ラビュリントス
ゲシュタルトフォール
断片 #1
口封じから変化したキスは夢のなかよりも――夢ではなく偉人からは現実だとほのめかされたが――のぼせてしまうほど執拗だった。
萌絵を解放したあと。
憶えてるか? 迷宮の中心にある切り離せないもの、そこにたどり着けるなら、遠回りでも出口をふさがれてもいいって云った。けどもう一つ、卑怯な手を使うこともおれは厭(いと)わない。
偉人は嗤う。放った気配は、だから云ったのに、とそう云ったときと同じであり、ずっとまえ萌絵が流産して見舞ったときと同じだった。
優とはもう――そう思ってるんなら、気のすむまで“本当のこと”を探してみたらいい。そうするには家に引きこもっていても埒が明かない。外に出てみるべきだ。
抱きしめるまではなぐさめだと体裁がつくけれど、死にかけてもいないふたりの間でキスは云い訳ができない。それなのに偉人は後ろめたさの欠片も見せず、何事もなかったように眠った柚似を抱えあげた。
そのしぐさは、偉人が宣言したとおり守り抜くといった慈愛が見て取れ、萌絵は、偉人と柚似は引き離せないと思い知らされるような気がした。
わたしは引き離すなんて考えてるの?
偉人の背中を見送りながら自問する。置き去りにされたように感じて、萌絵はそんな自分に断罪を望んだ。
そうして“本当のことを知る”きっかけは偉人が用意してくれたのだろう。週が明けて会社に行くと、木曜日、優衣の月命日に偲(しの)ぶ会をさせてほしいと多英から申し出があった。
平日となると必然で蝶子が北宮家でやろうと出しゃばるはず。そう予想したとおりのことを、多英は気遣った面持ちで伝えた。
多英はあらためては云わないけれど、かわらず結乃については蝶子を頼っていることを萌絵も承知している。時折、柚似と結乃のはしゃぐ声が届く。
蝶子の過失で優衣は死んだ。それでも多英が結乃を預けるということは、そこに故意はなかったという証明なのかもしれない。
ましてや、優衣と同じようにてんとう虫に夢中だった結乃は悲劇に立ち会っている。柚似もそうだが蝶子は母親なのだから度外視するとしても、母親が傍に不在であろうと結乃が蝶子に怯えないということ、それは蝶子に悪意はなかったという保証にもなり得る。幼いからといって、“知っている”のなら無防備ではけしてない。
もっとも、柚似も結乃も八の機転によって優衣の死を直視していないらしく、子供たちの本能的な感受性は当てにできないのかもしれない。
偲ぶ会のことは、優には偉人から連絡が入っていた。そのことをふたりで話し合う間、優は萌絵の意向を気にしつつも、家族ぐるみの付き合いを復活させたがっていて、説得しようという意気込みが見え隠れしていた。
翌日、多英に承諾の返事をしてから、そして今日になっても萌絵は迷っている。
知りたい気持ちとは裏腹に、知ったからといってもし“本当のこと”があるのなら、聞かないほうがよかったと思うだろうことは目に見えている。
そんな萌絵とは違い、優はまったく疑惑を抱いていない。
「まえは家族みたいにしてたけど、久しぶりにみんなで集まるって緊張するな」
その実、作業服から普段着に着替えてきた優からは、緊張ではなく安堵とうれしさが覗いている。
萌絵は冷蔵庫へと向かう優を目で追う。
あの日、萌絵よりもぼろぼろだった優の悲しみは長続きしなかった。時が癒やすという言葉に当てはめるにはあまりにもあっさりとして見えた。
萌絵の感覚はしばらく泣けないほど狂っていた。だから、ふたりの感情に温度差が現れたのはしかたないことと受け入れるべきなのか、萌絵にはわからなかった。
冷蔵庫を覗く優を眺めていた多英は、萌絵へと目を戻して首を傾けた。
「萌絵は大丈夫?」
「大丈夫っては云えないよ」
「そうだね。隣同士って親しくなくてもこうなったらつらいし難しい」
「その点、多英は懸命だった。大学卒業したら、さっさとマンション買って。もし蝶子の結婚と同時期だったら、絶対に隣の敷地買わされてる」
「だろうね」
多英は首をすくめ、可笑しそうに含み笑った。
「けど、多英はすごいな。どれだけ株で稼いでるんだ?」
優はコップにミネラルウォーターを注ぎながら口を挟む。
「優先輩よりもわたしのほうが頭の回転率いいのかも」
多英は萌絵に目配せをしたあと、優をおちゃらかす。
「堅実だって云ってほしいな。投資って博打(ばくち)とかわらないだろ」
「それは思いきれない人のひがみ」
多英の突っこみに優は鼻先で笑ってあしらった。
表向き、多英の財源は株で稼いだことになっているが――株投資をしていることは事実であり、維持費はそれで賄っているというが、マンション購入の元手は慰謝料だと多英は萌絵に教えた。そんなものをいつまでも残しておきたくもない。実家のような一軒家よりもマンションのほうがセキュリティがしっかりしているし、ぱっとなくしたかったと多英は云った。
乗り越えたとずっとまえに聞いたけれど、多英の時間からあの日を消すことはかなわないのだ。
多英にある“あの日”と萌絵にある“あの日”は種類が違っても、どちらも痛みであり悲しみだ。多英の存在は、萌絵にとっては真の理解者だという心強さを与えてくれる。
「そろそろ行く?」
多英が促し、萌絵は一つ深呼吸をしてからうなずいた。
萌絵と蝶子の間に入った多英の立場もつらいだろう。いま多英は、結乃に会いにいくよりもさきに萌絵に付き合った。
「多英、ありがとう」
唐突なお礼をどう察したのか――
「親友でしょ」
多英は可笑しそうにした様で首をひねった。
萌絵が北宮家に入るのは事故の日以来だった。
門扉のところで立ちすくんだのは無意識で、優はひと呼吸ぶん付き合ってから萌絵の背中に手を添えて促した。
夏場はいつもそうだったように打ち水がなされているのだろう、入った敷地内は通りよりも少しひんやりしている。
門からガレージハウスまで続くコンクリート道は、様々な色のブロックを組み合わせ、花の模様が幾何学的に施されている。暗くなっても外灯に照らされて可憐な雰囲気を失ってはいない。
進んでいくと、間隔を置いて三つめのいちばん大きな花模様――優衣が倒れていた場所は、しみ一つ残っていなかった。あの日は梅雨の始まりで、だから翌日から続いた雨が跡形もなく洗い流したのだろう。
コンクリート道の脇のほうには、中庭との間を仕切るのにガーデンウォールが三つ、間隔を置いて並べられている。クリーム色に煉瓦の縁取りとお洒落な仕立てだ。そのすぐ下の花壇は、ローズマリーをはじめとして、草花のグリーン、青、ピンクなど様々な色合いで、女性のだれもが憧れるような雰囲気を演出していた。
それが悲劇の加勢をしたのだろうか。
追いかけた八の制止は間に合わず、優衣は、この背の低いガーデンウォールの間から飛びだした。低いといっても優衣の背丈くらいあって、蝶子によれば気づいたときはぶつかっていたという。
ガーデンウォールの傍には、かつてはなかった陶器の花器があった。天使が両側から花瓶を支えるというデザインの白い器に、一輪のガーベラが飾られている。
優衣は、お絵描きをするとき、お花を描いてといえば、とてもそうは見えないがガーベラだと主張して描いていた。浮き浮きするようないろんな色を持つガーベラがお気に入りだったのだ。
萌絵はコンクリート道の大輪(たいりん)に目を落とし、花びらの一枚の上で立ち止まると腰を落とした。
SUV車にはねられた優衣は全身打撲と脳挫傷で、ほぼ即死だと云われた。偉人が蘇生処置も行わず萌絵に抱かせたのは最善のことだったのだろう。萌絵に抱かれていることをわかってくれたら、と思う一方で、せめて痛みを感じていないようにとも願った。
多英が萌絵に倣(なら)ってかがんだとき、玄関のほうから明かりが差した。
「ママ!」
結乃が一目散に多英に駆け寄ってくる。
結乃を目で追い、抱きとめる多英を傍にしながら萌絵は喘ぐような痛みを覚えた。
無理やり引き剥がすように玄関へと視線を戻すと、柚似に続いて偉人、蝶子、そして八が見えた。
蝶子を目にするのは、優衣の弔(とむら)いと加来田家への謝罪に訪れた日からおよそ二カ月ぶりだ。萌絵は自分がいま何を思ったのか――いや、何も考えられずに呆然として彼女が近づいてくるのを見つめた。
いつもの“いらっしゃい”というひと言もなく、自然と花模様を囲むように全員が腰を落とした。萌絵だけ置いてけぼりにして、申し合わせたようにだれもが手を合わせる。
様々な感情が入り乱れるなか、自然と仲良く並んだ柚似と結乃に意識がいった。ふたりを見守っているうちに、萌絵のなかに一つの後悔、あるいは変化が現れた。
遅れて手を合わせた萌絵がその手をほどくまで、今度はだれもが待っていた。
「いま……優衣が……さみしかったって云ってる気がする」
「だったら、ここは優衣の聖地かもしれない。いつだって来ればいい」
偉人の言葉に萌絵はうつむいたまま、小さくうなずいた。
「萌絵さん、おれのせいなんです。すみません。……すみませんしか云えなくて……すみません」
八は萌絵に会うたびにうなだれてそう云う。
「八くんのせいじゃない。わたしが帰る時間を間違っただけ――」
「わたしのせいよ、萌絵のせいじゃない」
萌絵に最後まで云わせなかったのは蝶子だった。それがきっかけになり無意識で目を向けた萌絵は、やっと蝶子と目を合わせられた。
蝶子は口もとを綻ばせているけれど、可笑しくてそうしているわけじゃない。それを確信しているよりは、そう思いたがっているのか。萌絵は笑みを返せないまま目を伏せた。
蝶子はそんな萌絵の態度にも挫けることなく続ける。
「優衣はガーベラ好きだったよね。柚似と結乃がお世話係なの。幼稚園から帰ったら水替えしてるんだけど、よかったら萌絵も柚似たちと一緒にやらない? 時間、萌絵が帰ったときに合わせればいいから」
「そうだね。優衣も喜ぶかな、にぎやかにしてたら。ね、萌絵」
多英は蝶子に同調して、萌絵の肩を抱きながら顔を覗きこんだ。
涙を堪えているせいで、のどに熱い塊が痞えているように感じる。
「うん」
萌絵がそう返事をするまでにしばらく時間を要した。
蚊に刺されちゃった。そんな柚似の訴えを合図にして、家のなかに入った。
LDKの部屋は優衣がいた頃と様子が変わらないとわかって、萌絵はいくらかほっとした。もし変わっていたとしたら、優衣が排除されたような気になったかもしれない。
八人掛けのテーブルの真ん中は、優衣が好きだった蝶子お手製の巨大なフルーツゼリーが陣取っていた。
蝶子と多英がキッチンで料理を器に盛っている間、萌絵は子供たちにジュースを用意する。優と八はビールと冷やしたグラスを取りにいき、入れ替わりに偉人がオレンジジュースを持ってきた。
「よく見てみるといい」
偉人は紙パックを開けながらつぶやくように云った。
「え?」
「一人一人、これまでのフィルターをできるだけはずして、客観的に見てみるといい」
「偉人くんは……何か知ってるの?」
「知ってることはある。けど、わからないこともある」
一方的に混乱を押しつけて、偉人は「ワインを取ってくる」と萌絵から離れていった。
食事会は、萌絵と優が向かい合って真ん中に座り、優衣の写真を飾ったフレームをテーブルの中央に置くと、あとは“三人”を囲んでみんな席に着く。そうして献杯から始まった。
「その写真、見たことないよね」
それぞれにグラスに口をつけたあと、斜め向かいに座る蝶子が、フォトフレームを指差しながら萌絵に話しかけた。
写真のなかの優衣は、花らしい形のクッキー生地を両手ですくうように持って、カメラのほうへと差しだしている。頬には白い粉が所々について、おどけたように目を丸くしていた。
しこりができたような胸の痞えが萌絵を襲う。
「いつの?」
乾いた声は振りしぼるようで、萌絵の問い返しに蝶子は首をひねって微笑んだ。はっきり答えることはない。それだけでいつの写真かはわかった。
蝶子はふと躰を傾けると、テーブルの下にある棚に手を伸ばした。そこから取りだしたものを萌絵に差しだす。
ガーベラのイラストとリボンで装飾された箱を開けてみると、なかには本が入っていた。が、よく見ると市販の本などではなく、それは優衣のフォトブックだった。箱から出すと、それぞれ〇歳から三歳まで四冊に分けてまとめられている。
「もしかしたら、いまは見るのがつらいかもしれないけど」
蝶子は肩をすくめて、「何かしないではいられなかったの」と付け加えた。
蝶子の云うとおり、萌絵はまだ優衣の軌跡を懐かしむ気にはなれない。ただ、こんなふうに萌絵や多英のために――いまは萌絵のために何かしたがるのは蝶子らしかった。
「ありがとう」
蝶子は首を振り、毛先がふわりとカールしたセミロングの髪を揺らした。
「お礼なんていらない。いま云ったでしょ。何かしないではいられなかった、っていうわたしのためなの。どうすれば償えるのかわからなくて」
「さっき蝶子は萌絵のせいじゃないって云ったけど、そのとおりだし、けどおれは蝶子のせいだとも思ってない」
口を挟んだ優は隣に座る蝶子を見やり、なぐさめるような気配で首を傾けた。
じゃあ、だれのせいなの?
そう喰ってかかりそうになった萌絵を止めたのは、左隣に座る偉人だった。さり気なくテーブルの下にやった偉人の手が、萌絵の腿を二回だけ軽く叩くようにしてなだめる。
優とはもう。そう云いかけた言葉の意味を偉人は正確に捉えているのか、萌絵の苛立ちがオーラとしていまだけ伝わっているのか。
どちらにしろそれは重要なことではなく、偉人のしぐさは忠告を萌絵に思いださせた。
フィルターを取り払って一人一人、個別に見てみること。ついさっき思った、蝶子らしささえ省かなければならないということなのだ。
そもそも、なぜ優に苛立ちを感じてしまうようになったのか。優衣の死がやはり境のような気がした。
「優先輩は名前のとおり、やさしいよね」
「やさしいっていうんじゃない。仲間だったらかばいたい気持ちになって当然だろ」
「おれがやさしくないみたいだな」
「偉人は、やさしいというよりも気がまわるってほうがぴったりこない?」
すかさず蝶子はフォローする。
萌絵の右隣から失笑が漏れた。そうした多英はまえのめりになって、萌絵越しに偉人を覗きこむ。
「蝶子のほうが気がまわってますよね」
「そうみたいだ」
偉人は心(しん)から気にしているふうではなく、かわすように肩をそびやかした。
「蝶子さんを操縦できるのは偉人さんだけかもしれませんね」
多英の正面から八が口を出す。
遠回しにお似合いだと云っているに違いなく、萌絵は分不相応にも、嫌だ、そんな気持ちを抱いて、そっと下くちびるを咬んだ。
「おれは操縦されてるほうだ。蝶子を操縦するには、もっと用意周到に頭を使える奴じゃないと無理だろう」
「わたし、ここにいるんだけど。なんだか偉人も八くんもひどいこと云ってない?」
「蝶子、ひどいって思うことをやってるって自覚して、謙虚に受けとめるべきね」
「多英まで!」
蝶子はオーバーなリアクションで多英を指差し、怒ったふりをする。
他愛ない云い合い。気の知れた仲間内だからこそ険悪にならない、戯(ざ)れた光景は何度も見てきた。けれど、笑うことのなくなった――柚似が一度笑わせてくれたが――萌絵にとって、それがいまは苛立ちの原因になっているのかもしれなかった。
萌絵だけが雰囲気に乗りきれていない。
優は簡単になじんでいる。蝶子を心底から許して。
苛立ちは、そこ、だ。
蝶子が謝罪に来た日を思いだす。
萌絵のまえで、優衣のまえで、蝶子は這いつくばるようにして泣いた。
萌絵はそのときはまだ夢うつつをさまようような空虚さに閉じこもり、他人事のように大げさな感情表現を眺めていた。
ずいぶんと泣いたあと、偉人の影に隠れるようにして鼻をかむ蝶子を見るかぎりでは、涙は演技ではなく本物だったように思う。
蝶子は悪くない。
そう断言したのは優だった。
仲間だからかばう。それは理解できても、本当に優衣の死を悲しんでいるのなら、父親としてあの日に出る言葉だろうか。
優衣よりも仲間を優先するの?
萌絵のなかにずっとあったわだかまりは、その疑問に尽きた。
優よりももっとずっとまえから友だちだった萌絵でさえ、蝶子をかばう気持ちはなかったのに。