ミスターマシーンは恋にかしずく

第3章 トライアル&エラー〜結婚はアイの始まり〜

2.have in common

 帰りの待ち合わせは旭人から云いだしたことで、結婚初日だから帰り道を案内するためかと南奈は思っていたが、旭人は会社を出るとまっすぐ駅には向かわなかった。
 しばらく歩いて、何かと高級店の並ぶ通りに入り、照明を受けてきらきらと光を放つジュエリー店に南奈を促した。目的は明々白々だった。
 日曜日には、洋服や身のまわりのものだけという、ちょっとした引っ越しをして、夕食会をして、昨日の月曜日は仕事で、何をする間もなかった。いや、結婚するからといって、披露宴は後回し、新居でもなく親との同居で生活品をそろえる必要はないから、拍子抜けするくらい特別なことはない。
 朝、婚姻届というイベントを終えたときは、じわりとうれしさが込みあげるような、南奈ははじめての気持ちを経験した。すぐ会社に行ったから、残念ながら持続せずつかの間の感覚で、がっかりしながら現実に戻ったのだ。

 けれど、またその気持ちが南奈に甦った。ブライダルリングを選ぶという大事なイベントが残っていたとは思わなくて、マシーンのなかにはどれだけ計算し尽くした情報が詰まっているのか、南奈は内心で旭人の満点を一個増やした。
 価格表示がないということはかなり高いのだと途中で気づいたのだが、そんなジュエリー群にためらうことなく、気に入ったものをいくつか選びだしている間、旭人は夢中になっている南奈を見てからかうような気配を醸しだしていた。あまりに迷っているから、結局は、それぞれのデザインのお気に入り部分を纏め合わせたオリジナルをおそろいでオーダーした。
 それから加納家に帰ると、新しい家族とお祝いの乾杯をして、ふたりきりで夕食という演出に合う。レストランに負けず劣らずのちゃんとしたコースが用意されていて、加納家のお洒落なダイニングがロマンティックな雰囲気を味わわせてくれた。

 ところが、いざふたりになると、思いのほか南奈は話題を探すのに苦戦を強いられた。
 唯一、会話が続いたのは“スーツにチョコ”の話だ。経過を聞かされても南奈は思いだせない。記憶がないという軽率さが情けないような、どんな発言にしろ旭人の一言一句をわずかでも忘れたことに嘆きたいような気持ちになった。
 食事をすませ、入浴をすませ、実家から持ってきた唯一の家具、ドレッサーのまえで肌の手入れをしていると、いきなり旭人が入ってきた。いや、旭人の部屋だからいきなりも何もない。南奈が二階のバスルームを使っているうちに、旭人は下のバスルームを使っていたらしい。パジャマ姿だ。
 話題探しに苦労したのは、旭人がもともとお喋りじゃないせいだと、南奈はそう思っていたけれど、いま苦戦した本当の理由が自分の落ち着きのなさのせいだと判明した。少しでもつつかれれば、てんとう虫みたいに死んだふりができるくらい、心臓はどきどきするどころか止まってしまいそうだ。

「女はたいへんだな」
 ちらりと南奈を見て、旭人は戸惑いも見せずに揶揄した。ベッドを挟んでドレッサーとは反対側の壁につけたデスクに向かう。
 土曜日と変わらないのは旭人だけで、南奈だけが緊張している。これから起きることは、土曜日のようにただ一緒に眠ることじゃない。そう思うと、いてもたってもいられないほどそわそわする。
「いつまでもきれいでいたいと思えば全然苦痛じゃないですよ。わたしは美人じゃないし、だからせめてお肌だけはきれいにしてたいの」
 旭人はダレスバッグを探っていた手を止めた。
「南奈」
「なんですか」
「おまえ、妙に自己卑下してるところがある。そういうのは嫌いだ」
 南奈は目を丸くして、それからむっと口を尖らせた。そんな辛らつな言葉とか云い方じゃなくてもいいはずだ。
「新婚初日に嫌いとかサイテーです。指輪のこと、満点あげたけどプラスマイナスゼロだから!」
 どうとでも云え。そんな雰囲気を放ちながら旭人は、ソファ、そしてベッドを横切って南奈に近づいてきた。
 旭人は手のなかのものをベッドに放ったかと思うと、それが何かを突きとめる間もなく傍に来て、椅子に座った姿勢そのままで南奈をすくいあげた。

「旭人!」
「ナーバスなのもたまには静かでいいけど」
 と、旭人は南奈の動揺を見透かしていたようで、続けた言葉は――
「いまはいつものように図太くいてもらったほうがいい。ただでさえ、ヴァージンってことに気を遣うんだ。そのうえ、なだめなきゃいけないんなら面倒くさい」
 と云いたい放題だ。
 ひどい、と南奈がたったひと言で抗議をしているうちにすぐ近くにあるベッドに運ばれておろされた。扱いが少し乱暴で躰が跳ねる。
「ついでに、恥ずかしいとかいう生産性のない感情も不要だ。むしろ、淫乱なほうが楽しめる」
「楽しめる、ってなんだか違いませんか」
 起きあがろうとしていた南奈は、ベッドに上がってきた旭人のせいでバランスを崩した。旭人が手を引っ張って南奈が躰を起こすのを手伝う。
「セックスを美化するのは未経験な女にありがちな幻想だ。ただ怖がってるよりマシだけどな。相性がいいかどうか、セックスの問題はそこだ。本能に従えばいい」
「……遊び人みたいな云い方」
 上目遣いで旭人を見上げ、南奈は一瞬だけ躊躇したあと云ってみた。皮肉っぽい笑みが返ってくる。
「大学時代にそう云われたら否定しない」

 女性にのめったことがないと云ったからには、セックスは旭人にとってただ躰の付き合いということに違いなく。いまも南奈を好きではなく気に入っているという段階で――もとい、これまでも相手を気に入ったからセックスに及んだはずで、ということは、これまでの女性たちと南奈はなんらかわらないのだ。
 旭人はなんのために南奈と結婚までしたのだろう。
 だれかの手に鼓動を囚われて自分の命はもうその意志にゆだねるしかない。そんなふうに心もとなくなった。
 南奈は心細さを隠して恨みがましく旭人を見つめた。

「相性が悪かったらどうするんですか」
「キスがよくてセックスが悪いはずはない」
 人の気を知らない、自信たっぷりな断言は癪に障る。
「わたしははじめてだし、淫乱になれるかどうかは旭人次第だから!」
 挑戦状を叩きつけたつもりが。
「煽ってくれるな。南奈は男を誑(たぶら)かす。俄然やる気出た」
 南奈がおののくくらい旭人は薄気味悪い笑い方をして、果たし状を叩きつけられた。
 旭人の手が伸びてきて南奈のパジャマのボタンを外しにかかる。パジャマの下に手が入りこんで肩から腕へと滑るようにしながらパジャマを剥いだ。そして、キャミソールの下に旭人の両手が潜ってくる。ブラジャーは身につけていない。ふくらみが両側ともくるまれた。それだけで南奈は反射的にぷるっと身ぶるいをする。大きく目を見開いた。
「すっぴんはまだ高校生でも通りそうなくせに、胸だけは成長してる。おれの手にしっくりくるサイズだ」
「お……おじさんみたいな云い方」
 南奈のどきどきは触れている場所が場所なだけにきっと筒抜けだ。がんばってどうにか云い返すと旭人は含み笑う。
「南奈がヴァージンだからな、今日だけはそんな気分かもしれない。がまんするなよ、感じることも不快なことも。学習する」
「学習なんて、やっぱり、旭人はマシーンみたい」
「むしろ、おれがマシーンでいられるよう南奈は祈っていたほうがいいかもな」
 云い放ち、旭人は頭を傾けて南奈のくちびるをふさいだ。

 旭人の舌は無遠慮に南奈のくちびるを裂いた。同時に、手のひらが緩く胸を搾るように動いて南奈は呻いた。反動で開いた歯の間からすかさず舌が侵入した。確かめるようなしぐさで口のなかを這いだす。
 歯磨き粉のミント風味だったキスはだんだんと甘ったるく変わっていく。なんの甘さだろう。疑問が味覚の追求心を刺激して、無意識で南奈は旭人の舌に吸いつく。旭人はくぐもった声を漏らし、顔を上げた。

「上等だ」
 旭人は癇に障ったような声音で吐き、すぐさま報復に転じた。キャミソールを持ちあげて脱がされる。
「旭人っ」
 胸を隠す間もなく、旭人の手のひらが覆う。
「観念してろ」
 何が旭人を焚きつけることになったのか南奈はわからないまま、胸先が弾かれたその感覚に小さく悲鳴を漏らした。揺らしたり、胸先をつついたり、胸がそんな刺激に弱いとは思ってもいなかった。堪えられない声がこぼれるごとに吐息の熱は上昇していって、南奈の瞳を捕らえた旭人の顔がぼやけていく。
 熱は躰の中心でも発生していた。熱く疼くような、未知の感覚はもどかしさを生む。
「旭人……」
「さきに進んでほしい?」
 一見余裕のある発言も、声のトーンはイエスという返事を求めているように聞こえた。
「そうして」
「素質あるな」
 なんのことだか、旭人は吐息混じりで笑った。

 南奈の躰をベッドに寝かせたあと、旭人はパジャマのズボンに手をかけた。すると、ふっと理性が戻って南奈は旭人の手に手を重ねてそれ以上のことを制止させた。
「何? 羞恥心はいらない」
「そうじゃなくて……」
 旭人は南奈の手の下から自分の手を引き抜くと、上体を倒して肩の横に手をついた。
「だったらなんだ」
「傷……あるから」
「傷?」
 真上にある旭人の目が怪訝そうに狭まる。
「入院してたときの……手術した傷」
「ああ……」
 と、思い当たったような面持ちになった旭人は「なんの手術だ?」と続けた。
 結婚するということはセックスを伴い、裸を見せることになる。だから予想していた質問で答えも用意しているけれど、いざとなると南奈は嘘を吐くことに気が咎める。
「虫垂炎。破裂しそうになって」
 旭人は首を振った。重大事じゃないと云いたそうな素振りだ。
「傷なんて気にすることないだろ。おれにも傷ならある」
 上体を起こした旭人は、スウェットシャツをインナーシャツごと脱いだ。右肘を南奈の顔に近づける。焦点を合わせると、手首辺りから肘へと一本線の傷が斜めに走っていた。
「縫ったの? どうしたの?」
 旭人はつと目を逸らしたかと思うとすぐ南奈に戻して、口角を片方だけ上げるという、形だけの笑みを見せた。
「ガキだった頃、車と衝突しそうになった。避けたときに顔をかばって歩道の段差で擦った」
 それは南奈だったから気づいたかもしれない。旭人にはどこか嘘を感じた。嘘ではなく、あるいは隠し事を。
「傷痕でも共通点あるとうれしいみたいな気持ち」
「だから、ためらうことはない」
 旭人はそう云うと、南奈が油断している隙をついて、パジャマのズボンをショーツごと取り去った。

 春奈と大して変わらない躰はきっとどこもおかしくないはず。南奈はそう自分に云い聞かせて、隠すことはしなかった。
 そんな恥ずかしさの一方で、南奈は旭人の躰に見とれる。スーツの下の躰は、細身だと思っていた南奈の想像を裏切った。悪い意味じゃない。しなやかさと硬さを同時に備えているのが見るだけでわかり、均整も取れている。平面ではない、おうとつのバランスが絶妙だ。
 触れたいという気持ちが込みあげた瞬間、旭人はおへその下の傷痕に触れた。
 南奈は息を呑み、躰はすくんでおなかがへこむ。傷痕をなぞっていた指先はまもなく離れていった。
 旭人は傷痕に関して何も云わないまま、南奈の脚を開く。反射的に閉じかけたが、旭人のほうが素早く、南奈の膝をそれぞれに押し広げて旭人はその間におさまった。

「南奈の躰はエロティックだ。くちびるを見れば隠してる場所の色がわかるってはじめて気づいた。穢したくなるくらいきれいな桜色だ」
 うっとりとはいかないまでも、旭人はかすかに目を細めていて、声には悦楽が見えた。そんなふうに称賛を受けるとは少しも思っていなくて、南奈は驚く傍らでくちびるの色自慢がちょっとした誇らしさに変わった。
「旭人はいつも裸でいるべき。それくらい決まってる」
「見せ物になる気はない」
「わたしのまえだけでいいんですけど」
「裸でうろうろしろって? 南奈がそうするんなら付き合ってやってもいい。裸でいるのは嫌いじゃない」

 旭人は南奈の胸の谷間に手のひらを置いて鼓動を確かめる。それから伸しかかるように真上に来た旭人は、顔をおろして南奈のくちびるをふさいだ。
 吸いつくようにして離れ、次には首もとに顔をうずめる。脈拍が触れる辺りに舌が這う。血液が温められているようで、それが全身に行き渡ったのか躰が火照りだす。
 旭人がまた顔を上げたかと思うと。
 あっ。
 南奈の口から、驚きのせいばかりではない悲鳴が漏れる。また一つ、知らなかった感覚に襲われた。
 くちびると同じ、淡いピンク色をした胸の先が旭人の口に埋もれている。舌が巻きつくと、ひどく胸が熱くなる。さっきのキスみたいに吸いつかれると、躰がぴくぴくと跳ねる。
 躰の奥に焦れったさを募らせる。そんな触れ方に集中して、旭人のもう片方の手が躰の中心へと及ぶのに気づかなかった。
 突起に触れられたとたん、底なしの罠に嵌まったように感覚が沈んだ。
「旭――っ」
 呼吸はできず、躰はのけ反る。その時間が止まったような錯覚のあと。
 あ、んぁあああ――っ!
 呼吸が再開すると同時に悲鳴が飛びだして、躰はぴくぴくと何度も跳ねた。

「感度も云うことないな」
 南奈の胸を解放すると旭人は含み笑い、「イクってどうだった?」と問う。
 快楽はまるで次元の違う感覚だった。
「好きになりそう」
「余裕だ」
 その口調は責めるようで、なんだろうと目を開けるのとどちらが早かったのか、膝の裏を抱えられ、お尻が浮き、そして、躰の中心に旭人のくちびるが触れた。
「あ、旭人っだめ!」
 とっさに叫んだ言葉に旭人が応じるはずもなく、花片が咥えられた。そこはあり得ないくらい敏感になっていて、南奈の腰がひくつく。
 片方だけ膝が解放されたかと思うと、旭人の指が中心から体内へとくぐってきた。違和感と緊張感は拭えず、ただ、熱く濡れた舌がそれらを緩和していく。
 舌は花片を這い、つつくように突起に絡む。指は少しずつ襞を摩撫しながら奥へと進み、感度を鮮明にしていった。喘ぐような悲鳴は自分でもだんだんと切羽詰まっているように聞こえた。つつかれるたびにじんと痺れるような場所がある。
「また……きそうっ」
 はじめての経験 に、快楽に開いた躰を閉じる術は見つからない。訴えてもやはり旭人がやめる素振りはなく、最初よりも大きな波が襲ってきそうな気配で、南奈は少し怖さを覚える。
 過敏なほどふるえる突起を吸引され、指にウイークポイントを抉られた直後、南奈は再び弾けた。お尻も弾けるように揺れる。旭人は吸盤を引き剥がすように中心から離れていって、軽くさらに南奈の快楽を上昇させた。

「旭、人……もう、だめ……かも」
 しどけなくはだけた南奈の躰は旭人から見ても力尽きていた。
「これから、たぶん南奈は痛い目に遭う。ヘンに力が入ってないほうがいい」
 布の擦れる音に伴いベッドが揺れる。
「旭人……」
「ああ。避妊、してほしい?」
 南奈の伏せた目に、指の太さと比べものにならない旭人のモノが飛びこんできて、どきどきする一方で多少不安になって呼びかけたのだが、旭人は勘違いした。
「ううん……大丈夫。体調、整えるのにピル飲んでるから」
 ちゃんと配慮してくれることに信頼という安心を感じながら、嘘を吐く後ろめたさも覚える。
 ピルを飲んでいるのは事実だ。昨日まで。それは病気の予防のためであり、体調を整えていることには違いない。けれど、飲み続ければ奇蹟を望むことすらかなわない。
「旭人」
「なんだ」
「それ……入る?」
 旭人は力尽きたように笑う。
「男と女の性(セックス)はそうできている。少なくとも、永久に鼓動を止めるという意味で死に追いやることはない」
 いまの自分の状態を考えると、南奈がもう一回同じところまで上りつめたら、死ぬことにはならなくても気絶する怖れは否めない。
「わたしはもういいから、旭人がいいようにして」
 思わず口走ると、睨み返される。
「バカなことを云う。いいようにしたら南奈は痛みしか憶えられない。せっかく感度がいいってオマケがついたんだ。それを潰すなんてことはしない」
「でも、わたしだけいい思いばかりさせてもらうのは不公平な感じがするし」
「男がわかってないな。ともかく、今日、ダメージを被(こうむ)るのは南奈だ」

 お喋りは終わりだと云うかわりに旭人はかすめるようなキスをして、それから躰の中心を合わせた。
 何度かつつくようにしたあと、旭人は腰を押しつけてきた。抉じ開けられるような感触は想像していたとおりだ。痛みはなく、いっぱいにふさがれて窮屈だ。いや、窮屈なのは旭人のほうかもしれない。その証拠に、くぐもった呻き声がほんの少し旭人の口から漏れた。
「痛く、ない」
「まだ少しだけだ」
 旭人は唸るように云い、わずかに動きだす。南奈の躰から出そうになるぎりぎりのところまで下がると、もとの位置に戻る。その繰り返しのなか、浅い水のなかを歩くような音が立つ。南奈の快楽のしるしがそうさせているに違いなく、けれど、恥ずかしいよりもまた別の感覚に溺れ始めた。ぎゅうぎゅうにきついぶん、余すところなく神経を刺激された。旭人の律動に伴って南奈の口から嬌声が飛びだす。
 そのうち、律動は繰り返しではなく、だんだんと奥に近づいていることに気づいた。
「南奈」
 その呼びかけと同時に旭人が南奈のウエストをつかみ、そして、旭人は一気に中心を重ねた。
 その瞬間の痛みは引き裂かれるようで、痛みの度合いは雲泥の差だが九年まえのことが甦った。目をつむり息を詰め、あの日のように躰を縮めることはかなわず、その反動か、南奈の躰は反って全身が硬直した。

「南奈」
 なだめるように呼びながら旭人が身をかがめてくる間、そのせいで及ぶちょっとした動作にも痛覚は過剰反応をする。
「きついな」
 そう云って旭人が南奈のこめかみに手を添わせる。きついのは、旭人自身の感覚のことか、南奈を代弁してのことか。
 頬を繰り返し摩撫されていくうちに痛みは和らいでいく。
「旭人」
「大丈夫だ、死んでない」
 からかうような声とは裏腹に、頬に添う手からは気遣うような気配が窺える。
 手のひらから指先へと徐々に惜しむようなしぐさで離れると、旭人は身動きをして、また少し南奈の躰はこわばった。
 かさこそと紙の擦れるような音がする。南奈は薄らと目を開いていった。何事かと把握するまえに南奈は左手をすくわれた。
 何かが指先に触れたかと思うと薬指が拘束される。南奈は大きく目を見開いた。旭人が手を放すと、南奈は左手を顔の上に持ってくる。

 それは、今日ジュエリー店に入ってすぐひととおり見てまわったときに、南奈がほかよりも長い時間眺めていた指輪だ。旭人とおそろいにする結婚指輪には向かないリングだったから、すっかりあきらめていた。小さく花の形にカットされたダイヤモンドが一周ぐるりと並んでいる。無色にピンクとグリーンが混じって、ゴージャス以上にキュートだ。
「旭人……?」
「エンゲージのかわりだ。気に入ってたみたいだから」
「婚約っていえるのはたったの三日なのに」
「時間の長さは関係ない。それより、痛いのが飛んだだろ」
 そのとおり、南奈は痛みを忘れていた。エンゲージリングが脳内麻薬(エンドルフィン)の役割を果たして、痛覚は多幸感に打ち消されたらしい。
「うん。ありがとう、旭人」
 旭人は問うように、もしくは案じるように首をひねった。
「いいか?」
「うん、大丈夫。早く旭人に慣れたいから!」
 旭人は鼻先で笑い――
「なら、遠慮なくやる」
 と、南奈の左手と自分の右手を絡めてベッドに押しつけ、左手を南奈の脇について自分の上体を支えると、最奥での律動を始めた。

 ん、くっ。
 鈍痛はあって、南奈は呻く。そんな南奈に合わせるように、遠慮なくと云ったにもかかわらず、旭人はゆったりとリズムを刻む。きつくてもぎしぎしした違和感はない。
 痺れるような感覚が混じってやがて、鈍痛さえもなくなると、南奈は旭人を見る余裕が出てくる。その顔は、何かを耐えているようにきつそうで、眉間にしわを寄せていた。
 それがどういうことか、初体験でもわかる。南奈は旭人の左腕をつかんだ。
「もう平気。旭人の形を感じてる」
 南奈は目を閉じて、実証するように躰の奥で旭人の形を確かめる。
「何、やって、る」
 苦し紛れに吐いているようで、「行くぞ」と放つと、旭人はこれまでよりもいっそう強く自分を南奈に刻んでいく。
 抉(えぐ)るような動きに喘ぎながら、旭人のものが質量を増していくのを感じた。
 左手がきつく握りしめられ、旭人が呻いた直後、南奈は最奥にくすぐるような熱を浴びる。

 力尽きた旭人が南奈の躰を覆う。
「なんでだ」
 そんな言葉が耳もとに響いた。

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