ラビュリントス

ゲシュタルトフォール
断片 #2

 優への苛立ちの理由、仲間、というフィルターを外したときに何が見えるだろう。
 優とは、付き合うことも結婚をすることも、萌絵は断る術を持たず、その時々で理由が違っていても偉人が係わっていた。
 優との転機には偉人がいる。そう思っていたけれど、もしかすると、それは逆なのかもしれなかった。
 偉人との関係がなんらかの変化を起こしそうになると、優が割りこんで萌絵と偉人を切り離す。
 もっと正確に云うなら。
 偉人からはっきりノーと示されたくなくて、萌絵は自分から避けようとしていたのだろう、タイミングよく優が現れて逃げ道に導いてくれた。
 付き合うと決めたときには、偉人の留学が終わるときで、離れていた間の繋がりは希薄だったにもかかわらず萌絵は微々たる希望を抱いていた。そんな希望は儚くてつらくて、だから断ちきりたい気持ちはあった。
 結婚を決めたときは、偉人が食事に誘ってくれた日だった。
 偉人には結婚を考えている人がいる。萌絵はそれを受けとめるのが精いっぱいだった。偉人の口からいつかその人のことを聞かされるかもしれない。そんなことは聞きたくない。どうせ叶わないから。そんな投げやりな気持ちに任せて結婚宣言をした。
 赤ちゃんが欲しい。そう願った日は、蝶子が妊娠した可能性を萌絵に教えて、偉人が完全にだれかのものになったのだと身に沁みた。手に届く距離にいても心は絶対に手に入らないほど、偉人は萌絵から遠ざかった。
 優との間に子供がいれば、もう後悔も羨む気持ちも清算できそうな気がした。あるいは、あきらめがつきそうな気がした。
 自分のなかから偉人を消し去れない。それを認めたいま、萌絵は逃げることばかりして優を利用してきたことが鮮明になる。
 そうしたら、萌絵は優を責められない。
 優は大人になっても少年っぽさを残し――いや、高校生からの付き合いだからこそ当時の優を勝手に重ねているだけかもしれないが、気さくで後腐れがない。いまみたいに疑問を抱いたことはあっても裏があるなど、萌絵は思ったこともない。この頃たまに覗く優の苛立ちは、萌絵がいつまでも辛気くさくしているからだ。
 優を嫌いになったことはないし、萌絵の母が思ったようにドライな関係に見えたとしてもそれだからこそ、云いすぎたり干渉しすぎたりすることがなくてきっとここまで続けられた。
 優が優衣の死に係わっているとは思えなかった。病院で落ち合った優は、取り乱し、混乱し、萌絵が放心状態だっただけに、必死で冷静さを保とうとしながら泣いていた。
 優とはもう。その言葉に込めたのは優のせいではなく、不誠実な自分でいたくないとそんな気持ちが強くなっているからかもしれない。優衣がいなくなって、優ではない存在が心底にいることを自覚して、萌絵は結婚という関係の支えをなくしてしまったのだ。
 けれど、優と離れてしまったら、優衣をないがしろにするのと同じ行為だ。優衣を本当に独りぼっちにしてしまう。
 それなら、萌絵はこれからさきも、ずっと不誠実な自分と付き合っていくことを選ぶ。
 優を利用してきて、偉人に嘘を吐いてきた報いだ。
「優、副業のほうも変わらず忙しいのか?」
 偉人はワイングラスを軽くまわすように傾けながら、からかった口調で問いかけた。優は首を振りつつ苦笑いをした。
 副業というのは、本来の工業部品を製造するという下請けの仕事ではなく、気まぐれでつくり始めた結果、口コミによってヒットした、鉄鍋の製造販売のことだ。
「本業より安定してるかもな」
「うれしい悲鳴だろう」
「ちょっと面倒なとこもあるけど」
「面倒?」
「テレビの取材とか。半日の取材が五分の放映で終わるとか営業妨害だろ」
「なるほど。おれも何度か対応したことがある。患者の取材でトータル五日くらい来ても十五分でそのシーンは終わるな」
「だろ。ふざけてる」
 優はわざと文句たらたらな様子で云う。それを受け、今度は偉人がため息をつくように笑った。ほぼ同時に、蝶子たちも失笑を漏らす。
 優は、呼び方こそ“偉人さん”だが、会話は三つの年の差を感じさせず、まるきり友だちになる。偉人はなんとも思っていないのだろう、気安く接している。偉人が“加来田さん”と、優のことを初対面以来の他人行儀な呼び方をした日、あれは、謝罪するにもそうできなかった蝶子の代理として、偉人なりの誠意を表したのだろう。
 不誠実な萌絵とは正反対だ。偉人が心底から謝っているように見えなかったのは、萌絵のほうが感情を麻痺させていたからかもしれない。もしくは、最初の子を亡くしたときのように、萌絵のだらしなさが原因だと責められているように感じたからかもしれない。
「優先輩が怒ってるのは、自分がテレビに映ってなかったからでしょ」
 多英が云い、優は首をひねって抗議した。
「目立ってどうするんだ?」
「ファンクラブできたらますますヒットしそうじゃない?」
「ふざけてろ」
 優は即行で話を打ちきった。が、多英がくすくす笑うなか、話題は蝶子が拾う。
「カクタ工業の名前を全国区にしたのはわたしよね、優先輩。なんにも報酬もらってないけど」
「おれは、出していいって云っただろ」
 仕事のことだからだろうか、やけに生真面目な顔で優は云い返す。
 蝶子が主張するのは当然だろう。鉄鍋の発案者は彼女だ。
 蝶子曰く――お母さん、鉄分が取れるから鉄鍋がいいって云ってるんだけど、すぐ焦げついちゃうし、ふたないし、お洒落じゃないし、両手鍋とか熱くて素手で持てない――そうだ。
 そのクレームは職人魂を刺激でもしたのか。優がつくった鍋は、焦げない加工をしてガラスのふたをつけ、鍋の取っ手にはカバーをつけた。お洒落という点は、スタンド性を兼ね、ふたの取っ手をバタフライの形にすることで、蝶子から合格点をもらったのだ。オーブンでも使える鍋はそのままバタフライと名づけられてヒットしている。
「優先輩、冗談! わたしの名前がついてるだけでいい感じなの」
 ふふっと笑いながら優を覗きこむ蝶子と、蝶子を見やって顔が緩んでいく優を眺めていると、ふと優と付き合うまえ、こんな光景を見ることが多かったことを萌絵は思いだした。
 優は、好きになると相手への感情表現が下手になってドライに映るというだけなのか。なぜ蝶子ではなく萌絵なのか、天文部の部室での告白から始まった、優への疑問は未解決のものばかりだ。

「ネーミングもつくるのも、優先輩がやったことだし、バタフライのスペシャルバージョンもつくってもらったから」
 蝶子は続けて云いながら目のまえのパエリアを指差した。
 パエリアの入った鍋は、縁が波打つように緩い半円の繰り返しになっていて、要するに花の形をしている。それにふたがしてあれば、花に蝶がとまっているように見えて可愛い。洗うことや収納の場所取りを考えると扱いづらいから商品化はされず、萌絵たち三人しか持っていない特別仕様の鉄鍋だ。
「そのまま出してもお洒落だし、見せびらかしたい感じ」
「ほんと、優先輩ってセンスあるよね」
 多英の発言にのって蝶子がうっとりした気配で褒めると、優は照れ隠しのためか鼻先で笑ってあしらう。
「蝶子ってさ、名前のせいか花を見ると飛んでくからな。蝶子とくれば花っていう連想だ」
 優のいうとおり、趣味のガーデニングで中庭は程よく花が見られるし、蝶子は何かというと花モチーフにこだわる。蝶子は笑い声は立てないまでも、そのくちびるに最大値の弧を描いた。
 ひょっとしたら蝶子と優という組み合わせは、夫婦である萌絵と優よりもしっくり見えるのではないか、そんな印象を持つのは萌絵の思いすごしだろうか。これまでも何度もそう感じたことがある。かといって、目障りだとか負の感情はなかった。
 ただ、いまは不愉快、憤怒、あるいは憎悪、そんな感情が突然ざわめき始めた。だれかの手のひらの上で臓器を転がされているような危うさ、それに、これまで鬱積(うっせき)したものが加担して、解放しろと暴れそうだった。
 蝶子は事故からもう立ち直って普段の彼女に戻っている。
 優衣の時間を奪ったくせに。優衣を奪われた萌絵のまえで。
 なぜ、笑っていられるの? 幸せそうに。
 殺人は、罰金と慰謝料と、お金で清算された。萌絵に断りもなく、優と北宮家の間で。
 蝶子に罰が下ったからといって優衣が帰ってくるわけではない。わかっている。
 事故が殺人だという主張も、萌絵自身があの時間に帰らなければ成立しないのだから、萌絵の妄想にすぎない。わかっている。
 けれど。
 いまここで笑っている蝶子が、その心から優衣を完全に消し去っていることを、萌絵は認められなかった。
 蝶子にとって、もう終わったこと?
 会わない間はやりすごせていた感情の昂りも、蝶子を目のまえにすると増幅してしまう。苦しくて小さく喘いだ刹那、腿の上で握りしめた左手が覆われた。
 やはり、偉人には抑制のきかない衝動が伝わっている。そして、その手は鎮静作用を持っている。左手が緩んでいき、ふるえる息を吐くと偉人の手も離れていった。
「でも、花を嫌いな女性っていないと思うけど。ね、萌絵?」
 急に同意を求められ、一瞬、息が詰まりながらも萌絵は曖昧にうなずいた。
「そうだね」
「飛んでいく奴はそういない」
 優につつかれておどけたようにくるっと目をまわした蝶子は、大人っぽくありつつ子供っぽくもあった。
 蝶子は子供みたいに我を通すことと相反するように、萌絵と多英のために何かしたがる。結局それは、突きつめれば、蝶子は自分自身のためにそうしている、ということかもしれない。蝶子自ら、さっき『わたしのため』と口にした。
 物心ついた頃から知っている蝶子のフィルターを剥がすには、こんなふうに仲良くなるまえのことを思いださないと難しい。第一印象はどう感じただろう。
「優先輩、今度取材依頼がきたら、蝶子のことを話してみたら? 一般人でもちょっとした話題性はあると思うけど」
「おれはいいけど……」
 多英に曖昧な返事をしながら優の目は偉人へと向かう。釣られて萌絵が隣を振り仰ぐと、優が自分に伺いを立てていると察したらしく、偉人が口を開く。すると――
「パパ」
 柚似が偉人を呼んだ。偉人の斜め向かいに座った柚似は、テーブルにこぼしたゼリーを指差している。最後のひと口がスプーンでうまくすくえなかったらしい。器は空っぽだ。
 偉人はティッシュペーパーを取ってゼリーの残骸を拭き取った。ついでに、柚似のくちびるの端についたゼリーを指先で拭って偉人は自分の口に入れる。
「もっと?」
「うん!」
 柚似は首が折れそうに大きくうなずく。偉人の横顔を見ると、頬筋(きょうきん)が動いて笑みを浮かべているとわかる。
 胸が疼くほどうらやましくなる最大の要因はなんだろう。萌絵は心もとなくなった。
「蝶子はきれいだし、目立つこと嫌いじゃないでしょ」
 多英のことだから優が偉人の意向を気にしていることは察しているだろうに、偉人の返事を待たずにあおった。
「嫌いじゃないけど」
 満更でもなく応じた蝶子は偉人を見やる。
 偉人は柚似のまえにゼリーの入った器を戻すと、蝶子、そして優へと目を向けた。
「おれの許可なんて必要ないだろう」
 偉人はあっさりとして肩をすくめた。
 それを包容力とみなすか無関心だとみなすか。そんなことを考えてしまうのはきっと萌絵だけだ。
 いま気づいてみれば、萌絵は、いかにも仲がいいといった蝶子と優のシーンに嫉妬することはなく、むしろ、蝶子と偉人というふたりを羨んでいた。
 いずれにしろ、蝶子と優が、多英と優よりも仲よく映ることは確かで、偉人はそれをどう見ているのだろう。
 偉人からは、蝶子の気まぐれを許容している部分は見えても、いまの優のような愛着は感じられない。
 もっとも、偉人は優よりも感情の抑制がきいている。少なくとも表面上はいつも鷹揚(おうよう)だ。優衣の死を目のまえにしても偉人は至極冷静だった。
 ――まるでわかっていたように。
 何気なく続けてみた言葉にハッとした直後、信じたくないという拒絶反応を伴い、萌絵の躰は総毛立った。

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