ミスターマシーンは恋にかしずく

第1章 ミスターマシーン流責任の取り方

1.キューピッドの憂うつ

 遠いところから耳になじんだ音楽が聞こえてくる。歌詞をたどりながら、お気に入りのフレーズを聴き逃した――と気づいたとたん、藤本南奈(ふじもとなな)ははっと覚醒した。
 枕に沈んだ顔を上げ、うつ伏せの上体を持ちあげる。枕もとに置いていた携帯電話を手にして、目を瞬きながらアラームを切った。
 時間を確認すると七時をすぎている。一気に目が冴えた。スヌーズ設定にしていると油断してしまう。先発して鳴っていたはずの目覚まし時計はいつの間にか止めていて、後発の携帯電話も何度かやりすごしている。
 あー、ばか!
 まったく朝に弱い自分に悪態をつきながら、南奈はベッドから転がるように起きあがった。
 部屋を出てトイレに駆けこむ寸前、自分でドアを開けるまえに内側から開いた。だれかとぶつかりそうになってのめりそうになりながら立ち止まる。
「おっと。南奈、おはよう」
 相手もふいをつかれたのは同様で、軽く万歳するように手を上げながら一歩下がった。
「大谷先輩……じゃなくて、お義兄さん、おはよう」
「なんか、そういう呼ばれ方って調子狂うな」
「……大学は卒業したんだし、いつまでも先輩って云うほうがおかしいよ。それより、どいて。急がないと遅刻しちゃう!」
「色気もたしなみもないな」
「ほっといて!」
 はいはい、そうつぶやきながら大谷康哉(おおたにこうや)は脇をすり抜けていった。
 つかの間、そのパジャマ姿の背中を見送り、南奈はトイレに入った。
 色気とかたしなみとかあったら困るのはきっと康哉のほうで、南奈ではない。だからわざとがさつに振る舞って困らせないようにしているのに気づきもしない。
 閉めたドアに背中をもたれてため息をつく。
 康哉は一週間まえ、南奈より二つ年上の姉、春奈(はるな)と結婚をした。付き合い始めたのは三年まえで、そのきっかけをつくったキューピッドは南奈だ。
 大学二年のときに南奈は文化祭の実行委員になって、そのときに委員長をやっていたのが康哉だった。南奈は、康哉とは年齢は違えども、いわゆる馬が合う。康哉はざっくばらんだし、南奈はよく云えば天真爛漫、悪く云えば傍若無人な性格をしていて、詰まるところ、互いに気兼ねをしなくてすむ。
 春奈と康哉は同じ大学の同級生だが、学部が違っているゆえ、それまでふたりは見知らぬ者同士だった。文化祭の活動中、康哉は家の方角が一緒だからと、帰りの電車は途中下車をして家まで送ってくれることがよくあった。そんなある日、春奈と合流したのだ。互いにひと目惚れのようだった。
 そのときの康哉の表情も雰囲気も、南奈に見せるものとは違っていたことを憶えている。
 乾いた大地にうるさい雷は不要だけれど雨は必要という以上に恵みになる。一瞬にして潤った。康哉はそんなふうに満ち足りて見えた。
 そうして南奈は、気遣いが向けられることと求められることはまったく別物だと知った。
「家、出たいな」
 そうつぶやいてから、南奈は大きく息を吐きだした。


「南奈、今日は夜ごはん、いらないんだったわね?」
 バターを塗りこめたトーストをかじっていると、母の美紀(みき)が呆れたような顔つきで問いかけた。急いで口のなかに詰めこんでいる姿は、飢えた子供みたいに見えているかもしれない。
「いらない」
 行儀悪く、口をもごもごさせながら返事をすると、斜め向かいに座った康哉は失笑して、正面にいる春奈はティッシュを取って南奈に差しだした。早々と出勤した父の春己(はるき)がいれば、咎めたいのを堪えつつ眉をひそめているだろう。
「口もと、バターでてかてかしてるから。ちゃんと拭いていくんだよ」
 春奈はふわふわした笑顔を浮かべて諭した。
 これじゃあ、康哉もイチコロだったはずだ、と南奈は思う。
 春奈は、長女にありがちな慎重さを持っていて、いつも控えめだが面倒見はいい。加えて、トイプードルみたいなちまちまっとした可愛さを備え、きっと男性からすればかまいたくて守りたくてたまらないタイプだろう。
 正直、うらやましい。
 南奈も大して変わらない性格だったと思う。
 ただ、変わった。
 欠陥人間らしくありたくなかったから。
「ありがとう。リップまだしてないし、大丈夫」
「あ、またよけいなお世話したかな」
「だと思う。もう学生じゃないんだし」
「――のわりに寝坊してる」
 康哉はすかさずつついてくる。
「ほっといて」
 夜になると部屋の真上に盛りのついた猫が二匹現れて眠れないんだ――と訴えて仕返しをしようか。そんな誘惑は、トーストを呑みこむのと一緒になんとか堪えた。
 南奈は手早く朝食を食べあげると、部屋に戻ってメイクのチェックをする。そうしながら鏡に畳が映るのを見るとため息が出た。
 一階の和室にロートアイアンのゴシック調ドレッサーではまったく合っていない。一カ月まえまではちゃんと似合った部屋にあった。
 その二階の部屋は、春奈と康哉が結婚して同居するに当たり、譲ることにしたのだ。
 康哉は広島出身で、大学から独り東京に出てきた。そのとき借りた1Kのアパートはふたりで住むには手狭すぎて、当初は新居の賃貸物件を探す予定だったのだ。その考えをひるがえさせたのは南奈の両親だ。
 どうせなら賃貸よりも購入したほうがいいと持ちかけ、お金を貯める間、うちに来たらいいと提案した。
 両親の真意はその実、未来にわたって広島に行くことなく春奈をこっちに留まらせるためではないか、と南奈は密かに疑っている。
 子供は姉妹ふたりだけだし、恋愛下手な南奈が孫を見せるという可能性は低いし、それだったら春奈を手放したくないという意が働くはずだ。
 まったく、もう片方の娘の気は知らないで。
 ぼやくと、鏡のなかで自分が口を尖らせているのに気づく。闘争心のようなものが芽生え、今日はトマト色のリップをつけることにした。
 肌の色は黒くもなければ白いというほどでもなく普通だが、少し厚めのくちびるは南奈が自慢とするピーチ色で、ほとんどヌーディな色しかのせることはない。
 ストレートの長い髪は前髪も含めてパッツンで真っ黒にわざわざ染めている。焦げ茶色のマスカラにアイライン、パープルのアイシャドーというほとんどダークな色のなかで、血を舐めたあとのようなトマト色が浮く。
 ゴシックメイクをちょっと控えめにした雰囲気は、周囲から不思議がられることもある。気に入っているくちびるはうらやましがられるし、メイクはナチュラルでいいんじゃないと勧められる。けれど、南奈の顔立ちの都合上、そうしたらその言葉どおり、山に生えた木々のなかの一本のように、まったく飾り気も見分けもつかない平凡な顔になる。
 茶髪が横行するなかの真っ黒い髪もゴシックもどきメイクも、南奈にとっては自分が目立つための手段だ。
「南奈、行くぞ」
 壁の向こうに足音がしたかと思うと、康哉が呼びかけて待つことはせずにそのまま通りすぎていく。
 おまけに軽やかな足音とともに――
「南奈、行くよー」
 と、春奈の呼びかけが続いた。
 ふたりは、二つしか違わないのに南奈をまるで子供扱いしている。子供っぽいことは事実だけれど。
 ふたりで行けばいいのに。
 内心で反抗しながら南奈は大きくため息をついて部屋を出た。

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