ラビュリントス
Heart of Love
The core〜アイの核〜 #3
すれ違ったのではなく、引き裂かれた。
なんのために?
その答えも偉人はくれなかった。
在るべき形に戻る。
世間体も良心も、そんな障壁は皆無にして、ただ自己主張だけを放った偉人に――
戻れない。
萌絵が云った言葉に本心は欠片も存在していなかった。
おそらく偉人は見透かしていて、ふたりの距離を縮めたかと思うと、萌絵の側頭をつかみ顔をおろした。くちびるが触れるまえに萌絵はぱっと顔を背ける。キスのかわりに旋毛(つむじ)に吐息が触れると、人目もはばからずそのまま萌絵の頭は、パーカーを羽織っただけの裸の胸に抱きこまれた。
二十歳の偉人とは違う、成熟した偉人の躰も萌絵の肌になじむ。なぜなら――
確信はできず、それでも萌絵に欲張り心が芽生えたのは可能性のせいだ。なぜそんなことになっているのかわからない。否定されたときに、二度と訊けない気がして口にすることは怖い。夢じゃないかという自分への疑いは常に萌絵に付き纏っている。
優衣。
起きて――そう云ってママを目覚めさせて。
肯定されたからといって、そこに幸せなどないのだから。
クリーム色の低い柵に囲まれたガーデンは別荘のキッチン側と繋がっていて、ダイニングも覗ける。ふと見ると、柚似と結乃がテーブルに着いて頭を寄せ合っていた。
バーベキューを楽しんでいるのは専ら大人たちで、子供たちは食べることよりもそろって外泊というのが楽しくてしかたないのだ。そそくさと食べ終わり、お遊び感覚で宿題のお絵描きをしている。
ガーデンでは、折りたたみ式のテーブルが二つ、そして気の向くままそれぞれ適度に間を空けて座り、時事だったり日常の下らない話題だったりが成り行き任せでどんどん変わっていく。お酒が入っているからいつもより大声で、ちょっとしたことで笑い声があがる。ほかの別荘の声も掻き消してしまうほどだ。お互いさまだろうから、苦情がくることもない。
去年は萌絵もそのなかに加わって、なんの疑いもなく笑っていた。毎年――といってもまだ五回め、一年後の変化は子供の成長くらいで、こんな夏を迎えるとは思ってもいなかった。そして、来年はまた違っている、きっと。
子供たちと同じように、自宅ではないというだけで時間の感覚が狂い、掃除から海水浴、そして夜のバーベキューとまるで違うことをしてきたから何日もすごした気分でいる。
けれど、昼間のことは明確に今日あったことだ。
優は缶ビールを片手に偉人とプロ野球の試合を論じて、特段、何かを気にした様子はない。蝶子は酔った様で八に絡み、ホストタイムだと接待をさせて楽しんでいる。ふたりからは疾しさも悪びれた様子も覗けない。
一方で、萌絵と偉人も変わりなく見えているのだろう。それとも、知っていて知らないふりをしているのか。いずれにしろ、自分でさえ平然と嘘を通しているのだから、裏を返せば、だれも信用できないということだ。
萌絵は寒くもないのにふるえるような感覚がして首をすくめる。
「萌絵、できたよ。お皿取って」
「あ、うん」
多英が指差した大皿を取り、鉄板の上に差しだす。焼きそばを盛り、テーブルに持っていき、また戻ると今度は少し小振りのお皿に取り分けた。
「多英」
「何?」
鉄板の上をきれいにしていた多英は、ちらりと萌絵を見てすぐまた手もとに目を落とす。
「八くんと何かあった?」
「何もないけど。どうして?」
「ううん、いつもとちょっと違う気がしただけ」
「萌絵はいま心底から楽しめないだろうし、そうやっておとなしくしてるぶん、人のことを見られているんじゃない? だからわたしと八のことが違って見える」
多英は鉄板に目を落としたまま、どう? といったふうに首をかしげた。
多英の発言には納得させられることが多い。いまも的確に指摘した。萌絵たちと一緒になってはしゃいで見えても、常に目配りは欠かさない。
「そうかもしれない。わたし、全然見えてなかったから」
多英は萌絵のつぶやきに反応して顔を上げた。
「何か見えたことがあるの?」
果たして多英は、蝶子と優のことを知っているのか否か、まったくわからない。ただ、昼間、萌絵たちが持って帰ったのがスイカではなく海の家で買ったかき氷だったことも、蝶子の具合がどうだったかも追及せず、それがすでに察していたのではないかと勘繰らせる。八もそうだ。逆に、まっすぐ受けとれば、スイカはただ気が変わっただけですませられるし、蝶子については毎年のことと慣れているだけだ。どっちだろう。
「ううん。見えるっていうより気になることが出てきただけ」
「気になること?」
「うん。多英に一つ訊きたいことがある」
「わたしに? ……何を訊きたいの?」
「もうすぐ……最後の人、出てくるよね。大丈夫?」
あの犯罪者たちのことを持ちだすと、にわかに多英の顔は曇るが、すぐもとに戻った。
「知ってたんだ?」
「ずっとまえ、偉人くんから裁判のこと聞かされた」
「そっか。でも大丈夫。ジムに通ってるし、母親だし、いやでも強くなってる……」
多英の声は尻すぼみで終わった。
何を気にしたのか、それは『母親』と口にしたことにほかならず、萌絵は首を振った。
「気遣われるほうがきついよ」
萌絵がそう云うと、多英は遠い時間を眺めているような気配になる。
「そうだね。そのとおり。萌絵はまえと変わらないでいてくれた」
「そう? 本当を云えば、どんなふうでいたらいいのかわからなかったの」
「充分、合格。それで、訊きたいことってそれ?」
「ううん、違う」
萌絵が発するまでには時間も覚悟も要した。一つ、深く息をついた。
「よけいなお世話だってこのまえ云われたばかりだけど、わたし、多英が八くんと早く結婚すればいいのにって思ってた。結乃が八くんの子供だと思ってたから。でもそうじゃなくて、結婚をためらう理由が何かあるとしたら……多英、結乃はだれの子なの?」
「結乃がパパと呼ぶのは八だけよ」
多英はくすっとした笑みを伴って云った。
動揺もなく、もちろんそれは結婚という束縛のない多英からすれば、だれが父親であろうが後ろめたいことはない。むしろ、独りで育てていかなければならず、産むと決断したことは覚悟してのことで後悔など論外かもしれなかった。
「それは知ってる。でも、八くんは自分のことをパパって呼ばない。優も偉人くんもほかのお父さんも、子供たちには“パパ”と行こうって云うけど、八くんは優衣や柚似に云うのと一緒で、結乃にも“おれ”と行こうって云う。結乃が生まれたとき二十歳そこそこで若かったせいだって思ってたけど、本当は自分が父親じゃないから」
「だとしても。萌絵には関係ないことでしょ」
「あるよ」
「なぜ?」
多英は何を云ってもごまかすつもりなのか可笑しそうに首を傾けた。
「優衣と似てるから」
萌絵は変化を見逃すまいと多英の顔をじっと見つめたが何も探せない。夜の外灯のなかだから、よけいに探しづらかったのかもしれなかった。
「他人の空似。もしくは逆に、一緒に育ってるようなものだから似てくるのかもしれない。動物だって飼い主に似るって云うし」
「違う。柚似は偉人くんには似てても優衣と結乃には似てない」
多英は大げさに息をつく。
「もう結論が出てるんでしょ。萌絵が思いたいように思ってればいいんじゃない?」
「そんなふうにすませられることなの?」
あっさりとかわした多英を見て萌絵は眉をひそめた。
互いから目を逸らさず不自然に沈黙したのち、多英は辛辣(しんらつ)とも思わせる歪んだ笑みを向けた。
「わたしはね、子供なんていらなかった。正しく云うなら、産めない。男から触られるなんて耐えられないから」
八と出会うまで、多英から恋の話を聞いたこともなければ、男の人の影もなかった。あの事件のせいだと察するにはたやすく、けれど実際に多英の口から聞かされると萌絵は言葉を失う。なぐさめの足しになるような言葉すら、いまもかつても見つからない。
「多英……」
「同情は必要ないわよ。わたしは楽しんでるから」
「楽しんでる?」
「悔しいじゃない。一生台無しとか」
多英は軽快な様で肩をすくめてみせたが、萌絵は素直に本心とは受けとれなかった。
「楽しいと思えることがあるんだったらいいけど……。さっきのいらなかったって、いまは違うよね? 結乃の子育ては……成長は楽しみの一つでしょ?」
「もちろんよ。いらないって、たぶん自分に云い聞かせてたところもある。それを覆(くつがえ)したのが蝶子」
「蝶子?」
「云いだしたら聞かないことは萌絵も知ってるはず。萌絵んちの引越し祝いしたとき、一緒に子育てしたいって蝶子が萌絵に云ってたでしょ。あの何日かまえ、未婚のわたしまで誘ってくるんだから。八がいたせいかもしれないけど。結乃は最初で最後のわたしの子供。だから、蝶子のわがままには感謝してる。ごめんね、いまの萌絵にこんなこと云って」
最初で最後。多英の言葉は身に沁みた。萌絵にとっても“わたしの子供”と云えるのは優衣が最初で最後だ。そして、もういない。
「だからさっきの多英と同じ。必要以上に気にしないで。闘う練習にするから」
「闘うって何と?」
「たぶん、自分」
「あーそっか。萌絵はトラウマみたいなの抱えてるって聞いたっけ」
萌絵は目を見開いた。現実を夢にしてしまうことがトラウマならそうかもしれない。けれど、どうして多英が知っているのだろう。
「聞いた、って……だれに?」
「あ……」
と、多英は考えを巡らすように宙を見てまた萌絵へと目を向ける。
「萌絵が云ったんじゃなかった? それとも優先輩?」
だれにも話したことはない。少なくとも、話したことを夢にしていないかぎり。優はあの事件自体を知らないし、一方で、話していなくても偉人なら知っている。多英と偉人はそんなことまで話してしまうほど仲がよかっただろうか。
「……そう? わたしは話したこと憶えてない」
萌絵ははっきりさせることは避けて濁した。多英はにっこりとした形だけの笑みをつくる。
「わたしも萌絵を見習って闘わないと。触られるのが嫌とか、結局は引きずってる」
「わたしが多英を見習ってるの」
「お互いさま、かぁ。……ねぇ、萌絵」
「何?」
「結乃の父親がだれかってわかっても、萌絵はそれほど傷ついてないよね」
わかっても――と、多英はいま萌絵の推測を認めた。いざそうなると、驚愕するしかなかった。
「……ショックじゃないわけないよ」
かすれた声で萌絵はなじるようにつぶやいた。
「ショックだけど、傷は浅いようにしか見えない。萌絵はやっぱり偉人さ……」
「多英、わたしの話にすり替えないで」
萌絵がさえぎると、多英は口を閉じ、ため息をついたあとあらためて開いた。
「結乃の父親がだれか。それはわたしの主張なの」
そう聞くと、もしかして、と萌絵は思いついた。
「多英は……優のことが好きだったの?」
「単純な発想すぎるよ。優先輩は先輩、もしくは腐れ縁っぽい友人」
「でも、触られるのが嫌なのに優とは大丈夫って、多英にとって特別だからでしょ」
「繋がるという意味でセックスはしてないわ。ドナーになってもらっただけ。注射器妊娠ていうアナログ的な方法あるから」
「優は知ってるの?」
「まさか。わたしと八の秘密。いまは萌絵も知ってる」
「そんなことをいつできたの?」
「わからない?」
多英はおもしろがって問う。
「多英、子供たちのことをいいかげんに扱いたくないよ。優が好きじゃないんなら優の子供を持つまでの主張って何?」
「聞かないほうがいいこと、けっこうあると思わない?」
多英は遠回しに萌絵の追及をはね除けた。何がなんだかさっぱり理解できない。
「多英、おかしいよ。友だちとしてできることなの?」
多英はため息と見まがう笑い方をした。
「友だちってなんのわだかまりもなく云える? 蝶子のことを――優衣を死なせた蝶子のことをいまでも」
萌絵は応えられなかった。裏切りを知ってからなおさら。
「だれかと友だちでいるための在り方って人それぞれなんだよ。お互いのバランスが取れていればうまくいくし、そうじゃなきゃ壊れる。いまは大丈夫でも、さきはわからない。萌絵はいま実感してるでしょ?」