ラビュリントス

Heart of Love
The core〜アイの核〜 #6

「何、何を云ってるの? どういうことなの!?」
 その力尽きたような蝶子の叫びは今度こそ演技ではなかった。偉人が叫んだ意味を違えることなく受けとめたのだ。
 くずおれる蝶子と支えながら自分まで力尽きたように優がその場に座りこむ。
 そして、うなだれた八に立ち尽くす多英。
 二つの真実。果たして萌絵にとってどちらが重要なことなのかわからなくなっていた。
 平然としてるのは偉人だけだ。裏を返せば、偉人はすべて――少なくとも事実だけは知っているのだ。ゆっくりと階段をのぼってくる。
 萌絵の一段下に立ち、偉人は両腕を差しだした。
「大丈夫だ」
 あのときに嘘だと思った言葉の本当の意味が、いま、わかった。
 柚似をその腕に預けた。
「寝かせてくる」
 偉人が戻ってくるまで、だれ一人として動かず、だれ一人として言葉を発しなかった。ただ蝶子の嗚咽が染みつくほど鼓膜を刺激していた。
 どれくらい時間は経過したのか。
「行こう」
 逃げることは許さない。そんな意を込めて偉人は痛むほど萌絵の腕をしっかりとつかんだ。
 踏みだした一歩は、こわばった脚のせいで転びそうになる。偉人の手がすかさず萌絵を支えた。萌絵のペースを見ながら偉人は慎重にリードしておりていく。萌絵をダイニングテーブルの椅子に座らせ、自分はテーブルに腰を引っかけた。
「“おれが殺(や)っ”――」
「偉人、どういうことなの!?」
 信じられないまま問いかけた萌絵の言葉は蝶子の金切り声にさえぎられた。
「はじめから、蝶子が産むのがおれの子じゃないとわかっていたのは話したとおりだ。きみの思考は理解できない。いつかまた理解できないことをやるんじゃないかと懸念した。それで考えついたのが、同じ日に産ませること、だ」
「偉人くんが云いだしたの?」
「おれは、産むのは同じ日ってわけにはいかないなってほのめかしてみただけだ。蝶子はそれに乗った。自分の子には――優との子供だと思っている間は少なくとも手を出さないだろう。そう思った」
「……すり替えたの?」
「父親はどっちだってかまわない。けど、萌絵ちゃんの子供を守りたかった」
「どっちだってかまわない……って?」
 柚似のことはずっと偉人に似ていると思っていた。そして昨日の昼間、まっすぐに伸びた髪を見て、柚似が自分に似ていると思った。すり替えたのなら、きっと萌絵と偉人、ふたりの子供だ。
 自分で感づいたのに、実際に認められるとかえって疑(うたぐ)るほど自分の考えが頼りなくなった。
「なんなの? すでにそういう関係だったの!? いつから?」
「蝶子にどうこう云われる筋合いはない。同罪だろう」
 偉人は平然と返し、振り向いて萌絵を見下ろした。
「夢で片づけてるだろうけど、少なくとも一度は――“夢”を憶えてるだろう?」
 その憶えている夢は、蝶子と偉人が結婚をした日だ。
 早々と酔ってしまい、客室を借りて眠った。朝起きてみて、あたりまえなのに萌絵は夢の続きを夢見て、偉人がいないことにさみしくなったのだ。躰に残る快楽のあとが生々しかったことも甦った。
「すり替えなんて犯罪よっ」
 蝶子の涙声に偉人はゆっくりと振り向く。蝶子の横で優は終始、顔を歪めている。優衣を亡くしたときと同じ面持ちだ。優はきっと二度子供を亡くした気でいる。けれど、同情の余地はまだ萌絵にはなかった。
「そうだ。警察から帰ったきみが、おれを確信犯だと云ったときは、てっきりばれたのかと思ったけどな。違ったようだ。蝶子、おれはだれかをかばうために蝶子の運転癖を警察に黙っていたわけじゃない。母親を犯罪者にしないこと――優衣への償いだった。蝶子が確信犯だと云った理由をずっと考えていた。そうしたら表面上の答えは出た。八から云い訳を聞くまえに、多英ちゃんに訊きたいことがある」
 偉人に振られた多英は顔だけこっちに向けた。引き止めるように八を呼んだ、悲痛な声は耳に残っている。それ以来、多英はずっと能面のような無情を顔に貼りつけていた。わずかに顔を傾けるというしぐさは偉人を促したのだろうか。
「なぜ萌絵ちゃんを傷つけるようなことに協力した? 蝶子に握られてる弱みを話してほしい」
「蝶子は見てたのよ」
「見てた?」
 その言葉が引っかかり繰り返した萌絵へと多英の目が向く。
「わたしが犯されるのを蝶子は見てた。萌絵たちが助けに来てくれるまえから」
 萌絵はまったく虚をつかれて目を見開いた。思考が止まり、そしてあの日の記憶を取りだそうと回転し始める。
「萌絵、わたしたちにメッセージを送ったでしょ。偉人さんから誕生日祝いをしてもらうって。蝶子は戻ってきたのよ。萌絵に連絡したみたいだけど、偉人さんといて気づかなかった? 蝶子は萌絵を探していて、公園の近くに来たとき、あの子に呼びとめられた。でも、蝶子は助けてくれなかった」
 萌絵は絶句した。呼吸さえできていないような気がして息苦しくなる。
 確かに『どこにいるの?』というメッセージはあった。それを見たのは家に帰ってずっと時間がたってからで、蝶子には『ごめん』とだけ送った。
「そのくせ、蝶子は何をしてたと思う? 録画してたのよ、わたしが犯されてるのを。それを知ったのは裁判が終わってすぐだった。信じられないって傷つくよりも、わたしは平然として自分がやったことを明かした蝶子が怖かった」
 ゆっくりと視軸を移動させたのは、多英と同じように蝶子を怖いと思っているせいかもしれない。萌絵は、涙に塗れた蝶子を見つめた。
「どうして助けようって思わなかったの? 警察でも多英のお母さんでもその辺にいる人でも、助けを求めることくらいできたでしょ?」
「萌絵だって動けなかったでしょ」
 その発言で、萌絵たちが来たときもまだ蝶子はあの現場に立ち会っていたのだとわかった。
「何も考えられなかったから。それは認める。でも録画するって何? そういうこと考えられたって何?」
「復讐よ。多英のためにいつか復讐してやろうって思った」
 萌絵は、『わたしが仕返ししてあげるよ』と、あの日そう宣言した蝶子を思いだす。もちろん、どちらかが窮地に立てばかばいたいという気持ちは萌絵にも多英にもある。仕返しをするというのは誇張した言葉にすぎない、もしくは正当性をもって然るべきものと受けとっていた。
「何をしたの?」
「蝶子は実刑を逃れた男の子をつるしあげたの。その子が通ってた中学の裏サイトに、録画したシーンからカットした画像を載せた。もともと遠くから映したものだからはっきり写っているわけじゃないし、わたしの顔は隠されていた。でも、わたしにとってそんなことはなぐさめにならない」
「そいつは不登校になった」
 多英のあとを次いだのは八だった。
「八くん……!」
 そう呼びかけながら、萌絵は八のことがやっとわかった。
 八は、あのときの男の子だ――。
「そいつは高校に通い始めたけど、また事件のことが流れたんだ。立場上、公にも騒げない」
「その子の母親がわたしの母を訪ねてきて、やめてくださいって泣いてお願いしにきたんだって聞かされたときのわたしの気持ちわかる? 冷静に考えれば、わたしが自分を晒し者になんてするわけないのに、それだけ切羽詰まってたのかもしれない。向こうがどう苦しもうと、わたしは知らないわ。でも、取り返しのつかないことをやったのは向こうなのに、やってもいないことで云いがかりつけられて、ネットに出回ったものはもう一生、完全に消すことはできないって投げやりになった」
「そいつは家を出られなくなって、そうしたら年に一度――あの日の前後、家に郵便が届くようになったって聞いてる。結局は引きこもったまま二十歳のときに自殺したんだ」
「当然でしょ。多英をあんな目に遭わせてなんの罰も受けずに普通に生きていけるなんて不公平だわ」
 あのときの多英を知っているから、萌絵もまたその子に対しての同情は感じない。けれど、人としてどうかと考えると、蝶子の行動は常軌を逸していた。
「消えてしまえばいい。わたしがそう思っていたのは確か。ううん、いまだってあいつらみんな消えてしまえばいいって思ってる。でも、それとこれとは別。蝶子が見たくもないものを持っているかぎり、わたしは死ぬまで蝶子の一存で左右される。そう感じてきた。それが弱み」
 だから、いつも多英は萌絵よりさきに蝶子の意に沿うのだ。保育園ではなく幼稚園に変わるとき、あっさり同意したように。萌絵が優に告白された日、天文部の部室で、『多英が裏切らないっていうのは信じてる』と蝶子がそう云ったことも、多英には脅迫に聞こえていたかもしれない。
 偉人は多英から蝶子へと目を転じた。
「蝶子、一人の人間を死に追いやったことは――そのすべての原因とは云いきれなくても、片棒を担いだことは否定できない。きみの母親が知ることになれば、それこそがっかりするだろうな」
「脅迫する気?」
「多英ちゃんどうする? 画像を取り返す、それとも削除する?」
「消して」
「蝶子」
「わかったわ」
 ふてくされた返事は子供のようだった。
 偉人は「多英ちゃん」と注意を引くような声音で、再び多英に向かった。
「おれにはもう一つ疑問がある。多英ちゃんは、蝶子と優のことを知っていた。だろう? それなのに、なぜ萌絵ちゃんと優が付き合うことにも結婚することにも反対、もしくは警告をしなかった?」

 多英は萌絵を見やり、また偉人へ目を戻した。
「萌絵はなんにも努力しないでなんでも手に入れてる。アリスもそうだし、偉人さんも。ずるくない? 結局、わたしも蝶子と同じことを思ってるね」
 笑いながら軽快に放たれた言葉は、そのままからかわれているのか、それとも真逆に苛立ちなのか、萌絵には判別がつかなかった。それを別にしても、その真意には計り知れないものを感じた。
「多英、偉人くんのこと……」
「それはわたしにもはっきりしない。助けてくれたってことで自分の気持ちを勘違いしてたかもしれないし、萌絵を守ろうってする存在そのものをうらやましいと思ったかもしれない。偉人さんはあいつらを追い払ったあと、真っ先に『萌絵ちゃん』て呼んだ。そのあとに続くのは、大丈夫か? もしくは、大丈夫だ、だよね。わたしよりさきに萌絵を心配してる。そう思って虚しかった。理不尽な目に遭って、わたしは終わったって感じてたから」
「あのとき、本当に助けたのは八だ。おれは、八が叫ぶまで動けなかった」
「わかってる。ちゃんと聞こえてたから」
 そこで多英は口を噤み、うつむいて、それからなんらかの覚悟を決めたように顔を上げた。
「蝶子が萌絵にこだわっていることはわかってた。わたしもそうだから。理由はさっき云ったとおり。蝶子がどの程度、三人一緒ということにこだわっているのか試してみたの。家庭教師だった偉人さんが帰国したらふたりはくっつくかもって蝶子に云ってみた。そしてあの日、優先輩が来るのを待って、萌絵と話しながら偉人さんの名前を出してみた。聞こえるようにね。そうしたら即行で優先輩が付き合おうって萌絵に云うんだから。蝶子がそんな手を使ってくるなんて想定外中の想定外。少なくとも萌絵と偉人さんのことは認めないんだってわかった。結婚のときは、萌絵が偉人さんに食事に誘われたって云うから、そのまま蝶子に話した。次の日、優先輩がプロポーズしたって聞いて笑っちゃったわ。それを萌絵は受けたって云うんだもの」
 萌絵は信じられなかった。蝶子の強引さを苦手だと思うことはあっても、多英のことは、いつも聡明で人を気遣って、友だちだということにひと欠片の疑いも持ったことはない。
 多英が云ったとおり、いつの間にか蝶子の親友に仕立てられていたけれど、多英とは本当にアリスで仲がよくなったのだ。蝶子のかわりをやることになって戸惑いでいっぱいだった萌絵に、セリフを云うとき合図をしてあげるからと、親身に力づけてくれた。萌絵はそのときに多英のことを大好きになった。そのときに友だちになれたと思ったのは、萌絵の独り善がりだったのだろうか。
「多英……どうして……?」
「頼んでもいない蝶子の復讐のせいで投げやりになってるとき、偉人さんが帰ってくると気づいた。気分転換に悪戯してみただけ。萌絵のことは、ちょっとは自分でがんばってみたら、ってずっと思ってたから。それなのに萌絵は自分でなんとかすることもなくいまに至ってる。でも、蝶子と優先輩にちゃんと仕返しはしてあげてるわよ」
「なんのこと?」
「萌絵は知ってるでしょ。結乃の父親が優先輩だってこと」
「どういうこと!?」
「おれは知らない!」
 何度めかという蝶子の悲鳴と優の懸命に訴える声が重なり、混迷した様相がはびこった。
「優先輩、引越し祝いの日、憶えてない? いまいろんな道具あるし楽しかったでしょ? お相手したのは萌絵じゃなかったの。蝶子、ごめんね。でも、子供を一緒に産もうって云ったのは蝶子だから、優先輩にドナーになってもらうことくらいいいでしょ」
 多英は少しも謝る口調ではなく、小気味よさそうに嗤う。そして、偉人へと向かった。
「おしまい。これでいい?」
「いいわけないだろう」
 偉人は吐き捨てた。
 多英はおかしそうなふりを装って笑う。少なくとも、萌絵には強がっているようにしか見えなかった。
「あんまり愛しすぎると人って愚かになるのね。“用意周到に”蝶子を操ってふたりを引き裂くのに加担したことは認めるけど、萌絵だけじゃない、偉人さんが少しでも強引に動いてたらこういうことにはなってなかった。そう思わない?」
 多英は以前、偉人が使った言葉を引用しながら挑発した。
 偉人は用意周到という言葉に多英への警告を託していたのだろうか。歯を喰い縛り、それを無理やり解きながら――
「……そのとおりだ」
 偉人は認めた。
「優衣のことも、わたしが用意周到にやったこと――」
「違う。優衣ちゃんのことに多英は関係ない!」
 八は即座にさえぎった。
「八!」
「多英」
 多英の制止をさらに制止し、八は萌絵のほうに向き直った。
「さっき云ったとおり、優衣ちゃんを殺したのはおれです。すみませんですまないのはわかってるけど……すみません」
 深々と頭を垂らした八の最後のひと言は何度も聞いてきた。それはただ面倒をみて行き届かなかった責任感から発せられていたのはなく、八の告白どおりの理由があったせいなのか。
「どうして……八くんが?」
 それだけを問うのに萌絵の声はやっと音になる程度しか出せていない。
 八は意見を求めるように偉人を見た。いまみたいに、八が偉人を師と仰いでいるように見えたのは、ふたりの最初の出会いがそうしていたのだ。
「云い訳も含めてすべて話すべきだ。そうしないと、だれも救えないし、おれは保証してやれない」
 偉人が応じると、一拍置いてから八はうなずいた。

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