ミスターマシーンは恋にかしずく

第3章 トライアル&エラー〜結婚はアイの始まり〜

3.遠回りの恋

 今日は十時からリサーチのため社外に出る予定のはずが、小泉が緊急の会議に入り、急きょ午後からに変わった。いくつかの訪問先に謝罪と時間変更を申し出て無事に了承が得られると、内外問わず電話業務もまだどきどきするだけに南奈はほっとした。
 正午をすぎ、仕事の区切りがついて、南奈はいつでも外出できるようにデスクを片づけた。小泉はまだ戻っていない。
「お昼行ってきます」
「いってらっしゃい」
 三沢の返事が聞こえるや否や、南奈は急いでオフィスを出た。

 エレベーターホールに向かい――
「塚田さん、待ってください!」
 と塚田を追う。
 先週、同じように追いかけた旭人と違って、塚田はエレベーターのなかから顔を覗かせた。
「ありがとうございます!」
 お昼時、なかは満杯に近い。南奈が乗りこむとエレベーターは静かに降下し始めた。
「どういたしまして」
「お昼、一緒にいいですか」
「友だちと一緒だし、今日は社食だけど、それでいいならかまわないわよ」
「まったくオッケーです。わたし、社食ってはじめてなんですよ」
「あ、藤本さんていつもお弁当だったよね」
「そうなんです。移動する時間があったら本を眺めていたい感じです。今日は外食って思ってたから持ってこなかったんですよ」
「あーそういえば、絵本が好きなんだっけ」
「そうです。子供っぽいですけど」
「大人でも好きな人は意外に多いんじゃない? わたしの友だちにも、読めない外国語だろうが、収集してる人がいるから」
「それ、わかります。わたしも一緒です!」
 収集家は塚田ではないにもかかわらず、同士に会った気分で喜び勇むと、塚田は小さく吹きだした。
 エレベーターが二階に到着して扉が開く。
「藤本さん、ほんとにめずらしい人だよね」
「すみません。マナー違反ですよね、たぶん」
「べつに秘密にする会話でもないし、かえって息づまりそうな空気が通ってすっきりする。乗り合わせた人はだれもそうじゃない? 水中にでも潜ってるみたいにみんな呼吸止めてそうだもの」
 塚田は可笑しそうにしながら南奈の傍若無人ぶりを後押しした。
「がんばります」
 調子に乗った南奈の返事に塚田は声をあげて笑った。

 社員食堂は一階からの吹き抜け部分を除き、二階のほとんどを占めている。業平ビルの向かいにある公園を見下ろせる場所はすでにいっぱいだ。そんな特等席を取るには、さきに来ていた塚田の友人たちも間に合わなかったらしい。入るなり、その三人は真ん中のほうから手招きした。南奈は塚田に習って好きなものを選び、社員証で精算してから合流した。
 彼女たちは同じ業平グループに勤めていて、不動産が一人、商事が二人という組み合わせだった。
 挨拶を交わすなり――
「この子が噂の藤本さんなんだぁ」
 と珍獣を眺めるみたいなじろじろとした眼差しが南奈に向けられた。

「噂って、塚田さん、わたしのことなんて云ってるんですか?」
「んーそれはいろいろと。飲み会で主任と消えちゃった話とか」
 と、『いろいろ』どころか、塚田はずばりと――南奈にとっては、要点をお喋りしていたらしい。
 それが、一週間まえの旭人との関係だったら――つまり、上司と部下というだけの立場だったらむしろ、あることないこと冗談として乗ったかもしれない。けれど、現実は結婚してしまったのだ。
 打ち明ければスキャンダルじみた大事になるに違いなく、南奈はまだ公にすることをためらっている。
「ミスターマシーンと何かあるわけないじゃないですか」
「惜しいよねぇ。部署が離れなければ、そのミスターマシーンもシステムエラーに持ちこめたかもしれないのに」
「塚田さん、わたしをおもちゃにしてません? 後輩を苛めるなんてひどいです」
「可愛がってる、の間違い」
 くすくす笑いが広がる。
 業平グループは昇進競争が激しいわりに、交流が盛んで社員同士の仲は概ねアットホーム的だ。商事の二人はグループに入社してからの友人だという、塚田の紹介がそれを証明している。
 おかげで、先輩たちばかりだというのに南奈は居心地がいい。

 けれど、南奈はまるっきり油断していた。
「あ、もしかして南奈?」
 その声を聞いた瞬間に、自分が結婚の公表をためらう理由が明確になった。

 この社員食堂は、業平ビル入居会社のためではなく業平グループ社員専用だ。
 あのときの会話に出てきた『商事』がほかのどこでもない業平商事である可能性は充分にあった。この半年、鉢合わせしなくてすんでいたのはささやかな幸運にすぎなかったかもしれない。
 南奈は視線を上げていって、塚田のわずか後ろにいる彼女を見上げた。
 知り合った頃も、最後に会った高校二年生の頃も、川田美穂は南奈と同じでだれもが目に留めるという美人ぶりには欠けていた。
 六年たって見る美穂は、おそらくすれ違うだけなら南奈は気づかない。それほど、じっくり見れば面影はあっても、化粧のせいか大人になったせいか、きれいになっていた。
 南奈にしろ変わったつもりでいたが、実際はすぐ見当がつけられるほど大した変化はないのかもしれない。

「美穂、久しぶりだね」
「ホント! 急に連絡が取れなくなるからどうしたのかと思ってたんだよ」
 南奈は、もしかしたら死んだと思っていた? と、訊ねたい衝動に駆られた。そうしても、美穂のことだ、軽くかわすだろうし、結果、自分の負けにしかならないと云い聞かせて抑えた。
「ケータイ、水のなかに落ちてデータが全部飛んじゃったの。母の名義だったし、ちょうど切り替え時でわたし名義で新しくしたから番号変わっただけ」
 そう取り繕ったものの、美穂はそれが本当だとは思っていなくて、少なくとも南奈の真意は見抜いているに違いない。
 携帯電話は確かに水のなかで壊れた。ただし、落ちるという不可抗力ではなく、南奈は故意に落としたのだ。
「そうだったんだ」
 美穂は、表面上は南奈の云い分を信じたようだ。
 そして、ふとテーブルの面々を見回した美穂は「同僚?」と南奈に問いながらも返事を待たずして、「こんにちは、お疲れさまです」と塚田たちに声をかけた。
 その後、何か続けて云うかとハラハラしたが、美穂はまた南奈に視線を戻した。
「南奈、ここにいるってことは業平グループに就職したってことでしょ。どこ? 商事だったら研修で会うはずだし、だからそうじゃないんだよね?」
「うん。不動産にいる」
「へぇ、そうなんだ」
 南奈が業平不動産に勤めていると知ったところで美穂は特別な反応は見せず、それどころか南奈がどこにいようが無関心な様子で相づちを打つ。
「あ、赤外線できる? 番号とメルアド教えてほしいんだけど」
 美穂はテーブルに置いた携帯電話を指差した。
 南奈は、たった数十分、食堂に来るだけのことに携帯電話を持ってきた自分を呪う。今日も一緒に帰れるのか、旭人から連絡があるかもしれないと思ったのだ。
「できるよ」
「じゃあ、交換しよ」
 南奈はため息を押し殺して携帯電話を取りあげた。操作していると――
「あれ、南奈」
 と、美穂が驚いたような声音で呼びかけた。
「何?」
「可愛い指輪してる」
 南奈はやはり油断している。
 結婚は秘密にしても、旭人がはじめてプレゼントをしてくれたエンゲージリングは身につけておきたいと思った。
 美穂は目ざとく、その右手の薬指を飾るリングに気づいてしまった。

「あー……これ? これは……」
 どう云い訳をしようか南奈が引き延ばしていると――
「もしかして、このまえ一緒にいた人からもらったの?」
 美穂は南奈をさえぎった。
 このまえ……?
 美穂の発言は南奈をどきりとさせた。それはそのまま顔に出たらしく、美穂は心得顔でにっこりとうなずく。
 その笑顔は見せかけに思えなくて、それは逆に、南奈のなかに怪訝さを生む。美穂にとって旭人のことはなんでもなかったのだろうか。もしかしたら、南奈が勝手に傷ついただけで美穂には少しも悪意はなく、ただ事実を教えたにすぎないのかもしれない。
「あのときは見間違いかと思って声かけなかったけど」
 と美穂が云っている途中で、同僚なのだろう、美穂、と遠くから呼ぶ声がした。美穂はいったん声がしたほうを向いてからまた南奈に戻る。
「旭人くんもいたし。南奈ったらホントに追いかけるくらい、旭人くんのことお兄ちゃんだって慕ってたんだね」
「え……」
「今度、ゆっくり話したいね。連絡するよ。じゃあ」
 美穂は一方的に云い、南奈の返事を待たずして同僚たちのほうへ立ち去った。

 美穂を勝手に悪者にした後悔と、美穂は旭人にこだわっているわけではないという安堵は、南奈のなかから一瞬にして消えた。
 南奈はてっきりエレベーターホールで結局は目撃されていたのだと思っていたが、美穂は『このまえ』とか『あのとき』とか曖昧に云うだけで、けっして“昨日”とは云っていない。昨日のことなら昨日と云えばすむことだ。
 つまり、美穂が云う『一緒にいた人』と旭人は別人だ。いつのことでだれのことだろう。その答えが出ないうちに塚田に覗きこまれて、南奈の思考は中断された。

「昔の友だち? なんだか、藤本さんぽい人ね。怖いもの知らずって感じ」
「ずうずうしいって云いたいんですよね」
 わざと拗ねたふりをすると、塚田は目をくるりとさせた。
「そう表現するなら、彼女、藤本さんより上手(うわて)よ。藤本さんはちゃんと人の話聞いてるけど、あの子は一人喋ってる感じ。その証拠に藤本さんはいつもの雄弁さが出てなくて、らしくなかった」
「美穂のこと、苦手なんですよ」
 正直に云うと、塚田は、わかるわと云いたげな様子で二度うなずいた。
「彼女、仕事の覚えはいいらしいけど、まだ一年生なのに社内合コンにも積極的に参加してるって話。旦那さまでも探しに就職したんじゃないかって、彼女と同じ経理課の子が云ってたわね」
 塚田の友人が肩をそびやかして云ったことは、昨日、美穂とその同僚たちの会話と符合する。
「商事はそういう子、けっこういそうだけど?」
「まあね。結婚というビジョンが将来にある人なら、あわよくばって気持ちはだれだって持っていると思う」
「大企業になればなるほど忙しくて出会いの機会ってないし、男の人は特にわりと身近なところで早めに結婚すませちゃう人多い。だから、そんな会社に勤めるってだけで有利かもね」
「千絵、不動産には独身御曹司が残ってる――」
「あ、藤本さん」
 塚田は、何か思い当たったような面持ちで同僚が云いかけたのをさえぎった。
「なんですか」
「彼女、『旭人くん』て云ってたよね。もしかして、加納課長代理のこと? ふたりともずっとまえから代理とは知り合いなの?」
「まあ、そんなところです」
「あー、それで代理、ほっとけないってところがあるんだ」
「そうですか?」
「そうそう。いま思えば最初からそんな感じ。藤本さんの挑発にはよく乗ってるし、金曜日は南奈ちゃんに絡んだ小泉主任をけん制してたじゃない? うちの部署、新人女子ははじめてだから神経使ってるのかと思ってたけど、お兄ちゃんぶりを発揮してたわけだ」

 南奈自身からはそんなふうに見えたことはないけれど、それなら旭人は最初からわかっていて知らないふりをしていただけなのだろうか。
 結婚したいまとなっては憶えているか否かは些細なことだが、夫婦になったからこそ、期待するなと云った旭人の心底にはなんらかの期待できる気持ちがあるように思えて、塚田が云ったことは南奈を力づけた。

「ってことは、不動産の独身御曹司(ベストバチェラー)をオトせるのは藤本さんがいちばん有利ってことなんじゃない?」
「だけど、藤本さんにはカレシいるって」
 南奈は右手を指差しされた。
 あたりまえだが、ここでも旭人とカレシは同一人物ではない。カレシ以上に南奈の夫であるわけで、べつに落としたわけではないが、旭人と結婚に至っていることを考えると、そう云わない自分がずるく感じて、南奈は後ろめたさを覚える。
「あ、これはカレシからもらったわけじゃなくて……」
 云いかけているうちに塚田が「見せて」と南奈の右手を取った。
「光り物、けっこうわたし好きなのよね。反対側だから気づかなかったけど。まえからしてたっけ?」
 塚田は問いかけながらまじまじとリングに見入った。その間に塚田の同僚が南奈の発言を逃さず喰いついてくる。
「カレシからもらったんじゃなくて何?」
「夏の初ボーナス記念に買ったんですよ」
「カットも配色も可愛いよね、これ。どこで買ったの?」
 塚田に答えて店の名を出すと、知っていたらしく「へえ」と彼女はやたら感心した様で相づちを打った。それから南奈の手を放すと、塚田は友人たちに向かう。
「藤本さんはヴァージンでカレシ歴なしらしいよ」

 あの店には値段の表示が一切なく、旭人に買ってもらったものだから、続けていくらかと値段を訊かれずにすんだことにほっとした。ただし、南奈はまたよけいなことを曝露された。
「塚田さん、恥ずかしいじゃないですか」
「自分で堂々と宣言してたじゃない」
 そう云われるとぐうの音も出ない。ましてや、ヴァージンを卒業した南奈が肯定するのもおかしければ、正直に否定するにも追及されるに違いなく面倒なことになる。南奈はただ塚田を恨めしそうに眺めた。
「じゃあ、さっきの子、勘違いしてるんだ」
「あー、べつに勘違いしてもらっててもかまわないんです」
「藤本さん、ということは、やっぱり玉の輿はいちばん有利よね。加納課長代理にカノジョの噂は聞かないし、だから狙ってる子よけいに多いんだよ。がんばってね」
「あの子に取られないようにね」
 南奈からすればちぐはぐな激励を受け、笑って応じつつも、あとを継いだ言葉のほうは激励よりも警告に感じて憂うつが俄(にわか)に忍び寄った。

「塚田さん、お昼、一緒に加えてもらってありがとうございました」
 三十五階のエレベーターホールを出ながら南奈はお礼を伝えた。
「お礼云われるほどのことじゃないけど、どういたしまして」
「塚田さん、ついでに訊きたいことがあるんですけど」
 オフィスに向かっていた塚田は足を止めた。
「何を?」
「あ……の……」
 思わず“旭人”と云いそうになって南奈はごまかす。もう慣れてしまっているなんて、自分でもびっくりする。
「三沢補佐と加納課長代理ってどういう関係なんですか」
 気にかかっていたことを口にすると、南奈は少し清々する。
 一方で塚田は目を丸くして南奈を見つめた。
「どういう関係って普通に上司と部下でしょ。まさか、何かあると思ってる?」
「あ、いえ。なんとなくどうかなって思ってただけで」
「その線は心配しなくていいと思うけど」
 塚田はなるほどと納得したような、なお且つからかうような表情を浮かべる。
「そろそろ藤本さんも本気になったわけだ。応援してるから。お似合いだと思う」

 どの線を心配しなければならないのか、その見当をつける傍ら、好奇心の代償として塚田にはアンテナが立った模様で、南奈は密かにため息をついた。
 いや、自分がした質問を単なる好奇心と片づけるには、いくらなんでも鈍感すぎる。旭人と三沢との関係が気になるのは、微々たるものでも嫉妬という感情のせいにほかならない。
 中高生時代、平凡という外見が共通していたなかで、南奈と美穂の違いは、美穂のほうがずっと考えがしっかりしていたし、ずっと自己主張が強くて、そして頭がいいところだ。その頭の良さに、南奈が最初に夢見た恋は資格なしとこてんぱんに挫かれた。
 ごく普通に始まった二度めの恋は、再びアプローチもできないまま終わって、恋愛失格者だと駄目出しされた気がしていた。
 それなのに、旭人と再び会って、気づかないうちに、遠回りして恋は繋がっている。
 何がどうなってこうなったのか、いまのふたりは恋愛関係を飛び越えてもっとも近いところにいた。

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