ミスターマシーンは恋にかしずく

第2章 恋愛講座おーぷん

2.Silent Secret

 寝坊したふたりがリビングに行くと、どことなくきまり悪くなるような四対(つい)の視線に迎えられた。正確には、南奈だけがそう感じているのかもしれない。
 旭人は他人の家にもかかわらず、ましてや結婚の申し込みを伴った初訪問だというのに、緊張感は欠片も見えない。付き合う相手を選べない営業マンという仕事柄、日常にも活かされてるのかもしれない。もっとも、常に人の目が向く立場にある以上、旭人だから肝っ玉も据わっているだろう。
 旭人に好みを訊かないまま、南奈は自分の気分でフレンチトーストを作り始め、焼く間にハムとミニトマト、そして、インスタントのオニオンスープを用意した。
 加納家にはきっとお手伝いさんがいて、毎朝手作りの美食品が並んでいるだろうことを思うと気が引けたが、旭人はケチをつけることもなく食べた。強いていえばひと口めの、「素朴だ」という感想が引っかかったが、しばらくして「こっちのほうが好きだな」と補足された言葉は、それが物珍しさからくるとしても南奈をうれしくさせた。
 旭人がおべっかを使うとは思えないし、だからこの瞬間にそう思っているのは本当のことに違いない。

「お料理できないんですけど」
「見てればわかる」
 やっぱり全然気を遣っていない。恨みがましい南奈の眼差しを旭人は平然と受けとめる。
「それは恋愛講座零点です。そういうときは、それでもいい、とか、そういうダメさが可愛いとか、云い方あるでしょ」
「まさに、ものは言い様、だな」
 旭人はどうしようもないと呆れたふうの笑みを浮かべた。
 ふたりだけダイニングテーブルに着いてそんな会話を交わしている間、仕切りのないリビングにいる両親たちは、聴覚器官の全神経を使っているんじゃないかというくらい、きっと耳をすましている。
「夕方、仕事が終わったら迎えにくる。こっちにも紹介しておきたいから」
 南奈は突然のことにびっくり眼で旭人を見つめた。
「当然だろ」
「あ……はい、当然です」
 具体的なことになっていくと、南奈は罪悪感を覚える。
 旭人がどう云ったにせよ、旭人が強引だったにせよ、南奈が騙していること、もしくは南奈が沈黙という悪質なことを押し通そうとしていることにかわりない。
 朝食を終えると、また連絡すると云って旭人はすぐ帰った。

 南奈が食器やらフライパンやらを洗っていると、美紀が「コーヒーを淹れようかしら」とキッチンにやってきた。
「急も急、いきなり結婚なんて云いだすから、昨日の夜はひっくり返りそうになったわ」
 わたしだって、後ろが壁じゃなかったらベッドから落っこちていた。内心でそうつぶやいて――
「わたしもびっくりしてる」
 と、南奈はあっけらかんと云ってみた。
「会社の社長が加納という名だってことは知ってたけど、ボランティアの加納くんのお父さんだなんて思いつかなかったわ。南奈がやけに熱心に業平を受けたがるって、何があるのかしらって思ってたけど」
 美紀は信じられないとばかりに肩をすくめ、また続けた。
「病院で撮った加納くんとのツーショット写真、退院してから写真立てに入れて飾ってたのにいつの間にかなくなってたわよね。ちゃんと持ってるの?」
「持ってるよ」
「こうなるのも縁がちゃんとあったからよね。よかった」
「でも、不行き届きな嫁だって勘当されて、ここに出戻るかもね」
「大丈夫よ。昨日の南奈を見ても結婚の意思が変わらないみたいだから」
 美紀の発言に、昨日はそんなにひどい有様だったのかと、南奈はめずらしく云い返すことなく、ただ気落ちした。
「わたしは残念ながら“ボランティアの加納くん”に会わなかったけど、そういう目的があって南奈が業平にトライしたなんて思わなかった」
 キッチンに入ってきた春奈は、流しに立った南奈の背後でコーヒーカップを準備しながら口を挟む。
「そういう目的って?」
「再会、よ。そうなんでしょ? なんだか健気だよね。面接官と受験者として再会を果たすなんてドラマチック」
「お姉ちゃん、云っとくけど、コネを狙ってたわけじゃないし、加納主任はそんな甘さを持ってない」
 南奈を採用したことについては旭人に絡んでしまったけれど、実際のところ、旭人は一次の集団面接のときに大勢いる面接官のうちの一人というだけで、決定権がすべて旭人にあったわけではないのだ。
 春奈は南奈のいわんとするところを察したらしく、鼻根にしわを寄せた。
「採用されたのは南奈の実力だってわかってるよ? わたしが云いたいのは、南奈を見て加納さんが何を感じたのか――いま結婚するってことを考えると、すごく衝撃的だったんじゃないかと思って」

 春奈の云ったことのような場面を期待していなかったと断言するには弱い。実情は、何も起こらなかった。旭人の目は、だれもと同じように、顔と書類を照らし合わせて素通りしたのだ。
 もらってやる。その言葉を早々と希望から排除していてよかったと思った。
 そうして大逆転と云うべき今日。何が結婚へとその意思を導いたのか、それはともかく、旭人はきっと、ドラマチックとかロマンチックとか、そんな恋愛を匂わせる言葉とは程遠い。

「加納主任がどう思ったかなんてわたしにはわからないよ」
「なんか加納さんてつかめない人だよな。昨日、会ったときは南奈と結婚するとか素振りも見せなかった」
 そのはずだ。昨日の記憶が曖昧な以前、ふたりは結婚という関係とは無縁の位置にいた。それがどうしてこうなったのか、いくら考えても埒が明かない。
 ここぞとばかりに会話に割りこんできた康哉は続けた。
「南奈が気に喰わなそうにしてたのは、加納さんの態度がわからない、からだな。けど、おれ、いまなら昨日の朝、加納さんが何を考えていたかわかるかも」
「何?」
「南奈が男といることにカチンときたとか」
「ないと思う」
 南奈はすぐに康哉の見解を否定した。
「けど、おれは春奈がほかの男と急接近しているとか、許容できる自信ないな」
 康哉の考えは前提としている解釈が南奈と違う。康哉はすでにふたりが付き合っていたとみなしていて、だからそうじゃない現実の張本人である南奈には滑稽に聞こえた。
「あ、お義兄さん、シャツ!」
「大丈夫。わたしがやっておいたから。妻の仕事っぽくて楽しかったし、ちゃんと取れたよ」
 南奈は急に昨日のアクシデントを思いだして半ば叫ぶと、春奈が答えた。
「ありがとう。よかった」
「そういえばさ、南奈、家を出るから説得を手伝ってって云ったけど、結婚の許可がおりるようにフォローしてくれってことだったんだな。おれがそうするまでもなくうまくいってる」
 やはり康哉の解釈は外れている。
 南奈がリビングのほうに目を向けると、康哉の言葉に反応したのだろう、ソファに座った春己が振り向いた。
「いつ結婚するんだ? すぐにでもって感じだったな」
「ほんとにすぐにでもって感じ」
「昨日はおまえに正常な判断ができているのか怪しいと思っていた。さっきの様子を見るかぎりじゃ、父さんが反対する理由はない」
 春己は物分かりのいい父親よろしく、きっぱりと云って正面に直った。春奈を嫁にやったばかりとはいえ、こうやって家にいるから結婚は娘を手放すことにはならないと安心しきっているのだろうか。

「お母さん、わたし、結婚してもいいの?」
「お父さんと同じよ。反対する理由はないわ」
 それは、旭人と結婚していいかということへの答えだ。南奈が訊きたかったのは、わたしは結婚していいのか、その答えだった。


 南奈が旭人と会った九年まえの夏。
 部活でテニスの試合をやっていたさなか、突然、激痛が下腹部と腰を襲い、南奈は倒れた。
 慶永大学病院へ救急車搬送されて、検査が続き、緊急手術で麻酔をされるまでの痛みは表現しがたいほどひどかった。
 激痛は、卵巣のう腫の茎捻転(けいねんてん)といって、腫瘍がねじれて起きる症状だった。もう少しで破裂寸前だったという右側の卵巣は摘出、そのとき左側にも腫瘍が見つかって、こっちは卵巣温存のもと、腫瘍だけ取り除かれた。
 手術から二日後、経過を聞かされても、のたうちまわるような痛みから解放されたことにほっとするのが精いっぱいで、ほかのことは考えられなかった。
 二週間の入院だったが、婦人科よりも小児科のほうがいいだろうと、途中で病棟を変わったのは手術から五日後だ。

 当時、夏休みを利用したボランティア活動中の慶永大学の学生たちがたくさんいた。その一人、旭人がちょうど小児科を担当していた。プレイルームで子供たちと遊んだり、読書会を開いたり、勉強を教えたりする。
 南奈は手術ははじめてで、咳一つするのにも傷口が痛むし、気軽に動ける状態じゃない。それでも、動きなさいと云われて、移動した初日にプレイルームを訪れた。
 旭人が学生たちのうちの一人であれば、南奈は入院患者のうちの一人でしかない。じっと隅のソファに座った南奈に絵本を持ってきたのが旭人だ。

『もう絵本を読む年でもないか?』
 ボランティアなんだから愛想笑いくらいすればいいのに、と思ってしまうくらい素っ気なかった。
 いまの南奈だったら、突っかかっているかもしれない。けれど、当時は“こんにちは”と云うにもためらうほど、ずっとおとなしかった。
『ありがとう』
 南奈が返した言葉はどこかずれているうえ、やはりワンテンポ遅れてしまった。
 旭人は呆れたのか驚いたのか、ちょっとだけ目を見開いて南奈を見つめる。
『別のに変えたくなったら呼んで。加納だ。加納旭人』
 うなずくと、旭人は片方だけ少し眉を上げて背中を向けた。
 その日、南奈が旭人を呼ぶことはなく、けれど、次の日も旭人は南奈を見つけてやってきた。

 退屈な入院生活で、旭人との短い会話は毎日の楽しみになり、その旭人のことがきっかけで、引っ込み思案の南奈も四人部屋という同室にいた同い年の川田美穂(かわだみほ)と仲良くなれた。
『あの人、カッコいいよね』
『え?』
『加納旭人くん』
 美穂は旭人のことをまるで同級生みたいに呼んで、あまつさえ、南奈より大人びた喋り方をする。喋り方だけではなくて、考えも大人びていた。
 美穂は膝の手術で入院していていることを話し、お返しに南奈が自分の病気を打ち明けると、『卵巣って一個でも赤ちゃんできるの?』と、当事者の南奈が考えもしなかったことを突いてきた。
『わたしってやっと生まれた子供なんだって。南奈ちゃんちより、うちのお母さんはすごく年上。だから、わたしは早いうちに結婚して赤ちゃんが欲しいって思ってるんだぁ』

 結婚とか子供とか、南奈は美穂みたいに具体的なことまで想像したことはない。それは自然と将来にあることと思っていたからかもしれない。こうのとりが赤ちゃんを運んできたり、キャベツ畑から生まれたりするわけじゃないことくらいは南奈も知っていた。
 美穂の発言で南奈は一気に不安になった。
 美紀立ち会いのもとドクターから説明を受けたとき、腫瘍という言葉を聞いたのははじめてだった。悪性じゃなく良性でよかったね、と云われても、悪性だったらどうなるのかさっぱり見当がつかなかった。
『お母さん、わたしに赤ちゃんは来る?』
 夕方になって美紀が病室に顔を見せたとたん、南奈はいの一番に訊ねた。
『赤ちゃん?』
 驚いた顔で訊き返した美紀はすぐに『できるわよ』と拍子抜けするくらいあっさりと答えた。
『排卵てわかるわよね? 左のほうから毎月排卵しているかはそのときそのとき調べてみないとわからないらしいけど、生理は毎月あるし、子供は持てるって。そんなことを気にするなんて。説明するのはもう少しあとでいいかと思ってたけど、お母さん、南奈のことを子供扱いしすぎてるわね。お医者さんが云ってるんだから大丈夫。片方だけでも残せてよかったわ』

 美紀の説明は、安堵と不安を同時にもたらした。
 いいほうに考えれば、片方残ってよかった、かもしれないが、最悪を考えるなら、もう片方しかない、ということだ。
 一つと二つという違い。まだまだ子供っぽい思考力しかない中学二年生の南奈には十年後のことなど想像もつかないはずが、その差はなぜか脅威に思えた。

 次の日、美穂がプレイルームに行こうと誘っても南奈は行かなかった。旭人のことを思い浮かべたとたん、不安はしこりになって南奈のなかに根付いた。
 どうせ……。
 そうつぶやいてから自分で疑問に思う。どうせ、なんだろう。
 そんなふうにいじけた南奈のもとへ、わざわざ旭人はやってきた。楽しかった、とはしゃいだ様子で戻ってきた美穂の後ろから現れた旭人は、片手に絵本を持っている。

『どうしたんだ? 調子悪いのか』
 なんの病気か知らない旭人はそう云いながらベッドをまわってきて、絵本を南奈の手に押しつけると椅子に勝手に座った。
『……べつに』
 聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声はちゃんと届いたようで、最初の日のように眉を跳ねあげた。そして、南奈の手もとを指差す。
『読んで。いつもみたいに声に出して』
 プレイルームは小さな子供たちもたくさんいる。二日め、絵本を持つ南奈に気づいて寄ってきた子が訴えるような眼差しを向けてきて、戸惑いながら読み聞かせをした。それから昨日まで、南奈は毎日そうしていた。
『……それは加納さんの仕事です』
『ボランティアの時間は終わってる。たまにはお返しもらってもいいだろ』
 一度はめずらしく云い返したものの、二度めは切り返す言葉が見つからなかった。嫌だと云うには気が引けた。南奈のそんな性格を旭人は見透かしていたのかもしれない。
 せめてもの反抗心で、読み聞かせとはとても云えない、ぶつぶつと念仏を唱えるような口調で読んでいった。いつのまにか物語に入りこんで読み終えてしまう。顔を上げると、腕を組んだ旭人は頭を垂れて、どう見ても眠っていた。

 向かいのベッドにいる美穂が目をくるりとさせて笑う。
『旭人くーん。終わってるよ!』
 南奈とはまったく違う、快活な声に旭人はふっと顔を上げる。
 南奈と目が合っても、悪かったとか謝ることもなく旭人は立ちあがると本を取りあげた。
『また、明日な』
 あっさりと旭人は出ていった。
 次の日も同じことが繰り返されて、その次の日から南奈はプレイルームに行くようになった。

 退院が翌日という日、つまり、旭人と会えるのは最後という日。
 個人的な接触は禁じられているからだれにも云うなよ、と、旭人は自分の名前と二年半後にはここにいると云って業平不動産という会社名を書いたメモをくれた。
 それは逆に二年半は会うにも会えないということだ。
 その理由を考えた。
『なんか引け目ありそうにしてるけど、必要以上にそうならなくていいだろ。おれの目についたんだ。おまえはちゃんとやっていける』
 さみしいとも訴えられないまま、会えなくなることにいじけてむっつりしていた南奈に旭人はそう云った。
 ちゃんとやっていける、そんな証明ができるように自分で努力する時間だ。そう思った。
 旭人のメモは、大勢のなかの一人じゃなく特別だという力になった。
 皮肉にもその二年半後、その力は木っ端微塵に砕けたけれど。

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