ミスターマシーンは恋にかしずく

第3章 トライアル&エラー〜結婚はアイの始まり〜

1.テンパり日和

 残業時間帯に入ると社内は電話の量も減って、概ね黙々とそれぞれの仕事に集中する。
 南奈は、少しまえまでは自分がどこまでやれば停滞を避けられるのかまったくわからなかったが、明日でもいいこと、今日やるべきことという区別がつくようになって、いまでは自分で判断できるようになった。それでも一人前の仕事量をこなしているとは到底云えない。
 入社から半年たったいま、せめて半年後にまた新たに入社する後輩たちに負けない程度の仕事力は身につけておきたい。そう考えると、南奈は少し焦ってしまう。
 ただし、今日はちょっとその焦りとは違う、そわそわした気持ちで仕事に向かっていた。
「お疲れ」
 外回りから戻ってきた小泉がだれにともなく声をかけて、斜め前の席に着いた。
 月曜日からそこに小泉がいることまだ二日、慣れるには至らない。旭人とは先週まであったこの距離よりももっと近くにいるのに、南奈にはさみしいような感覚がある。
「お疲れさまです」
 みんなとほぼ声をそろえてそう返す一方で南奈は時間を確認する。約束の七時まであと十分で、ひとまず主任となった小泉に進捗(しんちょく)具合がどうかじかに確かめられるから安心して帰れそうだ。

「書類、そろえておきました」
 小泉はぱらぱらと紙の束をめくる。
「見ておくよ。明日は予定どおりリサーチに出るからそのつもりで」
「はい。今日は帰ります」
「オーケー」
 旭人と違って小泉だと緊張度が半減する。かといって、仕事に関してのんびりしているわけではけっしてない。旭人に対しては失敗できないというより、失敗するのを見られたくないという気持ちがあったかもしれない。おかしなプライドだ。
「藤本さん、今日、人事部に行ってたみたいだけど何か変更手続きあったの? まさか異動じゃないだろうから」
 バッグに携帯電話をしまっていると、不意打ちの質問が投げられた。さすが三沢だと思いながら南奈は云い訳を探す。
「あ、いえ。……えっ……と、住所変わるのに手続きどうしたらいいかって訊きにいったんです」
 三沢に限らず、南奈の周りはだれもが目を丸くした。
「ほんとに独り暮らしするの?」
「あー……善は急げって云うので。三沢補佐、情報早いですね」
 嘘を吐くのもどうかと思いつつ、いや、結婚を隠す必要はないのだろうが、南奈はなんとなくごまかしてしまった。
「何年勤めていると思ってるの。それなりに人脈はあるつもり」
 三沢が自負するとおり、頭が切れるだけでなく人当たりもよくて、彼女を嫌いになる人はめったにいない。そのぶん、情報網も確実なルートを持っているかもしれなかった。
 だから――
「昨日は人事異動でバタバタして訊けなかったけど、金曜日、加納主任……じゃなくて加納課長代理とはどうなったの?」
 と訊かれると、知っていて訊いているんじゃないかと南奈は疑った。

「加納主……加納課長代理は三沢補佐に電話したって云ってありましたけど。家まで送ってもらったことは確かです。起きたら自分の部屋にいましたから。わたし、記憶になくって」
 嘘は吐いていない。が、三沢の口角が愉快でたまらないといったように上がる。何を云われるかと南奈は身構えた。が――
「まさか、ほんとにふたりでフケちゃうとか思ってませんでしたよね」
 と、塚田がおもしろがって話に入ってきて、三沢の追い討ちは逃れた。
「だから、みんなにバレバレだってわかっててヘンなことするわけないじゃないですか」
「そうかなぁ。加納課長代理は、いざとなったらそんなこと気にしないタイプだと思うけど」
 三沢は思わせぶりだ。
「まあ確かに……」
 藤本家では、結婚前提とはいえ未婚のまま同じ部屋に泊まるくらいだ。南奈は土曜日の旭人を思い浮かべながら三沢に同意した。
「加納課長代理、スーツがチョコ塗れになったって云ってたわね。何したの?」
 三沢は興味津々といった様子だ。なるほど、三沢は結婚を知っているわけではなく、ここを追及したかったらしい。
「そんなことした憶えありませんけど……」
「ってことは、記憶にない間に何かあったってことも可能性としてあるわけだ」
「ありませんよ、何も!」
 南奈は半ば叫ぶように即行で否定した。
 スーツにチョコは憶えていないが、南奈がヴァージンであることは加納家での旭人の発言が証明している。
「“はじめて”が見送りになったのは残念だな」
 小泉は三沢の話に乗って、からかうようにしながらもじっと観察するような目を向けてくる。
「残念ですけど、わたし、まだヴァージンですから!」
 いちおう声を潜めて宣言したものの、残業という比較的静かな時間のなか、おそらく住宅事業部のブースでは筒抜けだろう。
「全然、残念じゃないよ」
 可笑しそうに小泉が応じるのを尻目に、南奈は立ちあがった。
「おさきに失礼します!」
 強引に話を打ちきって、南奈は会社をあとにした。

 廊下に出てエレベーターホールに向かうと間もなく、上から降りてきた直通エレベーターの扉が開く。
 なんとなく。そう直感したとおり、ほかにも同乗者がいたが、旭人が乗っていた。お疲れさまです、と形式的な挨拶もそこそこに、南奈は奥にいる旭人の隣を占拠した。
「お疲れさまです! 課長代理のお仕事慣れました?」
 いつものごとく、南奈は狭い密室をものともしないトーンで訊ねた。旭人は、ため息はつかなかったものの呆れた様で首を振った。そんな顔もなじんできて、永都を可愛がるのに似た慈しみのような愛情の裏返しに感じるとしたら、能天気すぎるだろうか。
「二日で慣れる奴がいるなら教えてくれ。スカウトしてくる」
「マシーンのくせに」
「自称したわけじゃない。おまえが勝手に名づけただけだ。おまけに広めてる」
「でも、気にしてないでしょ。わたしは慣れなくて気にしてますけど」
「意味不明だ。いつか南――」
 ファーストネームが飛びだしそうだと気づいて、南奈は慌てて右手を上げて旭人の口をふさいだ。やわらかいくちびるを手のひらに感じながら、狭めた眼差しを受けとめた。
「いつかわたしの気持ちが読めるようになったら、講座は卒業できますね」
 そう云って南奈は旭人から手を放した。旭人がいちばん奥にいてくれてよかった。エレベーターのなかは、おかしなことにだれもが扉を向いて立ち、わざわざ後ろを振り向くという人はめったにいない。

「どういうことだ」
 その怪訝な質問と同時に二階に到着した。暗黙のもと、ほかの人を待ってふたりは最後に降りた。南奈がさきに出て旭人を待ち、向き合った。旭人の背後で扉が閉まる。
「どういうこと、って?」
 南奈が惚けていることは明け透けで、旭人は不快そうに眉をひそめる。
「恋愛って段階ならまだしも、結婚したんだ。関係を隠す必要はない」
 旭人の意思にためらいや淀みはない。エレベーターホールを出ていく人に聞こえるんじゃないかと南奈はひやひやする。
「旭人が気にしてるほど何かあるわけじゃなくって、なんとなく。実感が湧かないからかもしれません」
 そう云えば旭人も南奈を責められないはずだ。
 今朝、出勤するまえにふたりで婚姻届を出してきた。こうなるまで四日。旭人が強引に進めてきたことには違いない。
「好きな奴に知られたくないとかじゃなく?」

 南奈はびっくり眼で見上げた。そうしたのは、旭人の発言に驚いたからだけでなく、自分の気持ちに対する驚きでもある。
 日曜日に、南奈と旭人、両家の顔合わせを兼ねた食事会が加納家であった。そのときに義兄という立場上、康哉も同席したのだが、いつも春奈とふたりいる姿を見るときに感じる心の痛みを南奈は忘れていたかもしれない。
 そんなことにいま頃気づいた。土曜日の朝までは確かにあった感情だ。

「そういうこと、考えてもなかったです」
「……なるほど」
 返事をするまでの少し時間、何を考えていたのか旭人はため息混じりに吐いた。
「パスポート、持ってるか?」
「え?」
「いまは時期的に休暇が取れないけど、正月休みは完全に仕事から離れるのもいいと思ってる」
「もしかしてハネムーンですか!」
 勢いこんで訊ねると、答えが返ってくるまえにどこかのエレベーターが到着する。
「川田さん、いい人見つかった?」
 降りた人の会話のなかから、南奈の聴覚はそんな発言をチョイスする。そうめずらしくない名字だが、南奈はまたもやなんとなく気にかかった。
「ああ。どこがいいか――」
「全然。商社の男ってやっぱり早婚だよね」
 旭人と重なるようにその声が聞こえたとたん、南奈は旭人の腕を引っ張り、声のしたほうに背を向けさせ、南奈はそうした旭人の躰の陰に隠れた。
「旭人」
 南奈が異様なことをした時点で旭人はすでに口を噤んでいたが、さらに南奈は目で黙っていてほしいと訴えた。

「いいと思う人はみんなカノジョとか妻子持ちだし」
 そんな発言が続き――
「いまどき結婚相手探しに商事に入ってくるとか、川田さんてめずらしいよね」
「キャリアアップも考えてるから、そこは誤解しないでよ。結婚はしたいし子供も欲しい。早く子育て終わって仕事に重点を移行したいって思ってるだけ。そのほうが効率的でしょ」
「欲張り!」
 笑い声を伴ったそれらの会話の音量はだんだんと遠ざかっていく。
 南奈はふっと肩の力を抜いた。

「パスポート、持ってますよ。大学の卒業旅行でサイパンに行ったから」
 唐突に話を戻すと、旭人は顔をしかめながら南奈の手を自分の腕から放した。思いのほか南奈は強くつかんでいたようで、手がこわばって関節の動きが鈍い感じがした。
「どうしたんだ」
 旭人は手首をつかんだまま、エレベーターホールの出口のほうへと顎をしゃくった。

 その怪訝そうな様子から、旭人は『川田』という名を聞いてもぴんときていないようだ。もとい、個人的な接触は禁止というルールを破った相手である南奈のこともうろ憶えだと云った。九年もまえのたかだか一カ月くらいという期間で、なお且つ大勢のなかの一人であれば、憶えているほうが不思議だろう。
 判断の材料は声だけで、その顔を確かめたわけではないが、『川田さん』は川田美穂に違いなかった。さっきの会話に見えたように、彼女は中学生だった頃から妙に自信家だ。業平不動産で見かけることはなく、このビルのどこかに彼女はいるのだ。この半年、会わなかったのは奇蹟か、それともいくつもの会社が入り、数えきれない人が勤めているのだから当然なのか。
 南奈はしばらく迷ったすえ首をすくめた。

「ここで会うとは思ってなかった、会いたくない人がそこにいたかもしれないってだけ」
「つまり嫌いな奴と偶然会いそうになったってことだ」
「そうとも云います」
「最初から単純に云え。帰るぞ」
 旭人は面倒くさそうな素振りで首を振り、南奈の手を放すとかわりに背中を押して促した。
「ハネムーン、モルディブがいいです。ゆっくりできそうだし、沈んじゃうまえに行きたい」
「オーケー」
「でも、高いですよね、お正月って」
 旭人はため息まがいで笑った。
「一千万かかるんなら高いって云えるだろうけど、贅沢しても一人その十分の一だ。ケチってどうする」
「……百万をケチらないで出せるって贅沢」
「贅沢に散財するのは富裕層の義務だ。結婚してこのまま仕事するなら、南奈の給料は全部自分の小遣いで使っていい」
 南奈は目を丸くして旭人を覗きこんだ。
「全部?」
「足りないなら云えばいい」
「っていうより、わたしが仕事すること、なんにもならないって云われてるみたいって思うのは気のせい?」
「なんにもならないっていうよりは邪魔だ」
「ひどい! 意味わからないんですけど」
「おれもわかってないかもな」
 旭人はせせら笑うような云い方をした。

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