ラビュリントス

Heart of Love
The core〜アイの核〜 #7

「最初から話します。……死んだ奴は小学生のときからおれを子分扱いしていた。あいつが中学に行ったら解放されると思った。けど違った」
「子分扱いじゃなくていじめよ。あんたはあいつらの仲間じゃない」
 多英はちらりと蝶子を見やり、八の言葉を云い換えた。八はやるせなくうつむき、また顔を上げるまでには時間が要った。
「多英たちが最初に声かけてくれるまえ、おれはあいつから躰を押さえつけられて噴水で溺れそうになってた。本当に死ぬかと思った。多英たちを振りきって帰りかけた途中にまたあいつに捕まって、兄貴とその仲間のところに連行された。多英たちに話しかけられてたところを見られてたんだ。女を連れてこい、そう云われた。返事をしなかったら首を絞められて、噴水のこともまだ生々しかったし、怖くて従った」
 八は喘ぐようにしながらいったん語るのをやめた。
 あの場景は、多英を救いたいのにもう手遅れだ、そんな闘いに負けた無力感をもたらす。萌絵と同じように八もそうなのだ。いや八こそがそうなのかもしれない。
「二年たって兄貴たちは刑務所行って、残ったあいつが高校をすぐ退学したって知ったのは、中二の夏休み直前、校内の噂でだった。噂には、裏サイトの話がついてまわった。最初は単純に多英がやったんだと思った。おれも警察から簡単な事情聴取はされたけど、何もなくてすんでる。次はおれだと考えた。びくびくしながらすごすのはあいつに絡まれているときよりもずっとひどい気分だった。自分のせいであって、だからだれにも文句をぶつけられない。けど、さっき多英が云ったとおり、多英が自分を晒すようなことをするはずがない。中学でも高校でもおれには何も仕掛けられなかった。あいつの死を聞かされたのはやっぱりあとからで、あいつが死んだときと同じ二十歳になるときだった。報いだって思う反面、おれは普通に生きてることに疑問を持った。どうなってもいい、そんな気持ちで無一文で家を出た。駅の周りを放浪者みたいにうろついてたのを多英が拾ってくれた。おれは名乗っただけで、ほかのことは云えなかったし、云わなかった。けど、すぐ云わざるを得なくなった。多英の話から偉人さんや萌絵さんの名前が出て、いまでも付き合いがあると知ったから。打ち明けるか、離れるしかない。どうせ離れるなら、そう思った。けど、多英は最初からわかっていた」
「わたしは八のことを憎むほど心は狭くないわ。バカみたいにあのときのまま変わってないから拾ってあげただけ」
「わかってる。自分でも情けないってわかってるよ。蝶子さんがやったことを多英が話してくれたのはずっとあと――二年まえだった。刑の軽かった奴らが出所する直前だ。多英はたぶん蝶子さんが同じことをするんじゃないかって怖れてたんだと思う。あいつらには失うものがないのも同然だ。一歩間違えば、復讐の復讐をされるんじゃないかって。だから多英はだれかに話したくなった」
 八は、問うのではなく間違っていないか確認を取るように、多英を見て首を傾けた。なんの反応も示さない、それが多英の答えだろう。
「そして今年、もうすぐあいつの兄貴が出てくる。多英が落ち着かないのは気づいていた。だからおれは、逆に蝶子さんの弱みを握りたかったんだ」

「弱み? それが優衣の命を奪えばつかめるの?」
 萌絵の疑問には、信じたくない気持ちと、殺したというからには何かやったのだという確実性をなじる気持ちとが混載した。
「蝶子さんが同じことをするまえに、それを引きとめるための脅す材料がほしかったんです」
 八は、その肩に重荷を背負っているかのようにうなだれた。
「録画したのは何かあったときのためにってもう保存してるってだけ。わたしは捕まった人たちがいつ出てくるかなんて知らなかったのに!」
 八はきっとして蝶子に向かった。
「“何か”っていうのが蝶子さんの基準なら、多英にとって不安材料であるのにかわりない」
「だからって優衣が飛びだしても突っ立ってるだけで見殺しにするなんて!」
「おれは……」
 八は云いかけて絶句した。
「蝶子、まずは八の云い分を聞いてからだ。八」
「はい」
 返事をしてから八が口を開くまでまた少し時間を要し、その間、迷宮の中心にある運命は八が握っている、萌絵はそんな気分で八が話しだすのを待った。
「拾われたときは疑問だらけだった。多英が優さんの子供を欲しがったことも理由がわからなかったし、偉人さんの結婚相手がなぜ萌絵さんじゃないのかも。多英から蝶子さんのことを聞いたあと、いろんなことが見えてきたんだ。結婚してる二組は完全に相手を取り違えていた。そして、子供も。偉人さんと萌絵さんが一緒じゃないのは、漠然とあの事件のせいのような気がした。正しく戻るべきだ。いや、ふたりにはそうあってほしいと思った。多英を守りたいという気持ちと同じくらいそう思った」
「優衣がいなくなればいまの結婚も友情も壊れるって?」
 八は意思を込め、偉人の言葉に強く首を振った。
「壊れたらいいとは思ってたけど、優衣ちゃんがいなくなればいいとは少しも思ってなかった。蝶子さんを脅せるくらいの恐怖材料を手に入れなければならなかった。子供の入れ違いをぶちまけて、おれがいつだって多英のために捨て身であることを見せたかった。よけいなことをする気なら子供がどうなっても知らないと見せつけたかった。そうできる計画を考えていたときに思いがけないチャンスができた。おれの誤算は、蝶子さんが子供が庭にいるとわかっていながらスピードを出すとは考えなかったこと、それに気を取られて優衣ちゃんを捕まえられなかったことだった」
 いま、立ち尽くす八は呆然として、それは蝶子が事故のときに見たという八の姿と同じなのかもしれない。目のまえにした光景を八はどんな気持ちで見つめたのだろう。多英のときのように、そのシーンはこのさき、きっと八の記憶にこびりついて離れない。
「警察にいるとき、わたしは八くんがあの子だって気づいたわ。でも、なんのために見殺しにしたのかわからなかった。多英も萌絵と同じよ。バカみたいに独りで思いこんで動こうとしなかった。云ってくれればよかったのに! わたしは多英を怖がらせてるつもりなんてなかった」
「けど、さっきの偉人さんとのことだって、蝶子さんはおれの罪をダシにして、多英を脅してやらせたに決まってる」
 八の指摘はそのとおりで、蝶子はぱっと目を逸らした。
「多英、おれがやったこと、気づいてたんだろ。だから、出ていけってみんなから遠ざけようとした。けど、今度こそ多英に何かあったときに自分で助けたい。その気持ちは多英にも変えられないよ」
「あんたはホントにバカ! あのとき、八を助けられたんならもうそれでよかったのに! 忘れたくても忘れられない。そんな記憶のなかで、それが唯一のわたしの救いになってるって気づかないの?」
 多英がなぜ“男である”八を簡単に受け入れられたのか。いまの多英の言葉で、萌絵もまたはじめて気づいた。八にちゃんと強く生きてほしかったのだ。自分の痛みと引き換えに、そうであったらそれでいい。あの事件も多英を本当に壊してしまうことはできず、多英はだれでもなく多英のままだった。
 八が顔を歪める。うつむいたその足もとに、ぽたぽたと後悔の痕が落ちて何度も拡散された。
「多英ちゃん、八は無意識でも気づいてる。だから、ホストとしてもちゃんとやってきたし、いまはさきのことを考えてやめようってしてるんだろう」
 そうして、多英の涙を見るのはあのとき以来だった。
 八が、力尽きたようにへたりこむ。
「あいつらがもし多英に何かするようなことがあったら、おれは迷いなく殺す。多英を独りにするわけにはいかなくて、打ち明けられなかった。萌絵さんと偉人さんはこれからもずっと多英のみかたでいてくれますよね?」
 お願いします、とそう云って八は床に手をつき、そして額をつけた。
「おれは……優衣ちゃんが死ねばいいなんて思ったことはありません。けど、萌絵さんが帰ってきたことをわざと教えて、危険に晒して、結果的に殺したことは事実です。警察に行きます。すみませんでした」
 八の背中は子供だった八を思いださせるほどふるえている。多英がひざまずき、八に寄り添い、ふるえが止まるまでその背中を撫でていた。



 だれもが眠れないというなか、萌絵は別荘を出た。独りになりたくてそうしたつもりが、ドアが閉まる寸前、「八、子供たちを頼む」という声が聞こえ、偉人はすぐ萌絵に追いついてきた。
 海岸におりるまでひと言も口を利かず、砂浜に着くと、萌絵は膝を抱えて座った。偉人もほんの傍でそうして、沈黙は萌絵が口を開くまで続いた。
「優衣はこんなに早く死ぬために生まれたんじゃないのに」
「ああ」
「でもそうさせてしまったのはわたしのせい。自分にずっと嘘を吐いてきたから」
「おれのせいだ」
 大丈夫だ、とあのとき偉人が云った言葉の続きはきっと、“きみの子供は生きている”。残酷だった。
「引っ越し祝いのとき……あれは偉人くんだったの?」
「そのときはしっかり憶えてるわけだ」
 月の灯りだけという暗がりのなか、偉人が吐くひんやりとした声が海風を裂いて響いた。
「わたしが夢にするから目隠ししたの?」
「確かめたかった。おれだから萌絵ちゃんは忘れるのか。一週間後に萌絵ちゃんに打ち明けたときは優だったと云い張った。それさえも萌絵ちゃんは憶えてないんだ。次の朝、起きたときは何もなかったことになってた。引っ越しの日のことは夢じゃなくて記憶としてあるんだろう?」
 萌絵はうなずいた。それが見えたのかどうか、偉人はため息を漏らした。
「八くんは警察行ったらどうなるの?」
「わからない。けど――。萌絵ちゃんはどうなんだ?」
 八の告白を聞いても偉人が子供を頼むと云ったこと、偉人はおそらく事故は八が発端だと知っていたのにその云い訳さえ聞かずに昨日、砂浜で柚似を八に任せたこと、それらは八の人格を信じきっていなければできないことだ。
「わからない。ただわかるのは、多英のことをいつもいちばんに考えて心配してるのは八くんだけってこと。わたしは、多英が不安にしているのを気づけなかったから。昨日も最後の人が出てくるねって話をしたのに……」
「ああ」
「これからどうなるの?」
「どうにかする。云っただろう、おれが全部背負うって」
「うん。……でも今度はわたしも逃げないでちゃんと立ち向かう。そうしないと、ずっとわたしを支えてくれてた優衣に会わせる顔ないから。これからも優衣はわたしの力になってくれるってわかるの」
「そうだな」
 空が白んでいくまで、何かを考えているようで何も考えていない、そんな沈黙のなかで、潮騒が急かすこともなく、のどやかに時間の流れを刻んでいた。
「パパ!」
 早起きしたのは海に来ているせいか、柚似の声が沈黙を破った。振り向くと、結乃と一緒に駆けてくる。その背後には、多英と八が見えた。
「親子みんな昼寝して帰ったほうがいいな」
 偉人は笑みの滲んだため息をつきながらつぶやいた。
「わたし……柚似を落とそうとした」
「あのとき――大丈夫だから、ってそう云ってやったんだろう。寝かすときに柚似が教えた」
「そうでも……」
「柚似から、優衣ママを怒らないでって云われてる」
 可笑しそうに云って偉人が立ちあがったとたん、柚似がその脚に纏わりついた。
「パパ、優衣ママと仲直りした?」
 あのシーンで偉人の言葉はほかに紛れて聞こえなかったのか、ただ怒鳴っていたとしか認識していないのか、柚似の質問は無邪気だった。
「ああ」
「よかった」
 そうでなくちゃ、という意がこもっていそうなませた口調だ。
「砂遊び、していい?」
「朝ごはんできるまでよ」
 近づいてきながら多英が口を挟む。
「優衣ママはぐちゃぐちゃ卵して!」
 柚似はいつもの好物のスクランブルエッグをメニューに指定する。
「わかってる」
 そして、結乃と歓声をあげながら柚似は波打ち際に駆けていった。八があとを追っていく。
「萌絵ちゃん……萌絵、来年は家族になって来られたらと思ってる」
「偉人“くん”、八くんのこともあるし、わたしは優衣を送ることもちゃんとできてない。だからすぐにはそうなれないし考えられない。時間がほしいの。今度は逃げない」
「待つことには慣れてる」
 その言葉とは相容れないため息がふたりの間に蔓延する。それでも萌絵は沈黙で意思表示をした。そうして二度めの吐息にはあきらめが混じっていた。
 そこへ多英が合流する。
「多英は」
「はい、フルーツヨーグルト担当」
 軽くホールドアップして多英は萌絵のあとを次いだ。
「蝶子が毒入れないうちに行かなくちゃ」
「うん」
 多英の言葉にあきれて首を振りつつ、萌絵は歩きだした。
「人のことは云えないな。おれも優に負けないくらい気が長い」
 そんな言葉が風に乗ってきて、うまく笑えなくなった萌絵のかわりに多英が笑った。

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