ伸びないんじゃない? ですよね、小泉主任。わたしには『悪かった』ってなかったけど」
塚田は南奈から小泉へと話しかけ、最後にちくりとあげつらった。
「新人とベテランの違いだよ」
苦笑いしている小泉は、「お邪魔虫だったかなっていじけてるだけです」と塚田がからかわれてますます顔を歪めた。
「塚田さん、そういう誤解を生むような発言、みんなのまえではやめてくださいね!」
南奈は少し駆けて小泉の向こう側にいる塚田を覗きこんだ。すると。
「おっと」
と、正面にきた南奈の顔にぶつかりそうになった小泉は立ち止まった。
「あ、すみません」
南奈もまた立ち止まりながらデジャヴに陥り、次には先週のことを思いだした。
旭人とカレシが別人であり、且つ南奈と旭人と“カレシ”が一緒にいた瞬間というシーンはついこの間、金曜日にあったことだ。美穂が云うカレシとはきっと康哉のことなのだ。
そう思いついた直後。
「あれ、南奈! いま帰り? だったら一緒に食べにいかない?」
突然、あまつさえタイミングを計っていたように、弾丸のごとく言葉を継いだのは美穂にほかならない。昼食後、オフィスに戻ったとたんの『今度、カレシを紹介してね』というメールを見たときの不吉さが甦る。
今日は厄日に違いなかった。
「いま、外回りから帰ったの。片づけなくちゃいけないことがあるし、だから今日は無理」
南奈がきっぱり断ると、美穂はわずかに驚いたような面持ちになった。
「そうなんだ。じゃあ週末にしよう? いろいろ話したいじゃない。カレシとデートなら連れてくればいいし……じゃなくって連れてきてよ。カレ、カッコよかったし出し惜しみはナシね」
美穂はやはり強引に事を運ぼうとする。
「あれはカレじゃなくて、姉の旦那さんだよ」
「え、そうなの? だったらその指輪――」
「わたしのカレはこの人! わたしの上司だし、いまはまだ仕事中だからもういいよね?」
美穂は目を丸くして南奈を凝視したあと、小泉のほうへと視線を転じた。
南奈はその様子を見てから、ばかなことを口にしたと気づく。
「そうなんですか?」
美穂が小泉に問う。
小泉に違うと訂正されたらおしまいだ。なんと云い訳をしよう。不安に駆られていると。
「そうらしいね。小泉です。仕事残してるからこれで悪いね」
「いえ、とんでもないです」
ぱっと頭を下げた美穂は南奈に目を戻す。
「じゃあ、南奈。とにかく今度、食事ね。いつがいいか、帰ったらメールして」
美穂は、お疲れさまです、とだれにともなく声をかけて立ち去った。
ほっとすると同時に南奈は痛い視線を受けとめなければならなかった。
「すみません。話を合わせてもらって助かりました」
「彼女のこと、よっぽど苦手みたいね」
塚田の発言はフォローしてくれたように感じて、南奈の失態が少し和らぐ。
「あとで聞かせてもらうよ。行こう」
小泉のおもしろがった声音にさらに安堵しながらエスカレーターへと歩き始めたそのとき、そのエスカレーターの降り口の横に佇む旭人が目に入った。
無意識に立ち止まり、南奈がびっくり眼になるのとどちらが早かったのか、旭人はこっちへ向かってきた。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
すれ違いざま、南奈だけを置いてけぼりにして旭人と小泉たちは挨拶を交わす。
旭人の声がひどく素っ気ないと思うのは考えすぎなのか。
もしかしたら旭人は南奈と美穂の会話を聞いていたかもしれない。けれど、おかしなことはやっていない。いや、小泉をカレシだと嘘を吐いたのはおかしなことだ。ただし、そうしたことで旭人に対して後ろめたさは何もないはず。
「藤本さん?」
塚田が何か云いたそうに、立ち止まったままの南奈を振り向いて声をかける。
「はい、早く戻りましょう! 小泉主任、さっきのこと話すのは明日です。それか、塚田さんに訊いてください。わたし、用事ありますから」
小泉と塚田は、呆れ半分、興じること半分といったため息をついた。
リサーチの書類を簡単に分類して明日の仕事を小泉に確認したあと、南奈は早々と会社を出た。
太陽の光が尽きた夜、目を凝らすことなく見渡せるほど、会社まえの通りは明るい。空気はひんやりしてきたが乾いたぶんだけ澄んできて、業平ビルの正面にある公園は、外灯が煌々としてロマンティックな雰囲気を醸しだしている。
南奈は幅広い歩道を道路側ぎりぎりのところまで行くと、業平ビルを見上げた。照明の消えた窓のほうが圧倒的に少ない。
四年まえの春、この近くに来たことがある。南奈の誕生日と大学入学祝いを兼ね、ビルの四十階にあったレストランで家族そろって食事をした。見晴らしがよく、父の春己は景色を眺めながら、『おまえの未来だ』と、二年まえに別のレストランで春奈の大学入学祝いをしたときと同じことを口にした。
たぶん、希望に溢れているとか夢を持てとか叶うとか、そんなことを云いたいのだろうと見当をつけた。そのときは笑ってしまったけれど、いまこうしてここに立っているのはそんな言葉があったからかもしれない。
そして、ディナーを取りながら、春己が背の高いビル群の名をいくつか連ねるなかに『業平』という言葉を見つけた。
いまと同じ時間帯の帰り道、春己に頼んで遠回りをし、南奈はここで業平ビルを見上げたのだ。
夢を見た恋はその二年まえにすでに終わっていて、いざこの場所に立って夢を見ることはなかったけれど、このなかに旭人がいると思うと不思議な感情が湧いた。
無謀にも業平不動産に挑戦して、うまくいって、けれど充分ではない。そのどこか欠けた侘びしさの理由は、旭人に気づいてもらえないこと、だったんだと思う。
不思議な感情とはきっと、会える、という可能性を覚えたのだ。
南奈はうつむくと、右手の薬指から左手の薬指へとリングを移した。もらった瞬間が瞬間だっただけに、旭人と繋がっている証しのようで、南奈の顔には自然と笑みが浮かぶ。
南奈は躰の向きを変え、駅へと急いだ。
ほぼ駆け足で駅近くに行くと、パン屋の角という待ち合わせの場所に旭人を見つけた。南奈は息切れしながら「お疲れさまです」と、旭人の正面でぴたりと立ち止まる。
「来るのはわかってるから走ることないだろ。子供みたいだ」
旭人はため息混じりに小言をこぼす。
笑顔は見られなくても、いつもどおりの雰囲気に感じてひとまず南奈はほっとした。
「早く旭人とお喋りしたかったから!」
旭人は首をひねるだけでうれしそうでもない。反応のなさはいまに始まったことではないが、結婚したら少し変わるかと思っていただけに、そこは期待はずれだ。
旭人は唐突に歩き始め、数歩出遅れた南奈は急いで横に並んだ。
「短かったけど、婚約期間中はいい感じだったのに」
「なんのことだ」
「わたしのさっきの答え、百点じゃない?」
「南奈の点数はおれ基準だろ」
「じゃあ、何点?」
「ゼロ。お喋りするのは嫌いだ」
南奈は一瞬、言葉に詰まる。
「旭人のバカ。零点!」
「じゃあ、なんて云えばいい」
「“喋るのは苦手だけど、南奈のお喋り聞いてるのは好きだ”」
「うるさい」
あまり人に腹を立てることはないけれど――康哉にもおふざけでしか腹を立てたことはないけれど、旭人はたったひと言で南奈を本気で不機嫌にする天才だ。それが、好きという気持ちのせいなら、南奈は重症の病を患っている。
結婚して十日をすぎて加納家にもなじんできた。それどころか、順応性はトップクラスではないかとすら思うほど、南奈に新生活のストレスはない。それとも、リッチ層から庶民への格下げ生活はつらいかもしれないが、庶民からリッチ層へと贅沢な環境にはすぐ慣れてしまうのか。
藤本家としてはやはりへんに気を遣うようで、まるで皇室にでも嫁入りしたみたいに『家に顔出せる?』などと遠慮がちに電話してくる。今回の三連休の最中、旭人が仕事に出ている間、藤本家に行ってみれば、根掘り葉掘り加納家での生活を問われて南奈は辟易した。ブログを開設して日記をつけ、そこを覗いてもらおうかと思ったくらいだ。
「南奈奥さまのぶんです」
配膳を手伝って最後、キッチンに行くと、カウンターの上に朝の洋食コースがひとそろいしたトレイが置かれた。
「ありがとう」
浅木は笑顔でどういたしましてと伝えてくる。
浅木の呼び方には最初のうち戸惑ったものの、茅乃が奥さま、華世が若奥さまとそんな言葉が飛び交ううちに南奈のなかで自分のことも含めて聞き慣れてきた。
南奈はダイニングに行って、旭人の隣という自分の指定席に着いた。
朝から食卓に出てくるパンは、藤本家の常識だった買い置きの食パンやフランスパンと違って、焼き立てだ。ホテルみたいに、前日、パンがいいかご飯がいいかと訊かれるなんて贅沢すぎる。米粒でもかまわないのだが、パンが日替わりのごとくアレンジされて出てくると聞けば、南奈はついパンを選んでしまう。トレイに載ったオムレツなどの卵料理にハム類、サラダスープ付きとくれば、もう毎日が旅行気分だ。
加納家の食事は平日だろうが、でき得るかぎりそろって取るというのが仕来りになっている。早起きが苦手な南奈にとって、休日までも朝食の時間が七時スタートと決まっているのは拷問に等しいが、浅木の料理の腕前に誘引されている。男をつかむなら胃袋をつかめというが、それは男に限ったことではないのだ。
「いただきましょう」
茅乃の言葉を合図に手を合わせて食事を始めた。
「マイペースだな。人に合わせるってことを知らないのか」
旭人は南奈からトレイへと視線を移し、再び南奈に戻して小言を口にする。
今日は、南奈を除いて全員が和食だ。風味豊かな、とはこういうことだと思うくらい、お味噌汁のだしが香っている。
「わざわざ云われなくても、浅木さんの手間を取ってることはわかってます」
「旭人さま、お気遣いありがとうございます。でも南奈奥さま、わたしはお料理好きなので苦痛ではありません。美味しいとおっしゃっていただけて、充分報われてますよ」
浅木がキッチンから現れてにこやかに口を挟んだ。
「ホントに美味しいの! シンプルなのにバターつけなくてもどんどんいけちゃうパンて、そう食べられる機会ないんだよ。旭人は生まれたときからここにいてわかってないだけ。畳――」
――にふとん敷いて眠れないこともそうだし、と南奈は続けたかったのに「ベッドの話はしなくていい」と旭人は素早くさえぎった。
そうするのは弱点だと認めていることになるのに。旭人はわかっていて南奈には隙を曝しているのだろうか。
「そのうちあたりまえになったら、南奈ちゃんも合わせるようになるわよ。ね」
「旭人、わがままが通るのも若いうちだけなんだから好きにさせておきなさい。あと二年もしたら南奈さんは二十五になるわ。そうしたら落ち着くでしょう。そうよね?」
華世のフォローはともかく、あとを継いだ茅乃の発言は許容を示すようでいて、その実、子供扱い、のち嫌味、だ。
「おばあちゃんの年まで、わたしはあといままでの倍の量、生きないといけないし、もう少し長くわがまま融通できたらうれしいです」
思いついたまま減らず口を叩くと、茅乃が呆れた一方で旭人が笑みを漏らす。対照的な感情を示すふたりが相容れない間柄であることはもう疑いようがない。
「あ、旭人、わたし、今日の帰りは友だちと食事の約束したんだけどいい?」
「友だち?」
旭人は怪訝そうに眉をひそめた。
「川田美穂って子」
そう云ったら旭人は記憶しているのか、ますます顔をしかめた。
「おれも今日は外回りで遅くなる。帰るときは連絡しろ。一緒に帰れるようだったら合わせる」
「うん」
南奈と旭人の会話を聞いていた茅乃はあからさまにため息をついた。
「あなたたちってわからないわ。朝は別々に出かけるくせに帰りだけは一緒なんだから。結婚を知られたくないってなんなのかしら」
「加納家を追いだされないって確信できたら公表するんですけど。それに、駅までくらい歩いていかないと、朝から美味しいものばかりだし、ぶくぶく太っていくんじゃないかって怖いんです」
茅乃はまたもや呆れたように首を横に振ったあと。
「少なくとも、わたしが追いだすことはないわ」
と、なぜか南奈にではなく旭人に向かって云った。
「当然だ。結婚はおれと南奈の意思で、だれかに左右されるものじゃない」
茅乃の言葉に旭人はすかさず喰いついた。納得でも意思表示でもなく、それは反論に聞こえた。
「旭人」
滋は名を呼ぶもそれだけで、何を云わんとするのか南奈にはわからない。けれど、旭人には伝わったようだ。べつに食卓の空気が気まずくなっているわけでもないが、旭人はため息をつき――
「結婚の顛末如何(てんまついかん)はすべておれの責任だ。そう云っただけです」
と、弁明した。
食事のあと、南奈は浅木からお弁当をもらうと部屋に戻った。
お弁当くらい自分で作るべきだと思うが、これまで母親を頼っていたゆえ、料理の基本からよく知らない。そのうち浅木に弟子入りしようと思っているが、そう云ったら旭人はまるで当てにしていないふうに鼻先で笑った。
「旭人、おばあちゃんと何かある?」
ドレッサーのまえに座ってリキッドファンデーションを伸ばしながら、南奈は旭人に訊ねてみた。
開けっ放しにしたクローゼットでウォールミラーに向かい、ネクタイを結んでいた旭人は手を止めて上半身をひねった。南奈を一瞥(いちべつ)したあと、またもとに戻る。
「何もないことはない」
その返事はまわりくどいし、答える気がないことは明々白々だ。南奈はわずかにくちびるを尖らせた。
南奈もまた正面に戻って、メイクの続きに取りかかる。すると、足音がしたかと思うと南奈の背後に旭人が立った。
「云っとくけど。結婚を公表しないのは合意じゃない」
つまり、旭人は不満だと主張している。おそらくは理由を聞きたいという意思も潜んでいる。
南奈は鏡越しに見ていた旭人の目から視線を落とした。
「わたしが追いだされるのはしかたなくても、それで加納家にも旭人にも迷惑かけたらなんだか悪い気がして」
「気に入らないな」
旭人の声は剣呑としていて、南奈は思わず顔を上げる。声のとおり、眼差しは睨むようだ。
「……何?」
「追いだすことを前提にした云い方が、だ。おれをなんだと思ってる。本物のマシーンか?」
もしかしたら傷ついているかもしれないと思うような勢いで、旭人は吐き捨てた。南奈の言葉を侮辱と受けとったのだろう、本気で怒っている気配だ。
南奈は急いで立ちあがると旭人と向き合う。
「違う。わたしの云い方が間違ってた。追いだされるとしてもわたしのせいだし、なんていうか……旭人とこうなってるっていう実感が湧いてないって感じ……」
旭人は脅かすような様でぴくりと眉を跳ねる。
「実感が湧いてない?」
そう云って吐息を漏らすと――
「おれは毎晩、何やってるんだ? 子守か?」
旭人はどうしようもないといったふうにゆっくりと首を横に振った。
ピル をやめて四日後に生理が来て、その期間を除けば、セックスという意味で旭人が抱かないという日はない。そういうとき、普段のマシーンぶりは鳴りを潜めてしまって、別人かと思うくらい、セックスの果てで南奈に触れる旭人の呼吸は熱を帯びている。
なんでだ? 最初の日につぶやいた言葉の意味はいまだにわからないけれど、ベッドの上ではごく親密だ。
「そういう意味じゃなくて、慣れないってだけ。落ち着かなくて、だから、周りで騒がれたらますます落ち着かない気がする。結婚して十日だし、二週間まえまでただの上司と部下でまったく他人だったんだから」
南奈は訴えてから、ふとあらためて訊いてみたくなった。
「旭人」
「なんだ」
「結婚を急いだ理由って何?」
「結婚したいと思ったからだ。そうしたいと思っていながら先延ばしにしてなんのメリットがある?」
逆に、質問を投げかけるのは矛先を転じようとしているからなのか。
「じゃあ、云い換える。わたしと結婚した理由って何? 何がきっかけでわたしと結婚したいって思ったの?」
旭人の周りは、南奈よりもレベルの高いお嫁さん候補が選(よ)り取り見取りでいたはずだ。そういう人たちを差し置いて結婚したいと思う、どんな条件が南奈と合致したのだろう。
そう考えると、これまでの“お気に入りだった人”と自分は同じなのだと思ったけれど、南奈にはなんらかの突出した条件があることになる。ただの勢いというタイミングでなければだが、それでもミスターマシーンが計算しないとは考えにくい。それなら、南奈にしかない特別があるはずで、なお且つ、遠回しでも南奈は子供のいる未来はないかもしれないことを伝えているのだから、条件という打算的なものの上で結婚が成り立っているとしてもずっとという期待が芽生えて、心底にじわりと沁みこんでいくようなうれしさを覚えた。
ずっとという保証があるのなら、離れている片想いはつらいけれど、これ以上になく傍にいながらの片想いは果てしなく好きになれそうで、幸せも満タンになりそうな気がする。
旭人はじっと南奈を見下ろすだけで、すぐには答えない。ためらいとか戸惑いとか、そんな感情のせいではなく、探し物をするような雰囲気に感じた。
「南奈が南奈だからだ。そうとしか答えられない」
一つため息をついたあと、旭人は片方だけ肩をそびやかして答えた。
それほど好きだ、というのが前提にあるのなら飛びあがって喜びそうな言葉だが、あいにくと旭人の気持ちにそこまで幻想を抱いていない。ただ、『おれをなんだと思ってる』と本気で怒った旭人が、南奈の期待に応えることはなくても、人を裏切る人じゃないのは信じられて、そういう旭人であればいい。
「じゃあ、わたしがいなかったら旭人は一生独りでいたんだ?」
さらに南奈が問いかけると、旭人は薄く笑う。
「満点だろ」
「ううん。旭人が愛してるって付け加えるんだったら満点だけどそうじゃないし、答えるのが面倒くさくて逃げてるって感じ。だから零点」
南奈の云い分に旭人は声を出して笑いだす。すぐに笑い声はおさまったけれど、表情には南奈がはじめて見る少年ぽさが居残る。無防備で南奈に対してかまえていない。
「南奈はおれをよくわかってる」
「旭人の奥さんだから」
「ああ」
旭人と入れ替わりに南奈が笑顔になる。
すると、ふいに旭人の顔がクローズアップする。直後にはくちびるが触れ合った。右端、真ん中、左端へと吸いつくようなキスは移動して、旭人の舌が南奈のくちびるを裂き、口内へと潜ってくる。くちびるの裏を這い、自然と南奈の口を開かせる。その隙を狙ってさらに奥へと入りこんだ旭人は南奈の舌に絡んだ。いつものように反射的に甘咬みすると、旭人はのどの奥でくぐもった声を鳴らし、離れていく。
もっと、と物足りなく思うのは南奈だけではないはず。
「明日が休みでよかったって思えよ」
欲求不満の原因は自分がつくったくせに旭人は夜更かしをほのめかした。
それを怖がる南奈ではなく。
「今日の憂うつ、なんとか乗りきれそう」
と、楽しみだと暗に含んで受けて立ったが、おもしろがらせようとした南奈の目算は外れた。
旭人は反対に顔をしかめる。三十分まえにダイニングで見せた顔と同じだ。
「なんで嫌いな奴と出かけるんだ?」
やはり旭人は気づいていた。
「嫌いでも付き合わないといけないときがあるでしょ」
「仕事の場合はそうでも、プライベートならそんな奴は切ればいい」
「プライベートだって簡単にいかないことがあるの。旭人は加納家っていう盾があるから嫌いビーム出して蹴散らしてもなんの被害もないだろうけど、普通は、まわりまわって大打撃ってこともあるんだから」
「それなら、南奈も加納家の盾を使えばいい」
旭人はここぞとばかりに云い、結局、話は云い合いのもとに戻った。
「だから! わたしの場合、それが盾じゃなくて、自分で自分に矛先を向けてるってことにもなり得るの」
「例えば?」
「嫉妬とか」
旭人はため息をつく。
「披露宴は二月だ。それがタイムリミットだ」
呆れたのかあきらめたのか。理解はしたらしく、旭人はそれ以上は追及しなかった。
旭人は、クローゼットに引き返してジャケットを羽織るとすぐ部屋に戻り、机まで行ってダレスバッグを持った。
旭人は、加納家のお抱え運転手、松田の車で孝志と一緒に出勤する。一般社員よりも早い時間から仕事を始め、どんな時間に会社での仕事を終えようが、家でまた書類を開く。それが、本来の――投資マネジメント事業部課長代理という仕事に限らないことは南奈でもわかる。
創業者末裔として、あるいは経営陣という立場に就くことを踏まえてだろうが、見ていて不自由さを感じる。旭人がそう感じているのかどうかはわからない。ただ、訊ねても否定しそうな気がする。
優雅な動作を突っ立ったまま追っていた南奈のところへ、旭人は再びやってきた。
「友だちを家に呼んでもかまわない。義姉さんもそうしてた」
唐突な切り出しだが、“嫌な友だち”の話から派生したのだろう。加えて、南奈が“友だち”の話をしないことに、急に気づいたのかもしれない。
「無理。ここだけの話っていって次の日には広まってる」
「会社の奴じゃなければ問題ないだろ。仕事帰りも、友だちと食べにいくとか買い物とかしたいんなら、遠慮しないでそうすればいい。おれの都合に付き合わせてきたけど、もうここに帰るのも住むのも慣れただろ。帰りが遅いと家でゆっくりもできないだろうし」
南奈は目を見開いた。
結婚した日はともかく、翌日から毎日、例えば『今日は八時に終わる』など旭人が帰る時間を知らせてくる。その文面から、待っていろということなのだと解釈して、南奈は待ち合わせ場所をその時々の状況によって変えつつ、一緒に帰るのが日課になっていた。
特に意味のあることとは思っていなかったが、旭人には加納家の生活になじみやすいようにという意図があったらしい。そうしてくれることに南奈がほっとしていたことは事実で、ずうずうしく振る舞うのはポーズだとばれているのかもしれない。いや、挨拶に近い会話さえ成り立っていなかった頃の南奈を知っているのだから、旭人はすっかり承知に違いなく、旭人のまえで南奈ががんばってみせる必要はないのかもしれなかった。
南奈は笑みを浮かべて旭人の首もとに手を伸ばした。
「そんなことない。わたしのこと、どう見てるか知らないけど、人と親しくするのって苦手なの。カフェで絵本見るのは気に入ってる。カレがいたことないし、待ち合わせっていうのも気に入ってる」
ジャケットを着たときだろう、ほんの少し位置がずれているネクタイを正しながら云うと、旭人はため息をついた。可笑しそうにしながら も何か別の感情が見えなくもない。
「絵本、好きだな」
もう一つの花嫁道具、絵本は、旭人の書棚の横に新しくチェストを買ってその上に並べている。南奈がネクタイから手を放すと、旭人はそこをちらりと見やった。
「入院してたとき旭人と会って、それがきっかけ。憶えてる?」
旭人の表情は、からかうような様から凪(な)いだ風のように静かな気配に 変わっていく。そうして、ためらうように一拍置いてから旭人はうなずいた。
「ああ、憶えてる」
「また、読んでほしい?」
「人をわくわくさせるより眠らせるくせに、先生を気取りたいらしいな」
「読んでって云ったのは旭人!」
「それでその気になったんだろ。南奈の扱いでおれの右に出る者はいない」
旭人は口を歪めて余裕を見せつけた。
南奈からすると、扱いという言葉には納得がいきかねる。
「じゃあさきに行く。気をつけろよ」
旭人の常套句が飛びだした。母も送りだすときは気をつけてと云うが、南奈は美紀の子供ではあっても旭人の子供ではない。特別な外出ならともかく、普通に通勤だ。云い返したくなるけれど、何気なく云っているとしたらいちいち文句をつける南奈は自ら子供っぽさを自認せざるを得なくなる。
旭人は背中を向けた。返事を待たずしてそうするのは南奈に大した関心がないふうにも見える。癪に障る。南奈は旭人の正面にまわりこんだ。ボタンを外したままのジャケットをつかむと左側をはだけた。
「南奈……」
左の胸ポケットの隅にくちびるをつけた。無理やり引き離されるまえに南奈は自分から離れる。あとには塗りこめたばかりのチェリーピンク色がくちびるの形をして残っていた。
「旭人は噂になっても平気みたいだから。ジャケット脱がなければわからない」
「見つかったらおれの相手のことまで噂になる。それくらい判断つくだろ。ばれたくないとか、親しくするのが苦手とか、云ってることとやることが矛盾してる」
さっと南奈の腕をつかんだ旭人は、右手首の内側にくちびるをつけた。甘咬みしながら吸いつき、ぴりっとした痛みを南奈に与えた。
「油断してたら見られる。これがなんの痕か、見極めるのは見た奴次第だな」
旭人は無責任に放ち、警告するように首をひねってからドアに向かった。
手首にはすでに赤い点々が浮かんでいる。仕返しよりは先回りされた感があって、けれど怒るよりは予測不能なことがあっても動じない旭人に安心感も覚えた。
「いってらっしゃい」
ドアノブに手がかかるのを見て急いで声をかけると、旭人は南奈を振り向く。少し視線を留めたあと、何も云わなければなんのしぐさもないまま旭人は出ていった。
人のことをちゃんと考えているくせに、たまに素っ気ないふりをして距離を感じさせる。矛盾しているのはきっと南奈だけではない。
『今日、大丈夫だよね? 時間、遅れるときは連絡するよ』
そんなメッセージが届いたのは昼休みだ。
美穂は南奈が避けたがっているのを見越しているのかもしれない。そのとおり、先週と要求した美穂に逆らい、一週間、食事に行くのは引き延ばした。
絵本を見る気が失せてしまう。だれにも宣言しているとおり絵本は好きだが、会社で開くのは口実にすぎない。旭人に云ったように、人と親しくなるのは苦手で、表面上仲良くするという付き合いも苦痛でたまらない。
つまり、加納家に連れてくるような友だちなんて南奈にはいないし、いらない。
いらない、と思うようになったきっかけは美穂だ。
高校二年生になろうかという春休み、隣県に住む美穂が南奈の家に遊びにきた。
慶永大学病院を退院しても友だち付き合いは続いて、春と夏と冬と、長期休みに入るたびに互いの家を行き来して一泊するのは恒例になっていた。
旭人はその春、『どうにもならなくなったら』と渡されたメモに書いてあった業平商事に就職していた。
いまのように、どうにもならなくなった事情なんて、その頃も南奈にはなかった。
*
「南奈、まだ飾ってるんだね」
ベッドにふたりで転がると、うつぶせになった美穂はベッドヘッドの棚に置いた写真立てを指差した。
そこには、ベッドに座った南奈と、ベッドサイドで折り畳み椅子に座った旭人が写っている。南奈はいかにもおずおずといった笑みを浮かべ、旭人はうんざりして見える。美穂が南奈の携帯電話で撮った写真だ。お返しに、南奈は美穂の携帯電話で美穂と旭人の写真を撮った。
「うん」
「南奈の初恋だもんね。旭人くん、どうしてるんだろう」
「大学卒業して、きっと業平不動産てところで働き始めてる」
禁じられたことも旭人が大学を卒業したいま、もう時効だろう、そう思って話すと、美穂は飛び起きた。
「もしかしてずっと会ってるの? っていうか付き合ってる!?」
仰向けで横たわった南奈を見下ろしながら、美穂は責め立てるように問いかけた。南奈もまた美穂の質問が突飛すぎて驚いた。
「会ってないし、付き合ってもない。二年半後にはその会社にいるから何かあったら来ていいって云われてるだけ」
美穂はしばらく考えこんでいた。
「二年半後にその会社にいるってどうして断言できるのかな。就職ってそんなに早くから決まんないでしょ。からかわれたんじゃない?」
嘘などと思ったこともなかった南奈は、美穂の言葉に ちょっとしたショックを受けた。
「そんなことない」
旭人はわざわざ名前を書いたメモをくれたのだ。からかうのにそこまでする必要はない。
即座に打ち消した南奈に驚いたのか、美穂はすまなそうに顔のまえで手を合わせた。
「ごめーん。会社名、なんて云った?」
美穂は枕もとに置いた自分の携帯電話を取って操作しだす。
「……業平不動産」
字は? と訊ねる美穂に説明すると検索したらしく、あった、とすぐつぶやいた。
南奈はびくびくした気分で美穂を見守った。
「わぁ、なるほどねー」
「美穂?」
「旭人くん、加納旭人だったよね」
南奈がうなずくと、「たぶん、この会社の会長さんの子供……じゃなくって孫じゃない? おんなじ名字だよ」と美穂は驚くようなことを口にした。
「海外とかにも支店があるおっきな会社だよ。おじいちゃんの会社だから就職先もとっくに決まるんだね」
南奈が考えもしなかったことを美穂はすぐに思いつく。
「美穂ってすごいね」
ただ感心して云うと、美穂は奇妙な表情を浮かべた。
「すごいのは旭人くんでしょ。会いにいくの?」
「迷ってるかも。会ってみたいよ。でも……」
「でも、憶えてるかな、でしょ。ボランティアでたくさんの子たちを相手にしてたわけだし、憶えてないよね。よっぽど印象に残らないと」
南奈のためらいは美穂が引き継いだ。しかも、南奈の急所をつく。
旭人が憶えているのか、もしかしたらメモを渡したことすら忘れている、そんな不安は時間がたつにつれて大きくなっていた。
挨拶さえまともにできない引っこみ思案の南奈がだれかの記憶に残るなんて、そんな自信はない。
「そうだよね」
心もとなさを笑ってごまかすと、「南奈」と美穂は深刻そうな面持ちで呼んだ。南奈はなんとなく身構え、無言で促した。
「南奈はあれからずっと病院に通ってるんだよね?」
「うん」
「南奈の病気って再発の可能性あるって知ってる?」
「……だからそうならないように病院に行ってるんだと思う」
「でも、百パーセント予防できるってわけでもないでしょ」
「……わかってる」
「わたし、退院してから南奈の病気、調べてみたの。卵巣が片方しかないと、妊娠する確率が普通よりも低くなることもあるんだって。再発して取るってことになったらおしまいだし。南奈、自分のことなんだから、ちゃんと調べて知っておいたほうがいいよ」
美穂が好奇心旺盛でなんでも知りたがることは南奈も承知している。
ただ、美穂がいま南奈に向けた言葉は、単に教えようとしただけなのか、ほかに云いたいことがあるのか、その二つから選ぶなら南奈は後者だと思った。
旭人の話から病気の話に変わったのではなく、二つのことは繋がっている。
そこまではすぐに判断がついたが、南奈が結果を導きだすのには春休み中かかった。
簡潔に云えば、南奈は旭人にふさわしくなかった。
例えば、旭人が一般家庭の人だったらもう少し希望を持てたかもしれないが、高校生の南奈には想像もできないくらい、住む世界がまったく違っていた。
そのうえで、南奈は欠陥を持っているのだから旭人に見合うはずがない。
そう美穂は云いたかったのだ。
*
携帯電話を壊しても美穂と連絡が取れないことはない。けれど、美穂からコンタクトを取ってくることはなく、それは南奈が思っているとおり、故意に美穂が傷つけようとした証拠だと感じた。
なんのために美穂がそうしたのか真意はわからない。
苦手、といまはそんな控えめな気持ちになったけれど、あの直後は、美穂のことを大嫌いになった。二度と会いたくない。はじめてそういう感情を覚えた。
ただ、美穂の云ったことは出任せじゃない。南奈は無知で、彼女が云ったように自分のことなのだからちゃんと知るべきことだった。
病気が判明したとき中学生だった南奈に、子供を持てるか持てないかということがそれほど重要で不安になることか、矢も盾もたまらず美紀に訊ねてしまったことは自分でも不思議だったけれど、あのとき、南奈は本能的にこの結婚失格者だという答えを知っていたのだ。旭人を好きになりかけていたから。
メモは破り捨ててしまった。それなのに脳裡に染みついて離れない。業平不動産に来て、“ボランティアの加納さん”が加納旭人であるという根拠は、大学時代と変わらない字にあった。