ラビュリントス
ゲシュタルトフォール
Solitude #1
顔立ちに自信のある、なお且つ財力を背景に持つ女にありがちな高飛車さは、幸いにして蝶子にはない。
だが、あれだけの事故を引き起こしておきながら、三日め、蝶子は疲れを覗かせながらもすでに自分を取り戻している。
警察に迎えにいって三日ぶりに家に戻った蝶子は、リビングに入ると躰を投げだすようにソファに座った。
しばらくその様子を見守り、それから偉人は向かいのソファに座った。
「いままででいちばん最低な場所だったわ」
「留置場だ。待遇がいいわけない」
「それに番号で呼ばれるの。十一号とか、なんなのよ」
「プライバシー守るためだろう。ほかの勾留(こうりゅう)者に名前を知られたら悪用されかねない。説明されなかったのか」
「動転してたから云われたかどうかも憶えてないわ」
蝶子はあっけらかんと肩をすくめた。
学問として常識は理解していても、それが蝶子にとって日常の指針になっているかというとそうではない。彼女の正義は常に彼女独自の思考に従っている。偉人は、ドクターレベルでなければ真に彼女を解釈できる者はいないだろうと思っている。
偉人は腿に肘をついてまえかがみになっていた躰を起こすと、ソファの背にもたれた。
「蝶子、どういうことなんだ?」
偉人の険しい声をものともせず、蝶子は肩をすくめておどける素振りを見せた。
「なんのこと?」
「自分のやったことをわかってるのか」
「わたしは、何もやってないわ。事故は事故。偶然の不運でしょ? だから警察も出してくれたんだし」
「警察の判断はどうでもいい。優衣ちゃんのことを話してる」
「故意にやったとでも云うつもり?」
「優衣ちゃんは死んだんだ」
蝶子は心外だとばかりに首を振る。
「わかってる。わかってるわ。優衣は柚似と一緒に育ててきたのも同然よ。わたしが警察でゆっくり眠れたとでも思ってるの? ずっと優衣に謝って泣いた。偉人、あなたはそれを見てないだけ。でも、わたしがパニックになってたのは見てるでしょう。演技じゃない。わたしが人殺しなんていう汚名を好き好んで着たがると思うの? わたしが偉人と結婚したメリットは北宮家というステータスが手に入る。それだけよ。それなのにわたしがそれを手放すと思う?」
「萌絵ちゃんはひどい状態だ」
「わかってる。萌絵は親友だし、だれよりも悲しい気持ちは同じよ」
「同じには見えない」
云い返すと蝶子はしばらくじっと偉人を見つめ、それから話題にそぐわない可笑しそうな面持ちになった。
「偉人にとっては、わたしが殺人者であるほうがよかったみたい」
「どういう意味だ」
「優衣がいなくなったってことは、優先輩と萌絵を引き離す絶好のチャンスでしょ。引き止める理由が、少なくともいちばん大きな理由がなくなったんだから。わたしを追い払うには殺人者だっていう立派な理由があるし。萌絵を手に入れてめでたしめでたし! ってならない?」
蝶子は無邪気な様子で首をかしげる。
本題を話すのに、まえのめりではなくソファにもたれるという判断は正解だった。ゆったりした気配を装い、牙を剥かなくてすむ。そうすればかえって急所を突かれることになる。
偉人は口を噤んで応えず、蝶子をじっと見据えた。
「わたしが了解できるのは偉人を萌絵の傍に置いてあげることまで。それ以上はだめ」
「何がしたいんだ?」
「何も。このままであればいいって思ってるだけ」
「優衣ちゃんはいなくなった。もう三人同じじゃないな」
「そうね。本当を云えば、同じじゃなくても全然かまわないみたい。優衣がいなくなっても不安を感じてないから。同じっていうのは最低条件なだけなのかも」
蝶子はくちびるに完璧な曲線をのせると立ちあがった。
「シャワー浴びて着替えてくるわ。萌絵に謝らないと」
まるで、萌絵から奪ったのは命ではなく、ただ宝石箱を壊したかのように屈託がなく云い、蝶子はリビングのドアに向かった。すると。
「わたし、この二日いろいろ考えててわかったんだけど」と、出ていく寸前、もったいぶった様で振り向く。
「偉人、わがままなのはわたしだけじゃない。偉人も優等生に見えて実は確信犯だよね。自分を絶対に譲らなくて、それを守るためなら、もしくは手に入れるためなら悪事に目をつむることもある。手を染めることもある」
「なんの話だ」
蝶子は応えることなくあざとい笑みを浮かべ、首をすくめると出ていった。
蝶子は知っているのか。あるいは気づいているのか。
いや、そんなはずはない。そうであれば事故は存在しない。
だとすればなんのことだ?
偉人は目を閉じ、息を詰め、吐きだしながら何かを振り払うように首をひねった。
*
「萌絵、行ってくるからな」
「ん」
様子窺いも兼ねてわざわざ萌絵の寝室を訪れたにもかかわらず、いってらっしゃいではなく、ましてやはっきりしない一語ですませられたことに吐息を漏らし、優は仕事に出かけた。
ドアが閉まったとたん、優の残した不快感が寝室に蔓延(まんえん)し、萌絵は息苦しさに喘ぐ。
早起きができなくなってちょうど八週間がたつ。そうしても、だれの面倒もみなくていいのだから困る人はいない。空っぽの時間を減らすには眠るのがいちばん手っ取り早かった。
夢のなかなら優衣と会えることがあった。目覚めたときの喪失感は繰り返しあの日に萌絵を呼び戻す。そのたびに、哀哭(あいこく)を抑えつける反動で破壊衝動に駆られる。どこに向けようもないその衝動は自分のなかで押し殺すしかない。けれど、優みたいに優衣がいないことに慣れてしまうことを阻(はば)めるのなら、その苦しみはむしろ萌絵には救いだった。
過去に遡(さかのぼ)って優衣が生き延びられる場所を探したのに、どこにも見つからない。むしろ、萌絵は優衣の存在を端(はな)から消してしまう選択をしたのだ。
だれも泣くことを咎める人はいないのに、萌絵は漏れそうになる泣き声を押し殺した。
……ママ。起きて?
起きたくない。
ねぇ、起きて?
起きたら優衣は連れていかれるんだよ。会えなくなってもいいの?
……ママ! 起きてお昼ごはん作ってよ。おなかすいたの!
起きて、と繰り返される言葉に、萌絵はやっといつもの夢ではないと気づいた。
そして。
……ママ。
と、頬に確かな感触と温かさを感じて萌絵はパッと目を開けた。
「やっと起きた!」
無邪気にはしゃいだ声が萌絵の耳もとに心地よく響く。けれど。
「優衣ママ」
それは優衣とは違った。
「優衣ママの冷たいトマトスパゲッティが食べたいの。作ってくれる?」
込みあげてくる嗚咽は手でふさいだ。
「……大丈夫?」
子供なりに察しているのか、しばらく黙って萌絵の昂(たかぶ)った感情に付き合っていた柚似は首をかしげた。
「ごめんね。大丈夫」
「わたしも悲しい。優衣ちゃんも優衣ママもいなくなったから。今日、ママはお出かけなの。だから、パパにここに連れてってって頼んだの。だめ?」
萌絵はゆっくりと起きあがると床に脚をおろした。
「着替えるから下で待っててくれる?」
柚似の質問には答えず、萌絵は出ていくよう促した。本音としては命令だったのだが、柚似には通じず。
「ここで待ってる。優衣ママ、また眠っちゃいそうだから」
子供のくせに強引で頑固だ。蝶子に似ている。無意識にそう思って、なんとも云えない感情が突きあげてくる。
優衣を痛めつけた怒り、優衣を奪われた憎しみ、柚似がいるという苛立ち、それらの感情は負の連鎖を呼ぶ。それを断ちきるにはどうすればいいだろう。
萌絵が下くちびるを咬んだそのとき、ノック音がした。ドアはすでに少し開いていて、そこから偉人が現れた。
その瞳は萌絵を見透かし、柚似に手を出すな、そんな警告を含んで見えた。
「出ていって」
「下で待ってる。柚似、おいで」
即座に駆け寄った柚似は、偉人が差しだした大きな手に自分の手を滑りこませた。
そんな光景は優と優衣の間にもあったはずなのに、萌絵は思いだせなかった。
いまはまだ親子の風景をすんなりと見過ごせていない。どんな親子を見ても胸が疼いて、なぜわたしだけが、なぜ優衣が、そんななんにもならない思考に侵され、だんだんと自分のやさしさが蝕(むしば)まれていっている気がする。
六月いっぱい、有給休暇を使って休み、復帰した七月。子供とは切っても切り離せない職場だといまさらで気づかされて、すぐさまやめたいとすら思った。それを留めているのはなんだろう。八月に入ったいま、萌絵に気を遣った雰囲気も和らいでいって、居心地の悪さだけは払拭された。
萌絵は着替えを終えると鏡で自分の姿をチェックしてみた。全体の輪郭がひとまわり小さくなっている。実際、細身のパンツはゆとりがありすぎた。上へ視点を移動していくと、なんの感情も浮かんでいない自分に見返された。職場では見せられる笑顔も、一歩そこを出れば掻き消えてしまう。いま鏡に映る顔は何に対しても気を許さない、そんな殺伐とした無の表情があった。
下に行くと、父と子がまるで自分の家みたいにくつろいでいた。ふたりは何度もうちに来たことがあり、めずらしい光景ではなかったが、そのときにあった微笑ましいという感想はいま、萌絵のなかに見当たらない。
リビングのソファに座ったふたりに近寄って、萌絵は偉人の手から優衣の絵本を取りあげた。
「蝶子がいなくても偉人くんがおかず作れるでしょ」
「柚似は萌絵ちゃんのスパゲティが食べたいって云ってる。去年のことを憶えてるくらい、柚似は気に入ってる。頼むよ」
探るような眼差しはあっても、いま偉人の目は冷たくない。頼むよ、とその言葉にそれ以上のなんらかの意味が含まれていると思うのは気のせいか。
「……時間がかかるの」
「それでもいい」
偉人が云う傍で、柚似が期待を込めて萌絵を見つめている。
萌絵は、湧いた感情すべてを振りきるように目を閉じ、そして開いた。
「柚似、ポキポキするの手伝ってくれる?」
「うん!」
柚似は首が折れそうなほど勢いこんでうなずいた。優衣がいた頃なら笑えたはずが、いまは微笑さえよぎることはなかった。
当の柚似は気にしていないようで、キッチンに向かう萌絵の後ろをついてくる。
「うち、鍵を開けっぱなしだったの?」
キッチンに入って責めた声で訊ねながら振り向くと、ずっと萌絵を追っていたらしい偉人の目とかち合う。
「いや、優から鍵を預かってた。四十九日が終わって張り合いがなくなってるって云ってた」
優はやさしいのか無神経なのか、どっちだろう。よりによって、優衣を奪った殺人者を、その家族を頼るなど、少なくとも萌絵は理解できなかった。
けれど、自分の本心を知ってしまった萌絵は優のことを責められる立場にはない。
「張り合い? わたしが優衣のあとを追うって思ってるの?」
「違うのか」
「わたしは、最低限、本当のことを知るまではそうしない」