ラビュリントス

Heart of Love
The core〜アイの核〜 #4

 多英の云うとおりだ。
 同じでいようとしてきたバランスは、優衣が欠けたことでいつ傾くとも限らない。
 柚似が欲しい。そう思ったのは、優衣を奪ったくせに、とそんな気持ちのもと、母親でいられる蝶子に対しての嫉妬の裏返しだったかもしれない。
 萌絵は、八とふざけ合っている蝶子を見やった。
 柚似を欲しいというよりは奪いたい。
 同じ思いをしたら、いまのように笑っていられる?
 それを確かめたいという邪心がふつふつと煮えたぎってくるようで、中身が吹きこぼれてしまわないよう、萌絵は急いでふたを押さえつけた。カタカタとふたが鳴るような勢いは、やがて沈静化していく。
 ふと焦点を横へとずらしたのは視線を感じたせいか、偉人の目と合った。多英と何を話しているのか見当がついているような、達観した気配を纏っている。萌絵から外せないのを察しているように偉人のほうがさきに目を逸らした。
「友だちだからって許さなくちゃならないっていう義務はないんじゃない?」
 その言葉はどういうつもりだろう。萌絵は多英へと目を戻した。
 鉄板に水溶きした小麦粉で生地を焼いていた多英は、「ちょうだい」と萌絵の手もとを指差した。お皿の焼きそばをこぼして生卵を加えると、適当に伸ばしてからひっくり返した。
「多英は……壊れてもかまわない、って云ってるの?」
「幼稚園のときの蝶子を憶えてない? わたしたち、いつのまにか友だちって仕立てられたけど、それ以前は、自分がいちばんというのが出ててわたしは蝶子を好きになれなかった。萌絵だって仲良しじゃなくてむしろ避けてなかった?」
 そうだった。年長ともなると、親同士の関係も影響して仲良しグループがはっきりしてくる。蝶子のグループはいちばん人数が多くてにぎやかで、その中心に彼女はいた。一方で、騒がない優等生タイプという、多英を中心にした悟り系のグループがあって、それら二つは、けんかするわけではないが性格的に相容れなかった。萌絵はといえば、隅っこでなんとなく集まっていた子たちのなかに加わって、二つのグループを眺めていた。
「遠巻きに見てただけ。多英たちのグループもね。水野先生が云ってたね。わたしたちはアリスの劇から仲良くなったって」
 アリスに蝶子を、白うさぎに多英を、そして、ぱっとしない子たちのなかからアリスの代役に萌絵を。いま穿(うが)てば、先生たちはうまくグループの調和を取っていたのかもしれない。
「正確にはアリスの劇のあとでしょ。蝶子にとって、アリスをやれなかったことはすごくショックだったみたい。終わったあと、『ママ、ごめんなさい』って泣きじゃくってたのを見たわ」
 萌絵が自慢に思っている裏で、蝶子はひどく傷ついていた。能天気に誇らしげにしていた萌絵を、幼い蝶子はどんな眼差しで見ていたのだろう。
 あの事故のまえ、何かに気を取られていた、というのなら、蝶子はアリスに囚われたのかもしれない。
「蝶子は柚似にアリスをやらせたがってる。柚似がそんなことを云ってた。優衣にも結乃にも負けちゃダメって」
 多英は先刻承知のようにうなずいた。
「三人の力があったから成功したんだって先生はなぐさめてたけど――保育参観のときもそんなこと云ってた気がするけど、蝶子はそれを真に受けたというか、歪んで受けとったのかもしれないってわたしは思ってる」
「歪んで?」
「蝶子が三人同じでいたがる理由よ。そこなんじゃない? だれが突出してもダメ。もしくは自分以下だったら許せる、みたいな」
 許せる?
 その言葉は、まだ三人という関係が成立していなかった頃の、傲慢という蝶子の印象そのものを表していた。
 そして、多英の口ぶりからは、いつまでも蝶子と“仲良し”でいたいという熱望が感じられず、萌絵は訊ねてみたくなった。
「多英は知ってるの? 蝶子と……」
「ふたりで何を話しこんでるの?」
 その声に萌絵はびくりとしながら口を閉じた。
「わたしが何?」
 蝶子は次いで訊ね、間に顔を割りこませてくると、萌絵と蝶子をかわるがわる見比べた。
「いきなり、びっくりするよ」
「具合悪そうにしてたのにいまはぴんぴんだねって話。夜行性のバタフライってめったにいないはずだけど」
 萌絵のごまかしをフォローした多英の言葉は、思いがけず萌絵が知りたかった急所を突いていた。適当に云い逃れるに違いなく、昼間のことで何を語るかよりも蝶子の表情をじっと見守った。
「ゆっくり休んだからよくなったってだけよ」
 両肩をすくめた蝶子からは何も読みとれなかった。わかっていてもそうなのだから、疑いを持っていなかった頃に気づくはずなかった。
「夜更かしする気?」
「たまになんだからかまわないでしょ」
「いいけど、蝶子、八にはあまり飲ませないで。仕事が休みのときくらい胃も休ませてあげないと」
「多英ってクールにしてるけど、ちゃんと考えてあげてるんだ」
「あたりまえのことよ。萌絵、これ、子供たちに持っていってくれる?」
 多英はモダン焼きをのせたお皿を萌絵に差しだした。
「わかった」
 いまは蝶子とも優ともいたくない。それが萌絵の本音であり、すぐさまお皿を受けとると家に向かった。
 食べる? とダイニングテーブルにモダン焼きをのせると、子供たちは歓声をあげて描きかけの画用紙を脇のほうにどかした。萌絵はガーデンに戻る気には到底なれず、世話をやくふりをしてとどまることにした。
 すると、並んだ子供たちのまえに座ったところで偉人がやってきた。持ってきた二つの缶ビールのうち、一つを萌絵のまえに置くとすぐ隣に座る。
「収穫あったのか」
「……なんのこと?」
「多英ちゃんと話しこんでただろう」
「わからない」
「そろそろ動くかもしれないな」
 偉人は囁くように云って外を見やった。萌絵も釣られて目を向けると、多英が今度は蝶子と話しこんでいる。蝶子は浮かれた様子で、多英は受け流しているような気配だった。
「偉人くん?」
「もう壊してもいいだろう」
 多英はそれを直接には口にしなかったけれど、偉人と同じことを思っているのかもしれない。
「偉人くん、多英にわたしのトラウマのこと喋った?」
 訊ねると、偉人は考えこむような面持ちになった。記憶を探っているのか、もしくは云い訳を探しているのか――と思い巡らせてみて、自分がまるで偉人を疑っているようだと気づき、萌絵は不安に襲われた。
 偉人の口が開き、待った返事が訊けそうだと耳をすました刹那。
「優衣ママ、トラウマって見たことない! えっと、シマウマの、トラみたいに黄色いの? 見にいきたい!」
 偉人は首を振りつつ、萌絵より早く、ため息混じりに「違う」と答えた。
「病気の名前のことだ」
「優衣ママ、病気?」
「ちょっとだけね」
「治る?」
「たぶんね」
 そこは、きっと、と断言するべきだったのか、柚似の顔が曇る。
「ほんと? わたしが治してあげるから、おっきくなるまで待ってて。それで大丈夫?」
「柚似、お医者さんになるのか?」
「うん!」
「ちゃんと待ってるよ」
「うん!」
「じゃあ、わたしは看護師さんになる!」
 ここぞとばかりに宣言した結乃の横顔は優衣にそっくりだった。

 海の波に任せ、躰を浮かべていると、ふいに溺れそうなほど揺れた。もがいた矢先。
「萌絵」
 と声がした。
 萌絵はパッと目を開ける。
 夢を見ていたこと、ここが北宮家の別荘であることを把握すると、自分を呼んだ声のほうに顔を向けた。
「蝶子? 何?」
 暗がりではっきりは見えないなか、萌絵は寝ぼけた声で呼びかけた。
「多英がいないんだけど」
「……八くんと一緒じゃない?」
「そこにちゃんといるよ。ちょっとのど渇いたから下に行ってくる。多英もそうなのかも」
 別荘では、番人のように一階で眠る偉人を除き、二階の一室に全員で雑魚寝(ざこね)というのが常だ。
 萌絵は片肘をついて頭を起こす。まだ闇に慣れず、定かではないが、萌絵の斜め向かいという八の定位置になんらかの盛りあがった影があるのは確かだ。
「じゃあわたしも行く」
「女三人で飲み明かすのもいいかもね」
「何時?」
「二時すぎ」
「偉人くん、また揺り椅子で寝てるだろうし、飲んでたら起きるよ」
「そのときはここに追いやればいいんだし。行こう」
 蝶子の誘いに乗り、萌絵は子供たちがぐっすり眠っているのを確認してから部屋を出た。
 すると。
「もうはっきりさせるべきだ」
 と、偉人の声がした。
 だれと話しているのか――と考えるまでもなく、多英だ。そのとおり――
「萌絵は傷つくわよ。いいの?」
 と多英の声が応じた。
「取り返しがつかないことはわかってる」
 何? わたしが傷つくってなんの会話?
 萌絵は無意識で足を忍ばせ階段をおりていった。
「わたしたちの秘密でよかったのに。わたしと偉人さんの計画のことはだれにも喋らないわ」
 笑みを忍ばせたような声音だ。そして、偉人が呻くような声を出した。
「……何やってる?」
「いつものお楽しみタイム。わかってるでしょ?」
 海に面したリビングに着くまで、萌絵はそこで起きていることの見当もつかなかった。それは昼間のショッキングな事実もそうだ。けれどいま、萌絵はそのときとは段違いの衝撃を受けていた。
 揺り椅子に座ったまま、すっと顔を向けた偉人を、萌絵は信じられない思いで見つめる。
 その長い脚の間には多英が居座っていた。

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