ミスターマシーンは恋にかしずく

終章 御曹司はじゃじゃ馬になつく


 どこかで会ったか?
 思わず自分自身に問いかけてしまう漠然とした感覚は、昨日に続いて彼女が目についたとたん旭人のなかに再生した。
 小児病棟の一角にあるプレイルームのなか、彼女は点滴スタンドを携えて昨日と同じ場所に座っている。痛みで動けないのか、それともその見た目のとおりに臆病で動かないのか。
 その手は空っぽで、ただ自分より小さい子供たちを眺めている。
 旭人が近づいていくと、それまで気づかないふりか本当に気づいていないのか判別できないまま、彼女とやっと目が合う。いや、気づくというのは旭人の自意識過剰だ。そう自覚して出そうになったため息を呑みこむ。目はすぐに逸らされた。

「絵本は?」
「こ、こんにちは」
 昨日もどこか咬み合っていないと感じたが、今日もまるでずれた返答だ。しかも、うつむいたままだ。
「こんにちは」
 いちおう挨拶に付き合ってやると、今度は黙りこんで反応がない。
 最初の問いに対する返事はどこに行ったんだ?
 いいかげん手持ちぶさたで、この子ばかりにかまっているわけにもいかない。
 旭人が離れようとした矢先。
「子供たちが見るかもしれないし……取りあげたらかわいそうだから……」
 なるほど、そういう考え方はできるのか。旭人は妙に安堵する。
 彼女のもとを離れて本棚にいくと、適当に三冊選んで戻った。
「どれがいい?」
 差しだすと一拍置いて一つ取った。会話には時間がかかっても、こういう選択にためらうことはないようだ。
 それからプレイルームの隣にある学習室で小学生たちの勉強の補佐をしていると、何気なく見やったガラス窓の向こうに彼女が見える。声はまったく聞こえないが、子供たちに読み聞かせをしていた。
 その姿を見てわかった。
 ずっと心底に押しこんできた寂然とした情がいきなり、そして鮮明に旭人のなかに甦った。
 そのとたん、目まぐるしく時間は流れ、場所は病院から会社へとかわり、無人のビルのなかで旭人は何かを待って立ち尽くしている。
 声を失ったように言葉が出ない。泥沼に嵌まったように身動きができず、息苦しさにもがく。

「旭人」
「南奈」

 旭人は侵入してきた声にとっさに縋った。


 こわばった躰が緩み、目を開けると同時に全体重を預けたものが不自然な揺れ方をする。覗きこんでくる南奈が、太陽の光をさえぎり、旭人の視界いっぱいに入ってきて現実が返った。
「どうした」
 反射的に訊ねると、ほんの傍で南奈が目をくるっとさせる。
「どうかしたのは旭人。急に腕を握りしめるから痛くて起きたんだけど。見て!」
 南奈の腕が真上に差しだされると、握るだけでなく爪まで立てていたようだ。旭人は南奈の手首を取り、爪の痕を舐めた。
「くすぐったいっ」
 南奈は笑いだして、旭人を乗り越えて転がり、ベッドが揺れる。
「暴れるな。海に落ちるぞ」
「全然大丈夫。広いし、こんなベッドだったら一週間ずっとこの上ですごしても飽きないと思う」

 正しくはベッドではなく、網でできたハンモックで、ヴィラから続くテラスのさきに設けてあり真下は海だ。昨日はへっぴり腰でハンモックに移っていたくせに、南奈はまったく現金というほかない。
 モルディブに入ったのは一昨日の夜で、以降、天気は良好だ。ヴィラからビーチに至るまでプライベート空間が確保され、専属のバトラーを覗けば完全にふたりきりという正味四日間の滞在になる。ヴィラからビーチに至るまでプライベート空間が確保され、専属のバトラーを覗けば完全にふたりきりという五日間の滞在になる。ゆったりと流れる時間のなかで昼寝までするという怠惰ぶりには、自分でも呆れている。
 おまえにはのんびりしている余地はないぞ。夢はそんな警告を発しているのかもしれなかった。

「旭人がいると落っこちてもなんとかしてくれそうだし」
 旭人の愚痴を見越したような発言は強力すぎた。なんとかしてくれそう、という確信がどこから芽生えたのか、虚脱感を伴って笑うしかなくなる。
「でしょ?」
「ああ」
 旭人の返事に満足したかと思いきや、上半身を完全に起こして座った南奈はどこか深刻そうにしている。ホルターネックのビキニ姿とその表情はそぐわない。
「なんの夢見てたの?」
「さあな」
「嫌な夢っぽい。こんなふうに力を入れるなんて」
 南奈は再び腕を見せる。その夢が何か、もしくはだれが出てくるのか、見当をつけているかもしれない。
「嫌な夢じゃない」
「やっぱり見てる」
 苦しくても、それは忌み嫌うような夢、あるいは現実ではない。即座に否定してしまうと、南奈はすかさず隙を狙う。旭人は降参した気分で息をつく。
「夢というよりは昔のことを思いだしてた感じだ」
「……お母さんのこと?」
「正確には南奈のことだ。ボランティアのときの夢を見てた」
「正確には、ってわたしとお母さんが繋がってる?」
 旭人は起きあがる。バランスを崩した南奈が手を泳がせて、旭人はすかさずキャッチした。

「だれも見てないし、裸になればいい。まえにそう云ったな」
 南奈はなんのことか記憶を探るように宙を見る。
「わたしじゃなくて、旭人に裸でいてほしいって云っただけ」
「いまはほぼ裸だ」
「だからあと一枚脱ぐだけだね」
 南奈は茶目っ気たっぷりでサーフパンツを指差す。
「バトラーを驚かせたら悪いだろ。その点、南奈は同性だから気にすることはない」
 南奈が旭人の戯れ言に乗ったのもそこまでで、批難たっぷりの眼差しを投げつけた。
「気にする! 旭人、露骨に話を逸らさないで」
「せっかくの旅行でけんかか?」
「ただの旅行じゃなくてハネムーン。ずっと云おうと思ってて、でも旭人もプライドあるだろうしって遠慮してたのに」
「なんの話だ。思ったことを口にするのが南奈だろ」
「じゃあ遠慮なく。旭人は重症のマザコン」
 今度、睨むようにしたのは旭人だった。
 それでめげる南奈ではなく、自説を唱え始める。
「ボランティアのときに絵本読んでほしがってたし」
「ほしがってない。落ちこんでた南奈をなぐさめるかわりに云っただけだ」
「寝た」
「すでに憶えてるABCを一からやる英語の授業みたいに退屈だった」
「気をつけろよっていうのは本当に気をつけてほしいって意味だし」
「そう云うのに身内間でうわべだけとかないだろ。普通におざなりじゃない」
「愛してるから死ぬなって云ってる!」
「おおげさな解釈だ」
 すぐさま退けると、南奈は不満げに頬をわずかにふくらませる。
 あながち間違ってはいない が、肝心なところが違う。
「中級編、全然進んでないんだけど」
「何やれば進むんだ?」
「ひと言だけ、云ってくれればいいの。そしたら修了。上級編は“添い遂げること”だから卒業は“死が分かつまで”できないし。昨日のサプライズのあと、ベッドのなかで聞けるかって期待してたのに、気づいたら朝になってた!」
 南奈が云われたいひと言というのを察しながら、旭人は短く吹いた。

 サンセットウエディングというサプライズはいたく気に入っていたようで、そのあとのディナーを終えると、南奈は酔った勢いでドレス姿のまま海に踏みこむという始末だ。挙げ句の果て、転んでそのまま波打ち際に座りこんだ。旭人も、と無謀な要求に従ったのはやはり自分も酔って、もしくはヒートアップしていたのかもしれない。その後はヴィラに戻り、ドレスを脱がせるなりベッドに絆(ほだ)した。

「期待するなって云ったことを忘れてるな」
「撤回したくせに」
「言葉よりもどれだけ感じさせられるかのほうが遥かに重要だ」
 南奈は、そうすれば何かが閃くように上目遣いにして、また旭人へと焦点を合わせた。
「それ、セックスの話?」
 疑り深い眼差しだ。真剣に弁解したつもりが、からかわれていると疑心暗鬼になっているらしい。
「それも外せないだろ」
 南奈はうれしさとも戸惑いとも取れる、なんとも複雑な表情になった。
「外せないって、わたし、旭人を感じさせられてる? してもらってるばかりでしてあげてることない気がするんだけど」
「まだ男がわかってないな。感度の限界を見せないっていうのは男をいい気にさせる」

 そんな生態的なこと以上に、セックスは相性がいいか悪いか以上に、南奈を抱くことはだれとも違った。結婚した日に味わった、このままで……と願ってしまったひどいほどの充足感はいまに至っても途切れることがない。
 なんでだ。
 その疑問の答えは、“二人のナナ”が同一人物だとわかった時点で出ていたのだと思う。
 面接の控え室で『ごめんなさい』と云ってしまうこと、それは傍からは高慢にも見えたかもしれないが、旭人には自分がそうであるように防御だと感じられて、潔く立ち向かう南奈に儚さがちらついて見えた。
 徹底して監視下に置く。結婚に望むのはそれだけだ。そんな自身の独占欲に突き動かされながら半ば衝動的に、且つ強引に結婚を仕掛けたことは、南奈に対して後ろめたさはあるが、自分にはない。ただ、生産性など関係ない、放棄も明け渡すこともできないものを手に入れてしまった。そんな後悔を覚えて葛藤していたときもある。
 ほんの一カ月まえ、離婚という言葉を南奈の口から聞いた瞬間、後悔のもとにある憂慮はどうでもよくなった。

「よくわからないけど」
 南奈は首をかしげる。
「気づいたら朝になってたっていうくらい、イケてるっていうのは男冥利に尽きるってことだ」
 云い直すと、南奈はわずかに恥じらいを覗かせながら笑う。
「それ以外に一つだけ“感じさせられてること”がわかってると思うよ」
「なんだ」
「並んでじゃなくて、わたしの後ろを歩くこと。常に視界に捉えてなきゃ気がすまない……っていうよりは、気が安まらない?」
 南奈は旭人の憂慮をつついてきた。
「なるほど」
「違う?」
「……そのとおりだ」

 背中の向こうに庇護者はいらない。おれがそうなる。
 そんな庇護欲は南奈と結婚して生まれた。
 それでも南奈に庇護されている感は否めない。
 心底に眠る五歳の自分が南奈に懐いている感覚。庇護のもとにいるからこそ気が弛(たゆ)んで、自分が不利になるような、喋らないほうがいいことまで喋らされる。
 癪に障って南奈の首の後ろに手をまわすと、ホルターネックのリボンをほどいた。

「旭人!」
 ぽろりとこぼれた白い肌が陽の光を浴びて眩しい。びっくりはしても南奈は隠そうとしない。
「太陽のもとでヤレるのもここに来た特権だろ」
「ヤレる、って」
「破目外すおれを見たくないか」
 旭人が最大に無防備になった瞬間を見るのが好きという南奈は、案の定おもしろがって、挑発した眼差しをつくってみせる。
「そのまえに!」
 南奈は手を伸ばしてテラスの縁に置いたクリームを取った。そのままそれを旭人に向ける。
「塗ってくれる?」
「またか? ここに来て日焼け止めを塗るってなんなんだ? 訳がわからないな。焼けたくないんなら、ヨーロッパとか観光旅行のほうがよかったんじゃないのか」
「ううん。のんびりふたりきりでこうやっているほうがいいの。でも、それと日焼けは別。日焼けした“ゴス”っておかしいでしょ」
 旭人はため息をついてクリームを受けとった。
 ふたを開けていると、メッセージを知らせる音が鳴る。南奈の携帯電話だ。いま横たわった躰をまた起こして南奈はテラスに手を伸ばした。
 そのしぐさで揺れるふくらみが目について下腹部が疼く。毎日触れても飽き足らない自分の慾に呆れながら見守っていると、画面を覗く南奈の顔がさらに晴れやかになっていく。

「だれだ?」
「お姉ちゃん、赤ちゃんできたんだって。叔母さんになるんだよ、わたし!」
「すでに永都の叔母さんだろ」
「あーそっか! そうなるんだ」
「いままで気づいてないって?」
「叔母さんて呼ばれたことないし」
「永都は一歳にもなってない。あたりまえだ」
「突っこまなくってもいい。わかって云ってる。それでね」
 可笑しそうにした南奈は中途半端に言葉を切る。
「それで?」

 わくわくした顔つきは、プロポーズした日の盛大に酔っぱらった南奈を思い起こさせた。たまに酔っぱらわせるが、上機嫌の南奈は気に入っている。
 面倒だと思いつつも、目が離せないというのは最初からそうだ。変わるまえの南奈と会ったときも、いまの南奈と会ってからも。頼りなくてなんとかしてやりたくなるのが前者なら、後者は、孤軍奮闘しているからこそ守らなければならない気にさせられる。

「ハネムーンベビーの報告を楽しみにしてるって。それと大谷先輩――あ、お義兄さんね――からは、男の腕の見せ所だって伝えてくれ、だって」
 そういうプレッシャーは、ちょっとまえなら少なくとも内心では落ちこんでいるかもしれないが、いまの南奈はただ旭人をからかう材料としておもしろがっている。
「ピル飲んでるのにできるわけないだろ」
「そうかも。海に行くのに生理中だなんてサイテーだし、しょうがないよね。お姉ちゃんたちには、ちゃんとできなかった理由が旭人の“腕”の問題じゃないって云っておく」
「云わなくていい」
「そう? でも、なんだかうれしい、いまの気持ち。大谷先輩のこと、素直にうれしいって思えるのって、やっぱり旭人と再会して結婚したからだって思うから」
 旭人はその云い方に違和感を覚える。“お姉ちゃんたち”ではなく“大谷先輩”と区切られるのはなぜか。
「どういうことだ」
 慎重に聞いてみると。
「好きな人が身内になるんだよ。わたしの結婚相手としてならまだしも、お姉ちゃんの旦那さんとしてだったし。すっごく複雑じゃない?」

 ……。
 旭人は、ぴしっとガラスにヒビが入ったような感覚に陥る。
「だれがだれを好きだって話だ?」
 念のために確認を取ってみる。
「好きな人がいたって、わたし、云ってたでしょ? それが大谷先輩」
 よりによって。
 そんな言葉が浮かぶ。知らない奴のほうがずっとましだった。
 なんでもないとわかっていながら小泉の存在さえ疎ましいと思ってきたのだが――思うだけならまだしも、小泉ははっきり気づいていたし、そんなふうに外に漏れてしまうのには自分で自分に嫌気がさした。あまつさえ――
 昔の思い人がすぐ傍にいるってどうなんだ?
 内心で毒づいた。
 好きになろうと思って好きになったわけじゃない。だから足掻く。

「母親になる権利はしばらく取りあげる。なんなら永久でもいい」
 そう云いながら、南奈から携帯電話を取りあげて押し倒した。予測不能のハンモックの揺れに南奈の躰が跳ね、そして、おそらくは暴言の真意を見抜き、くすくすと笑いだした。
「旭人は、重症の南奈コン!」
 南奈は、少なくとも旭人に関しては頭がまわる。だが、やりこめられるにはまだ早すぎる。
「南奈はだれのものだ」
 南奈の躰を跨いで左の手首をつかむと、昨日から薬指に嵌まっているマリッジリングを突きつけた。
「旭人。愛してるから」
 はじめて聞かされた言葉にとどめを刺された。
「南奈」

 愛している。それはショコラベーゼに託した。
 愛しているから死とは程遠い存在でいてほしい。
 死がふたりを分かつまで。そんな誓いのセリフを密かに変えてもらっていたことに南奈は気づいただろうか。

 アイシ イツクシムコトヲ チカイマス――
 死はふたりを分かつことなく。
 死を迎え、超えても。

− The Conclusion. − Many thanks for reading.

BACKDOOR

あとがき
2014.2.2.【ミスターマシーンは恋にかしずく】完結/推敲校正済
某物語の脇役、加納旭人を主人公タフガイに起用。
コメディではなく、キュートにポップに、そして切なさも甘さも。
南奈は最初、ちょっと特殊な子に感じますが、その辺りの拒絶反応がなければわりと人を選ばない作品だと思います。
某物語よりも成長した旭人。南奈だったからこその不可避な恋物語。
楽しんでいただけたのなら幸です。
奏井れゆな 深謝