ミスターマシーンは恋にかしずく

第2章 恋愛講座おーぷん

1.お気に入り

 オフィス街は夜も九時をすぎればめっきり人が少なくなる。だが、この街に限れば完全に眠りつくことはない。十時のいまも、あちこちのビルから明かりが漏れている。
 旭人とて、このところ引き継ぎがあるため、帰るのがいまの時間を超えることはざらにあった。
 今日は送別会というから早く仕事を終えたものの、もう少しやり残していることがあり、土曜日だろうが明日には取り戻しておかなければならない。異動という内輪の事情は取引先には関係のないことであり、時間は常に動いている。
 伴い、時間の経過で解決することもあれば追いつめられることもある。

「遅くに申し訳ありません」
 業平ビルの十一階のワンフロアを貸し切る常井総合法律事務所を訪れ、勧められた応接ソファに座るなり、旭人は代表の常井文孝(つねいふみたか)に一礼した。
「わざわざ出てきたわけではありませんよ」
 そう云った常井はちらりと旭人の隣を見やる。そのしぐさは困惑が明け透けで、旭人は内心で苦笑いをする。
「電話で話した藤本南奈さんです。南奈、加納家の顧問弁護士、常井さんだ」
 落ち着きなくきょろきょろして事務所内を見ていた南奈はハッと向かいのソファに目をやった。
「はじめましてぇ。よろしくお願いします」
 と、愛想笑いを投げかけた南奈は、首の骨が折れるんじゃないかと思うくらい、かくんと頭を下げた。それから歌舞伎役者のようにまわりくどく顔を上げる。
 その様はまるでへべれけだ。いや、酔っぱらっているに違いなく、明日にはすべて忘れているということもあり得る。記憶をなくすほど飲んだことのない旭人にはわからない感覚だが、たまにそう云う友人がいる。
 常井は咳払いをして姿勢を正す。笑いかけたのか呆れたのか、おそらく何かをごまかしている。
「はじめまして。加納家とは先代より懇意にさせていただいています。このさき、南奈さんとも長いお付き合いになりますね。何かお困りのことがあれば遠慮なくご相談ください」
「はーい」
 常井は調子のいい返事を受けて、今度こそ失笑を漏らした。それからテーブルの端に置いた紙を旭人のまえに差しだす。

「婚姻届です。旭人さん、いま署名を?」
 真顔に戻った常井は南奈を見やってから、疑(うたぐ)るような視線を旭人に向けた。南奈が正気じゃないことは明らかで、弁護士としては当然の懸念だ。
「もちろん、提出は素面(しらふ)のときにしかしませんよ。書類もそろわないし。南奈が記憶をなくしたすえに二回もプロポーズなんていう面倒くさいことをしたくないし、逃げられても困る、ということです」
 旭人の返事に常井は安心したふうでもなく、逆に眉をわずかにひそめた。
「まさか、茅乃(かやの)さまへの対抗措置ということはありませんね?」
 常井はもったいぶったように慎重にしながら祖母の名を出した。
「僕が人を好きになるというのは考えられないことですか」
 問い返すと、常井は言葉に詰まったようで、口を開くまでにひと呼吸ほどの時間が要った。
「その逆を心配してはいましたが……」
「かのー主任、わたしのこと好きぃ? わたし、美味しかったぁ?」
 間延びした声が割りこむ。
「ああ、美味しかった」
「ですよねぇ」
 誤解されかねない問いかけに応じると、南奈は満足げにうなずき、「だそうですよー」と常井に向かう。
 常井は重々しくも、ため息混じりで笑った。
「旭人さん、加納家の重大事ですので、念のため藤本家のことは調べさせていただきます。当然ながら、よっぽどのことでないかぎりその内情は加納家にも明かすことはありません」
「承知してます」





 横向きに寝た頬の下から枕が奪われる。ゆさゆさと頭が揺れるほど乱暴で、南奈は小さく呻いて抗議を示した。枕を逃すまいとしがみつく。すると、どこか感触が違う。
 枕ってこんな塊(かたまり)だったっけ。
 その硬さに顔をしかめつつも、温かさは心地よい。
「放せよ」
 頬から音の振動が伝ってきた。枕が喋った。あり得ないことに南奈はくすくすと笑う。
 次には、枕がくぐもった呻き声を発した。と思うと――
「おい、起きろ」
 鮮明な声に責められて、知っている声だ、とおぼろげに悟りながら南奈の意識が覚醒し始める。この微睡(まどろ)みを手放したくない気持ちもあって、南奈は夢とうつつを行ったり来たりした。
「藤本南奈!」
 フルネームで呼ばれ、南奈はパチッと目を開けた。ストライプ模様が鼻の先にあって焦点が合わず、目が痛くなった。ぎゅっと目をつむれば、またせっつくように鋭く声が追ってくる。
「もう九時だ。この部屋は鍵がない。だれかが入ってきて気まずい思いしたくないんなら起きろ」

 命令した声ははっきり知っている。それが寝そべった南奈の頭上から聞こえること、しがみついているものが枕のやわらかさからかけ離れていること、その二つを繋いでみるととんでもない状況だと気づいた。
 南奈はもがくように起きあがり、さっと周りを見回した。自分の部屋だ。そして、おそるおそるすぐ傍に横たわる物体に目を向けた。
 小さなベッドに旭人がのさばっている。それはまさしく物体と称すべき素っ頓狂な代物(しろもの)に見えた。マシーンだと自己申請してくれればそのほうがすんなり受け入れられそうな心境だ。旭人はゆっくり上体を起こしていく。

「加納主任、ここで何してるんですか!?」
 質問をびっくり仰天で投げかけながら飛びのくものの、狭いベッド上ではたかが十数センチで背後の壁にせき止められる。背中がぶち当たり、どんと後頭部を打った直後に南奈の腕を取って、旭人はそれ以上のダメージから守った。そんな気遣いとは裏腹に、目つきは鋭く狭まった。
「憶えてないのか」
 答えがわかっていて訊ねている感じだ。

 南奈は今日が何日何曜日かというところから考え始めたが、混乱してなかなか結論に至らず、ベッドヘッドの向こうにあるチェストを見やった。そこに置いたデジタル時計に助けを求める。
 十月一日土曜日だ。時刻は九時を指していても、ひとまず休日であることにほっとする。
 いや、安心している場合じゃない。なぜ、旭人は南奈の部屋にいるのか。しかも、同じベッドのなかだ。
 昨日……そうだ、昨日あったことを考えればわかるはず……――憶えてない……。
 正確に云えば、旭人の送別会があったことは確かに思いだした。一次会のお開きも憶えている。それから、旭人になぜか連れだされたことも憶えている。が、“なぜか”という時点で記憶は曖昧になっている。ちらほらと映像が浮かぶものの時系列を並べることは難しく、思いだせないことのほうが多いような気がして不安に煽られた。

「一次会が終わったところまではわりと憶えてるんですけど……」
 おずおずと口にした。旭人の眉間にしわが寄っていく。
「以降、憶えていることは?」
「あー、え……っと少しだけ」
 まったくと答えるほうがより近い気がするけれど、ひんしゅくを買いそうでついそう応じてしまった。
「つまり、ほとんど憶えてないってことだな」
 旭人は冷ややかに南奈の事実を見越している。
 じろりと睨んだようにしたかと思うと、旭人はベッドをおりた。
 旭人が着ている藍色のストライプのパジャマは康哉のものだと認識しながら、南奈は動向を見守った。旭人は部屋の中央に置いた小さなテーブルまで行き、そこにあった紙切れを持ってベッドに戻ってくる。そうして、裁判の判決を受けて“勝訴”と誇示するシーンのように、ぴんと張った紙が南奈へと差し向けられた。

「おれたちは結婚する」
 旭人の宣言は南奈の耳に浸透せず、その一方で、紙のタイトル“婚姻届”がやけに大きく目に映った。
 角張って撥(は)ねが強い、そんな男っぽい字で旭人の名が署名されているのはともかく、南奈の名がどう見ても南奈の字で書かれていることに唖然としつつ、まじまじと目のまえの紙に見入った。
 南奈は怖々と顔を上げていく。のどもとがまっすぐに伸びた頃、旭人の目にしっかり捕らえられた。

「え……っと……」
「弁護士の立ち会いのもとで書いた。本物だ」
 訊きにくくて南奈がためらっている間に、旭人は先回りした。その眼差しはじっと見据えていて、何一つ見逃すことはなさそうだ。
「弁護士……さん?」
 旭人は吐き尽くすといったような息をついた。
「業平ビルのなかに入ってる、加納家の弁護士だ」
 そう聞けば一つ記憶が浮上してくる。
「そういえば、夜間専用の入り口にカードを通した記憶はあります。わたし、酔っぱらってました?」
「よく二日酔いにならないなってくらいにな。記憶が途切れてるんなら、泥酔していた自覚はあるはずだ」
 酔っぱらった勢いで婚姻届に署名するなんて、ほかに何をしでかしたのだろう。一抹の――どころではなく、大量の不安が押し寄せる。
「わたし、ほかにバカなことしてませんか?」
「酒臭いキスはどうだ?」
「キキ、キ、キスですか!?」
「美味しいっておまえは云ってたな」
 露骨に驚愕しながらという問いかけに、旭人はくちびるを歪めて追い打ちをかけた。
「か、加納主任……と?」
「ほかにだれがいる」
 旭人はしゃあしゃあと認めた。
 愕然として南奈は言葉を失うが、やがて旭人が部下に――しかも南奈に手を出すなどあるはずがないと半信半疑になり、そして、酔っぱらいに付けこむなんて、と無性に批難を浴びせたくなった。
「ファーストキスですよ? 知ってたくせにひどいです! もっとちゃんとした時間とか場所とか――んっ」
 のけ反った顎に旭人の指先が添い、次の瞬間には南奈の抗議はさえぎられていた。

 薄めのくちびるがこんなにやわらかいなんて想像したこともない。言葉を奪うように吸いついた次には、舌が口のなかに入ってきた。
 甘く感じるのはなぜだろう。旭人は感触を確かめるように粘膜を這い、なだめられているような感覚のもと抵抗する気はさらさら起こらなかった。
 緩やかなキスは唐突に終わる。それとも、南奈がそう感じているだけなのか。
 けれど、旭人の顔は焦点が合わないほど近くに留まっていて、それは何かを示唆しているように思えた。南奈に芽生えた衝動は抑制できずに、ほんの少しだけ伸びあがった。経験不足すぎて、南奈からのキスは口づけただけで終わる。

「時間も場所も関係ない。“美味しかった”んならそれがベストだろ」
 旭人はもっともらしく云う。
 ごまかされている感は否めないが、こんなキスが南奈と旭人の間で昨日あったとしたら、さっきの不満もどこへやら、もったいない、そんながっかり感に占められた。
 南奈は、男女問わず人と手を繋いだりハグしたりするのにためらいはない。もちろん“知っている”といえる間柄が前提だ。ただしキスとかセックスは別物で、おふざけでも乗りでも、はじめては安易に終わりたくなかった。
 あいにくと、ファーストキスは記憶の底に沈んでいる。けれど、いまみたいなキスだったとしたら悪くない。むしろ、旭人でよかった、と思ってしまいそうだ。

「加納主任て、キスうまいですね」
 そう云ったら、旭人の口から吹きだすように笑みがこぼれた。
「はじめてにこだわる気持ちはよくわからないけど、気に入ったんなら問題ないな」
 と、旭人が口にする間に南奈ははたと思い至った。
 もう一つのはじめてというこだわり、一緒のベッドにいた、というのはどういうこと?
「か、加納主任! わたしのヴァージンはどうなったんでしょうか!?」
 南奈の叫び声に、「家族に聞こえていいのか」と、旭人は肩をそびやかしながら自分は気にもしてなさそうに忠告し――
「泥酔した女を襲うほど理性は欠けてない」
 と、呆れた様で南奈の貞操の危機が回避されたことを示唆した。
 もとい、旭人は理性の塊だ。
 その解答に安堵を覚えたのは、ヴァージンが守られたことに対するものか、はじめてという経験をうやむやな記憶にしないですんだせいか。
 南奈は首を垂れてほっと吐息を漏らす。同時に、畳の上に敷いたふとんが目に入った。明らかに使っていない。

「加納主任、ふとん、そこにあるのに……」
「悪いけど、床には寝ない」
「床じゃなくて畳です」
「無理だな」
 旭人は即行で却下した。少年ぽいと感じるのは見間違いか。
「もしかして苦手なんですか?」
「物心ついたときはベッドがあたりまえで床に寝る習慣がない」
「だから畳です。日本人でしょ?」
 加納家が大した西洋館だとは耳にしているが、その生活習慣がどんなものかは想像もつかない。笑いたいのを堪えて云うと、ごまかしはきかなかったようで旭人は気に喰わないといった気配を醸しだす。
「とにかく、おれたちは結婚するんだ。ファーストキス以上に美味しいことはあるだろ。いろんな意味で。結婚相手の条件で云えば、おれに不足はないはずだ」
 傲慢な云いっぷりだ。
 否定はできない。たった昨日、南奈はそんなことを考えていた。
 けれど、旭人の結婚相手が南奈自身だとは考えたこともないし、あり得ないのだ。

「わたしにとっては不足ないかもしれませんけど、加納主任には、わたしはきっと不足だらけです」
 旭人はひどく目を細めた。
「何が不足してる?」
「家柄、釣り合わないと思います」
「犯罪者がいるとか?」
「そんなことはありません」
「なら、心置きなくできるだろ。今時、問題になることはない」
「ありますよ。うちは普通の普通だし、加納家のレベルでは両親が付き合いきれないと思います」
 というのは、同僚たちと旭人の噂をしたときの受け売りだ。結婚は本人達だけでなく家と家の付き合いであり、行事ごともある。お中元やお歳暮や、贈り物を取っただけでも何を贈るかたいへんだという話になった。
 南奈のまっとうな云い分に旭人は考えこむように眉をひそめている。
「おれが気をつける。負担を押しつけず、なお且つ、恥を掻かせるようなことはしない」
 旭人は云いくるめてくる。
 南奈はもう一つ同僚たちと話題になったことをぶつけてみた。
「加納主任は跡継ぎがいるでしょ? わたし、子供って苦手なの」
「子供が好きだから子育ても好きで上手ってことにはならない。どうにかって程度でだれもがやってることだろ」
「できなかったら?」
「そのときはそのときだ。兄夫婦にはもう子供がいるし、だから問題ない」
 つぶさに見ていると、ためらいもせず旭人はそう答えた。

 子供がいなくてもいい。そういうこと? それなら――
 と、南奈はふと疑問が浮かぶ。
 旭人が南奈と結婚したがる理由はなんだろう。
 理由といえば、自分は何を思って婚姻届に署名をしたのだろう。
 ふたりが結婚するには根本的なものが欠けている。キスに惑わされてそっちのけになっていたけれど、いちばん肝心な気持ちが見えないままだ。南奈はそんな重要事項に気づいた。

「加納主任、わたしたち、べつに好きとか嫌いとかなくて……嫌いだったらそもそもこういう話にならないんでしょうけど……結婚するっておかしくないですか」
 南奈が首をかしげると、旭人はつと目を逸らし、そのさきにあるドレッサーを見るともなくじっと見据える。
 返事があるまで、南奈はなぜか急かしたくなるような苛々感を覚える。まもなく旭人の視線は戻ってきた。
「もらってやるって云ったくせに、ってなじったのはだれだ? もらってやるって云ったおれが拒んだら加納家の体面が傷つく」
「加納主任、最初に会ったときのこと、憶えてるんですか?」
 旭人は南奈の問いかけから一拍を置いて肩をそびやかした。
「大学時代、ボランティアで小児科を訪問した。そのときのことだろ?」
「全然、憶えてるなんて云わないから忘れてるって思ってました」
「詳しいとこまで憶えてない。完治してるって聞いたし、重要なことは、約束を果たすってことらしい。そうだろ」

 ――どうにもならなくなったら来ればいい。おまえをもらってやる。
 そんな言葉を受けて、もらう、って? と訊ねたら、結婚するってことだ、と旭人は答えた。
 十四歳という幼さのなかでも、『もらってやる』という言葉は、あくまでなぐさめだと察していた。嘘ではなくても、自分を大事にしていないという投げやりのような気持ちを旭人のなかに垣間見た。自分がそうだったから南奈は感じとれたのかもしれない。
 同じ大学生がたくさんいるなかでも、旭人は違って見えた。どう違っていたのか表現することは難しいけれど、端的に表せば、やはり“触るな、危険”だろう。裏を返せば、テリトリーに侵入することは許さない、という拒絶だ。
 それなのに、いきなり南奈のまえのゲートは開いた。

「……なじった憶え、ありませんけど」
「昨日、リビングでご両親に挨拶しているときに散々云った。お母さんにでも訊いてみればいい」
「挨拶?」
「結婚の挨拶だ」
 また南奈は重要ポイントを取り逃していた。
「加納主任、泊まったってことは……」
「ああ、結婚の了解は取った。おれが加納旭人だってことよりも、“ボランティアの加納くん”ていうことのほうが効いたようだった」
「父も認めたんですか?」
「お父さんだけじゃない、お姉さん夫婦もそうだ。大谷さんは昨日の朝、会ってたし、おれが加納旭人であることを保証してくれた。挨拶で立ち寄っただけのつもりだった。けど、酒を勧められていまに至ってる」
 そう云われてなんとなく思い浮かべたシーンは本当にあった記憶か、それとも南奈の想像にすぎないのか。
「おれは南奈を気に入ってる。結婚してみるのもいいと思うほど。どうなんだ?」
 旭人は返事を催促するように顎をわずかにしゃくった。

 いつの間にか、旭人の呼び方が“藤本さん”から“南奈”に変わっている。
 気づかないほど心地よく南奈の耳に届いているのなら、けっして自分は旭人のことが嫌いではないのだ。“好き”ではなく“気に入ってる”と、旭人の言葉は南奈にもぴったり当てはまる気がした。
 なんとなく旭人を目で追ってしまうのは再会という特別なことのせいだと思いこんでいたけれど、それが理由であれば、例えば成人式の同窓会では、いくつ目があっても足りないほどたいへんなことになっている。つまり、加納旭人であること、という条件を“再会”に付け加えてこその特別に違いなく、それくらい、きっと自分は旭人のことを気に入っている。

「結婚してみる、って……やっぱりダメだって思ったら?」
 旭人のことをすごく好きで、そんな旭人に『してみる』と云われたら、もしかしたら傷つくかもしれない。最初から結婚の前提として終わりがあるようで。
 けれど、南奈にとってはこれ以上にない救いの言葉だった。
「いまその答えをおれが云えるとしたらどうかしてるだろ」
 旭人は質問の意味がわからないといったふうに首をひねりながら吐いた。
 南奈は思わず笑みを漏らす。
「なんだ」
「機械はやっぱり精密だって思っただけです。そんなことはないって否定しないし、未来を曖昧にして不安を煽ってるわけでもないから。加納主任は恋愛しても理性的でのめりそうにないけど、恋愛講座のテストだったら、いまの答えはきっと満点だって思う」
 旭人は可笑しそうにくちびるを歪める。
「確かにのめったことはない」
「……本気で好きになった人はいるんですか?」
「いま答えは云っただろ」
 旭人はため息混じりで云い、くだらない質問だとばかりに肩をすくめた。
「……わたしのこと、好きになれるんですか」
「おまえの努力次第だ」
「努力しません!」
 南奈が即座に宣言すると、旭人は、昨日エレベーターホールで見たのと同じ笑い声を発した。
 結婚したらもっと旭人の笑顔が見られるだろうか、とそんなことを無意識に思う。

「それなら、叶わなくても好きな奴がいるっていう南奈のほうが有利だ」
「……加納主任は、わたしに好きな人がいてもかまわない? それってヘンです」
「かまわない? いや、おもしろくない、だな」
 旭人は鼻先で笑う。それは、本当におもしろくなさそうに見えて少々驚く。目を丸くした南奈を見て吐息を漏らした。
「努力すべきなのはおれか?」
「たぶん」
「はっ。ということは、オーケーもらえるんだな?」
「一度くらい結婚してみてもいいし、わたしも加納主任のことは気に入ってる」
 南奈は旭人の救いに甘えた。
 病気は確かに完治している。けれど、結婚とは切り離せない後遺症が完全に治癒することはない。奇蹟を願うだけ。あるいは、やっぱりダメだ、と旭人が判断するだけだ。
 旭人は首を横に振りつつ息をつくと、それまで南奈は気づかなかったがこわばりが解けたようにほんの少し肩を落とした。

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