ラビュリントス
ゲシュタルトフォール
断片 #3
萌絵は思わずパッと偉人を見やった。
すると、偉人の横顔が正面へと角度を変えて萌絵に向かってくる。萌絵の思考は明確に伝わっているのかどうか、ただ、なんらかの異変を察したのかもしれず、偉人の眼差しは探るようだ。
「萌絵が気に入る話じゃなかったよね。時期的にも……ごめんね」
萌絵の反射的なしぐさは蝶子の目を引いたようだ。偉人から引き剥がすようにして蝶子へ目を転じると、彼女はすまなそうにため息をついた。
「そんなことない」
自分の考えがあまりにショックで、萌絵は深く考えもせず気づいたときにはそう応えていた。
何もかもを投げ捨てて独りになりたい。失うということの衝撃はそんな自暴自棄を生む。優衣を亡くしたときにはじめて知って、それからいまが二回めだった。
激昂に任せて叫び続け、狂ってしまえば叶う。
けれど、違う、と否定したがる自分が浅はかにもそれを阻止する。
妄想にすぎないと自分の考えを否定したのは自分で、偉人に何かあるなら、その偉人自身が本当のことを探すよう促すはずがない。ただ、その二つは根本で矛盾している。本当のことがあるのなら、即ち、偉人は妄想ではないと保証しているようなものだ。
偉人は何を知っていて、何がわからないというのだろう。そう云ったことが、偉人を疑惑の対象から除外する理由になるはず。
そしてもう一つ。
偉人は、知っていたからわかっていた。もしくは、疑っていた。優衣に何かあるかもしれないことを。ゆえに冷静でいられた。
それはあくまで想像であり、優だけではない、偉人のことも萌絵はまるで読めていない。キスの意味も――いや、意味はなくて、黙らせて萌絵の思考力を奪うためだったとも考えられた。
偉人が鷹揚なのは、蝶子への愛着が見られないように、ほかのすべてについても執着心がないからかもしれない。だから一歩引いた感覚で冷静に見渡すことができる。
偉人はずっとこんな人だっただろうか。萌絵は昔の偉人を思い浮かべようとしたが、淫靡(いんび)な夢が邪魔をしてよくわからない。
けれど、偉人が愛着に欠けている理由は見当をつけられそうな気がする。
偉人には結婚を考えているほど好きな人がいた。それは蝶子と会う以前のことだから、云うまでもなく、偉人が好きだった人は蝶子ではない。偉人がいつまでも結婚しないのはそのだれかを待ち続けているのだと思っていたけれど、蝶子と結婚したということは、偉人の恋はいつの間にか終わっていた、もしくは破れていたのだ。
縁談を拒絶するほど――ほかの人とは結婚する気になれないほど、偉人はその人が好きだったに違いなく。いや、そうじゃない、偉人はまだその人を忘れられない。
そう考えると偉人の態度もしっくりきた。蝶子が何をしようと――優衣の命を奪っても、見限ることはおろか責めることもなく客観的でいられる。
執着しない偉人が優衣にこだわりを持つ理由はない。それなら、優衣の事故に係わっているという疑惑の対象から、偉人を除外できる。そんな結論に至るのは、そうであってほしいという、やはり萌絵の願いにすぎないのか。
「だそうだから。優先輩、蝶子を出すのは、世の主婦たちをみかたにつけるチャンスだよ」
多英は萌絵の無意識の返答を受けて優にアドバイスをしだす。
「なんだ、それ」
「だって、主婦のアイデアでヒット商品が出たんでしょ。少なくとも蝶子と同じ専業主婦たちは自分も! とか、専業主婦を侮るなかれ! なんて意気揚揚になりそう」
「多英、逆もあり得るよ」
八は可笑しそうにしながら口を挟んだ。
「どういうこと?」
「蝶子さん、きれいだからさ。ジェラシーの対象になりやすいってこと。同性からするとパーフェクトっておもしろくないだろ」
「八くん、それ、ホストって職業柄からくる悟り?」
蝶子がおもしろがって八をからかう。
「かも、ですね。女は怖い」
「八、それ、わたしのことじゃないわよね?」
「違うよ。多英を怖いと思ったことない。大事だっては思ってるけどな」
「わあ」
至って真剣に云った八を蝶子はそのひと言で揶揄し、優に続いて偉人の失笑を買う。多英は呆れたように首を横に振った。
「営業トークはわたしには効力ナシ」
「心外だ」
八のホスト的な発言はいまに限ったことではないが、いつもはふざけた感が否めない。それがいま、めずらしく即行で反論した声はいやに生真面目だった。
けれど――
「恥ずかしいからふたりだけのときだけでいいって云ってるだけ」
と、映画に出てくるキュートな女優みたいに多英が芝居がかったしぐさで八を指差すと、八はそれにのっておどけた様でホールドアップする。
「オーケー。ふたりのときに」
「結乃も!」
突然、結乃が自己主張をしてみんなの笑いを誘った。
直後、一斉に萌絵に視線が及ぶ。そうなった理由は単純明快だ。萌絵もまた笑っていた。
「優衣ママ、優衣ママは笑ってるのが好き」
「わたしも好き!」
結乃に続いて柚似が叫ぶ。
子供たちはわずか四歳と幼くても、幼いなりに察していることはあるのだ。優衣は、絶える瞬間に自分の終わりを悟っていただろうか。萌絵の笑顔が消えていく。
「萌絵、結乃と柚似、それに優衣も、わたしたち三人の子供だから」
多英が云おうとしていることはわかる。ただ、素直に受けとめるにはまだ時間がかかる。萌絵はあやふやにうなずいた。
「結乃、夏休みは先生からお勉強云われてる?」
ぎこちない気配を吹き払おうと、萌絵は結乃に訊ねてみた。
職場復帰したときがそうだったように、しんみりされて励まされたりなぐさめられたりするのはうっとうしい。少しまえまでは、詰まらない個人的な不平不満を口にする人すらも羨み、なぜ優衣が、という疑問を伴って萌絵を苛(さいな)んでいた。そんなふうに人をそねむ気持ちは徐々に落ち着いている。優は萌絵が独り辛気くさくするのを嫌がるし、いまこの場ではどちらかというと、彼らが勝手ににぎやかにして、そのなかで独り、いるかいないかの距離を置いて佇んでいるほうがよかった。
「お絵描きと粘土! それと……んーっと……」
「えっと……まるバツ帳!」
結乃が考えこんでいると、柚似が発表するみたいに手を上げてあとを継いだ。
「それ! お天気のシール貼って、歯みがきのまるバツをつけるの」
「ちゃんとしてる?」
「うん! 蝶子ママのおやつ食べたいもん」
結乃は大きくうなずき、蝶子がくすっと笑った。
「歯みがきしないとおやつだめって云ってるの。おやつ食べて虫歯になったら多英ママに怒られちゃうって脅してる。柚似は歯医者が嫌いだし」
「歯医者好きなやついるのかって、おれが子供だったら突っこむな」
「八、子供じゃなくても嫌いでしょ」
「たった四つ違うだけでそういう保護者ぶった云い方はいただけないな」
「八くん、多英は八くんを拾ったときの気持ちが抜けないんだよ。面倒みなくちゃって。多英らしいだけであって、保護者気取りって思うのは八くんの間違い」
「一人前に男としてのプライドがあるんだよ。ね、八」
「その、一人前に、っていうのが保護者気取りだし、おれがそこにこだわってるのはプライドでもない。偉人さんだったらわかりますよね」
八は唐突に偉人を話に巻きこんだ。八の眼差しがまっすぐに向かってくるのを受けとめながら、偉人は薄らと笑って首を振る。
「おれがプライドを放棄してるってことは確かだ。必要ない」
偉人から聞くには意外な言葉だった。バックやステータスが確固としているのだから、選民意識はなくとも自尊心くらいはありそうなのに、偉人はきっぱり切り捨てた。
八は、ほら見ろ、と云いたそうな目を多英に向けた。
何が惹くのか、八は偉人を師と仰いでいるような嫌いがある。最初からそうで、けれど、そのわりに病院で働かないかという偉人の誘いは断り、八は自分でホストの仕事を見つけてきた。
最初のほうこそ女女しいという言葉が似合う、いかにも“男の子”という感じだったが、ホストがよほど八に合っていたのか、みるみるうちに男っぽく変化していった。いまは、取材さえ受けるほどで、店のナンバーワンという称号はもとより業界でも知れ渡っている。
ただ、八の素性は、多英に訊いても『さあ』と知っているのか知らないのか、曖昧な返答があるだけであり、八自身も『おれはゼロだ』と天涯孤独を匂わして、いまだに出身地さえわからない。
賢明な多英が――それ以前に、あんな目に遭った多英が、男である八をよく知りもしないで引き取ったのだから。萌絵はそんなことを理由にして、八を無条件に信用している。実際、いままでに八の人格を疑うような場面に遭遇したことはない。偉人にしろ、身元不詳のまま病院の仕事を提案したことを思えば、心配する必要はないのだろう。
それに、昼夜逆転する八の存在は多英にとって用心棒にもなる。遅くても多英が出かける頃には仕事から戻り、多英が帰るのは仕事に行くまでまだ余裕がある時間帯で、八は必ず多英と結乃を送迎する。
萌絵がよかったと思っている以上に、多英は安心できているんじゃないかと思う。
「八くん、今日は仕事は?」
「今日は休み取ってる。週中だし、そう忙しくないから」
萌絵の質問には思ったとおりの答えが返ってきた。八の中心はきっと多英なのだ。
「パパ、遊ぼ」
子供用の椅子からおりたかと思うと、結乃が八の腕を取った。
「わたしも!」
柚似が急いで椅子をおりる。結乃のもとに駆け寄ると、ふたり一緒になって八の腕を引く。
「何するんだ? 昼間、遊んだだろ」
「夜の遊園地!」
結乃がぶらんこやらジャングルジムやらが並んだ中庭を指差す。
「蚊に刺されるぞ」
「シュッってするから」
結乃が虫除けスプレーを腕に振りかける真似をしながら訴える横で、柚似がうんうんとうなずいている。
八は蝶子と一緒に面倒を見ていることが多いから、子供の扱いも手慣れているし、結乃はともかくとして、柚似は隣に住む優よりも八に懐いている。
「じゃあ、おれにもシュッてやってくれよ」
「うん。パパ、待ってて!」
結乃と柚似はリビングの棚に向かった。
「虫除けって、八くんにはなんだかリアル」
蝶子は含み笑う。
「蝶子さん、おれ、客には手を出さない主義だよ」
「そのわりに装飾品、次から次に変わってるよ?」
蝶子は八の腕時計と首もとを指差した。八は、仕事に行く日はネックレスを何連もしていることが多かった。それが違うものだとは気づかなかった。鈍感な萌絵と違い、蝶子は目ざとい。
「プレゼントはもらうのが流儀だし、身につけることもそうですよ。この腕時計はプライベート用。自分で買ったものですから」
「そんな都合のいいことある?」
「見返りは店とプラトニックなデートで終わりです。みんな平等に」
「それがかえっていいんじゃない? 蝶子だってそう。同じでありたがる。そうしたら安心なんでしょ」
多英が補足すると――
「なるほど。取り合いっこがなくってファンが増えるだけ、もしくはアイドルみたいにみんなで応援しようってなるんだ?」
蝶子は考え考えしつつ云った。
「かもね」
「おいしい仕事だな」
優が自分にはとてもできないといったふうに呆れた声音で口を挟んだ。
「けど、そろそろ太陽と一緒にすごせる生活がしたいって思ってるんです」
「ホストやめるってことか」
偉人の問いには肩をすくめ、八は子供たちに引っ張られていった。
「八くんもいろいろ考えてるんだ。いい男になったよね」
蝶子の意見に同意しているのか、かわしているのか、多英は首をかしげた。
「萌絵」
蝶子の呼びかけに萌絵が振り向くと――
「今年も夏の旅行、みんなで行かない? お絵描きの宿題、それで終われるの」
蝶子はためらいがちに、取って付けたような理由で誘った。優衣がいない萌絵にとっては、被害も及ばなければ必要でもない理由だ。
「いいんじゃないか。優衣も連れていってやろう」
考える余地も話し合う余地も萌絵に与えず、優は優衣の写真を指差した。