ラビュリントス

リターン
夢の後先−one's affair− #3

 リビングに行くと、外から照明が見えたとおり母が帰っていて、あらかじめ作っていた夕食を並べているところだった。
 抱いているウサギを見てぬいぐるみだと思った母は、まだ子供ねぇ、と呆れて笑った。抱き枕だと反論しつつ、話題のもとがあってわたしはほっとした。
 そんな日常のひとコマが、ついさっきあった出来事をリアルからファンタジーに変えていくようで、わたしの記憶は曖昧さを纏う。
 家庭教師のことを偉人から云われたとおりに伝えたあと、ちょうど帰ってきた父と三人そろって何事もなかったように食事をすると、わたしはリアルからもファンタジーからも隔離されていく奇妙さを覚えた。誕生日だからと好物をそろえてもらっているのに美味しいという味覚も機能していない。

 偉人が来たのは入浴をすませて二階の自分の部屋に戻ったときだった。
 母に呼ばれて一階へと下りる途中で偉人が階段の下に現れた。見下ろしているのに偉人を妙に大きく感じて、わたしは階段の途中であることも忘れて一歩退く。すぐに踵(かかと)が段差に阻(はば)まれて上体がのけ反った。小さく悲鳴を漏らした直後、躰はなすがまま後ろに傾いていく。お尻が階段の角をかすめたそのとき、偉人の手が泳いだわたしの腕をつかみ、躰をすくいあげた。
 目を丸くして見つめるわたしに、行って、と、偉人はおよそ一時間まえと同じことを云う。怯えたウサギみたいに階段を駆けあがった。
 部屋のなかで立ちすくむなか、あとから入ってきた偉人は中央に置いた丸テーブルの上にかがみ、持っていたトレイを置いた。ケーキが一つとオレンジジュースが二つのっている。
 いまさらで偉人が男なのだと意識する。トレイを持っていたということは、さっきわたしは片手ですくわれたのだ。力の差は歴然としている。公園でも、呆然としてはいてもいざ動いたときに偉人が怯むことはなかった。
 多英については、頭がよくて動じない強さを感じていた。あの悪人たちは、考えなしの欲望に侵された浅はかな人間だ。それなのに、男というだけで多英は無力だった。
 座って。
 部屋の主はわたしなのに偉人が主導権を持つ。テーブルを軽くつつく指先に導かれるようにして、わたしは目を合わせられないまま偉人の斜め向かいに座った。
 うつむいていると、食器とフォークのかち合う音がする。
 誕生日だし、お祝いのケーキは必需品だろう。もう食べたって聞いてたけど調達してきた。
 生クリームのなかにフルーツを散りばめたロールケーキの一部が、わたしの口もとに差しだされた。
 こういうのはオナカいっぱいでも入るだろう?
 からかうような声にいざなわれて、わたしは口を開いた。ちょっとまえにのめると、口のなかに甘酸っぱさが広がる。
 美味しい?
 わたしはうなずいて顔を上げた。わずかでも自然に浮かんだ笑みは途中で固まる。
 偉人の眼差しはずっとこんなふうだっただろうか。もともと曖昧だったが、もっとわからなくなった。濁ってまったく瞳の奥が見えないのか、逆に透きとおっていて底が見えているのか。
 ……多英は?
 とりあえず入院してる。躰よりは精神的なことのほうが心配だっていう状態だ。
 警察にも?
 ああ。もし写真とか撮られてたら、黙っていることで付けこまれることもある。ああいう事件は集団の場合、警察は被害者そっちのけで裁判に持っていくことができるらしい。けど、たぶん被害者感情が優先されるだろうし、彼女も家族もいますぐ判断はつかないと思う。さきのことはわからない。
 やっぱり……わたしたちが公園で別れたあと……すぐ?
 彼女の話ではあの小学生に声をかけられたらしい。助けてほしいことがあるって。ついていったら――
 と偉人は途中で言葉を切り、片方だけ肩をそびやかした。
 夕方、多英たちと別れるまで公園にいたの。あの子ずぶ濡れで、きっとだれかにそうされて……声かけたけど何も云わないでどっかに行っちゃった。わたしが中途半端に心配したから……多英はわたしたちに約束したの。今度会ったときはって……。
 そうだからって萌絵ちゃんが責任を感じることじゃない。あいつらが悪い。
 そうでも! ……一緒に……わたしが送っていけばよかった。
 冗談だろ。ふたりとも犠牲になっていただけだ。
 偉人はぴしゃりと吐き捨てた。
 びくっと肩を揺らしながらわたしの躰は引けてしまう。それほど、偉人の口調には聞いたことのない、素っ気なさと苛立ちを感じた。あの男たちに対しての言葉遣いには人を喰った辛辣さがあって、普段とは全然違っていたことを思いだす。
 偉ひ、と――。
 意味もなく名前を呼んでいるさなか、偉人が身動きしたかと思うと躰ごと手を伸ばしてくる。わたしはとっさに座ったまま後ずさった。けれど間に合わず――何に間に合わないというのか自分でもはっきりさせられないうちに偉人の手に捕まった。
 右肩を押され、躰が後ろに倒れていく。本能的に何かに縋ろうとして手が泳いだ。右手が偉人の左腕をつかんだとき、偉人の右手が後頭部にまわって、頭が床にぶつかるのを防いだ。
 床に寝転がったわたしは、半ば放心して偉人を見上げた。首の下から偉人の手が抜けたかと思うと、両手がそれぞれにつかまれて肩の横で括られる。そうして偉人はわたしの躰を跨いで膝のすぐ上に座った。
 逃げられるか?
 偉人が真上からわたしの目を捕らえて挑んでくる。
 それに応じたが、どんな方向に動かしても押さえつけられた手首はびくともしないし、脚を動かそうとしても膝の関節が自由にならず、どうにもできない。
 わたしはついさっき多英が無力であることを痛感したはずが、自分のことを守れていない。
 偉人は、からかっているだけなのか教訓を与えようとしているだけなのか、それとも――
 偉人くん!
 萌絵ちゃん、思い知るといい。
 笑みの欠片さえなく、偉人は思いつめたように放った。

 偉人くん。
 くちびるがわずかに動くだけで、それはつぶやきにもならなかった。
 偉人の手が離れても、その眼差しがわたしの躰を縛る。
 パジャマのボタンが外されて、あと上半身を隠すのは一枚だけというそのキャミソールはめくりあがる。わたしの瞳を捕らえていた偉人の目は胸もとへと伏せられた。
 脚の上から重みがなくなっても、見えない何かに縛られて躰が自由になることはない。
 偉人の目が離れたかわりに、わたしの目が偉人の動きを追う。
 パジャマのズボンと一緒に下着が剥ぎとられて、次はどうなるのか、きっとわたしはわかっている。そのとおり脚を広げられた。
 脚の間で膝立ちした偉人は、ベルトを緩めると綿パンツのまえをはだけた。一つ一つのしぐさが見せつけるようで、下腹部にフィットしたグレーの下着がずらされると、目に焼きついたワンシーンと同じオスの形が見えた。
 偉人はまえにのめると、こぼれたわたしの胸を手のひらですくう。片側を潰すようにつかまれて呻き声を漏らした。そうして覆いかぶさるように顔をおろしてきた偉人は口を開く。怖い気がしてわたしはとっさに目をつむる。直後、もう片方の胸が湿った熱のなかに含まれた。
 んっ……。
 はじめての感覚は、どう自分が捉えているのかもわからない。触られているのは胸なのに、躰の奥までふるえている。
 怖さのせい? 慣れない感覚のせい?
 あ、ふ……。
 そんな吐息が耳に触れ、違う、と何かを否定し、わたしはとっさに下くちびるを咬んだ。意識して堪えなければ、出したことのないトーンの声が漏れてしまう。
 しばらく与えられる感覚に任せていたが、下腹部に何かが蓄積されていてじっとしているのがたまらなくなった。見えない重石で拘束されているような躰にどうにか意思を伝え、わたしは逃れようとせりあがった。
 が、胸をつかんだ手に力がこもり、咥えられた胸はひどく吸引されて痛みを伴った。躰がこわばり縮こまる。
 イタ……っ、偉人、く……んっ。
 わたしの訴えに偉人は顔を上げた。
 同じ目に遭いたいんだろ。そうするのはいまからだ。
 目を開いて見上げた偉人の瞳にはやさしさの欠片も残っていない。捉え所がなく烟(けぶ)っている。
 偉人くん。
 本当にいまここにいるのは偉人なのか、わたしは確かめるようにつぶやいた。けれど偉人は答えない。無視したまま――
 あっ。
 不意打ちで躰の中心が刺激された。触れたのは指ではない。もっと太くて熱い。それは縦に添い、偉人は何度も上下させてなすりつける。
 ぬるぬるした感触はなんなのか、そのさきに多英が感じた痛みが待っていることだけははっきりしていた。
 偉人の云うとおり、わたしは多英と同じ目に遭うことを望んでいるのだ。そうすることで何を得て何を失うのかわからない。
 ただ、同じ気持ちにならなければならなかった。
 何もできなかったから。
 多英はどうしただろう。意思に反することだったら、無意識でも精いっぱいで逃げたはず。
 偉人くん。
 また呼んでみた。けれどやっぱり答えはない。
 偉人に見えて偉人ではないのかもしれない。もしくは、わたしが勝手に偉人だと思いたがっている。
 再び逃れようとした。けれど、そうするのを察していたように大きな手が腰を捕まえる。
 その瞬間に、わたしは時間を退行して、そこにいる多英に同化したかもしれない。
 無理やり秘密の場所を広げられた怖さと、突き進んでくる苦しさと、そして、最奥を侵略された痛みと。
 床という安定した場所が背中にありながら、躰を揺らされるせいだろうか、眩(くら)むような不安定さに意識が遠のく。
 だんだんと痛みは鈍くなっていって違和感だけが残り、そして二つの躰の接点だけが息づいていた。
 かすんだ現実のなかでつらそうに呻くのは偉人なのか。ただ偉人を纏った獣にすぎないのか。
 イクぞ。
 それが何を意味するのか――ひと際強く摩擦を伴って抉(えぐ)られ、知性に欠けた躰は密着した腰をふるわせる。直後、わたしはおなかの奥に熱を浴びせられた。
 終わった。そう思ったのはつかの間で、侵略が再び始まる。泥水をはね散らかすような音はわたしの体内で起きていた。放たれたしるしがわたしのなかに焼きつけられていく。
 この行為がなんなのか、将来に描いていた夢とは全然違う。
 多英、多英も、こんな気持ちで、いた……?
 心まで咬み砕かれそうなのに静観を装って、ただひたすら終わるのを待つしかなかった。
 そうして、わたしを壊しきることはかなわず、あきらめたかのように躰のなかから侵略者は出ていく。二度めの咆哮(ほうこう)とともに熱はおなかに迸(ほとばし)った。ここはおれの領域だ、と、そんなしるしのようで、わたしはわたしだけのものではなくなったという戦慄を覚えた。
 獣の呼吸のみが聴覚を占領し、やがて――
 泣かないで。
 呻くような声がわたしをすくいあげる。何かを耐えているように振りしぼって聞こえ、そのすき間にわたしは偉人特有の温もりを見いだした。
 泣いているのは多英じゃないの?
 そんな疑問は――
 萌絵ちゃん。
 その呼びかけが答えていた。
 ゆっくりと目を開けると偉人の顔がほんの傍にあった。
 今度はおれと萌絵ちゃんだ。
 そう云って偉人はふたりの間から多英と悪人たちを追い払う。
 おなかのしるしを拭い、偉人は人形のように意思のないわたしの躰を抱えあげてベッドに横たえた。再びわたしの上に伸しかかるとふたりの上半身を密着させた。
 ベルトを外しただけで服を着たままの偉人からは、かすかに汗ばんだ匂いが薫ってくる。公園まえの歩道であの子に体当たりされた瞬間を思いだした。あのとき、よろけたわたしは偉人にしっかりと受けとめられた。
 偉人の力はわたしを守るためにあるのか、壊すためにあるのか。
 あまりに近くにあって偉人の顔がよく見えない。
 偉人くん。
 囁くように呼ぶと、くちびるがふさがれた。結んだわたしのくちびるを裂き、するとそうした偉人の舌から小さくて硬いものが口のなかにこぼれてきた。無意識に吐きだそうとして突きだした舌を偉人の舌が絡めとる。口を覆われていて外に排出することはかなわず、それは口のなかに溜まるふたりの唾液で溶けていった。甘さと苦さが入り混じり、それが何かもわからないままわたしは息苦しさに負けて飲みくだした。
 こくん、というそのこもった音を立てると、偉人のくちびるは離れていってその顔に焦点が合う。
 おれが怖い?
 あのときと同じ気配で同じ言葉で偉人は問う。近づいたと思った距離はいまどれくらい離れているのか、もしくは近づいているのか、判断はつかない。
 わからない。
 違う。おれが怖い?
 怖く……ない。
 違う。おれはあいつらと同じだ。安心できる男なんていない。怖いって思い知ればいいんだ。
 わかった? とそう問うような雰囲気を感じてわたしはうなずいた。
 偉人くんが怖い。
 ああ。けど、いまは怖がらないで。いい?
 再びうなずくとまたくちびるがふさがれた。呼吸がままならないほどわたしは偉人のキスに没頭する。首筋を通ってふくらみへと移ったときも、そこからおへそを通って躰の中心へと埋もれたときも、わたしの躰は熱のこもったくちびるを意識してずっとふるえていた。
 最初にあった慣れない感覚。それはいま落ち着くことがない。偉人に怖さは感じなくても、躰から感覚が離脱したような怖さに何度襲われたのか。躰の中心で互いを繋いだとき、きつくてもつらくはなかった。むしろ、ふわふわとした心地よさに、このまま、と願ってしまった。次第にその快感に呑まれて、緩慢な思考すらも難しく朦朧(もうろう)としてくる。
 偉人……く……。
 かぼそく呼んでみると偉人の重みを感じる。背中に潜った腕に抱きしめられた。
 眠りのなかに入る間際。
 おれのだ。だれにも触らせるな。
 耳の奥で呪文のように響いた。

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