ラビュリントス

Heart of Love
The core〜アイの核〜 #5

 あれから眠るまで、多英と話したことを考えた。
 多英に訊きたいことがあった。偉人に確かめたいことがあった。決断を避けられない優とのことも考えなければならなかった。
 けれど、この一瞬の場景で、何を聞いても何を知っても、これからのことを決めても、すべて無意味にするほど衝撃的だった。
 萌絵が自分で悟っていたとおり、だれ一人として信用できる人はいない。
 偉人が口を開きかけ、云い訳も云い逃れも聞きたくない、とそう思ったことは――
「どういうことなの!?」
 金切り声が叶えてくれた。
 びくっと萌絵の躰が弾む。背後から蝶子が来ていたことすら頭から消え去っていた。
 多英がゆっくりと振り向く。萌絵と目が合っても逸らすことなく、まるで楽しみの邪魔をされて気に喰わないといった、大げさすぎるほどのため息が聞こえた。
 伴って多英の躰の角度が変わり、そこに隠れていた事態があらわになった。
 偉人のバイカラーのハーフパンツが引き下げられ、その下のボクサーパンツ越しに多英の手が触れているのは何か、嫌でもわかる。オレンジ色の照明はそれらが見て取れるほど光を放ち、なお且つ、淫猥さを演出している。
 ドアの開閉音がいやに遠くに聞こえ――
「どうしたんだ?」
「なんですか!」
 優に続いて八が駆けおりてくる。
 その間、多英も偉人もそのままで、自分たちの痴態を隠そうともしない。
 壊してもいい。それは多英と偉人、ふたりの考えの共通点だった。けれど、ただの共通点におさまらず、共謀、あるいは到達点が同じという望みだったのだ。
 多英と偉人。そんな構図はまったく萌絵の理解を超えていた。
「多英……」
 萌絵を追い越して立ち止まった八が呆然とつぶやき、背後では優が息を呑んで立ち尽くす。
 多英は未練があるかのように手を這いずらせながら偉人を放した。おもむろに立ちあがり、にっこりした笑みを放つ。
「八、こういうことだから。出ていってくれるわよね?」
「違う……」
 八は首を振りながら無造作に否定の言葉を吐く。動転しているのは明らかだった。
 萌絵は何かが痞えたように何一つ発せない。
 喘ぐような呼吸しかできないでいるなか、空気が動いたかと思うと萌絵の脇を通って蝶子がつかつかとまえに出た。
「偉人、何してるの!? 多英とそういう仲だったなんて裏切りだわ! 多英はわたしの友だちなのにっ。多英も多英よ。ふたりとも汚らわしい。気持ちが悪くなる! いつからなの? ううん、そんなことはどうでもいい。もう一緒にいられない。柚似を連れて出ていくわ!」
 ヒステリックに蝶子が言葉を並び立てた。それが脳内を刺激して、わずかに萌絵の思考を通りよくした。
 ショックのあまり放心した萌絵や八とは真逆に、蝶子は呆れるほど饒舌(じょうぜつ)だった。優との関係を知っているいま、萌絵には白々しくも聞こえる。
 滑稽とも思える沈黙のあと、そんな萌絵の感情と共鳴したように、渇いた失笑が一つ、空中を漂流した。その残響を断ちきったのはそれを発した本人、偉人だった。
「なるほど。それが云いたかったわけだ」
 偉人は薄気味悪く口を歪めて蝶子を見据えた。
「なんなの。開き直らないでよ」
「開き直るそもそもの理由がおれにはない。それは蝶子、きみがいちばんわかってることだろう」
「そんなものわかるわけない」
「偉人さん、蝶子が怒るのも無理ない。よりによって蝶子の親友とだ」
 優が蝶子の加勢をすると、偉人の目はゆっくりと優へ向かう。
「そう思うだろう? だからわからないんだ。おまえのことも」
「はっ、なんでおれが出てくるんだ」
 優の空笑いは、これまでの萌絵との時間をも空々しいものに貶(おとし)めていく。
 人は上手に本音を隠蔽(いんぺい)して幸せを築いているだけであり、嘘を土台にしたそれは脆(もろ)く儚い。夢を見る萌絵がそれを証明している。萌絵は知らないうちに自分が自分をコントロールして、現実を夢にすり替えてしまうという嘘を生産していた。
「ふたりとも、訳のわからない話はどうでもいいのよ! こんなところを見せられるなんて最低だわ」
「それで、どこへ出ていくんだ、蝶子?」
「実家に決まってるでしょ」
「不貞を理由に慰謝料をもらって悠々自適か。いや、おれの後継者がもういるよな。十三年まえから待機してる。気の長い奴だ」
 せせら笑う偉人は依然、鷹揚な様で揺り椅子にもたれて座っているが、容赦しないといった冷ややかさを纏いだした。
 その気配にも挫ける様子はなく、蝶子がくすっと笑みをこぼした。
「偉人、それは云いっこなしよ。だれにも、ましてやいまのことには関係ないし、わたしは正直に打ち明けていて、偉人も了解していたことなんだから。それとも、いまになって覆す気?」
「もちろん、了解ずみだ。ただし、おれの権利を侵害しなければ、という前提はきみも承知のはずだ」
「わたしがなんの権利を侵害したっていうの?」
「おれを騙しただろう」
「なんのこと?」
「きみが産んだのはおれの子じゃない」
 萌絵はわずかにたじろいだがそれだけで、奇妙にもその発言に驚いたのはだれもいないということのほうが萌絵にとって吃驚だった。違う、蝶子だけは目を見開いて驚いている。ただし、それがフリであることをだれもが感じていた――いや、知っていた。
「バカなこと云わないでよ」
「おれの気持ちをきみは知っていた。結婚して間もなくその気になれないのを承知でおれを誘ったことがあるな? たった一度で、しかも避妊具が破れていたとか、それで妊娠したっていうのを信じるほどおれはめでたくできてない。きみはすでにだれかの子を妊娠していてカムフラージュしたんだ」
「偉人、何を云ってるかわかってるの? もしかして入れ知恵したのは多英?」
 蝶子はしらばくれて矛先を多英に向けた。
「そうしたって、わたしにはなんの得にもならないけど」
 傍観していた多英は首をかしげてかわした。
「ごまかさないで。わたしたちを別れさせて、偉人と一緒になるっていう得があるわ」
 傍観しているのは萌絵も八もそうだ。優は萌絵のほぼ横に立ち、蝶子の背後に控えるという位置で、傍観しながらもぴんと張りつめたような気配を放ち、優にとってけっして蝶子と偉人の争いが他人事ではないのだと示している。
「まったく見当違いだな。おれに最後まで云わせたいのか? おれはきみのなかで萎(な)えたんだ。よって避妊具のなかにすら射精した憶えはない。きみは他人の子をおれの籍に入れるという侵害を犯した。背信行為だ」
「矛盾してるわ。あなたの云うとおりだとして、わかっててそうしたくせにいまさら問題にするわけ?」
「切り札だ。結婚を清算するための」
 蝶子の気持ちが空気に伝わったかのようにぴんと張りつめた。そうして不穏にしていたかと思うと蝶子はいきなり笑いだす。
「それなら柚似は連れていくわ」
「だめだ」
「何云ってるの? わたしが産んだ子よ? 疑ってるんでしょ。それなら……」
「だめだと云ってる。独りで出ていけ。行く当てはあるだろう、そこに」
 偉人は顎をしゃくって優を示した。

 しんと静まるなか、室内の空調音が滞在する人間を見下ろし、揶揄するかのように空気をふるわせている。外から侵入する潮騒(しおさい)は終焉(しゅうえん)を待ちかねて、急げ、と囁くようだった。
「なんのことだ。なんでおれだ」
 優は白を切りとおせるとでも思っているのか。
「知ってる」
 萌絵はつぶやいた。
 優がパッと萌絵を振り向き、次いで蝶子の目がついてくる。
「わたし、昼間、ここに来たの。優は海岸のどこにもいなくて、蝶子は二階でだれかといた」
「テレビの音よ」
「嘘はいい」
 萌絵は蝶子の云い分を即座に退け、それに被せるように――
「どんなシナリオだったんだ?」
 と照準はだれなのか偉人が問うた。ふたりの答えを待つことなく偉人は続ける。
「例えば。おれと離婚をして蝶子は実家に帰り、加来田家では云い争いの絶えない家庭になる。子供が病気だったり、子供を亡くした家庭では離婚もめずらしくないことだ。男と女では温度差があるだろうし、気持ちはすれ違う。そこで昔からのなじみという、なぐさめ役の登場だ。そうしてめでたく妻の座略奪、ハッピーエンド――でどうだ? 傍からすれば不自然じゃないな」
 偉人の云うとおり不自然じゃない。うまくいかなかった結婚のあとの、立ち直って心機一転した結婚。それは、むしろ、長い付き合いを知っている近しい人のほうがよけいに当然と受けとめることかもしれなかった。
「呆れちゃうわ。想像力が逞(たくま)しいのね」
「優はどうなんだ? いつまで蝶子に操られてる?」
「やめてよ」
「情けないな、優。八のほうがずっと男としては大人だ」
「やめなさいよ」
「優、惚れてるんならやってやることが違うだろ」
「やめてって云ってるでしょ」
「女一人満足させてやる自信ないのか。きみの目も大したことないな、蝶子。下らない男だ」
「やめてってば! 自分はなんなのよ。十年以上もまえのことをうじうじ引きずってわたしと結婚したんでしょ。萌絵とハッピーエンドになりたいからって、わたしたちを悪者にしないでよ!」
 ぴしゃりと締めくくったはずの言葉は、沈黙のなかに余韻を残す。
「バカね」
 多英が静かに嘲笑った。
「ついでに云えば、蝶子、きみにはもう一つ、やっておかなければならないことがあったな。萌絵ちゃんをいまの環境から遠ざけることだ。もっと厳密に云えば、おれとの接点を途絶えさせて、萌絵ちゃんから幸せになる権利を奪うつもりだった。それには、多英ちゃんをおれの愛人にするのがいちばん手っ取り早くて、萌絵ちゃんには痛手だ」
 ついさっき見た光景は茶番? 仕組まれたこと?
 偉人が萌絵の目を捕らえる。萌絵の不信を責めているようにも見えた。
 揺り椅子からゆっくりと立ちあがった偉人は部屋の隅に向かい、テレビボードに置かれたタブレットを取りあげた。いくつか操作をしたあと、偉人は蝶子たちを見やった。
『結婚した夜にいいのか?』
 雑音が入り、少し割れたような声は優のものだった。くすくすと笑う声は蝶子のものに違いなく。
『偉人はセックスに関心ないの。わたしの部屋に来ることはないわ』
『けど』
『お酒を浴びるほど呑んで寝てるんだから大丈夫。今日は、優と結婚したって思わせてくれてもいいでしょ。堂々と妊娠できるわ。もうそうなってたらいいけど……あ、萌絵とまた子作りしてるのよね?』
『先週、一度だけな。酔っぱらっててよく憶えてないけど』
『一回?』
『次はできてなかったらでいいだろ』
『今度は流産なんか認めないから』
『それはだれにもどうにもできないことだろ。子供を作れとかなんか複雑だ。どういうことなんだ?』
『萌絵のものを奪って、それを実感するのがわたしの幸せ。だからあなたは萌絵のものでなくちゃならないし、萌絵にわたしの手の届かないところで幸せになるなんていう夢も見させたくないの。子供ができたら、萌絵はきっと優のところに、つまりわたしの見える範囲にずっといてくれるわ』
『なんでそこまで萌絵にこだわる?』
『そんなこと、優にはどうでもいいこと。それよりも。早く。わたしはここにいても不自然じゃないけど、あなたは戻らなくちゃいけないでしょ?』
 含み笑いで音声は途絶えた。そのあとに何があったかは想像するまでもない。だれもが息を呑んで聞き入り、会話をする本人たちでさえ再生される間、邪魔はしなかった。
「これ以外にも、結婚当時からホテルを出入りするところは押さえてる。このまえの土曜日もそうだったな」
 偉人はふたりが写った写真を呼びだして、タブレットを掲げた。
「ずっと、おかしいと思ってることはあった」
 萌絵は頭のなかで再生音を反すうしながら、呆然と吐いた。
「付き合おうって云われたときも、結婚しようって云われたときも。蝶子じゃなくてなぜわたしなのか。最初はそう思ったの。優は蝶子の云うとおりにしただけ? 蝶子を好きで、どうしてわたしと結婚までできるの?」
「萌絵のことは嫌いじゃないからだ。蝶子のひねくれた考え方は、萌絵と付き合ってほしいと云われたときからまったく理解できてない。原因がわからないから。けど、希望を叶えてやりながら、いつか蝶子とっていう希望をおれが持っていたのも確かだ」
 口を閉ざしていた優は、今度は逃げなかった。
「わたしはもっと理解できない。優も蝶子も。蝶子、どうしてこんなことするの? わたしが蝶子に勝てることってなんにもないよ。奪う価値のあるものなんて何も持ってないのに!」
「萌絵が最初に奪ったのよ」
「え?」
「そうやって大事なものを奪ったくせに憶えてないからよけいに奪いたくなるのよ」
 萌絵が奪ったものは一つしか思い当たらなかった。
「……アリスのこと? それだけのことで?」
「母から毎日毎日、あなたはアリスなるんだからって云われてた。わたしはアリスになるのが当然だと思ってた。でも、それを萌絵が奪った」
「わたしは奪ったんじゃない。やらなければならなくなったことをやっただけ。蝶子の風邪はしかたなかったことでしょ?」
「気づいてないの? 小学生のとき、やたらと先生に当てにされてたこと。わたしは手伝ってあげてたよね。少なくとも高校までずっとそうだった。先生にいつもいちばんに名前を憶えられる。わたしと多英は付属品扱い。このまえ、幼稚園の保育参観でもそうだったわ。出だしを間違うと、そこまで違ってくる。それを萌絵は少しもわかってない。しかたないですませられないのよ」
「違うだろ。挽回はどこでだってできたはずだ。萌絵ちゃんに、もしくはアリスに固執して、きみはそれを自分で放棄したんだろう。きみの思考は子供のままだ。全部、萌絵ちゃんのせいにしてる。そのとき、努力はしたんだろう。実らなかったのは不可抗力だ。そこできみが学ぶべきだったのは、出だしを間違ったらだめなんだってことじゃない。望みどおりにはならないこともあるって認めることだった。違うのか?」
 蝶子はくちびるを咬み偉人を睨みつける。
 幼かった蝶子が傷ついたことは理解できる。けれど、それ以上のことは、萌絵にとってはまったくの荒唐無稽(こうとうむけい)、詭弁(きべん)だった。
「蝶子はなんのために、わたしと友だちでいたの? 嫌いなら付き合わなければいいじゃない!」
「さっき五年まえのわたしが云ったでしょ。萌絵のものをすべてわたしのものにしたかっただけ」
「だから同じってことにこだわってたの?」
「そうよ。母のがっかりした表情も、卒業アルバムを見て『ここはあなたの場所だったのに』って云った母の言葉も忘れられない。救いは、『あなたたち三人が一緒にがんばったから』という先生の言葉だったわ。抜け駆けは許さないの」
「抜け駆け? じゃあ、優衣を殺したのは柚似にアリスをやらせたいから?」
 蝶子は驚いた面持ちになった。それは演技なのか。彼女はため息をつくと、もったいぶった様で首を横に振った。
「二年さきに、病気でもケガでもいいから、って思ったことは否定しないわ。でも――」
「パパ、いる? みんないないの」
 ふいに柚似の寝ぼけた声が割りこんだ。
 だれもがハッとして階段の上を見やるなか、萌絵はいち早く階段を駆けあがる。上に着くと柚似の躰をすくった。そうして百八十度くるりと身を返す。
 階段をのぼりかけた偉人を先頭に、下に集まった彼らは、萌絵が何をするつもりかとっさに判断したらしく、“だるまさんがころんだ”をやっているみたいにだれ一人動かない。笑えるほど滑稽な有様だ。
「ここから落としてあげる。そうしたら蝶子、わたしの気持ち、少しはわかるよね?」
 時間の流れのなかで生息しているのは針を刻む時計のみ、人間だけがタイムアップしたように静止した、そんな一瞬ののち。
「わたしは殺してなんかいないわよっ」
「柚似は萌絵ちゃんの子供だ」
「もう優衣は帰ってこないんだっ」
「おれが――」
「八っ」
「――殺(や)ったんです!」
 どの順番で発せられたのかわからないまま、云わせたかった告白と、けっして聞きたいわけではなかった告白が同時に萌絵の耳にたどり着いた。

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