ラビュリントス

Heart of Love
The core〜アイの核〜 #2

 車一台ですむようレンタカーを借り、偉人の運転で海に向かった。一時間半かけて到着した別荘は北宮家が所有しているものだ。高台の別荘地にあって見晴らしがいい。淡いブルーとクリーム色という組み合わせのカントリー調ハウスは違和感なく、海のある景色に溶けこんでいる。
 天気に恵まれて、というには少しためらわれる。じっとしていても汗を掻くし、くらくらしそうなほど太陽は最大値の光で地上を照らす。海風が幾分かその熱を和らげていた。
 風通しをしながら掃除と夜のバーベキューの準備をして、昼の食事は、そうめんと途中で買った総菜などですませた。
 汗を流すのはシャワーではなく、海水浴を兼ねて近くの海辺におりた。
 夏休み最後の土日と、いつもよりは遅くなってしまったが、一泊の別荘滞在は蝶子と偉人が結婚してから恒例となっていた。つまり子供たちは生まれてから毎年ここに来ている。
 あたりまえに今年もそうであるはずだったのに――優衣が欠けてしまった。
 いつか未来には、年一回の恒例行事も親たちだけになるときが来るだろう。子供たちが巣立っていくことを前提に、そんな話をしたことがある。
 そうなっても子供たちの家族も一緒に連れてくればいいんだから、と云った蝶子本人がそれを叶わなくさせた。少なくとも萌絵からはそうするチャンスを奪った。
「パパ、できたよ。写真撮って!」
「ああ、ちょっと待ってろ」
 偉人は柚似に応え、カメラを取りにシートを張った場所に向かった。
 萌絵は無意識に偉人の後ろ姿を追う。こういうときにしか見られない偉人のぼこぼこした背中に見とれてまもなく、その向こうにいるはずの優の姿がないことに気づいた。海の家にでも行ったのか、もしくは海岸沿いを散策しているのか。優衣がいなくても優の習性はかわらないらしいと思いながら浜辺を見渡す。
「優衣ママ、ちゃんと壁見ててっ。崩れちゃう!」
 結乃が叱るように叫んで、萌絵は慌てて足もとに目を向けた。
 波が襲って、砂で作った砦(とりで)の一部が侵食されていた。砦のなかでは柚似と結乃がお城を作ってやっと完成したところだ。萌絵は砂を盛ってまた砦を形成した。
「波がここまで来るようになったみたい」
「パパ、早く!」
 多英の言葉に重ねるように柚似が叫ぶ。不恰好なお城だが、ふたりにとっては上出来らしい。
 ここは遠浅の海で、小さな子供のためにさらに人工的に浅瀬を設けてあって安心できる。ただ、自然任せの波には負かされてしまう。
「八、太陽も移動してるんだからちゃんとカバーしてよ」
 多英は背後を振り仰いだ。
「多英、海に来て日焼けしたくないってほうがおかしいだろ。いまのおれってけっこう無様な恰好してないか」
 そう云う八は小振りのビーチパラソルを抱えていて、風の抵抗もあるのだろう、若干必死な様を見せて支えながら日陰を提供している。確かに笑える構図だ。
「顔が売れてるし、イメージダウンするのが怖いんだ」
「そんなんじゃないし、顔なんて売れてない」
 普段ならからかえるような会話だったが、心底から楽しめない萌絵の気分を除外しても、いまのふたりはどこかぎくしゃくしたすれ違いが見えた。思えば、偲ぶ会のときも突っかかるような雰囲気はあった。いつもの姉弟げんかみたいなものだと片づけていたが。
 なんだろう。気のせい?
 萌絵は首をかしげて多英を見やった。
「多英……」
「パパ、顔は売っちゃだめ!」
 萌絵にお尻を向けていた結乃は振り向きざま、八に向かって叫んだ。思わず失笑したのもつかの間、結乃がバランスを崩して、萌絵のほうに倒れこんでくる。さっと背中を抱きとめたまではよかったが、結乃の足がお城を蹴りあげてしまう。
 ああーっ。
 柚似の悲鳴は浜辺に響き渡ったかもしれない。大人たちがあげた「あ」という叫び声も掻き消すほどで、息が続かなくてやんだ悲鳴のあと、妙に波音だけが際立った。
 結乃もさすがに自分が何をやったのか気づいたらしい。
「優衣ママ」
 見上げてくる惨めそのものの顔を見たその瞬間、萌絵はカチッとスイッチが入った感覚がして、なんらかのイメージが脳裡を通りすぎた。
「どうし……」
 急いで戻ってきた偉人が云いかけてやめ、それから「また、最初からだな」と可笑しそうに付け加えた。
 結局は偉人が邪魔をして、萌絵はイメージがなんなのかつかめなかった。
「大丈夫。また作ればいいよ」
「柚似ちゃん、怒ってない?」
 お城が崩れたことよりも気にしているのは柚似の機嫌のほうらしい。
「柚似、また最初からでいいよね」
 萌絵が結乃を起こしている間に多英が訊ねた。
「うん」
 この世の終わりだという悲鳴をあげたわりに、柚似はあっさりとうなずく。と――
 次の瞬間、いままでの惨めな様子はどこへやら、結乃はケタケタと笑いだした。
 それもそのはずで、結乃が蹴りあげたお城の残骸で柚似の顔と髪は砂塗れになっている。
「なあに?」
 柚似が不安そうに近づいてくる偉人を見る。
「柚似、来て。砂がいっぱいお顔についてる。取ってあげるから」
 萌絵が立ちあがって手を差しだすと、柚似は条件反射のように手を伸ばしてきた。小さな手をつかんで砦から出すと、ふたりで海のなかに入る。
「目をつむって」
 しゃがんで顔をまずきれいにしてやると、耳の横で二つに結んだ長い髪に手をかけた。
「ゴム、取るよ?」
「うん」
 浅瀬のなか、萌絵はお尻をつけて座ると柚似を横たわらせて左腕で首を支えた。耳が浸からない程度に頭を海面におろし、髪を梳くようにしながら砂を落とした。
 そうしながら、優衣がずっと小さかった頃を思いだす。毎日、こんなふうに髪を洗ってあげた。
「優衣ママ、泣かないで」
 柚似の言葉で自分の目が潤んでいることに気づく。
「泣いてないよ。海の水が入ったかな」
 柚似はつぶさに見上げてくる。
「優衣ママ、優衣パパよりもわたしのパパだと思うの」
 意味不明の発言に目を見開き、萌絵は首をかしげて笑みを浮かべた。
「柚似はもちろんパパ大好きだと思うけど」
「んーっと……間違い。ママよりも優衣ママだと思うの!」
 やっぱり意味不明でわからず、萌絵は「そう?」と受け流した。
「終わったよ。結ぶ?」
「うん」
 起きあがった柚似と正面から向き合うと、原因は違う気がするけれど、さっき結乃に対してあった感覚がまた脳裡を走る。
「いつもクルクルしてるからわからなかったけど、柚似はこんなに髪長かったんだね」
 蝶子は毎夜、柚似の髪を巻いてやっているようで、その忠実(まめ)さにはいつも感心していた。カールだと胸の下辺りまでだが、伸びてしまうとお尻につきそうなほど長い。
「わたし、優衣ちゃんや結乃ちゃんのほうがいい。でもアリスは髪長いんだって」
 不満そうに柚似は口を尖らせた。
「……アリス?」
 つぶやきながら、萌絵は自分が見落としていたことを気づいた。
「柚似ちゃん、早く作ろう!」
「うん! 優衣ママ」
「ちょっと待って」
 気づいたことを考える間もなく、萌絵は急いで結んでやった。終わったとたん、柚似は海水を弾きながら砂浜に戻っていく。
 その姿を追うと、そのさきにいる偉人の目と目が合った。遠くて表情はわからず、ただ視線が重なり合っていることだけが鮮明だった。そこに根が生えたように立ち尽くして見えたのは一瞬か気のせいか、偉人は八へと目を転じた。
「ちょっと任せていいか」
「はい、大丈夫ですよ」
 萌絵が海のなかから立ちあがって戻る間に、偉人は持っていたカメラを八に渡す。そして、萌絵のほうにやってきたかと思うと腕を取った。
「蝶子の具合を見にいく。スイカもついでに用意してこよう。付き合ってくれ」
 口を挟む間もなく偉人は云い、それがいつになく強引に感じたのは勘繰りすぎだろうか。
「多英、行ってくるね」
 萌絵は取り繕うように断りを入れた。
「いってらっしゃい」
 多英の返事に柚似の声が重なる。両親がいなかろうと柚似は安心しきっている。
「さあ、最初から作ろっか」
 多英が声をかけ、子供たちは、やろう、と互いに号令をかけた。
 それを見届け、偉人は腕を引いて萌絵を促す。途中、シートに置いていた薄手のシャツを取って萌絵に羽織らせ、自分もパーカーを羽織った。
 なんとなく裸に近い水着姿というのが気まずい。そう感じるのは背徳のせいに違いなく、偉人が少しでも互いの肌を隠したことにほっとした。
 行こう、と偉人の言葉を合図にふたりは別荘に向かう。
 太陽に弱いという蝶子はいつものごとく、海辺に出て間もなく暑さにやられて別荘に引っこんだ。その実、少しでも美白を保つためというのが最大の理由ではないかと思う。学生の頃は、特に暑いからといって具合が悪くなった蝶子を見たことはない。
「優は? また散歩?」
「どうだろうな。いつものように楽しんでるんじゃないのか」
 どこか引っかかる云い方だ。加えて、一週間まえの感覚がリフレインする。
 多英と義母の妙に重なる発言、そして萌絵と偉人の“いつも”。
 なんだろう。
 考えこんでもたどり着かない。
 そのうち別荘に着くと、偉人はいったん入り口で立ち止まった。
「別荘のなかでは静かにしてほしい。足音も立てないように」
 そうして、萌絵には理由を訊ねる間も与えないまま偉人はドアを開けた。有無を云わさずなかに促されてしまい、萌絵は従わざるを得なくなる。
 けれど、なかに入って再び立ち止まったとたん、偉人が何のために静かにしろといったのか、多英と義母の符合する疑問の答え、そして、“いつも”何があったのか、それらすべてがはっきりした。
 何が飛びだそうとしたのか自分でもわからないまま、萌絵はとっさに自分の口を手で覆った。
 その封じたものを代弁するかのように、ひと際高い悲鳴が響く。
 いや違う。それは悲鳴でも、助けを求める叫び声でもなかった。


 声の発生源は二階にあった。高いトーンで途切れ途切れの悲鳴があとを引く。
 つらそうに聞こえてもそれがつらさとは限らないことを萌絵は知っている。本当につらいとき、苦痛を訴えることさえ放棄しなければならないことを見て知っている。
 ベッドが軋む音こそ聞こえないが、木でできた家は音を筒抜けにした。消去法を使うまでもなく声をあげているのは蝶子で、そうさせているのは優なのだ。
 目のまえに偉人が立つ。太い首がかしいだ。
 どうするか――踏みこむかほっとくか、偉人は萌絵に決断をゆだねた。
 萌絵が首を振ると、立ち尽くした萌絵の躰を反転させて別荘から連れだした。
 偉人は萌絵の手を引いていま来たばかりの道を引き返し、途中の分かれ道で、浜辺ではなく岩場のほうに向かった。
 大きな岩を抜け、海岸沿いに転がった岩の間を蛇行しながら通りすぎる。磯遊びをする人が散るなか、大人五人くらいはすっぽりと隠すほどの大きな岩のまえで立ち止まり、偉人は背後を振り向いて辺りを見まわす。それからその岩の日陰に入った。そこには、寄りかかっているのか支えているのか、手頃な大きさの岩があり、偉人は座るよう身振りで示した。
 広い岩の面が砂浜を遮断して、多英たちからはまったく死角だ。もとい、望遠鏡でもなければだれかを判別することは難しいくらい離れている。
 邪魔もなく、いざふたりになったところで、萌絵は何から切りだしていいのかわからない。偉人から口火を切ることもない。
 ショックというよりも、積み木を積みあげていたら突然、土台の真ん中が持ち去られてしまったような、それまでの努力はなんだったのか、萌絵はそんな虚しさを覚えていた。
 沈黙が重くはびこるなか、偉人の足もとに目を落としたまま萌絵はひとつ息を呑んだ。
「いつから……いつもそうだったの?」
 云い直して萌絵はうつむけた顔を上げ、正面で立ちっぱなしの偉人を見上げた。
 自分の妻が不貞を働いているというのに、その面持ちからは立腹した様子も嘆いた様子も見当たらない。偉人もまた背徳者であり、同罪だからだろうか。あるのは冷え冷えとした眼差しだけだ。
「否定してほしいのか」
 偉人はぶっきらぼうに問い返す。
 訊かなくてもわかっていることをわざわざ口にしているというのは萌絵自身も承知している。求めている答えも否定ではない。それなら、なんのために問わなければならなかったのか。
「本当のことを知りたいだけ。いまのことだけじゃない、全部を知りたいの」
 しばらく偉人はじっと萌絵を見下ろしていた。
「知ってどうする? どうなる?」
「わからない。でも、知らないふりなんてできない。このまえの土曜日も……偉人くんが柚似を預けにきた日もきっとふたりは一緒にいた。わたしたちのことも……わたしは偉人くんみたいに、なんでもなかったようなふりはもうできない」
 優衣を奪った蝶子と、断罪することを放棄して優衣を軽んじた優。忘れられない時間と引き換えに優衣を忘れた萌絵。みんな同罪だ。
「なんでもなかったふりをしてるつもりはない。おれは、萌絵ちゃんを傷つけることになっても取り戻す。その機会を待ってるだけだ」
 萌絵は応えられなくてただ首を横に振った。
 しばらく萌絵を見据えていた偉人の眼差しはつと逸れ、ため息と一緒に戻ってきた。
「おれが最初におかしいと思ったのは、萌絵ちゃんが流産した日だ。病院で蝶子と優を見かけた。おれよりさきに優が病室に来ただろう? そのまえだ」
「蝶子が?」
 萌絵は記憶を探りながらつぶやいた。あの日は、母と優、そして偉人しか訪れていないはずだ。
「ああ。病室に行こうとしてフリースペースを通りかけたときに、ふたりが目についた。流産は計算外だと云う蝶子の声が聞こえた。引き止められるかって優に訊いてた」
「何を?」
「萌絵ちゃんを、だろう」
「何から引き止めるの? 計算外って何?」
「蝶子から聞けばいい。逃げたくないんなら」
 萌絵が混乱したまま訊ねたことを偉人は素っ気なくかわした。
「偉人くんはわかってるの?」
「想像でしかない」
「優衣のことも……生まれたことも死んだことも計算なの?」
 蝶子が人を動かすことは知っているだけに、萌絵は計算という言葉にぞっとしていた。
「少なくとも、同い年の子を産みたいというのは計算といううちに入ってたと思う。おれとの結婚も、蝶子の計画のうちだ」
 偉人の声音に潜むニュアンスを萌絵は敏感に察知した。
「偉人くんは……わかってて結婚したの?」
「結婚ははっきりお互いの合意のうえだ。取引したんだ」
「取引?」
「蝶子はおれの気持ちがどこにあるか知っていた。北宮のステータスを得ることと引き換えに、“彼女”の傍にいられるようにする。プラスアルファの条件付きの取引だった。自分には好きな奴がいる。けどそいつと結婚できない。母親が結婚相手の条件に合わないと反対している。つまり、だれかは訊かないまま愛人を公認してほしい。蝶子の云い分だ」
「……それを受けたの? 偉人くんになんの利点があるの?」
 明らかに蝶子が得になる条件ばかりだった。
「おれの特典は、結婚しろってうるさかった親からの解放と『子供を産んであげる』だった。跡継ぎなんて兄に任せればいいし、そんな特典はどうでもよかった。もう蝶子が云う愛人がだれかわかるだろう。蝶子がどういう意図で動いているのか、監視するには結婚がいちばん手っ取り早かったんだ。何かあっても、傍にいれば彼女を守りやすいから」
「……なぜ……」
 萌絵は何が疑問なのかすら曖昧で、呆然として偉人を見上げた。
 偉人が後悔している、それはもうわかっている。後悔しているのに、結婚は後悔していないと云った理由、それがそこにあったのだとしたら。そうまでしてしまう偉人が、そしてそうさせてしまう自分も怖い気がした。
 偉人と蝶子が結婚を決めたのがひどく唐突に思えたこと、隣同士で家を建てることに意欲的だったのは優だったこと、いまそれらに合点がいく。
「どう考えてもおかしな話だ。親友の夫と愛人関係にあって、流産が計算外という意味がわからない。流産を喜ぶほうがあたりまえの反応だ。少なくともおれは残念でも悲しくもなかった」
「つらかったのに……! ひどい」
「覚悟を示してるだけだ。真っ向から手に入れなければ彼女はまた理由をつけて逃げる」
 偉人は萌絵を見切っている。
 萌絵は忘れられない時間からずっと、偉人とはけっして一緒にいられないんだという理由を探している。それ以前も、優衣の存在がずっと歯止めをかけていたことにいま頃になって気づいた。そしていま、歯止めになっているのは柚似の存在だ。
 それなのに、その柚似は……。
 萌絵が見落としていたこと。それは、子供たちも一人一人隔離して観ることだった。
「確かなのは、おれと“彼女”は偶然すれ違ったわけじゃない。策略のもと引き裂かれたということだ」

NEXTBACKDOOR