ラビュリントス

リターン
Missing one’s one

 それは、多英への罪悪感から見た夢だったのか。
 覚醒したときはカーテンのすき間から日が差しこんでいた。
 パジャマは上も下もちゃんと着ていて、わたしはウサギの抱き枕を抱えていた。ぱっと起きあがると、ケーキとジュースののったトレイは消えている。もちろん偉人もいない。
 しばらく呆然とした。
 ……夢?
 そう片づけるにはあまりにも生々しい。ただし、躰は気だるいが夏場にかったるさは付き物で、動いてみてもどこかが痛むという違和感もなかった。
 夢の終わり、偉人に抱きしめられていたのではなく、わたしが偉人になってウサギを抱きしめていたのかもしれない。それなら偉人を纏った獣はわたしで、すべては願望が見せた夢、そんな可能性も捨てきれない。
 夢でなくても――
 見知らぬだれかに壊されるくらいなら、偉人の手によってそうされたほうがずっとまし。
 と、内心でつぶやいてハッとした。
 多英の姿を見ながらそんなことを考えていたとしたら、わたしはずるすぎる。
 そのうえ、犯したあとの偉人が哀(あい)という愛を伴って触れてくれたこと――それがただの懺悔(ざんげ)だとしても、わたしがそう自分に都合よく感じていればいいことで、少なくともあとの半分が夢でなかったら、多英が絶望を味わった最悪のときに、わたしは多英を最も残酷な方法で裏切ったのだ。
 時間を置いても、どこまでが現実でどこからが夢なのか、その境目はわからない。
 偉人が昨夜やってきた理由、“明日用事ができた”という口実はわたしの知らないところで撤回されていて、その夜、偉人は連続で家に訪れた。
 そもそも、昨日、偉人はやってきたのか。
 母に、昨日偉人くん来たよね、などと確かめることもはばかられた。イエスでもノーでも、そんな質問をすること自体がおかしなことだ。
 宿題、進んだ?
 何事もなかったように偉人は問う。
 首を横に振ると、しょうがないなというからかいも含んだため息が漏れる。
 そうして、互いが前夜のことを一切、口にすることはなかった。わたしは不自然でも、偉人は至って普通だった。
 日にちがたつにつれ、わたしは曖昧さが鮮明になっていくという矛盾から抜けだせなくなっていた。
 もしあれが夢なら、話せば不純な妄想を晒すだけで嫌われてしまうかもしれない。わたしはそんな怖れも持っていた。
 口にしちゃいけない。
 その呪文に縛られ、多英から連絡があるまでは、多英に起きたことまで夢なのかもしれないと思っていた。



 もうすぐ、ここに来るのも終わるね。
 学校のベランダで手すりにもたれ、夜空を見上げながら蝶子がつぶやく。
 高校三年になったばかりで、一年生をどう勧誘するか、そんなことを名目にして、先生を追いやり後輩たちを帰し、わたしたちは三人だけ部室に残った。
 うん。夜の学校って怖い気がしてたけど、なんとなくわたしたちの特権だっていう特別な時間になってるかも。
 そうそう。天文学部とか地味なのに、秘密がいっぱい詰まっている感じなんだよね。よかった。多英が誘ってくれて。
 わたしと蝶子の会話を聞いていた多英は、ふっと吐息を漏らす。
 何、多英?
 ううん。わたしは、夜に負けたくなかったんだよ。
 わたしはハッとした。
 さっきの吐息は笑みだと思っていたが、あの夜に負けていないと、そういう安堵だったのかもしれない。そう思い至って多英を覗きこむと、そうしたわたしを見て多英は肩をすくめた。
 一方で何も知らない蝶子は多英をからかう。
 多英って、クールなくせにもしかして幽霊は怖いタイプ?
 幽霊? それよりも怖いものがあるかもね。
 何よ、それ。
 蝶子!
 わたしー?
 と、頓狂な声で云い、自分を指差しながら首をかしげた蝶子はすぐさまその失礼さに気づいたらしく。
 ひっどーい!
 学校の敷地内にばかでかい声が広がった。
 おい、うるさい。
 笑いだしたなか、呆れたふうにたしなめたのは優だった。
 わ、不法侵入者だ!
 蝶子がいち早く振り向いて優をからかう。
 現行犯逮捕!
 続けてそう叫びながら室内に戻った蝶子は、優の腕に自分の腕を絡めた。客観的に見て、逮捕というよりは縋りついている。
 優は呆れ笑いといった面持ちで、腕をほどくこともしない。
 蝶子はきれいで優はカッコよくて、お似合いのふたりだと思う。それなのに付き合うという気配がなくて、わたしは不思議に感じていた。わたしを見る目はわからないけれど、多英を見る目と蝶子を見る目、その優の眼差しは平等に見えて実は違っている気がする。見る、と、見つめる、という違いだ。
 優先輩、今日のおやつはフレンチトーストだよ。ちょっと冷めてるけど美味しいから食べて!
 蝶子が作ったのか?
 そう。ママと一緒だけど!
 蝶子とお母さんは一心同体だよな。
 違うよ。わたしは多英と萌絵と三位(さんみ)一体!
 ぷ。いいかげん、友だち離れしたらどうなんだ?
 無理!
 優の嘆息が響き、蝶子はくすくす笑う。
 わたしはなんとなく多英を見て肩をすくめた。
 うらやましい?
 え?
 唐突な多英の質問にわたしの首がかしぐ。
 もうすぐ北宮さん、帰ってくるんだよね? 会うの、楽しみじゃない?
 わたしはとっさには応えられなかった。
 偉人がアメリカに発って以来、声も聞いていなければ姿も見ていない。インターネットも携帯電話もあるのに、唯一、エアメールという生存報告が忘れた頃にやってくるくらいだった。
 その実、わたしは忘れていない。きっと忘れているのは、思いだしたようにエアメールを送ってくる偉人のほうだ。

 一度、声が繋がってしまえば自分の気持ちにけじめがつけられなくなる。それがわたしから連絡を取らなかった理由だ。
 忘れかけていているだけで、ふと思いだしてくれるのならそれでいい。そう思うのは痩せ我慢にすぎなくて、だから、そうじゃなくて、いっそのこと忘れてほしい。そうしたら、わたしもきっぱりと偉人から離れられる。
 そんな気持ちのまま二年がすぎた。
 会うって約束してるわけじゃないし、連絡し合ってるわけでもないし、会うとしても親たち通してだと思う。いつ帰ってくるとか聞いてないし。もしかしたらもう帰ってるかもしれないし。
 わたしはくだくだと言葉を連ねた。自分でも取り留めがなく聞こえ、平静さに欠けた感情を晒している。
 多英が察せないはずはなく、可笑しさを堪えきれないといった表情になった。
 避けてるってとこが不自然なんだよね。
 多英の指摘にぐうの音も出ない。
 ばつが悪い思いがしながらも、わたしは多英を観察した。
 多英は、もしわたしと偉人が一緒にいることになってもなんともないの? 自分に問いかけてみる。さっきみたいなことをわたしに訊くことが、気にしていないという証拠と云われればそうかもしれない。
 逆に、わたしと偉人の間には――偉人にはなくてもわたしのまえには、あの日の多英が立ちはだかっていることも確かだ。
 蝶子と優の屈託のない仲の良さがうらやましいのはそのとおりだ。けれど。
 わたしはけっして偉人と一緒になれない。一緒になってはいけない。
 萌絵、北宮さんて家庭教師だったっていう?
 ふいに優がわたしに問いかけた。
 わたしは偉人のことを優に話したことがあっただろうかと考えながらうなずいた。
 あの夏以来、なんとなくわたしは偉人の話題を避けていて、それは偉人がアメリカに行ってからもそうだった。まったく語っていないとは云いきれないから、わたしたち三人のだれかが口にしたときたまたま優がそこに鉢合わせしたのか、もしくはふたりから直接聞いた可能性はある。
 そいつ、好きなのか?
 あまりに露骨な質問で、わたしはたじろいだ。
 そんなんじゃない。
 そう応えるしかない。
 帰ってきたの? 連絡あった?
 蝶子が立て続けに問い、わたしは苦笑いしながら首を横に振った。それが好奇心ならまだしも、まるで結婚相手のまえに元恋人が現れたような勢いだ。
 だから、帰ってきたかは知らないって多英に云ってる。つまり、連絡もないから。蝶子、盗み聞きするんなら全部聞いてよ。
 だって昨日の進路調査! 萌絵ったら大学じゃなくて短大にするとか云うし、それってわたしには青天の霹靂(へきれき)なんだよ。そのうえ、北宮さんに萌絵を取られちゃったらわたし、生きていけない!
 云い方も異様という意味で大げさであれば、ジェスチャーも欧米人並みだ。手がお喋りしていると例えられるほどオーバーすぎる。かえってどこまでが本気かさっぱりわからない。いや、普段から演技じみたことをやる蝶子のことだ、いまもなりきりっぽい冗談に違いなく。
 蝶子は変わんないね。
 わたしが云うまえに多英が代弁した。
 その以心伝心の裏で、わたしは多英が云った意味を勘繰ってしまう。あの日のことを思いだしたせいだろう。あの出来事を境に、わたしも、何より多英の世界は変わってしまった。
 平然と見えて平然じゃないはず。わたしがその後を何も訊けないというその片方で、多英は何も語らない。
 じゃあ、逆に聞くけど、多英も萌絵も変わったの?
 多英の言葉に何を見いだしたのか、蝶子はしかめ面だ。
 わたしたちが変わったってことが前提で云ったんじゃないよ。ただ単に、感心してる、みたいな感じ。
 んー……多英の云うことってわかるようでわかんない。
 いいほうに解釈してくれないと困るけど。
 わかった。多英が裏切らないっていうのは信じてるし。
 蝶子は大きくうなずいて、やはり大げさな発言をする。
 そうして、“裏切らない”という言葉が、笑う影でわたしの心底をちくちくとつついていた。
 蝶子、そろそろ片づけて。いいかげん帰らないと、先生が残業代くれーって云いにきそう。
 優先輩がいたら、お咎めあるかもね。在校生じゃない奴が何やってる! って。
 おれはもと部長だ。それに、もう夜だ。迎えにきたんだって主張にだれが文句云うってんだ。
 そ! 優先輩はナイト!
 蝶子専属の?
 どうなのかな?
 多英のつっこみに蝶子は首をかしげて優を見上げた。
 優はいったん蝶子を見下ろし、それから多英ではなくわたしに目を向けた。今度はわたしの首が傾く。
 おれが専属になりたいのは萌絵だ。
 直後、だれもがこわばった気配を纏い、しんと張りつめた空気感がはびこった。
 その意味は何か突飛な比喩でなければ、優はわたしが好き、ということになる。
 たったいままで蝶子と優を見ていたから、わたしにはそれがまったく理解できないし、納得できなかった。
 本気ですか?
 いいかげんだったら、わたしの萌絵に何すんのーって蝶子から蹴り入れられるだろうな。
 優は同意を求めて蝶子を見やり、首をひねった。
 あたりまえ! 萌絵、優先輩のことどう? 北宮さんのほうがいい?
 蝶子は、優がわたしを選んだことよりも、わたしから優がふられることのほうを心配しているようだった。
 このときほど蝶子を正体不明に感じたことはない。
 それとも、蝶子と優の関係はわたしが勝手に思いこんで決めつけていたのか。
 そんなこと――。
 ――ないけど、と、“けど”のあとに自分が何を付け加えるのかも曖昧なまま、わたしが云いかけた言葉は優が途中でさえぎった。
 おれさ、もう二十歳になるし、落ち着きたいんだよな。
 二十歳という年がそれほど大人びていなければならないのか、わたしには見当もつかない。
 萌絵、おれと付き合わないか?
 優の声は至極真剣みを帯びていた。
 前向きに考えるなら、蝶子と多英のまえで優が云ったのは、もしかしたら誓いを立てたようなものかもしれない。
 優のことは嫌いじゃない。むしろ、気さくな仲間としてやってきて、欠けるのが怖い気もするほど、わたしのなかでは存在が確立している。
 多英を見ると、促すように首が傾いた。
 さっき、うらやましいかと問いかけたからには、蝶子と優の関係は多英にも自然に見えていたに違いなく、それが突然変異をしていても多英は口を出さなかった。
 うん。
 偉人からの決別を待っているよりも、自分から、と、わたしはそんな消極的ともいえる決断を下した。


 付き合うのははじめてでも恋人同志の間にどんな発展があるのかは想定内で、けれどタイミングなどわからない。偉人ではない“だれか”がまったく知らない人というのではなく、優という身近な人だったからこそ思いきれたことで、日頃からスキンシップはあったし、だからキスも触られるのも嫌じゃなかった。
 けれど。付き合う、とそうなってからやってきた休日、優の部屋で本物の男と女の関係になるのはわたしにとって不意打ちだった。もう? と疑問にしながらも、まだ、と抵抗できなかったのはあの日の呪縛のせいだろうか。
 あのとき二十歳だった偉人と、いまの優は同い年だ。そんなことに気づいたのは、引きつった痛みを感じたときだ。
 性急でも乱暴でもなく、ただやさしくて、やり方もやっていることもかわらないと思うのに快楽には程遠い。夢で味わった快感はやっぱり自分の想像の産物なのだと思った。
 萌絵、おまえ、はじめてだよな?
 家まで送ってくれているさなか、優は唐突に訊ねてきた。
 ベッドに倒されたときよりも苦しいくらいどきどきしてしまう。恥ずかしいのでも驚いたのでもなく、不安から派生している。夢は、夢か否か。優が答えをくれそうな気がした。
 わたしはためらったすえ――
 ……と思うけど。
 違った? と暗に含んだ答えになった。
 優は可笑しそうに笑い声を立てる。
 と思うけど、って自分のことだろ。
 ……そうだけど、わざわざ訊くから不安になってるだけ。
 嫌だーって泣き喚いたりしなかったからさ。
 ……それって優先輩の経験?
 わたしがつっこむと、優はまずいといったようなひしゃげた顔つきになる。
 もう先輩っていらない。優、でいいだろ。
 話、すり替えてます。
 萌絵、ヘンに頭働くよりバカでいろよ。そっちが助かる。
 優先輩がモテるってことはわかってる。でもこれから、優先輩がほかの人とってなったらショックかも、です。
 “先輩”ナシだ! その、萌絵がたまに使う“ですます”もいらない。
 癖です……だよ。
 云い換えると優は吹くように笑う。
 なんかさ。出血とか気づかなかったけど、きつかったし、がっかりするなって云いたかった。
 がっかり?
 あんまり気持ちよさそうじゃなかったし、けど、慣れるまではしかたないって話。おれががんばんなきゃいけないんだろうけどさ。
 うん。ありがとう。
 露骨に云うから恥ずかしくなったものの、優が気遣っているのがわかって、ほっとしながらなんとなくうれしくなった。
 優だからこんな気持ちになれたのだと思った。

 一週間後には優と遊園地に行って、そして優の部屋ですごした。
 蝶子と多英がついてくると云わないのはちょっと不思議だけれど、立場が変わってふたりとも気をきかせてくれているのかもしれない。先輩後輩ではなく恋人として好きになれる予感もしてきた。
 お風呂をすませて部屋に行くと、休憩がてらベッドに横になる。まだ眠るには早く、ちょっとした仮眠を取るのはわたしの習慣だ。
 そんなときに必ず見る夢はあの日に見た夢だ。多英に同化した夢ではなく、罪悪感を抱いてしまう夢のほうだった。ただ、偉人と離れて、それからはいつも中途半端に終わる。快楽の果てにたどり着くまえにぷつりと途絶えて目が覚めるのだ。
 けれど、今日は違った。気づいたときはもう躰が快感にわなないていて、触れる手も躰を侵すオスの証しも生々しい。
 目を開けなくちゃ!
 夢のなかで声にならない声が叫ぶ。ただ、そうできないのはさきを望んでしまうわたし自身が阻止しているからかもしれない。
 犬が水を舐めすくっているようなわずかな音を耳にしながら、躰の奥を刺激され、わたしは追い立てられていった。
 果てに到達した瞬間、喘いで開いたくちびるはふさがれた。特有の快楽を忘れていたせいか、その感覚は爆発したようにひどく、舌を絡めとられるキスの息苦しさと相まって、夢のなかなのに意識が遠のいていく。
 おれのだ。
 その言葉に縛られながら、もう二度と目が覚めることはない、そんな恐怖が纏わりついた。
 その恐怖を払い、沈んだ奥底からすくい上げてくれたのは――
 萌絵ちゃん。
 懐かしい呼び声だった。わたしはパッと目を開ける。
 ……偉人、くん……。
 かすれた声で呼び返した。
 偉人が来る日に限って見ていた夢。いまその夢が途切れなかったのは、無意識下で会えると予感していたからだろうか。
 もがくようにして起きあがろうとすると偉人が手を貸した。腕をつかむ手の感触は夢のなかで見たものと同じだった。
 帰って……きたの?
 ああ。今日、戻った。
 ……ずっといた?
 おそるおそる訊ねてみた。夢は知られたくない。夢のなかで感じていることが傍からはまったく見えないものなのか、それはわたしにはわからないことで不安だった。
 偉人は肩をそびやかした。
 しばらく待ったけど起きる気配がないから起こした。懐かしいな。萌絵ちゃんはいつもそうだった。
 偉人は言葉どおり、わたしを見ていながら退行した時間に潜り、そこにいるわたしを探しているような面持ちだ。
 癖は簡単には直せないから。
 そう云うと、偉人の瞳がふと色を変えた。
 おれのことは簡単だったみたいだ。
 意味がわからなかった。
 偉人くん?
 彼女、元気?
 急に話題が変わって、とっさには彼女のことがだれを差しているのか気づけなかった。
 ……多英? うん。
 裁判、半年前に終わってやっと決着ついたって聞いた。……知らなかった?
 偉人は首を傾けながら、驚きに満ちているだろうわたしの顔を窺うようにして訊ねた。うなずくと偉人もうなずき返す。
 検察の説得を保留してたらしいけど。彼女もけじめついたんなら……。
 偉人は中途半端に切って、肩をすくめた。偉人のことを考えるたびに多英がちらつくように偉人もそうだったのだろうか。
 どうなったの?
 あのとき中学生だった奴は情状あったけど、ほかの奴は短くて十年、最長十二年だ。性犯罪は初犯でも刑が重い。特に彼女は経験がなかったから致傷罪もつく。民事も今年になって終わったらしい。
 そう聞いて、あの部活の夜にあった多英が安堵したように見えたことに合点がいった。
 よかっ……。
 よかった、とそう云いかけてやめた。偉人がさっきためらったように口を閉じた理由が理解できた。
 あの事件に関するかぎり、多英にとってよかったという結果はない。あるとしたら時間を退行してやり直すことだけだ。
 偉人は口を噤んだわたしを見て、ふっと口を歪めた。笑みとは云いがたい。
 そう、よかったことなんてないだろ? けど、萌絵ちゃんは忘れてる。おれは云ったのに。
 ……偉人くん?
 今日、昼間に来たんだ。付き合ってる奴がいるって聞いた。
 わたしは目を丸くして息を呑んだ。急に、真の決別が迫っていることを実感させられた。
 ……うん。高等部に入ってからの先輩なの。
 そいつは怖くない?
 そんなことを訊かれる理由がわからないまま、わたしはただうなずいた。
 萌絵ちゃん、迷宮は迷路と違って隠れる場所がない。中心に行くのにも出口を目指すのにも、常にその中心にあるものの傍を通らなくちゃならない。そういう迷宮って運命みたいだって思わないか? けど、その中心にあるものが自分から切り離せないものだったら、おれは遠回りでも出口がなくてもいいって思ってる。
 把握できない言葉に脅かされ、その表情にわたしの躰がすくむ。こんな笑い方があるのだ。偉人は凍てついたような笑みを放った。

 それから偉人がうちを訊ねてくることは二度となかった。
 偉人が何を云いたかったのか、わたしは大人になってからも理解できることはなかった。
 けれど。

 わたしと優の転機にはいつも偉人がいる。
 もしもわたしが優ではなく偉人といたら、わたしをママと呼んでくれる“優衣”が消えてしまうことはなかったかもしれない。
 確かな現実を唯一示してくれていた優衣を失ったことで、奥底にしまっていたものが放たれた。
 おれのだ。
 夢のなかのその言葉も、偉人のものになりたい、という気持ちの裏返し。
 望み。それだけが残ったパンドーラーの壺を中心に置き、いま、わたしは出口を閉ざされた迷宮のなかで運命を感じていた。

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