ミスターマシーンは恋にかしずく

第1章 ミスターマシーン流責任の取り方

2.触るな、危険

 一緒に家を出たところで、会社が逆方向になる春奈とは駅で別れる。
 康哉とは腐れ縁と称するべきなのか、同じ方向であれば業平ビルという行き先も一緒だ。康哉は業平ビルのなかに入るIT企業、東洋システムウエアに勤めている。
「南奈が業平OLだなんて半年たっても信じられないんだけど」
 そういう春奈は、老舗の電機メーカー、EM(エム)電機の子会社に勤めていて、けっして南奈に引けを取っているわけではない。つまり、ただ純粋に南奈イコール業平OLという実態に驚いている。
 内定をもらって以来、何かにつけて家族からも友人たちからも似たようなことを云われる。南奈にはそぐわないと云われているみたいで、鼻高々だった気持ちはすぐにしぼんで、いつ内定取り消しが来るのかと怯えていたくらいだ。実際に勤め始め、それでも改まって口にされると、この頃は情けなくさえなっている。
「お姉ちゃんたちがあんまりそう云うから、入社式はホント、わたしの社員証あるのかってどきどきだったんだよ。いまだから云うけど」
 南奈は口を尖らせてわざとらしく怒ってみせると、春奈はふと宙を見て考えこんだようにして、それから眉をハの字にしてすまなそうにした。
「あー、そっか。ごめーん。悪気あるわけじゃなくて、うらやましいって感心してるだけ。わたしは最初から無理だってあきらめてエントリーもしなかったけど、南奈のそういう積極的なところ、いいなって思ってる」
「おれはエントリーしたけど、三次落ちだし。南奈は強運の持ち主かもな」
 うらやましいとか、強運とか、ふたりに云われるとなんともちぐはぐに聞こえた。
 南奈は、康哉のハートをつかんだ春奈がうらやましいし、南奈がいなければ出会わなかったふたりが結婚できたのは“南奈には縁のなかった運命”だ。
「運がよかったのは業平に受かったことだけ。それでわたしの運は尽きたかなぁ」
 のほほんと答えてみると、ふたりは短くぷっと吹いた。

 自分で云ったとおり、業平不動産に就職できたのはよほど運がよかったのだ。採用されると思って受けたわけではなかった。
『おれの云ったことを嘘だって思うようになって、どうにもならなくなったら来ればいい』
 呆れたのか、ただ単に冷たいのか、そんな口調で教えてくれたのが、彼の名前と“業平不動産”だった。
 どうにもならなくなったわけではない。きっと。たぶん、どこかでその言葉が支えになっていたかもしれない。自分は大丈夫なんだという、証明が欲しかったかもしれない。そう保証されているならうまくいく。そんな賭け事みたいな挑戦は、実際にうまくいったけれど充分という気にはなれなかった。何が欠けているのだろう。
 康哉と一緒に出勤するのも二週めになると、そう話すこともない。駅を出て業平ビルへと康哉の後ろをついていきながら、南奈はやっぱり家を出ようと決めた。

「大谷……お義兄さん」
 エントランスに入ると、それぞれの会社に出勤する人が合流するなか、善は急げとその気になった南奈は康哉に声をかけた。
「わたし、独り暮らししようって思ってるんだけど、お母さんたちの説得――」
 手伝ってくれない? と続けようとした言葉を「あ!」という自分の悲鳴がさえぎると同時に、目のまえに迫った白いシャツに顔が突進した。
「わ」
 康哉が頭上で吃驚(きっきょう)な声をあげつつ、南奈の腕をつかんで支えた。南奈たちの後ろをやってきていた人が、突然障害物と化したふたりを慌てて避けるのが目の端に映る。
「もう、大谷先輩、急に止まるから!」
 文句を云いながら高くもない鼻をさすっていると、シャツが赤く染まっている。一瞬、鼻血が出たのかと鼻の下を触ったが濡れた感触はない。まじまじと見ると、南奈はそれがリップの痕だと察した。これでもかというくらいべったり塗っていただけに、『あ』と開いたままのくちびるの形はくっきりしている。
 南奈の視線を追って康哉は自分のシャツを見下ろす。
「ひっでぇ」
「ごめん。でもどうせ内勤でしょ。だいたい、先輩が急に立ち止まるから」
「じゃなくて、急なのはおまえ」
「何?」
 南奈はトートバッグのポケットからティッシュを取りながら、なおざりに訊き返す。
「家を出るとか、お義母さんを説得とか、なんだよ。出ていくんならおれたちだろ」
「……じゃなくって、先輩たちを口実にしたら出ていく許可が簡単におりそうって思ってるんだけど」
 おれたち、かあ……。
 と、なんとなく気分が沈みながら南奈は康哉のシャツをつかむと、生地を張ってティッシュで押さえてみた。そうしても、ティッシュにかすかに色がつくだけで取れそうにない。
「なんでそうしなきゃいけないんだ?」
「しなきゃいけない、じゃなくて、したい、だけ」
 渋面の質問を訂正すると、南奈はため息をついてティッシュをしまった。
 康哉とはこれまで兄妹みたいに付き合ってきたけれど、春奈と結婚すると決まってからはまるで保護者気取りだ。春奈から何を聞かされているのだろうと勘繰ってしまう。
「昼休み、コンビニでクレンジングオイル買ってくるよ」
「もういい。南奈のいうとおり、内勤だし、このままジャケット着ておけば目立たないさ」
「じゃあ、帰ったら洗濯機の脇に出してて。遅くなるけど、わたしがきれいにしておくから。さっきの話の続きは明日でいいし。早く行かないと遅刻しちゃうんじゃない? わたしはまだ余裕だけど」
 南奈が促すと、康哉は慌てもせず時計を見下ろした。
「まあ、ここでする話じゃないけど……」
 康哉は云いかけたまま口を噤(つぐ)み、直後、南奈は傍に人の気配を感じた。

 すぐ横でその躰は上体をまえへと傾けていく。“ゆったり”というよりはしなやかといった表現が合うしぐさだ。その動きにいざなわれるように下を向くと、自分の足もとに見覚えのあるハンカチが目に入った。憶えがあるはずだ。ティッシュを取りだしたときに落としたのだろう、南奈のハンカチに違いない。
「あ、わたしのです。すみません!」
 口早に云いながらかがみ、二つの手が同時にハンカチに届くかという瞬間、「南奈!」と康哉が叫び、その意味を把握する間もなく、距離を見誤ったようで南奈の額が相手の耳を打つ。唸るような声がしたかと思うと、南奈が疼く額に手をやった隙にハンカチは奪われた。
 どっちが早いかというくらい、南奈はぱっと立ちあがる。
「加納主任! すみません、大丈夫ですか」
 だれかと確認するまでもなく、南奈の口から上司の名が飛びだす。
 その加納旭人(かのうあさと)のことは、遠目だろうとおそらく間違えようがない。
 平均を下回るほど背がうまく伸びきれなかった南奈からすると、旭人は見上げるくらいに背が高い。何事にも無関心そうな瞳、そして全体的な雰囲気は、プレートを立てるなら“触るな、危険!”だ。独りでいるのが似合う人だと南奈は思っている。
 旭人は睨むように目を細めると、次には呆れたように首を振った。
「すみません」
 康哉が南奈をフォローすると、旭人の目がちらりとそちらに向く。挨拶がわりなのか、旭人はかすかに首をひねり、ハンカチを南奈に差し向けた。
「人の親切は無駄にするんじゃなく受けとれ」
「ありがとうござ……」
 ハンカチを受けとり、お礼を云いきるまえに旭人はさっさと立ち去った。

 その背中を見送りながら南奈は眉間にしわを寄せ、わずかにくちびるを尖らせる。
 旭人は九年まえの大学生だった頃と少しも変わらない。見た目は二十九歳らしく、大人っぽい落ち着きと強靭さが窺えるけれど、中身はそのままシビアだ。
 少なくとも、南奈に関しては。

「南奈、いまの加納主任って云ったけど、あれが業平不動産の後継者か?」
 康哉が問いかけ、南奈は旭人の背中から目を離して見上げた。
「社長子息だけど、後継者は三つ年上のお兄さんが有力って話。お兄さんはグループ全体に係わる営業総括推進室っていうもっと上のところにいて、肩書きは室長代理。いまの加納主任は弟のほう」
「兄弟仲、いいのか?」
「うん、すごくいい感じ。表に立つ室長代理と違って、将来、加納主任は経営を裏方から支えるコーポレート部にまわるって」
「へえ。ちょっと見た目、やり手って感じだけどな」
「頭いいってことは確か」
「なんだ?」
 康哉は怪訝そうに首をかしげた。
「なんだ、って何?」
「なんか気に喰わなそうにしてるからさ」
「まあ……いろいろあるんじゃない?」
 他人事みたいな云い方で応じると、「さき行くね」と南奈は返事も待たずに康哉の脇を抜けて正面のエスカレーターへと駆けた。

 二基あるうちすいているほうを選んで、さらに、行儀よく上に着くのを待っている人たちの横を半ば駆けのぼる。二階が始点というエレベータースペースに行くと、奥にある業平不動産直通のエレベーターに乗りこもうかとする旭人が見えた。
「加納主任!」
 立ち止まることもなく、旭人はそのまま箱のなかに消えた。無視するとは旭人らしいと云えばそうだが、納得のいく仕打ちではない。
 南奈はむっとしながらも人の間を縫って進んだ。扉が閉まるまえに間に合ってエレベーターに乗りこんでみると、入り口の隅に立ってボタンパネルから手を離す旭人に気づいた。どうやら開くボタンを押して、いちおう南奈を待っていてくれたらしい。
 会社直通だから当然ながら加納主任イコール旭人というのはだれもが知るところで、自然と旭人の傍のスペースが南奈のために空けられた。差し当たりだれにともなく、すみません、と声をかけるさなか、エレベーターは上昇しだす。
「加納主任、ありがとうございます」
 狭い箱のなかは、特にいまみたいに満員だと不自然に沈黙が蔓延しておよそ呼吸音で占められるものだが、南奈はかまわず普段の音量でお礼を云った。案の定、見上げた旭人は顔をしかめる。
「加納主任、相談があるんです」
 返事を期待しているわけではなく続けて云うと、聞き耳を立てられているのがありありとわかった。
「アパートを探してるんですけど、条件とかどこまで考えたらいいのかわからなくて。賃貸でも、ここはやっぱりだめだってなってまた引っ越しってことにはしたくないのでアドバイスいただけたらと思ってます」
 旭人はますますうんざりした面持ちになった。
「そういうことはカレシと相談することだろ。子会社に紹介はしてやる」
「カレシ? いたらそうするかもしれないけど……」
 南奈は云いながら、ふと旭人のほのめかしに気づいて、その根源に思い至った。
「あ、さっきのは義理の兄ですよ」
 と次ぐと、旭人は呆れたように吐息を漏らした。

 そうしている間に、エレベーターは業平不動産のフロントがある三十五階に到着した。
 業平不動産は四十階建ての業平ビルのうち、三十五階から三十八階を占めている。
 南奈が所属する住宅事業本部は三十五階にあって、旭人はそのリフォーム部門の主任で南奈の上司だ。
 出入り口に立っていた南奈は必然的に流されるように降り立ったが、振り向くと、旭人はそのままエレベーターに留まって隅っこで待機している。
 何か云いたそうな気配を感じて、南奈は人の流れを逃れて旭人を待った。南奈にしろ、話は終わっていない。
 檻さながらの箱からゆったりと出てくる姿は、遠巻きにうろつき、様子を窺う野獣のような雰囲気だ。旭人の背後で扉が閉まり、階数を表す数字が一つ上昇する。

「藤本さんは、頭がいいのか悪いのか、どっちなんだ?」
「どっちでもなく普通のつもりです」
「つもり、か」
「ここで働けてるし、少なくとも頭が悪かったらそうできなかったと思います」
 なかなか切り返しできていると思うと――
「いや、ここで働けてる理由はもう一つある」
 皮肉っぽい口調に南奈はなんとなくかまえた。
「なんですか」
「面接官が本質を見間違えた、とか」
 取りようによってはひどい云い様だ。いや、旭人は明らかに南奈がこの会社には不相応だと云おうとしているのだ。
「加納主任は、その面接官の一人でした」
 ささやかな抗議をすると、旭人のくちびるが歪んでいく。
「はっ。そのとおりだ」
 短くても旭人の笑い声は、この瞬間、はじめて聞いた。
 目を丸くすると、そんな南奈を旭人はじっと見下ろして、それから笑みを引っこめた。
「頭がいいかどうかはともかく、人の耳がある場所で独り暮らしだなんていう宣言はやめておけ。いままでぬくぬくと育ってきたかもしれないけど、犯罪はそこらじゅうに転がってる」
 確かに、幸いにして南奈はこれまで危険な目に遭遇したことはない。けれど、ぬくぬくと育ってきているのは、中小企業に勤める両親のもと三十年ローンを抱えた家で質素に生活してきた南奈よりも、節約なんて縁のないゴージャスな生活を保障されている旭人のほうだと思いながら首をかしげた。
「人の耳、ってみんなうちの会社の人ですよ?」
「だからよけいに危ないんじゃないか? 藤本さんがどこに住んでいるのか、突きとめるのはこの会社だからこそ容易になる」
「……もしかして、心配してます?」
「わざわざ犯罪の種をばらまくことはないと云ってるだけだ。万が一、そういうことになったら会社にとって大打撃だ」
 寸分の隙もない理由でもってあえなく退けられると、旭人にとって南奈の存在価値は並み以下ではないかと疑ってしまう。憂うつ、反感、虚しさなどなんともいえない気分が漂う。
「気をつけます。それでいいですか」
 がっかりしたことは隠してつんと顎をあげると、南奈の反抗を悟ったのか旭人は目を細めて威嚇した。
「実家から通えてるんならもうしばらく自宅謹慎してろ。独立はもっと大人になってからやるべきだ。少なくとも今日から半年、エレベーター同乗者の記憶から消えるまではNGだ」
「加納主任、家にいると、どうにもならなくなるんです」
「意味不明だな」
「わたしが加納主任と会ったのは面接がはじめてじゃないんですけど」
 旭人は首を横に振るという曖昧なしぐさで片づけ、南奈を置いてさっさとオフィスに向かった。

BACKNEXTDOOR