ラビュリントス

ゲシュタルトフォール
Solitude #2

 黙りこんで睨(ね)めつけた視線が萌絵に注がれ、やがて。
「だったら知るな」
 むっつりした声が飛んできた。
 どういう意味だろう。
「知りたいのは当然だってわかるでしょ? 偉人くん――」
「子供のまえでする話じゃない。少なくとも柚似のまえではだめだ」
 偉人は萌絵をさえぎって思慮の足りなさを指摘した。
 ちょっとしたきっかけで気持ちが抑えられなくなってしまう。萌絵はくちびるを咬んでそのふるえを止めた。
「優衣ママ」
 四歳の子がどれだけのことを理解しているのか、不安そうにした目が萌絵を見上げてくる。怯えた表情ではないこと、それは救いだろうか。
「手を洗ってからね」
「うん」
 柚似は迷うことなく、冷蔵庫の横に備えた踏み台を取った。それを流しの下につけてから、台にのぼって手を洗い始める。
 あたりまえのようにこの場所を知っている。そんな柚似に優衣を重ねるのはたやすい。同じ日に生まれた、そのことがよけいに苦しい。
 柚似がタオルで手を拭き終わるまで、萌絵はその姿から目が離せなかった。
「優衣ママ、終わったよ」
「……そうだね」
 たったそれだけの返事もうまく声にのせられない気がして、萌絵はひとつ息を呑みこんで応じた。
 スパゲティの乾麺を取りだして、三束だけ柚似のまえに置くと、小さな手が少し摘んで半分に折り始める。単純なことでも子供は楽しいらしく、優衣も自分から率先してやっていたお手伝いだ。
 そうして、料理はときに人を無心にするのだと、萌絵は今日はじめて知ることになった。
 冷蔵庫からオクラやチーズを取りだしたり、そんな簡単なお手伝いをいくつも買ってでた柚似を、優衣、とそう間違えて呼んでしまったのは気づいただけで二回あった。
 おそらくそれ以上にあったはず。だとしたら、柚似はわざと聞き逃してくれたのか、発音上、かわらなく聞こえたのか。
 そうした二回とも、ついリビングに視線を上向けると偉人と目が合った。
 にこりともしない、ただ観ているというような眼差しだ。萌絵が柚似に包丁を向けるとでも思っているのだろうか。
 わたしのなかからやさしさは欠けてきているかもしれない。それは認めるが、ここに来て監視したら? と、そう叫びそうになった。
 そんな苛立ちは、眼差しだけが原因じゃない気もする。もっと深い――迷宮の中心から派生しているかもしれない。
 ダイニングテーブルには萌絵の正面に偉人が座り、それぞれの斜め向かいに位置したところに柚似が座る。
 父親がいて、ふたりの間に子供がいる食卓。もう思いだすことさえ難しいほど、遠い昔のことに感じる。そうやって自分が優衣の存在を思い出にしようとしているとしたら、それは間違いだ。萌絵は自分を叱る。
 本当は、優が北宮家を頼るほど警戒しているように、萌絵は自分を痛めつけようとしているのかもしれない。ママ! 独りじゃさみしい、と泣き叫ぶ優衣を抱きしめたくて。
 スパゲティに目を落とし、うつむいたとたんに一滴の涙がこぼれた。その瞬間を狙っていたように大きな手のひらがその一滴をすくった。そのまま手は目のまえに迫ってきて、反射的に目を閉じると、指先がまぶたに触れて撫でる。もう片方も同じようにされて、手は萌絵から離れていった。
 いま顔を上げれば偉人と目が合うことはわかっている。だから萌絵はそうできない。望んではいけないことを望んでしまいそうな気がした。
 萌絵は気詰まりをごまかすように柚似へと目を向けると、大人たちにはまったく関心がなさそうにスパゲティを頬ばっていた。
 トマトソースを跳ね散らす柚似は、その痕が目につくと、宝物を見つけたみたいに目を丸くして、ココ! と指差しながらくすくすと笑う。
「柚似、ここにもついてる」
 萌絵は柚似の鼻の頭をつついた。自分に、ここにいるのは優衣じゃないと云い聞かせるために『柚似』とわざわざ呼んでみたはずが――
「優衣ママ、やっと笑った!」
 柚似は萌絵を痛めつける。違う、自分で自分を傷つけている。
 会社で見せる愛想笑いとはまったく違う。そんなふうに笑い方が異なるとは気づかないまま笑みを宿したくちびるは、その消し方を忘れている。
 偉人の視線を感じていたが萌絵は振り向けない。笑顔という貼りついてしまった表情は、しばらくほどけなかった。
 柚似のペースに合わせて昼食の時間は二時近くまで続いて終えた。萌絵が洗い物をしている間に、満腹そうだった柚似は、ソファの上で眠っていた。
 それでも柚似を起こして、帰ってと云うべきなのだ。萌絵はわかっているのに、柚似の躰にバスタオルをかけた。
 丸くなって寝ている柚似の横顔は、偉人の輪郭を少しやわらかくした雰囲気でよく似ている。萌絵の内部でよこしまな感情が顔を覗かせ、それが出てしまうまえに急いで押し返した。
「座って」
 柚似の頭のすぐ傍に腰かけた偉人は、この家の主であるかのように命令した。
 萌絵は横に首を振る。
「偉人くんとふたりでいると落ち着かないの」
 率直に云ってみると、偉人はじっと萌絵を見つめ、それからため息をつくように笑った。
「萌絵ちゃんはいつもそうだった……いや、あの事件からだな」
 “あの事件”と名のつくもので、ふたりに共通するのは十四年まえのことに限られる。
「……いつも?」
「ああ……」
 偉人は一拍置いて、「そうだ」と二つめの肯定をした。
「あのことをリセットするには、一時的にでも離れることが必要だと思った。その点、留学は好都合だった。けど……」
「けど?」
 中途半端に言葉は切れ、萌絵が促しても偉人は答えない。
「萌絵ちゃんが云った本当のことってなんだ? なぜ、本当のことがあると思う?」
 偉人はあからさまに話題を変え、しかめ面で立て続けに問う。
「なぜ、って思うから」
「母親の勘か?」
「バカにしてるの?」
「そんなつもりはない」
「偉人くん、教えて。このことが優衣じゃなくて柚似ちゃんだったらどうしたの? 事故だったって、それだけで片づけられる? そんな方法があるなら教えて」
 偉人はだんまりを決めこんだ様で口を噤む。
 応えられるはずがない。だれしもが経験してみないと、いまの萌絵の気持ちはわからないのだ。
 そのまま何も云わないかと思いきや。
「そうならないように柚似は傍に置いて守ってる」
 それは蝶子になんらかの意図があったと認めているのだろうか。それとも。
「わたしが優衣を守れなかったって批難してるの?」
「そんなつもりはない」
 さっきと同じ答えだ。なだめるような声音は癇(かん)に障る。
「そうならないようにじゃなくって、そうなったらどうするのって訊いてるの! 同じ日に生まれてるのに! なぜ、柚似がここにいて、なぜ、優衣がここにいないの? あの日、柚似もいたのに、殺されたのが優衣だったこと、何が違ったの? それを教えてって云ってる――」
 萌絵がヒステリックに疑問を投げかけているうちに偉人が立ちあがった。萌絵は立ちすくむ。近寄ってくる偉人は、人を黙らせる素気なさと苛立ちの入り混じった、あの日と同じ表情をたたえていた。
 身動きひとつかなわない萌絵を偉人が抱き寄せる。
「大丈夫だ」
 偉人は、まだ温かかった優衣を抱かせてくれたときと同じことを口にした。

 何が大丈夫という対象になるのか、その場しのぎによく持ちだされる言葉だが、偉人の声音はなんらかの根拠を持っているように響いた。
 あのときも同じ響きだっただろうか。だとしたら、優衣はあの時点ですでに魂を手放していたのだから、偉人の言葉はやはりおざなりのなぐさめにしかならない。
 萌絵を抱きしめたこともきっと黙らせるための有効手段にすぎないのだ。
 羽のようにくるむ優衣とは真逆に、取りあげられるのを阻止するかのように、あるいは落ちそうになる躰を必死ですくいあげるかのように偉人の腕はきつい。そんなふうに思ってしまう自分は愚かしい。
 けれど。抱きしめられる寸前で途切れてしまう夢。その相手は、優でも好きな芸能人でもなく、離れて再会するまでが確かにそうであったように偉人なのかもしれない。すくんだ躰は棒立ちのままでも、偉人の腕のなかはきつくても、それほどしっくりきた。
 抱きしめられたい。望んでいた夢の続きが叶ったせいかもしれない。
「偉人くん、あの日のこと教えて」
 耳をつけた場所はちょうど偉人の鼓動の中心だ。どくんと脈動が耳に触れた気がした。
「……聞いてないのか」
「たぶん、優も警察も話したんだと思う。でも……よくわからなくて……」
 息を詰めたような気配のあと、偉人は吐息をこぼして躰から力を抜く。伴って、腕も離れていった。
 望みが叶っても、腕が離れてしまうと、反動でどうにもならない現実を実感する。虚しさと後ろめたさが集(つど)って、萌絵はどうしようもない諦観(ていかん)に襲われた。
「座って」
 偉人から肩を押さえつけられ、萌絵はすぐ後ろにあったソファに座らされた。偉人は二つのソファの間に置いたテーブルに腰かけ、膝を突き合わせる。萌絵が腰を落ち着けたのを待って偉人は話しだした。
「あの日は、蝶子は昼食の準備をしたあと、萌絵ちゃんたちが帰ってくるまえに三時のおやつを調達してくると云って出かけようとしていた。おれは食器の準備をしていて、柚似もそれを手伝っていた。優衣は中庭でてんとう虫を見つけて、八と一緒に眺めていた。八が云うには……」
 偉人が中途半端に口を噤んだことで、萌絵は何かよくない情報を聞かされると直感した。偉人は一つ息をつき、覚悟を決めたように口を開く。
「優衣は萌絵ちゃんが帰ってきたのに気づいたらしい。車の音が聞こえたんだろうな。それで、急に駆けだして門のほうに向かった」
 偉人が語る途中で察した萌絵は、口もとを手で覆う。くちびるのふるえが堪えきれなかった。
 萌絵が逃げださないか。そんな気がかりのもと、偉人はいつでも捕らえる構えを見せつつ、萌絵が落ち着くのをじっと見つめて付き合っていた。
「たまに……そういうことあったの。車を降りたら……おかえりなさいって……。優衣はわたしの――」
 ――せいで、とそう続けようとした言葉は、「違う」と即座に偉人が否定を発し、さえぎられた。
「蝶子の運転が乱暴なのは知ってるだろう」
 発進のときにエンジンを噴かすことが好きという蝶子の運転癖も、優衣が萌絵の車の音を聞きつけて駆けつけることも。
 春には蝶々を見つけて追いかけていた優衣が八とふたり、てんとう虫を眺めていたことも、偉人が家事を手伝うことも、さらに柚似がそれを手伝うことも。
 すべてが日常のパーツだ。
 それらの組み合わせが一つでも欠けていたら、もしくは一つでも別の日常が付随していたら。
 そんな希望を持つことはもう萌絵にとって苦痛にしかならなかった。
 偉人は腕を伸ばし、むせぶ萌絵の顔をすくうように顎に手を添える。萌絵は涙を隠せないまま、偉人を見上げているしかなかった。
 ついさっきまで物分かりがよく気遣いを見せていた偉人だったが、いま萌絵の潤んだ瞳の向こうでは、表情だけではなく雰囲気も曖昧だ。優もそんなふうに映る。違っているのは一つ。偉人からは、優から感じていた、簡単に云えば苛立ちは感じられない。
「優衣がいなくなって……独りになった気がしてるの。優がいるのに、すごく離れている感じ。もう……」
 もう――とそのあと何を云いたいのか、云うべきなのか、萌絵は自分で云いかけたくせにわからない。
「だから云ったのに。安心できる男なんていないんだ。おれもそうだ。けど、おれは萌絵ちゃんにとってどんな男とも違う」
 だから云ったのに――それは、夢、ではなかったということ?
 偉人は口を歪めている。それが嘲笑だとしたら、向けられているのは萌絵でしかない。
 呆然としているうちに、顔をすくう手が萌絵を引き寄せた。再び、抱きしめられる。
「萌絵ちゃんに優衣を抱かせたとき、おれは何を思ったと思う?」
 そう問いかけた偉人は答えを期待しているふうでもなく、そして、吐息を漏らしたあと。
「おれは柚似じゃなくてよかったって思ったんだ」
 残酷な言葉だった。思ったとしても云う必要のない言葉だった。直前に漏らした吐息は笑みだったのではないかとすら思った。
 萌絵はもがくようにして偉人の腕を逃れた。嗚咽を漏らしながら睨みつけても、萌絵は救われず、偉人にもなんの効果もない。
「出てい――っ」
「あの日以来だ。そんなふうに心底から思ったのは。あの公園で、あいつらを追っ払ってから真っ先に頭に浮かんだのは、萌絵ちゃんじゃなくてよかった、それだけだった」
 偉人は知っている。見知らぬだれかに壊されるくらいなら、と、そのときに萌絵が何を願っていたのかを。
 萌絵のずるさを引きずりだし抗議をシャットアウトしたうえ、偉人は萌絵の腰を引き寄せると、文字どおり萌絵の口を完全にふさいだ。

NEXTBACKDOOR