ラビュリントス

Heart of Love
罪×悪 #1

 小児病棟のプレイルームには十数人の子供たちが集まっているが、騒がしいどころかだれもいないかのように静かだ。聞こえるのは、芝居がかったセリフのオンパレードで、窓から覗いてみる。すると人形劇が行われていて、静かなはずだ、子供たちが喰い入るように夢中で観ていた。
 病院から出られない子たちにとってボランティアによる様々な活動はいい刺激剤だ。
 ただし、長く入院している子にとっては、二週間に一回のこの人形劇はすでに物珍しいイベントではなくなっている。病院からだけでなく病室からも出られない子はさらに気の毒だ。
 けれど、顔を見られるだけでもいい。たとえ治らない病気だとしても、いつか穏やかに笑って思いだせる、意識はしなくともそんな覚悟を培(つちか)う時間がある。
 夜泣きして眠れなかった日も、意思疎通ができなくて泣きたくなったときも、トイレトレーニングでつまずいて苛々した日々も、育児書どおりにはいかない悩みも不安も、真っ当な時間を生き延びるとするならすべてが取るに足りない、ほんのわずかな時間だ。
 けれど、優衣に真っ当な時間は与えられなかった。生き延びるために必要なものを探しても見つからない。それなら、生き延びるために何かが欠けていたのだ。
 笑えないときはそのかわりに抱きしめて、大丈夫、と伝えてあげること。そんな母親としての気持ちが萌絵には足りなかったのかもしれない。
 優は子育てに専念していいと云った。萌絵はそうしないことを選んだ。
「師長との打ち合わせは終わった?」
 人影はとうに察していて、偉人の声を聞いても萌絵は驚かなかった。
 萌絵がうなずくと、偉人はざっと頭から足もとまで視線を滑らせる。
「事務所に戻って、終わった頃にまた来るつもり」
 気まずくなりながら簡潔に報告すると、聞いているのかいないのか、偉人は向かいのナースステーションをちらりと見やってから萌絵に視線を戻した。
「来て」
 そう云った偉人は背中を向けると廊下を進んでいく。ナースステーションを完全に通りすぎたところで立ち止まり、振り返った偉人は促すように首をひねった。そうして、また歩きだす。
 萌絵の足は、思考回路が結論を下すよりも早く脳の命令を遂行していた。
 つかず離れず、ふたりはそんな一定の距離を保ちながらエレベーターのスペースに行った。さきにエレベーターに乗った偉人に続くと、萌絵たちのみを閉じこめて上昇し始めた。
 ひと言も口を開かず最上階に着く。最上階は理事長室や院長室など役員たち専用のフロアで、薬品の匂いもしなければ病院という雰囲気でもなく、一端(いっぱし)のホテルふうだ。
 偉人は萌絵の腕を取ると、臆せず当然のようにエレベーターを降り立ち、すぐ近くの部屋に連れていった。そこはテーブルとソファがあるだけの打ち合わせ室で、なかに入ると偉人は鍵をかける。
「偉人くん?」
 ドアに寄りかかった偉人は腕を組んで、二度め、萌絵の全身を眺めた。
「痩せる一方だな」
「……いまがちょうどいい。蝶子と同じくらいだし」
 云い返すと今度は反応がない。
「仕事中だから……」
「おれを疑ってる? もしくは疑った?」
 偉人は十日まえの偲ぶ会のことを云っているに違いなく、やはり萌絵の考えは――細部まではもちろんわかるはずないが――感情の動きは見透かされている。
「……疑わなくていい保証は何もないから」
 偉人は薄らと笑った。
「何をはっきりさせてほしい?」
「偉人くんが知っていること」
「萌絵ちゃんも知っているはずだ。ただ気づかないふりをしているだけで。もしくは避けているだけで」
「わたしが知ってる?」
「このまえ観ただろう。一人ずつ隔離してみてどうだった?」
「でも、わからないの。わかってるのは……」
「続けて」
「偉人くんが……優衣がこうなることを知っていたってこと」
 偉人は一瞬表情を止め、睨(ね)めつけるほどの鋭さで萌絵を見つめる。
「そこを疑ったわけだ? 知るわけがない」
 吐き捨てるように放った偉人は、おもしろくもなさそうに鼻先で笑った。
「あの日、どうして偉人くんじゃなくて蝶子が出かけようとしてたの? 偉人くんが家にいるときは、ケーキでもお菓子でもなんでも、思いついたら蝶子は偉人くんに頼んでた」
「おれが行くっていった。けど、ケーキの新作出てるから見てみたいと云って蝶子が出た。少なくとも、おれには意図はない」
「蝶子には? 意図はあるの?」
「それは、おれの“わからないこと”だ。ただ、事故のちょっとまえ蝶子は何かに気を取られていた」
「ちょっとまえ、って?」
「たとえば十日まえとか、そういう単位の“ちょっと”だ。いつもと変わったことなかった?」
 少し考えてみたが、ほぼ毎日一緒にいて同じことを繰り返しているような日常のなか、萌絵はすぐには思いつかない。
 萌絵が首を振ると、ふいに偉人が目のまえに迫ってきた。無意識に後ずさると背後の壁が背中をせき止める。
「偉人くん!」
 制止しようと呼びかけたが効力はなく、押しのけようと上げた両手は手首を捕まれて、肩の横でそれぞれ壁に貼りつけられた。
「放して。仕事に戻らな……」
「おれが、知っていながら放置して、萌絵ちゃんを苦しめるって?」
 偉人はすぎた会話を持ちだし、その声にも表情にも不快さをくっきりと浮きあがらせた。
「おれが、なんのために指咥えて見てたと思うんだ」
「なんのこと……!」
「待っていても埒が明かない。すべてバラバラに壊しても、おれには一つだけ、手に入れたいものがある。そのためなら悪人だろうが罪人だろうが、その汚名は喜んで被る」
 見開いた萌絵の目に偉人が映る。その顔がクローズアップされたかと思った次には焦点が合わなくなった。

 くちびるにやわらかい感触、そして人の体温を感じ、萌絵は反射的に目を閉じた。
 くちびるの間を裂くのは偉人の舌で、萌絵の口内に忍びこみ、頬の裏側をつつくのも偉人の舌だ。
 これは口封じでもない、ただのキス。ただのキスだからこそ、罪深く、なんの足しにもならないほど儚い。
 絡めとろうとする偉人から逃げているつもりが、逆にふたりの舌は絡み合っている。頭は壁に押しつけられて逃れられず、萌絵は呼吸の仕方がわからなくなっていった。
 抵抗するからつらいのだ。
 萌絵のなかで、自分が自分へと云い聞かせるように囁く。
 それに従い、ふっと力を抜いた一瞬後、偉人はくちびるを離した。
「萌絵ちゃん」
 沈みそうになる寸前で偉人の呼びかけが萌絵をすくう。
「……偉人くん?」
 喘ぎながら呼ぶと――
「どこにいる、いま?」
 偉人はじっと萌絵を見つめて問う。
 偉人はおかしなことを訊く。そう思いながら、萌絵は念のため目をくるっとさせながら部屋を見渡した。
「病院。こんなところで……」
「そう病院だ。ここでいまからおれは萌絵ちゃんを犯す」
 偉人の云っていることはあまりに突飛すぎて、萌絵は返す言葉を失い、目を丸くした。
「逃げることは許さない。今日は」
 “今日は”?
 その言葉に疑問を持つほど、偉人は強調した。
 驚きに惚けている間に萌絵の手首は解放された。かわりに偉人の手はキャミソールの下に忍びこみ、腹部から這いあがってくる。ブラジャーが上に押しやられ、そのまま手のひらでふくらみを覆われるとぞくっとした感触が最大値に達した。
 んふっ。
 偉人はふくらみをしぼるようにしながら、親指で胸先を揺さぶる。たったそれだけのことにおなかの奥が疼いて、熱を孕(はら)んでいく。久しくなかった感覚は萌絵を敏感に反応させていた。喘ぎながら躰が緩やかによじれてしまう。
 こんなところで、偉人と――全部がだめなことなのに。
 快楽に負けてしまいそうだった。偉人はそれをわかって萌絵を追いつめる。胸しか触られていないのに。そのことも萌絵を脅(おびや)かした。
 だめ、なのに。
 快楽を否定しながらも――
 ん、あっ。
 自分の嬌声に気づき、萌絵はくちびるを咬む。けれど、虚しくなるほど自分は快楽に堪えきれていない。
 許されない。それならどうやって許しを得られるだろう。
 違う。抵抗しなくても大丈夫。これは……。
「萌絵ちゃん」
 ぼやけていく思考をまた偉人の声がすくう。同時に片方だけ胸から手が離れた。そうかと思うとスカートがたくしあげられる。ショーツのなかに手が潜り、躰の中心に偉人がじかに触れ、萌絵は小さく叫びながらびくっと躰を揺らした。
「萌絵ちゃんは淫乱だな」
 萌絵に屈辱しか与えない、嘲(あざけ)った声音だった。
「イヤっ、もうやめて!」
 躰をひねったが、胸をつかむ手で押さえつけられ、躰の中心を侵略されて逃げられない。
「嫌、じゃないだろ。ほら」
 偉人の手が花片をこね、蜜を乱暴に掻きまぜるような粘着音をわざと室内にまき散らす。
 あ、あ、あ……だめっ。
 自分を許す間もなく偉人に追い立てられ――容赦ない感覚が躰を突き抜けていった。背中を壁に貼りつけられたまま、壊れた人形のように萌絵の躰がびくついた。
 痙攣が余韻にかわる時間もないまま、素っ気ないほど偉人は胸からも躰の中心からも手を抜きとった。足は頼りなくふるえて躰の支えを失い、くずおれる寸前、偉人が萌絵の躰を抱えあげた。
 ソファに連れていかれ、座った姿勢で無造作におろされると躰が跳ねてかしぐ。萌絵が体勢を整えられないうちに偉人はベルトを外し、スーツパンツのまえをはだけてオスを晒した。
「偉人くん……」
 制止しかけた手は簡単に払われる。偉人はショーツを引きおろし、萌絵の左足だけ浮かして剥ぎとった。腰をつかんだ手にソファから落ちるぎりぎりまでお尻を持っていかれ、同時に、偉人は自分の腰を押しつけてきた。オスが躰の中心をつつく。
「あっ、偉人く――!」
「ここは病院で仕事中で、夫じゃないおれに無理やり犯されてる。けど、萌絵ちゃんは場所も時間も立場もわきまえず、ぐちゃぐちゃになるほど感じてる。自分でもちゃんとわかってるだろう」
 偉人は嗤う。
「ちが……っ」
「違わない」
 萌絵の反論に腹を立てたように偉人はオスを突き進め、体内を容赦なく貫いてきた。どんなに快楽を得ていても、セックスは五年のブランクがあるのだから、痛みはなくともきついのにかわりはない。それなのに、気遣いもなく偉人は抉(えぐ)るようにして最奥に到達した。
 偉人のくぐもった呻き声に重ねて、萌絵は悶えるように喘ぐ。呼吸をしているつもりが果たしてちゃんと酸素を取り入れているのか、息苦しい。
「きついのはかわらないな」
 かわらない?
 萌絵の疑問はやはり消化できないまま、そしてオスの形に萌絵がなじむのも待たず、偉人は腰を前後に動かし始めた。
 最初はたまに漏れるくらいだった呻き声も、喘ぐように変わって萌絵の声はだんだんとひどくなる。それがさらに淫靡な様に変化していくのは幻聴なのか。ひどく濡れているという感触は自分でもわかっていたが、律動に合わせて部屋を満たす水を跳ねる音、そして呼吸に紛れて飛びだす悲鳴は萌絵自身を苛む。
 違う。
 そう戒めても、次第にさっきとは段違いの快感に侵されていく。啄(ついば)むようなキスが体内で繰り返し交わされ、そのたびに全身が粟立つような身ぶるいが走った。
「だ、めっ、違う……」
 目を閉じて見えないはずの萌絵の視界に、さらにもやがかかっていく。
「違わない」
 偉人は振り絞るような声でさっきと同じ言葉を吐き、闇に閉じこもりかけた萌絵を邪魔した。
「逃げるな」
 鋭い声音にびくりと躰がふるう。ゆっくりと目を開けると、偉人の瞳がしっかりと萌絵を捕らえた。
「おれから逃げないで。何が萌絵ちゃんをそうさせる? あれを見たせいなのか?」
 さっきまでの冷ややかさと真逆に、いま偉人は、セックスという行為とはちぐはぐに映るほど懇願して見えた。
「……逃げ……る?」
「いまみたいにおれを見てろ。そうやってイクのを見たい」
 萌絵に答えを返さないまま、偉人は再び律動を始めた。すぐに思考は快楽に浸食されていき、正常な意識をすべて吸いとられてしまう怖れが芽生え、萌絵の躰がわなないた。
「萌絵ちゃん」
 目を閉じれば偉人がそれを阻むように萌絵を呼ぶ。
「も……堪え、られない」
「我慢しなくていいだろ。おれを拒まないで。ただおれと感じればいい。それがおれたちの在るべき形だ。違うのか? 違うなら、はね除けてほしい。いますぐ」
 偉人は、少しも違うとは思っていない、あるいは、はね除けても解放するつもりはない、そんな渇望をちらつかせながら問う。
 そうありたい、と萌絵も思ってきた。
 いまは何もかも忘れて、在るべき形にゆだねてみたい。
 萌絵は手を伸ばす。合わせて偉人が上体を倒してくる。すべて支えてくれそうな、その強靭な首に手をまわして、互いの顔がぼやけない距離まで近づける。
「偉人くん」
「偉人、だ」
「……偉人」
 返事のかわりに呻いた偉人はふたりの躰をゆっくりと揺り動かしていく。やがて、飢渇(きかつ)した心底(しんてい)を満たす何か、それを探し当てたように深く篤く、何度も萌絵を穿(うが)つ。
 萌絵はいま、感覚を否定することも逆らうこともしなかった。奥深くまで貫かれて何度めか、果てに放りだされ、力尽きる。偉人の背中から萌絵の手がだらりと落ちていく。
 そんな萌絵を追い、偉人が身ぶるいしながら短くくぐもった咆哮を放った。萌絵のおなかの奥で戯れるようにしながら偉人のしるしが熱く満ちていった。
「萌絵、は、おれのだ。もうだれにも触らせるな」
 聞き憶えのあるセリフは――
 萌絵のくちびるに荒い呼吸が降り、萌絵の瞳には偉人がくっきりと映る。
 夢、ではなかった。

 萌絵は弛緩した腕をなんとか持ちあげる。すると、萌絵が手を伸ばすよりさきに偉人は指を絡める。そうして上体をかがめると乱れた呼吸を重ね合わせた。
 偉人が仕掛けてくる気だるいキスは、萌絵の体内で生成された昂奮剤の濃度を和らげていく。しばらくすると、偉人のくちびるは口角から顎を伝い、首もとへと滑り落ちた。鎖骨との境目にある脈動に口づけたまま、少年っぽい宣言からふたりの呼吸が落ち着くまで、偉人は躰を繋いでいた。
 届かないというあきらめと、近道も逃げ場所もないという秩序。希求など切り捨てればいいのにそうはできず、一本道を常にさまよって、中心が前と後ろどっちの方向にあるのかもわからなくなる。立ちはだかる壁を強引に突き破り、一直線に中心にたどり着けばこんなにも満ち足りるのだろうか。
 いま萌絵は、胸の奥が痛みに疼くほど偉人と繋がっていたくて、ほかには何もいらなかった。
 つかの間の、続かない夢の続き。
 まもなく偉人の躰が離れていき、萌絵にはそれさえも刺激になる。偉人が自分の服を整えている間に、躰をこわばらせて復活しそうな快楽をやりすごした。
「何度抱いても、萌絵ちゃんは最後には混濁してる」
 萌絵の左脚にショーツを通しながら偉人はやるせなくつぶやく。
 十五歳の夏から、おれのだ、とその残響は、自分が自分に見せた幻聴だと思いこんでいようが、偉人がいないときもずっと萌絵の聴覚を刺激していた。
 何度抱いても。
 いままで夢だと思っていたことがすべて本当だったとするなら、どれだけ偉人に抱かれたのだろう。
「……何度も?」
 萌絵がためらいがちに確かめると、偉人は目を向け、可笑しくもなさそうに笑う。
「犯罪だ。今日みたいに萌絵ちゃんの躰は応える。けど合意とは云えない。おれは……」
 偉人はつと視線を逸らすと、途中で言葉を打ち切ったまま立ちあがる。隅のローチェストに行くと扉を開けてティッシュケースを取ってくる。
 萌絵を立ちあがらせると、体内からこぼれてきたオスのしるしを偉人自らが拭ってきれいにした。自分でやろうとした萌絵の手は払いのけられ、中途半端な位置で脚に絡まったショーツを穿(は)かされる。萌絵は上半身だけ自分で整えた。
 そして、偉人はスーツパンツのポケットに手を入れたかと思うと、二つ錠剤の入ったプラシートを萌絵へと差しだした。
「これ何?」
「避妊薬だ。望まないならすぐ二錠とも飲んでおくといい。選択は萌絵ちゃんに任せる」
「任せる、って……」
 偉人の云い分は、立場を考えるとひどく無責任だ。偉人はくちびるを歪め、それは自嘲に見えた。
「おれは、二十歳のとき、将来どんなふうに成長するんだろうなと思う子に出会った。留学があったし、その二年間、近くで成長に立ち会えないことがもったいないって思っていた。その気持ちがすでに恋だったと云われるんならそうなんだろう。否定はしない」
 萌絵が目を丸くするのを見て、偉人は薄く笑った。
「あの事件に遭遇した瞬間、おれの気持ちは劇的に変わった。だれにも渡してたまるか。穢(けが)されてたまるか。おれのものだ。自分を制御できなかった」
 萌絵が衝撃を受けたように偉人もまたそうだったのだ。
 偉人の右手が左側の鎖骨に沿い、後ろへと這っていき、所有物だと誇示するように萌絵の首根っこをつかんだ。
「傍にいられなくなる。それが頭にあって自制心を放棄したかもしれない。けど、おれと同じで、あの事件で彼女も闇を抱えた。おれが抱くたびに、応えるくせにトランス状態に陥る。おれなりに考えた。彼女は罪悪感を持ってる。友だちへの、もしくは自分が快楽を得ることへの後ろめたさ。いや、どっちも合わせたすえ、彼女はおれとのセックスを認めたがらない」
 違うか? そう問うように偉人はわずかに顎をしゃくった。
 偉人が云ったことは今日、たったいま知ったことだ。萌絵はなんとも応えられなくて目を伏せた。
 加えて、彼女、とまるでここにいないだれかのことを指す云い方は、萌絵をますます居心地悪くさせる。
「いったん離れたほうがいいんだろうと思った。それはけっして本意じゃなかった。二年も離れてやっと帰ってきた。けど、彼女はやっぱり変わらなかった」
 最後の言葉が引っかかり、しばらく考えこんだあと萌絵はハッとして顔を上げる。
「……帰った日の夜、うちに来たときも?」
「卑怯だろ? 付き合ってる奴がいるって聞いて、頭に血が上ってたかもしれない。けど、彼女はおれだって認識はしてた。皮肉にもその証拠は、二度め彼女を起こしたときに何も憶えてなかったことだ。バカバカしいほど似た会話を繰り返した」
 そのときのことを思いだしているのだろう、偉人はあの日に見せた、人を凍てつかせるような気配に変わった。
「偉人くんは……。……あのとき、突き放されたみたいに感じた」
「違う。彼女がほかの男を選んで、おれを突き放したんだ」
 偉人は萌絵の言葉に被せるように吐き捨てた。
「奪えばよかったのに」
 萌絵はずるさを吐く。偉人は責め立てるような眼差しで首をひねった。
「一度は試みた。彼女は幸せだとは見えなかったから。希望を持ったのに、彼女は結婚すると最後通告した」
 萌絵は息を呑む。なぜ。その疑問はここにも潜んでいた。
「……お母さんから……偉人くんには結婚したい人がいるらしいって聞いたの。……傷つきたくなかった」
 偉人の表情が止まる。そして、目を背けるようにしながら顔を歪ませた。
「だれのことか、いまならわかるだろう」
 偉人はなじるように吐いた。
 萌絵にとって、聞きたくて聞きたくなかった言葉だった。一本道で繋がっていながら虚しくなるほどふたりはすれ違っている。残っているのは苦辛のみで――
「もう……わかってもなんにもならない」
「おれは取り戻す。萌絵ちゃんが目のまえにいるかぎり、遅いことはない。罪人にも悪人にもなる。そう云っただろう。全部、おれが背負う」
「できない! 優といないと、わたしは優衣を裏切ることになる。偉人くんだって、柚似がいる。柚似はどうするの? 大事でしょ?」
 二人の間に睨み合いのように張りつめた空気が漂う。その実、萌絵は心底から泣き叫びたかった。
 何もかも忘れて。
 一度だけで充分、優衣を裏切っている。それほど、場所も時間も立場も無にして萌絵は満ち足りたのだ。
 首もとから手を放した偉人は薄らと笑う。
「本当にあきらめてほしいのか?」
 偉人は卑劣なほど、萌絵の脆弱(ぜいじゃく)さを突いた。

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