ラビュリントス

Heart of Love
罪×悪 #2

 ちょっと預かってくれないか。
 休みを取っていたものの急に仕事が入ったと云い、柚似を伴って偉人が加来田家に来たのは一時間まえだ。
 土曜日、独りで食べた遅めの昼食の後片づけを終え、何をするでもなくリビングのソファに横たわったときだった。
 蝶子は?
 訊ねると偉人は、出かけている、とだけ答えて、返事は当然イエスだろうと期待した様で首をかしげた。
 偉人と顔を合わせたのは、月曜日――何もかも忘れて忘れられない時間をもらった日以来だった。
 偉人は何事もなかったように普段どおりで、また夢だったのではないかと萌絵は自分を疑った。確かめたい気持ちが湧くが、無論、柚似のまえでそんな話などできない。
 萌絵は、わかった、とうなずいて二つ返事をした。
 柚似、いらっしゃい。
 見下ろした小さな顔は花開くように綻び、何がうれしいのか、喜び勇んで萌絵の脇をすり抜けると、奥へ駆けていった。
 頼むよ。
 うん。
 触らせてないだろう?
 偉人の唐突な問いかけは夢ではなかったと教える。
 ただ、あたりまえのように云うから反抗心を誘発された。
 夫婦の間で拒めると思う?
 挑発に聞こえたのだろう、偉人の目が不穏に細くなる。両手が伸びてきたかと思うと頬を挟まれた。萌絵のほうが一段上にいるのに、偉人のほうが見上げる立場で、威圧感たっぷりに迫ってくる。
 嘘だから!
 偉人がなんらかの事を起こすまえに、萌絵は子供っぽく訂正した。
 夫ではない偉人が、夫に抱かれるな、それが逆ならまだしもそんな主張が守られると思うなど現実離れしている。現実は、萌絵が吐いた嘘のほうが真っ当なはずだ。
 もう……ずっとない。わたしがそういう気になれないから。優は理解してくれてる。ちゃんと……。
 ちゃんと萌絵ちゃんの意思を尊重するって? おれと違って?
 偉人くんを責めるつもりで云ったんじゃない。いちいち裏を取らないで。優のことを話してるの。
 偉人はせせら笑う。
 理解? 違うだろう。まだ見えてないのか?
 ……なんのこと?
 いまにわかる。柚似のことを頼む。
 偉人が再び口にした頼むという言葉が引っかかる。
 萌絵は、寝室に柚似がやってきたときのことを思いだした。
 柚似をどうにかしようなんて思ってない。
 あたりまえだ。おれの中心はだれにも侵させない。
 それはやはり警告に聞こえた。
 現実を夢に変えてしまう自分が、夢と片づけて柚似に手をかけてしまうかもしれない。萌絵はそんな不安を覚えた。

「優衣ママ、もういい?」
 ソファの間にあるテーブル越しに、柚似の期待の込もった眼差しが向かってくる。まるで、風が吹けばろうそくの火が消えてしまう、とそんなふうに慎重な囁き声だ。
 テーブルの上はろうそくではなく、ドミノがずらりと並んでいる。一つ弾いてしまえば、一瞬にしてすべて崩れてしまう。
「結乃に見せてあげないの?」
 萌絵が秘密のお喋りをしているようにひっそりと囁くと、柚似はくすくすと笑いだす。
 少しまえ、“生きている”柚似に対して抱いた苛立ち。それはその一瞬で消えていた。多英が云うように、三人とも、萌絵たちの子供であり萌絵たちが母親だった。
 けれどいま、それ以上の気持ちが芽生えている。
 柚似が欲しい。
 そうしたら、偉人の中心に自分もいられるかもしれない。そんな浅はかな欲求を抱き、優衣のかわりに、そんな穴埋めをしたがる萌絵はまた優衣を痛めつけている。
 だれもだれかのかわりにはなれない。
「優衣ママ、悲しい?」
 いつの間にか独り思いつめていたらしく、萌絵は柚似の言葉にハッとして目を向けた。
「優衣ちゃん、いなくなったから?」
「そうよ」
「えっと……テンゴク? 優衣ちゃん、そこからいつ戻ってくるの?」
 死を説明するのは難しいことなのだと柚似は萌絵に教える。呼吸が止まり鼓動が止まり、それをただ死と捉えてしまうけれど、その死に直面した萌絵でさえ説明が不可能なほど、死とは本当は複雑なことなのかもしれなかった。
 それならば、なぜ優衣が、という疑いは疑いではないような気がした。不運だったわね、そんな無責任な言葉で片づけられるなんて間違いだ。運という秩序がただ乱れたわけでもなく、どこかにれっきとした理由があるはずだった。
「そこに行ったら戻れないの」
「会いたいの。シーっていうお話、まだやってないし」
 柚似は人差し指をくちびるに当てた。
「どんな話?」
「だから、シーっなの!」
 と、柚似がまえのめりになったとたん。
 一つのドミノが倒れた。かと思うと、止める間もなく次々と連鎖していく。萌絵は先回りして一つのドミノを逆方向から押しやる。そこで連鎖は止められたものの、ドミノはあっという間に半分が倒れてしまっていた。
 びっくり眼でそれを見ていた柚似は、がっかりはせずにケタケタと笑いだした。
「優衣ママ、すごい!」
「また並べる?」
「うん」
 柚似は飽きても懲りてもいないようで、張りきってうなずく。
「優衣ちゃんのようにわたしも上手になれる?」
「なれるよ」
「優衣ちゃんと一緒にやりたいな。会いにいける?」
 無邪気な質問は時として急所を突く。死ということを別の言葉にかえるなら、二度と会えないこと、だ。柚似は無意識でもちゃんと死をわかっている。
「会いにいったらだめだよ。そうしたらパパと会えなくなるから。柚似はパパが大好きでしょ」
「優衣ママは?」
「……え?」
「優衣ママもわたしのパパが大好き?」
 思わず、柚似は知っていて訊ねているのかと恐怖した。そんなはずはない。けれど、眼差しは、萌絵の反応をつぶさに見守っているようにも見えた。

「柚似のパパは、わたしの先生だったって話してたでしょ? 嫌いなわけないよ」
 ひと呼吸置いて答えてみると、柚似は首をかしげた。
「嫌い? 好き?」
 遠回しな云い方は通じなかったらしい。萌絵はため息を漏らした。
「……好きよ」
「わたしも?」
「え?」
「わたしは優衣ママが大好き。優衣ママは?」
「好きに決まってるよ」
「よかった」
 家に入るときもそうだったが、何がそんなにうれしいのだろうと思うほど、柚似は満面の笑みを浮かべた。
「柚似、ママのことも大好きでしょ?」
「好き。おやつ、美味しいの作ってくれるから。好きなものもいーっぱい買ってくれる」
 どこか気になって萌絵は訊ねたわけだが、その質問に対する柚似の答えはいびつだった。
 柚似が挙げた例は、具体的すぎて無機質に聞こえる。全部が好き、など、子供が母親を好きだと云うときは往々にして曖昧になるものだ。
「柚似ママはなんでもできるからいいね」
「ママとのお勉強はちょっと嫌い。優衣ちゃんと結乃ちゃんに負けちゃだめだって。アリスなんてなりたくない。わたしは柚似だもん」
「……アリス?」
「うん。寝るときのお話、いまそればっかり。わたしはおっきくなったりちっちゃくなったりしたくない。怖い夢なんて見たくないし……」
 柚似のお喋りは突然、萌絵の耳を素通りする。優衣の死の直前、何かなかったか――萌絵は偉人がそう質(ただ)したことを思いだした。
 いま柚似が云ったアリス。その名を聞いたのは、あの日の二週間まえ、保育参観のときだ。何か特別なことがあったとしたらその日しか思い浮かばない。
 蝶子は何に気を取られたのだろう。
「鬼のあくびは嫌い」
「鬼のあくび?」
「うん。鏡見て練習したの」
 蝶子の真似だろう、テーブルに肘をついて指先に顎をのせるというちょっと気取った恰好をしたあと、柚似は眉間にしわを寄せて大げさなほど“ため息”をついてみせた。
 母親を鬼と称することに懸念を覚え、柚似の表情が伝染したように萌絵は眉根を寄せた。
 すると、柚似の浮かない顔がぱっと晴れた。
「優衣ママ、おんなじ顔してる! わたし、ママが……」
 と云いかけた柚似の言葉はドアホンの音がさえぎった。
「あ、結乃ちゃん来た!?」
「そうかもね」
 萌絵が立ちあがるより早く柚似はリビングを出ていった。萌絵はモニターに映る多英を確認してから、入って、と声をかけ門のロックを解いた。
 玄関へ行くと、柚似がすでにドアを開けかけている。
「柚似、開けるのは、そうしていいって云ってからよ。もし、結乃じゃなくて知らない人だったらどうするの?」
 萌絵がたしなめると柚似は慌ててドアを閉める。背後にはお化けでもいるんじゃないか、そんなおそるおそるといった様子で柚似は振り向いた。
 皮肉にも、いま萌絵を素直に笑わせてくれるのは、優衣を奪った蝶子の娘だけだった。
「開けていいよ」
 たったそれだけの言葉を発しているなか、萌絵が云い終わるのを待たず柚似はドアをめいっぱい開いた。
「結乃ちゃん、待ってた! ドミノ、一緒にやろう!」
「結乃、いらっしゃい」
 萌絵と柚似の言葉が入り混じると、多英は呆れたように目をくるりとまわし、結乃は笑いだす。
「うん!」
 と、さっそく結乃が上がりこもうとすると、「結乃、待って」と多英が引き止めた。
「萌絵、さきにお花をかえようと思ってるけど」
 多英は買ってきたらしいガーベラを掲げた。
「……うん。暑いし、しおれちゃうまえがいいね。お水を用意してくる」
 ケトルに水を入れている間、柚似が結乃にひたすらドミノ倒しの話をしている。女の子のお喋りは三人でも二人でもにぎやかなのは同じだ。優衣がいなくなって、まだ二カ月半なのか、もう二カ月半なのか。お喋りするふたりを見ていると、優衣の存在が過去のものになっていく気がして怖くなる。
 ケトルにいっぱい水を溜めても足が動かない。そんな萌絵をキッチンから出してくれたのは、携帯電話の着信音だった。
 ダイニングテーブルにケトルを置いて携帯電話を取った。画面を見ると、相手は優の母親だ。
「はい、萌絵です」
『萌絵ちゃん、優はいる?』
「え……作業場にいると思いますけど」
『いないから萌絵ちゃんに電話してみたの。どこに行ったのかしら。ケータイに電話しても出ないし、メールも返さないんだから』
 電話の向こうでため息が蔓延した。
 いくら仕事が好きでも優だって息抜きはするだろう。義母の反応は大げさな気がして、萌絵は眉をひそめた。
「本屋かもしれない。いま、天文の写真とかDVDをよく見てるから」
『そうなの? 最近、ちょっとって云っていなくなることが多いのよ。確かに宇宙を見たがるのは優のストレス解消法だし、優衣がいなくなって張り合いがなくなってるのかもしれない。次……っていうにはまだ早すぎるわね。ごめんなさい』
 義母が何をほのめかしたのか察するにたやすい。優の両親とはうまく付き合えていて、優衣のことでは悲しみながらも支えようとしてくれたし、だから悪気がないのもわかっている。萌絵は、いえ、とさり気なく聞き流した。
 期待されても、いまのままでは萌絵と優の間に次ができる可能性はない。
「優にはわたしからも電話してみます」
『お願いね。わたしもまた電話してみるけど。繋がったら、引き出物用に注文付きでバタフライの大量発注が来たって伝えてちょうだい』
「わかりました」
 萌絵は電話を切ると、すぐさま優の番号を呼びだしてかけてみた。携帯電話を耳に当てるも、一向に繋がらず、結局は電話会社の応答に切り替わった。義母はメールをしていると云ったが、念のため、萌絵もメッセージを送った。
「優先輩、どうかした?」
 ケトルを携えて玄関に行くと、電話で話している声が聞こえたらしく、多英が問う。
「どこか出てて連絡取れないって、お義母さんから」
 萌絵が答えると、多英はつと考えこむような様で宙を見つめた。
「多英? どうかした?」
「ううん。蝶子はどうしたの? 最近、土曜日は偉人さんに柚似を預けて出てる感じするけど」
 蝶子と優というその対象は違ったが、多英は義母と似たようなことを口にした。



「いつまでこういうことを続ける?」
 枕にもたれ、ドレッサーのまえで下着を身につけている彼女を眺めつつ、その欲望の冷めきらない瞳とは相容れない、うんざりした声が問うた。
「まさか、わたしを見捨てる気? それとも、いまさら心変わりして本気になってる?」
 振り向いて問いを投げ返した声は、少しもそんなふうには思っていないと自信に満ちている。
「そういう問題じゃなくて。彼女を嫌いになったことはない。彼女に対しては罪悪感だらけで、おれはつらいんだ」
「罪悪感?」
「彼女の意思、もしくは選択権を奪ってきた。親友の策略でな。挙げ句の果て、大事なものまで……」
 中途半端に言葉を切り、彼はベッドヘッドを見た。ホテルに来て二回めの着信音が鳴りだした。
 その音で相手はだれかはっきりしている。
 秘密の共有者である互い以外だれもいないというのに、電話が切れるのを待つ間、ふたりは息を潜めていた。やがてメロディが途絶えると、彼女はベッドに上がってきて、四つん這いになって投げだした彼の脚を跨(また)ぐ。
「誤解しないで。わたしのせいじゃないわよ」
「子供のせいなのか」
「偶然よ。だから、わたしは怒られるようなことしてない。それに、あなたはすべてを失ったわけじゃない。わたしも、それに、子供も。わかってるでしょ?」
「どうするんだ、これから」
「べったりな親バカ気取りを引き離さないといけないし、いい考えがあるの」
「おれはいままでどおり、きみの云うとおりにしてればいいって?」
「何もしないでいまのままでいてくれればいいの。わたしを手に入れたければ」
「おれは手に入れてないのか?」
「わたしは、いつだってあなたが一番で、あなたのもの。ずっとそれは変わらない」
「そのくせ、ほかの女を抱かせたり、子供つくらせたり、平気だっていうのはよくわからないな」
「“ほかの女”じゃない。あなたの傍にいるのはわたしの分身。わたしたちは同じなの。でも、もう分身はいらなくなった。わたしが一番だってわかったから。でしょ?」
「そう、一番だ。だから云うこと聞いてきてやったんだろ」
「そうやってお姫さま扱いしてくれるから好きなの。最初から」
「役得ないのか」
「あるでしょ」
 艶然とした微笑を封じ、身につけたばかりの下着を取り払った。



 北宮家の一画にしゃがみ、ガーベラを入れ替えてから四人で手を合わせるとまもなく立ちあがった。
「優衣ちゃん、きらきらしたところにいるんだよね」
 結乃が萌絵を見上げる。
「きらきらしたところ?」
「あ! きっとテンゴクだよ、結乃ちゃん」
 柚似が得意げに云うと、結乃は首をかしげた。
「ううん、違う。ゴクラクなんとか――」
「極楽浄土、でしょ?」
「ママ、それ! まえ行ってた保育園のえんちょー先生が云ってたの。お日さまの傍にいるみたいにきらきらしてるところだって。優衣ちゃん、てんとう虫さんに連れていかれちゃったのかな」
 意味がわからず、萌絵と多英は顔を見合わせた。多英が結乃のまえに再びかがみ、首を傾けて覗きこんだ。
「てんとう虫が?」
「てんとう虫さんはお日さまのところに飛んでいくんだって。パパが教えてくれたの」
 なるほど、てんとう虫に連れていかれたというのは、子供が考えそうな単純な妄想だ。
 萌絵もまたしゃがんで結乃と同じ目の高さになった。
「そうだね。でも、てんとう虫と一緒にいたのは結乃でしょ? てんとう虫に助けられたのかな、結乃は痛くなくてよかったね」
「萌絵」
 思わず飛びだした。多英はそんな気配で萌絵を呼んだ。
「ほんとに思ってることだよ」
「萌絵が嘘吐きじゃないってことはわかってるよ」
 そんな母親たちの会話を見守っていた結乃は、否定するように首を振った。
「わたしはてんとう虫と一緒にいたんじゃなくって、てんとう虫を探してたの。優衣ちゃんが持ってたてんとう虫が逃げちゃったから。パパがママたち帰ってきたよって云ったら、優衣ちゃんがおうちに走っていっちゃった。そのときにてんとう虫はいなくなっちゃったの。パパ、わたしにママは連れてくるからてんとう虫を探しててって云って、優衣ちゃんみたいにママのところに行けなかったんだよ」
 結乃はがっかりとしている。つまり、それだけ鮮明に頭に残っていて、記憶が曖昧というわけではなさそうだ。優衣ではなく結乃であってもおかしくない状況だったのだ。
 不運という運命は存在している。
 多英の事件にしろ、あの男の子と接したのは多英だけではなく、そう考えたら犠牲者は萌絵でも蝶子でもあり得たのだ。
 萌絵は嘘吐きではないかもしれないが、云わないずるさを持っている。多英が傷ついた裏で、病んだ行為とはいえ、萌絵と偉人はつかの間の至福を重ねていた。そんな罪悪感のせめてものなぐさめは、男の人を受け入れることはないかもしれないと思っていた多英に八がいること、そして結乃がいること、だ。
「暑いから家に入ろう」
 萌絵が誘うと子供たちは一様にうなずき、柚似は萌絵の手に自分の手を潜りこませてくる。
「ママ、行こ」
 結乃の声がして、さきに行きかけていた萌絵は立ち止まって振り向いた。すると、考えこんだような多英が目につく。
「多英?」
「あ、うん」
 多英の返事はめずらしく曖昧に響いた。
「多英、よけいなお世話だけど、八くんとは結婚しないの? シングルマザーを否定するわけじゃないの。ただ、両親そろって結乃がいるわけだし、せっかくうまくいってる家族なんだから、もったいないって思ってるだけ」
「よけいなお世話だってことだけは確か」
 そう答えた多英は、すでに隙を晒すことのない彼女に戻っていた。

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