ラビュリントス
Alice in labyrinth -Destiny -
シーっていうお話
「ねえ、柚似ちゃん、ママ、かわっちゃったけどだいじょーぶなの?」
中庭に面したウッドデッキの小さなテーブルに着き、一切れのケーキをすくいながら結乃は首をかしげた。
「だいじょーぶじゃなかったのはママが遠くにいるとき。わたし、ママの家まで独りで行けないし」
「……そのママって柚似ママのこと?」
結乃はややこしいことを聞いてきて柚似は小さな眉をひそめた。釣られてひしゃげたような顔つきになった結乃もまた、自分の質問が曖昧であることに気づいた。
「結乃ちゃん、二番めのママのこと」
「優衣ママね!」
「結乃ちゃん、“柚似ママ”」
柚似が断固とした口調で訂正すると、結乃は戸惑ったふうに目をくるりとさせた。
「でも、柚似ちゃんは優衣ママって云うでしょ……あ、今日、結婚したんだから今日から柚似ママだね! そっかぁ」
「ううん。わたしは今日からも“優衣ママ”」
「どうして?」
「意地悪するの」
「意地悪?」
「だって……」
柚似は首をまわしてリビングを覗く。
大人たちが集う北宮家の見慣れた光景のなかで、違うのは“ママ”が入れ替わったことだ。
去年、海に行ってからまもなくママたちがいなくなった。たまにこんなふうに集まるときを除いて、しばらくはパパと娘というふたりだけの生活が続いた。そして、柚似と優衣の誕生日の今日、ママたちは戻ってきた。家を交換するくらいきっと仲がいいのだと柚似は思っている。
「結乃ちゃん、内緒のお話よ」
柚似が身をのりだすと、向かいに座った結乃も息をひそめた様子でテーブル越しに顔を寄せてくる。
「なあに?」
「わたしのホントのママはママなの!」
結乃はきょとんとした顔で柚似を見つめ、また云い方を間違えたと気づく。
「だから、ホントのママは二番めのママ」
「ふーん、そうなんだ」
「結乃ちゃん、びっくりしてない!」
「だって、柚似ちゃん、優衣ママと似てるときあるもん」
柚似は自分だけの秘密じゃなかったことにがっかりしてため息をついた。
「鏡とかお写真とか、わたしも自分を見て思ったの。優衣ちゃんは――」
「柚似ママに」
「一番めのママに」
――似てる!
ふたりは得意げに口をそろえた。
「わたしと優衣ちゃん、同じ日に生まれたからぜーったい間違えられたの! でも、ママたちは全然気づいてなかった」
柚似は不服そうにくちびるを尖らせた。
「だから意地悪?」
「そう。わたしがママから笑顔をいっぱいもらえるまでは“優衣ママ”。優衣ちゃんがママの笑顔、たくさん持っていっちゃったから。ママをもとに戻さなくちゃって優衣ちゃんとお話しようと思ってたのに」
「もう戻ったんだからお話はしなくて大丈夫だよ? それと、優衣ちゃんには会えるよ」
「優衣ちゃんに会いにいっちゃだめってママは云ったよ」
「優衣ちゃんが会いにきたらいいと思う」
「来るの?」
柚似は期待を込めて結乃を見つめた。
「柚似ママの……柚似ちゃんの一番めのママのおなかのなかに戻ってるかも」
「ホント!? 結乃ちゃん、どうしてわかるの?」
「キョウダイだからじゃない?」
息を呑んで柚似は結乃と見つめ合う。
「優衣パパ?」
声を潜めた問いに結乃はうなずく。
「やっぱりそうなんだ!」
「あ!」
と、結乃が警告のひと言を発したときは遅く、柚似が驚いて立ちあがったせいでテーブルが揺れ、優衣のために置かれたコップが倒れた。オレンジ色の滝ができる。
「どうし……」
声をかけながらウッドデッキに現れた萌絵は云いかけている途中でやめ、柚似は「優衣ママ……」と耳を垂らしたウサギのような様で見上げる。
「こぼしただけよ。でしょ? ちょっと待ってて」
萌絵はそう云ってすぐ戻ってきた。
「優衣ちゃんのぶん、こぼしちゃった」
「また注いでくればいいんだから」
「怒ってない?」
柚似の問いに、萌絵はテーブルを拭く手を止めた。
「怒る? ううん。コップが割れて柚似がケガしちゃったら怒るかも」
「……そうなの?」
「ママはね、心配しすぎると怒っちゃうんだよ」
人差し指を頭の両側に立てて角(つの)をつくり、萌絵が笑う。
「ママ! 手伝う!」
すると、びっくり眼になった萌絵のくちびるがさらに広がった。
「そうして」
「うん、ママ!」
「柚似ちゃん、もう“ママ”って……」
「しーっ。もういいの」
「なんのこと?」
首をかしげた萌絵の問いに、柚似は首をぷるぷると振る。
「なんでもない!」
運命とは
九月になったからといっていきなり秋の気候に変わるわけはなく、不快なほどの暑さはしっかりと残っている。子供たちも外で遊ぶよりは、クーラーの効いた家のなかですごしたがる。ふたりでいてよく飽きないと思うほど、柚似と結乃は顔を寄せ合って仲良く絵本を読んでいた。
「萌絵、スパゲティサラダ、冷蔵庫に入れておく?」
「うん、もうすぐ来るだろうけど冷たいほうがいいし」
「わかった。あとは?」
「大丈夫。多英、休んでたら?」
「年寄扱いしないでよ」
「妊婦扱いしてるだけ」
「萌絵みたいに妊娠に弱い躰してないから大丈夫」
萌絵が恨めしそうに多英を見ると、失言に気づいたように肩をすくめた。
「ごめん」
「いいよ」
八の子供が欲しいと云うようになった多英は、望みが叶っていま妊娠八カ月だ。順番は逆になったけれど、今年の六月、結乃の誕生日にふたりは結婚をした。八はシステム開発の専門学校に通い、在宅ワークも可能というプログラマーの仕事を目指している。もともと興味を持っていたと云うが、八の中心は揺るぎない。
「多英と萌絵さんてよく一緒にいて飽きませんね。仕事も一緒だし、平日の起きている時間に限定すればおれといる時間より長くないですか」
食器を用意しながら八がからかい――
「右に同じだ」
と偉人の声がした。
柚似と結乃に対してつい今し方思ったことを今度は自分が云われ、萌絵は思わず笑う。すると、どんな意味があるのか、偉人はため息をついて小さく首を振った。
「おかえりなさい。気づかなかった」
「ただいま。隣もいま帰ったみたいだ」
「ほんと? じゃ、柚似、結乃、テーブルの上を片づけて」
「はーい」
ふたりは口をそろえて返事をし、椅子をおりて片づけ始めた。
「着替えてくる」
偉人は云いながら、その眼差しに別の意を込めている。なんだろうと思ううちに偉人は廊下のほうへと背中を向けた。
「多英、ちょっといい?」
「どうぞ。ごゆっくり」
多英は、いまの状況ではそぐわない言葉で送りやる。からかわれているのは承知で、萌絵は首をひねって抗議を示した。
一階にある寝室に行くと、偉人はスーツジャケットを脱いで無造作にベッドに放った。萌絵を見向きもしないでクローゼットに向かう。萌絵は脱ぎ捨てられたジャケットをハンガーにかけた。それから、戻ってきた偉人がまったく無言で堂々と服を脱ぎ捨て、着替えていくのを眺めた。
堂々と、という言葉の裏にある恥ずかしさは、結婚して一年をすぎたいま考える必要はないのだろうが、こうなるまでの時間が長すぎたことで、萌絵はいまだにときめきのような新鮮さを感じる。
「見惚れるのはあとにしてくれ」
いきなり自惚れを浴びせると、萌絵は顎を上向けられ口がふさがれる。目を閉じた瞬間に偉人のくちびるは離れていった。
「見惚れてるんじゃなくて実感してるの。夢じゃないって」
「おれは萌絵が笑ってるだけで見惚れるけどな」
偉人はいささか不満そうに云うが。
「偉人はいま、あとにしてくれ、って云ったと思うけど。矛盾してる」
「欲張りになってるんだろうな」
呆れた気配を丸出しにして偉人はため息を漏らす。
「わたしもきっと一緒。何か云いたそうにしてたから来たの」
萌絵は首をかしげて促すと、偉人はくちびるの端を歪めた。
「愛してる」
「わたしもあ――」
「続きはあとでゆっくり聞く」
「あとで、ばっかり」
偉人は笑って萌絵の背中を押した。
加来田家と北宮家の離婚後から双方の結婚まで、北宮家での土曜日の夕食会は恒例行事で、それが結婚したいまも続いている。
離婚も入れ替わりの結婚も周囲を驚かせた。それ以上に、ゴシップと化していたかもしれない。そんななかで驚かなかったのは、萌絵と偉人の母親たちで、おかげで心強く対処できた。
いちばんの悩みといえば柚似のことだった。
けれど、意外にも柚似は結婚をすんなりと受けとめた。それが血の繋がりを証明しているようで萌絵はうれしくて安堵した。
萌絵が実家に帰っている間、偉人が何かと理由をつけて、柚似を預かってほしいと連れてきた。ときに泊まったりして一緒にすごすことが自然になっていたし、だから三人は家族として溶けこめているのかもしれない。
その実、柚似に対する母性を萌絵から引きだして、偉人が結婚を急かしているのは見え見えだった。
優衣と柚似、ふたりの誕生日に結婚をして、その日、“優衣ママ”ではなく“ママ”と呼ばれたことで、萌絵は優衣だけではなく柚似からも力をもらっている。
そして加来田家、蝶子と優には今年の二月、長男が誕生した。
女の子じゃないの!? と、柚似と結乃の落胆ぶりは思いもかけなかった。幼稚園から帰ると、北宮家ではなく加来田家に帰るようになって、ふたりともいまでは弟だと主張して可愛がっている。
三家族そろっての食事はかわらずにぎやかで、おそらく、いったん離れてしまったのがよけいに繋がりを強くしている気もする。偉人は壊すと云ったが、本音を云い合って壊れなかったのは、結局三人ということにこだわっていたのが蝶子だけではなかったということかもしれない。
「柚似ちゃん」
食事も空腹感が落ち着いた頃、結乃が呼びかけ、柚似は「うん」とうなずく。ふたりして席を離れると、並んでテーブルの端に立った。
何、どうしたの。そんな疑問が大人たちの口か発せられる。
「発表です!」
「わたし、結乃はアリスのお姉さんをやります。そして!」
「わたし、柚似はアリスをやります!」
と、ふたりはすでに芝居がかって大人たちをびっくりさせた。
「ほんと?」
萌絵が目を丸くすると、柚似はめいっぱいの笑顔で大きくうなずく。
「昨日、云われたんだよ。先生にはわたしたちから云うから黙っててってお願いしたの!」
そして。
「蝶子ママ、うれしい?」
傍に来た柚似を蝶子が抱きしめる。
「もちろんよ。柚似、おめでとう! ホントよかった。結乃もぴったりの役だわ」
続いて、だれからもお祝いの言葉をかけてもらい、そのたびにふたりとも満足げにうなずいた。
「萌絵、親子二代でアリスってどんな気持ち?」
「自分のときよりどきどきするかも。うれしいのは段違い」
「母も、だからがっかりしたんだろうけど」
蝶子の声に陰りは見えたものの、笑って素直に口に出せているぶん、アリスという呪縛は和らいでいるのかもしれない。
「多英は? ウサギ、やらせなくてよかったの?」
「わたしは選考委員じゃないわよ。でも、結乃はアリスのお姉さんになりたがってたから」
「じゃあ、優仁(ゆうと)にはウサギやらせようかしら。男の子じゃアリスは無理だし」
ベビーベッドに寝かせた息子を見て、早くも蝶子は目標を立てている。
「だから蝶子、やらせようと思ってそのとおりに――」
「なるとはかぎらない。わかってる」
多英のお説教を受け、蝶子は降参というように手を上げた。
「蝶子、柚似は四歳の頃、アリスが嫌いって云ってたの。わかってた?」
萌絵が問うと、蝶子は目を見開いた。それから目に後悔を浮かべた。
「知らないわ。でも無理強いしてたのは確か」
「だから、わたしからは何も云ったことないんだけど、年長になってからアリスの本を放さないの。いまアリスになれて喜んでるし、それが蝶子の影響かなと思うとちょっと悔しい感じ」
「ありがとう。育てた甲斐あったわ」
ふたりの母親という間にわだかまりがないと云えば嘘になる。
離婚時、ママについていく、という言葉が聞かれなかったことに蝶子はショックを受けて嘆いていた。そして、優衣の母親になることは叶わなかった。
不満はお互いさまで、だから萌絵はいまみたいにその場でぶつける。
「ママ」
また席に着いた柚似は、くちびるを結び笑うのを堪えていて策略ありげだ。
「何?」
「わたしも弟か妹が欲しいなって思うの!」
萌絵は思わず、隣にいる偉人を見上げた。同じように見下ろしてきた偉人は、どうする? と問うように首をひねった。
「パパに訊いて」
萌絵が答えを振ると偉人はにやりとして、それはなぜか薄気味悪く見えた。結婚当初、子作りはまだ早い気がして暗黙の了解で避けたままいまに至っているけれど、偉人はその気のようだ。萌絵は首をすくめる。
「パパ?」
「欲しいと思う」
偉人が応えると歓声があがった。
「来年はにぎやかになるわね」
「娘もいいけど、息子もいいもんだ」
「ほんと。男の子も育て甲斐ある」
「偉人さんが決め手になるけど」
そんなわくわくした期待とからかいが飛び交うなか。
「ほんとは心配なんだ」
偉人はわずかに萌絵の耳もとに顔を寄せて囁いた。
「え?」
「妊娠。二回とも順調とは云えなかっただろう」
心配だと云うとおり、偉人はいまにもため息をつきそうな気配だ。
「今度は順調にいくかもしれない。そういうものでしょ?」
単になぐさめたつもりが。
「オーケー」
と、偉人は愉悦感たっぷりで快諾した。
柚似は偉人の返事に満足したようで、まもなく結乃を誘い、棚から取りだしたアリスの絵本を一緒に読み始めた。
萌絵がやって柚似がやるアリス。
流れる時間ではなく、繋がっている時間を感じている。
だれもが八を罰する道を選ばなかった。
八を守ろうとすれば、繋がっている過去の時間を引っ張りださなければならない。
いま、だれもがその境目のわからない後悔と罪を背負う。
愛という名の扉で罪人たちを隠蔽し、中心(heart)には常に優衣を置き、罪人たちはいつかそこにたどりつく。
それを運命と呼ぶのなら、運命(destiny)とは、出口を閉ざされ、逃げ道も隠れる場所もない、一本道という迷宮(ラビュリントス)。
− The Conclusion. − Many thanks for reading.
あとがき
2014.7.30.【ラビュリントス】完結
とある作家さんが好きで、いつか書きたいと思っていた恋愛ミステリー。
少々、出だしは入りにくいかとは思いますが、センシビリティ(感受性)の刺激ににこだわって書いてみました。
ただの恋愛ものではどうかと思う、非社会性を遠慮なく描いていますので、その辺りはミステリーだとご容赦ください。
探偵も警察も出てこない、そして犯人らしい犯人もいないミステリー。
楽しんでいただけたのなら嬉しいです。
奏井れゆな 深謝