ミスターマシーンは恋にかしずく

第2章 恋愛講座おーぷん

4.コンプレックス

 夕食のあと、南奈は約束どおり、旭人に家のなかを案内してもらった。
 邸宅は上空から見るとコの字型をしていて、窪んだ部分に中庭が設けられ、一階の奥には滋夫妻の部屋が、二階に孝志以下親子の部屋がある。
 玄関を入ってすぐあった、天井まで届く扉の向こうはパーティを開く広間だった。コの字型の出っ張りの部分だ。
 パーティなど南奈には縁のない言葉で、世界の違いに少なからず怖じ気づいた。ティルームやらゲストルームやら、やはり一般家庭にはない部屋が存在する。
 旭人の部屋は玄関とは逆方向である東側の隅っこに位置していて、南奈はその隣のゲストルームを充てがわれた。真下は滋夫妻の部屋だ。

「どうだった?」
 二階の真ん中部分にあるバルコニー付きのラウンジに入って、南奈がクッション付きの椅子に座ると、千雪はカップに紅茶を注ぎながら問いかけた。
「びっくりです。わたしは場違いな感じ」
「わたしも全然自分にはふさわしくないって思ったの」
 千雪の言葉に南奈は首をかしげた。そのしぐさだけで理由を鋭く察した千雪は続けた。
「建留とは従妹といっても、家同士が近い付き合いじゃなかったから、生活レベルは雲泥の差。だから、南奈さんの気持ちはわかると思う。でも、きっと大丈夫。わたしが慣れたくらいだから。ね、建留?」
 千雪は、永都を抱っこして隣に座る建留を覗きこむように見やった。
「ああ。ふたりの結婚はみんな喜んでる。藤本さんも……プライヴェートでは南奈ちゃんでいいかな」
「全然かまいません」
「南奈ちゃんも歓迎されていることはもうわかってるだろう?」
「はい」
「歓迎されなかったら出ていくまでだ。兄さんたちみたいに」
 旭人はいつになく刺を含んだような口調だ。南奈はびっくり眼で旭人を見守る。

 兄夫婦が独立して暮らしているのは知っている。今日は泊まっていくというが、さっきまで全員そろってすごしたなかで彼らが歓迎されていないとは少しも見えなかった。歓迎されていないというのが本当なら、まるきり仮面家族だ。
 おれがついてる、と旭人が云ったことの意味を探りながら、加納家の人々に騙されたのかと思っていると、そんな南奈の懸念を払拭するように建留は可笑しそうに首をひねって旭人に目を向けた。

「おれたちみたいに? 歓迎されてないとは思わなかったな。そうなのか」
「ああ……違う。悪い、いろいろ気が立ってるかもしれない」
「めずらしいな」
「たぶん、南奈のせいだ」
「わたし、ですか」
「あ。そういえば、旭人くんてベッドなしじゃ眠れないって知らなかった」
 千雪が云ったとたん、旭人は苦々しい面持ちになった。
「わたしも日本人でそういう人、はじめてです」
「おれの勝手だ。南奈、いちいちつつく気なら報復措置を取る」
 子供っぽい云い分だ。
 そう思ったのは兄夫妻も同じなようで、旭人の機嫌を気遣ってか遠慮がちに失笑を漏らす。

 けれど、出ていくまでだ、という旭人の言葉は、裏を返せばどんなことになっても結婚すると云われているようで、なぜそこまで意志が固まっているのか、それはわからなくても、南奈を力づけてくれた。
 四人プラス赤ちゃん一人ですごすラウンジは、ほぼ大人三人のお喋りに占められ、千雪はたまに口を挟むだけ、永都が訳のわからない発音で相づちを打つ、そんなのどかな様で、南奈にとって楽しい時間になった。

 十時近くになって永都が俄にぐずり始めると、たぶん眠たいんだと思う、と千雪が云って建留とともに立ちあがった。
「兄さん、近々、またイラクに行くんだろ」
 旭人が声をかけると、建留は「ああ」とうなずく。
「最終確認だ。まもなく着工するからな。それに合わせて一カ月の予定でスケジュール調整してる」
「その間、義姉さんと永都はここに来てればいい。遠慮はいらないだろ。何かあってもおれがいる」
「遠慮してない。いまは永都もいるし、そのつもりだった」
「旭人くん、今度はちゃんとこっち来るから。わたしも子育てはじめてだから独りだと不安だし。まえのときは妊婦ってだけで病気じゃなかったから、独りでも大丈夫って単純に判断しただけ。心配してくれてありがとう」
 建留に続いて千雪がフォローすると、旭人はどこかきまりが悪い様子で首を振った。
「旭人、おまえにはわざわざ頼むって云うまでもないだろう?」
「ああ、そのとおりだ」
 旭人の即答に建留はうなずいてにやりとした笑みを投げた。
 千雪は南奈を見やって、おどけた素振りで首をすくめる。
「まえの建留の出張のとき、ここに帰らなかったから旭人くんは不機嫌なの。たった一週間だったのに」
 しかめ面になった旭人をちらりと見て、千雪は可笑しそうに微笑を浮かべた。
「じゃあ、また廊下で会うかもしれないけど、念のため、南奈さん……南奈ちゃん、おやすみなさい」
 千雪はわざわざ云い直して親しみを示した。表情に乏しい嫌いはあるけれど、そのぶんちょっとしたしぐさや言葉で効果的に物語る人だ。雄弁に語り、笑う顔の下に別の――陰湿な顔を隠しているよりもずっと信頼できる。南奈はうれしくなって勢いこんでうなずいた。
「はい、おやすみなさい。おやすみ、永都くん」
 南奈の呼びかけにタイミングよく声をあげた永都だったが、どう聞いても不機嫌で、それがかえって大人たちの笑いを誘う。

 兄家族が出ていくと、さみしいほどラウンジはがらんどうになった気がした。それだけ、彼らが温かいのだろう。
「後片づけは浅木さんがやるからそのままにしていい。おれは風呂に入ってくる」
「わたしは?」
 強引に置いてけぼりにしそうな気配で、南奈が思わずそう問うと、旭人は、少し湿り気の残った頭の天辺から足もとまで、南奈をひととおり巡って目に戻った。パジャマがわりのチュニックに緩いパンツは躰のラインをすっかり隠しているが、なんとなくかまえさせるような視線だ。
 ふいに旭人は身をかがめた。息づかいが感じとれるまで、綺麗な顔が近づく。
「この家は怨念が渦巻いているかもしれない。独りが怖いんなら、一緒に風呂に入ってもいい。一緒にベッドインした仲だ。恥ずかしいことはないだろ」
「……もう入りました!」
「何回入ろうが溶けるわけじゃない」
 そう云いながらも、旭人は顔を上げ、南奈が提案を呑むはずがないと見込んでドアに向かった。
 そのとおり、いくら傍若無人でも男性のまえで裸になることは別次元のことだ。
「家のなかをうろつこうが寝ようが勝手にすればいい」
 余裕綽々で優勢に立った云い方だ。
 じゃあ、勝手にするから!
 南奈は内心で旭人の背中に向かって宣戦布告した。

 一人残されるとため息をつく。後片づけはしなくていいと云われたものの、お手伝いさんという立ち位置がよくわからず、南奈はおかわりを飲み終わると下まで持っていくことにした。それに、滋夫妻にはすませたけれど、孝志夫妻にもおやすみの挨拶くらいはするべきだ。
 トレイにカップやティポットをのせると、おそらく食器類も高価なものだろうから、南奈は慎重に階段をおりていく。踊り場を折り返して一階に着くと、廊下を横切ってほぼ正面にあるダイニングルームに入った。
 浅木は住み込みらしいが、レースののれんをくぐってキッチンを覗いても見当たらない。この時間だ、もう休んでいるのだろう。
 南奈はトレイを作業台の上に置いた。キッチンを見回すと、アンティークなガラス棚にはおびただしい数の食器が詰めこまれている。呆れ半分で眺めていると、ふいにダイニングのほうで足音が立った。
 ダイニングに行きかけた矢先。

「明日の夕食会、藤本家の皆さん、おそろいなのよね。お料理の好き嫌いはどうかしら。南奈さんに訊ねるのを忘れてたわ」
 と、華世の声がした。足音が止まったかと思うと、グラスが軽くぶつかる音とウォーターサーバーを扱う音がする。
「ああ、訊いておく」
「お披露目の時期も考えなくちゃね」
「建留の出張も控えてるからな、年が明けてからになるだろう」
「披露宴は急がなくてもかまわない。どの辺りが差し障りないか、出してもらえばあとはおれたちが決める」
「披露宴はべつに後回しにしてもかまわんが、何があって結婚をそんなに急ぐ?」
「おれの結婚を焦ってたのは父さんたちだろ。喜ぶべきことであって疑問に思うことじゃない」
「もちろんだ。私がどんなにほっとしているか、わからんだろうな」
「おばあさまが云ってたけど、相手が会社の人って云うからわたしも三沢さんかと思っていたわ」
「母さん、見てただろう? 南奈ちゃんがはじめてだな、旭人を動揺させたのは。ふたりはぴったりだ」
 突然、三沢の名が出てきて驚いているうちに、もう一人リビングにいたようで、その建留の声が聞こえた。
「動揺してない」
 旭人がぴしゃりと云い渡した。
「建留も旭人も誤解しないで。わたしはがっかりも反対もしてないわ。驚いたって云ってるだけよ。南奈さんだったらおばあさまにも負けていないだろうし」
「にぎやかになるな」
 建留がおもしろがっていそうな声で華世のあとを継いだ。
「婚姻届はいつ出すんだ?」
「火曜日、四日に出してくる」
「喜ばしいことは急展開するものだな。ついでに」
「ついでに?」
「子供ができたのか?」
 それまで出そびれてしまっていた南奈だが、孝志が何を云わんとするのか察して――
「それなら二重のおい……」
「できてませんから!」
 プライドも本能の一部らしい。南奈の躰が勝手に動いてキッチンから飛びだすと、同時に口は孝志をさえぎって叫んだ。

 華世はコップに水を注ぎかけたまま制止し、目を丸くして南奈を見つめる。リビングのほうを含め、おそらくは呆気にとられたのだろう沈黙がはびこったかと思うと。
「何やってるんだ」
 旭人がリビングから現れて不機嫌そうな声を響かせた。
 ばつが悪くなった南奈は肩をすくめてごまかす。
「後片づけです。カップとか、せめてここまで持ってきておこうって思って。盗み聞きしてたわけじゃなくて、出るタイミングがつかめなかっただけなんです」
 ぷっ。
 華世が吹きだした。
「南奈ちゃん、今日だけで旭人にこんな顔を二度もさせるなんて、建留の云うとおり、旭人には南奈ちゃんしかいないわね」
 旭人の苦虫を咬み潰したような面持ちとは対照的に、南奈の顔は無自覚で笑みに綻んだ。


 旭人の部屋は、赤味の強いアンバー色を基調にして、温かみと落ち着きのある大人っぽい様だ。南奈お気に入りのドレッサーもここなら似合いそうな気がする。ちょっと安っぽく映るかもしれないけれど、窓枠にも彫刻が施してあるというアンティークさがぴったりだ。
 バルコニーに出る観音開きのドアの横にキングサイズのベッド、書斎家具のような広いデスク、書棚、そしてテーブル付きのソファのセットまである。
 室内には一つドアがあって、開けてみると、ウォークインクローゼットだった。どこに違いがあるのか区別のつかないスーツがいくつもぶら下がっているけれど、すかすかに感じるほど、藤本家の南奈の部屋より断然広い。
 呆れているのか感心しているのか、自分でもよくわからないため息をつくと、部屋に戻った。
 すると、クローゼットに南奈が消えていたちょっとの間に旭人は浴室から戻っていたようで、南奈が目に入るなり、何をしているんだと責めるように首を振った。トレーニングウェアっぽい恰好はパジャマがわりなのだろうが、今朝の普通のパジャマ姿もいまも、スーツ姿に見劣りしないというのはどういうことだろう。

「こっちのほうがよく眠れそうと思って。隣の部屋も素敵だけど、人の気配がなくて無機質な感じ」
「ゲストルームだからあたりまえだ。南奈は男を近づけるというより、自分から近づいてるな。無防備すぎるだろ」
 旭人は、巧妙に誘惑するかと思えば、いまみたいに素っ気なくする。加納家というバックを剥いでしまったら、正体不明な感じがする。華世の言葉が証明しているように、旭人は真の自分を見せない人だ。
「結婚するんだから、加納主……旭人との間ではなんの問題もないと思うんですけど」
「結婚するのは火曜日だ。ファーストキスはシチュエーションがまずかったらしいし、それなら、ヴァージンは結婚する日に失ったほうが南奈の願望にかなうんじゃないか」
 旭人の発言は、南奈からすれば飛躍している。仕事上、頭は切れるくせに、いまは隙だらけだ。
「ベッドは広いし、寝るだけです。今朝みたいに。それとも、それ以上のこと、わたしに望んでる? 欲しい? 抱きたい?」
 矢継ぎ早に疑問を投げると、旭人は目を細める。怒ったかと思いきや、まるで無視するように背中を向けた。
「隣に戻れ」
 デスク付きの椅子に置いたダレスバッグを開けながら旭人は南奈を排除する。耳もとに鼓動が聞こえそうなほどの気持ちで云ったのに、旭人の隙はかたくなにガードされた。
「マイナス点つきました!」
「勝手に引けばいい。どうせ、おまえが基準だろうし、痛くもかゆくもない」
「開き直ってる。怨念が渦巻いているとか云うから怖くなったんですよ。加納……旭人のせいです。ここで寝ます」
 旭人は、勝手にしろとも出ていけとも、いていいとも云わない。ラウンジでの旭人とは雰囲気がまるで違った。
 旭人を見守っていると、まだ仕事をする気なのか、椅子からバッグをおろした。取りだした書類をデスクに置いてパソコンを開き、そして革張りの椅子に座った。
「加……旭人ってお兄さん、好き?」
 一瞬、時間が止まったかのように旭人は固まって見えた。ゆっくりと、軋みもせずに回転椅子がまわる。
「どういう意味だ。仲がいいかって訊いてるんなら、そのとおりだ」
 旭人はあっさりと肯定した。その様子から、南奈の質問がばかばかしすぎて虚をつかれたという感じだ。

 後継者第一候補である建留が加納家を出て独立して暮らしているなんて、通例からすれば不思議なことだ。折り合いが悪いのならそれも納得できるのに、加納家はそんじょそこらにないほど結びつきは強いという印象を受けた。
 加納家のなかでどんな事情があるかは知らないが、いや、兄夫妻は単純にふたりで暮らしたいと、案外それが事情なのかもしれない。社内では、加納室長代理は奥さまに夢中だ、と専らの噂だ。
 実際に傍で見ると、千雪のほうはクールだけれど、建留のほうは終始気を遣っているのがわかる。というよりも、気にかけずにはいられないという切迫感が見える。会社では見られない情熱ぶりだ。
 正直なところ千雪に羨望を覚える。そこまで愛されるというのはどんな気持ちだろう。
 旭人が南奈にそういう気持ちを持っているとは思えない。付け焼き刃みたいに降って湧いた結婚話をあらためて疑問に思う。金曜日に感じていたものとはまた違った、なんとも表現しがたいもやもやしたものが心底にわだかまった。

「仲がいいっていうよりもブラコンみたい」
 南奈の言葉に、旭人は射るような視線を向けた。
「またおれの弱点を見つけたって云いたそうだな」
「でも、否定しないんですね。お兄さんのまえだと、なんていうか……んーっと、旭人は少年っぽくなる。役に立ちたくてうずうずしてる感じ。会社の一大事業ですよね、イラクの首都再開発。加納室長代理のプロジェクトだって聞いてます。そうじゃなきゃ、旭人は自分がかわりに行くって云いそうだった」
 旭人は鼻で笑う。
「南奈はおれが思ってた以上に利口みたいだ」
 やはり否定もせず、旭人はデスクに向き直った。

 それはマイペースに見えて、南奈によけいに迷いをもたらす。
 結婚を急ぐ理由についても、孝志がそうしたように南奈も訊ねたのだが、結婚は勢いでするものだ、と旭人は云った。確かに、時間を与えられたら、結婚できないという結論を出すのは南奈のほうかもしれない。
 南奈はため息を呑みこんでベッドにもぐった。隣の部屋のベッドと同じで冷たいはずのシーツになぜか体温を感じる。デスクが近いほうに寄って、旭人の後ろ姿を眺めた。

「加納主任。千雪さんがライバルだったらなんとかなりそうって思うのに、お兄さんがライバルとか勝ち目ない気がするんですけど」
「意味がわからないな」
 簡潔な言葉で一蹴された。そのとおり、南奈が云いたいことは通じないほど遠回りなことを云った。
「第一、ライバルなんてものは、結婚するんなら関係ないだろ」
「表向きはそうでも、結婚はゴールじゃないって云います。加納主任は、わたしに好きな人がいておもしろくないって云ったけど、つまりそういうことです。表面上は結婚ていう契約があるから、だれもわたしから加納主任を奪うことはできない。だからといって、加納主任の心のなかには入りこめなくて、絶対にわたしのものにはならない。そんな感じ」
 しばらく反応は何も見られず、戯言と知らん顔をするかと思いきや、また椅子がまわった。旭人は問うように、あるいは促すように首をかしげる。
「本当のこと云うと、急な話なのに、加納家からすごく歓迎されてるのがうれしいよりも怖いって思うんです。生活レベル、やっぱりものすごく違うし、期待に応えられなかったらどうしようって」
「だれも何も南奈に期待してない」
「……ひどいですね」
「なら云い換える。おれと結婚するってことで南奈は充分に応えてる」
「どうして?」
「家族のだれもが、おれは結婚しないんじゃないかって心配してたからだ」
「どうして?」
「面倒だろう。家族を背負うとか」
 旭人は計算してのことか、矛盾を吐いた。
「……わたし、ほかの人以上にかなり面倒になる気がしますけど」
「だな」
 気遣いなく旭人は同意した。南奈は不満を覚えるよりも気落ちした。
「みんながそう思ってたとおり三沢補佐とか、塚田さんのほうがわたしよりうまくやれそうなのに」
「何を云ってほしいんだ」
 気に障ったのかうんざりしたのか、投げやりな口調に聞こえた。そのひと言は本音を曝さないという意図で、南奈はうまくかわされたのかもしれない。
「加納主任が自分で考えてください」
 南奈も投げやりに返した。
「恋愛講座の宿題か?」
 ついさっき講座の点数がマイナスでも痛くもかゆくもないと云ったくせに、まるで機嫌取りだ。
「そうですね」

 南奈は適当に相づちを打って仰向けにかわると、梁(はり)が格子状に剥きだしになってレトロな雰囲気を醸しだしている天井を見上げた。同時に回転椅子の軋む音がした。
「何が問題だ」
 話は打ちきりになったかと思ったのに、ほんの傍で旭人は云い、ふとんを剥がした。驚いて息を呑んでいる間にベッドに上がった旭人は南奈の肩の脇に手をついて躰を跨いだ。
「……いまは充分かもしれないけど、きっと欲が出てくる」
「なんの欲だ」
「……子供、とか」
 真上から真っ直ぐ見下ろしてくる眼差しは探るようだ。
「“とか”じゃなくて、子供がネックなわけだ。そんなに子供嫌いなのか。永都にはそう苦手意識見えなかったけどな」
「わたし、将来、期待に応えられるかどうかわかりません」
「だから、永都がいる」
「加納主任はそれでよくても、ご両親とかがそれでいいとか、そんなふうに思うはずないです」
 旭人は睨めつけるように目を細め、真一文字にくちびるを結んだ。
「さっきからなんだ。加納主任、て。距離を置こうとか、結婚を取りやめようとか、もう手遅れだ。おれはいま、引き止めていたほうがいいのか」
 しばらくの沈黙のあと、口を開いた旭人の声は剣呑としていた。
「いま、って……?」
 鼻先で笑った旭人は、いきなり南奈の胸の谷間に手を置いた。
「加納主任っ」
「旭人、だ。ヴァージンを大事にしてるみたいだし、それならいま奪おうか。結婚相手としてほかのだれも考えられないように」
 南奈にとって大事なことを旭人がこだわっているふうではなく、どきどきした胸の奥で南奈の罪悪感が少し和らぐ。それに、言葉のなかに独占欲が滲んでいそうで、うれしくもさせる。
「満点あげます」
「訳のわからない基準だな」
 ふっと吐息を漏らし、旭人は胸から手を放すと隣に横たわった。南奈の首の下に旭人の腕が潜ると、ふとんがかけられた。
「仕事は?」
「明日でいい」
「旭人」
「なんだ」
「呼んでみた」
 呆れたのか、旭人は深く息をついた。
 南奈は旭人に背中を向ける恰好で横向きになる。顔のさきに旭人の大きな手が見えてそれに自分の手を重ねた。触れ合った感覚が驚くほどしっくりくる。
 旭人が動いたかと思うと、ウエストに腕がのった。その重さはもったいないくらい心地がよかった。

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