ラビュリントス
リターン
夢の後先−one's affair− #2
いま開けた門扉をまた閉めると、偉人と駅で会うこと、偉人が誕生日祝いをしてくれるということ、それらのメッセージを母に送って、わたしは再び帰ってきた道をたどった。
三人で交わした昼間の会話を思いだしたのは、駅に着いてからだ。偉人は迷惑だろうが、一度義理を果たしておけば、蝶子も多英も会わせてくれとは云わないだろう。そう思ってふたりにメッセージを送ってみた。
駅構内をざっと眺めても見当たらなかった蝶子はやっぱりもう電車に乗っているらしく――
ずるい!
という言葉に始まって、文句をずらずらと流してくる。
片方で多英は一向に反応がない。
どうしたのだろう。
電話をかけてみようとわたしは番号を呼びだした。
萌絵ちゃん。
コールする寸前で偉人の声がした。ぱっと顔を上げるのと同時に偉人が正面に立つ。
家にいるときはふたりとも椅子に座っているから、いくら偉人が背が高くてもそう差を意識することはない。外で会うのははじめてで、こうして見上げると圧倒されるような雰囲気がある。家庭教師をやるときの偉人とは違っている気がした。
偉人にはまだ慣れていない、と蝶子たちに云ったけれど、それはこんなふうに偉人のことがまだつかめていないからだ。家庭教師は親に云われて渋々引き受けただろうことは中学生のわたしでも容易に想像がつく。誕生日だからといまわたしをかまっているように、偉人は気が利くし、やさしい。きっとそうしてくれるのは、すべて親が係わっているせいに違いない。だから、好きという気持ちはあっても、近づけたことを多英が云うチャンスとは少しも思っていない。
偉人は微笑を浮かべてわずかに首を傾けた。
プレゼント決めた?
あ……考えてなかった。
偉人は吹きだす。そうして偉人の手がわたしの頬に近づいたかと思うと宙で止まり、なんだろうと考えつかないうちに手のひらが頭の天辺にのった。少し頭を揺さぶって離れていく。
萌絵ちゃんらしいな。のんびりしてる。
そんなことない!
舞いあがっていただけだ。内心で、とても口に出しては云えない云い訳をする。
ごはんは?
お母さんが作ってくれてるから。
わたしは、答えてしまって誘ってもらえるチャンスを逃したと気づいた。少しでも長くいられるという、こんなチャンスはつかんでもいいと思うのに。
親思いだな。
偉人はまた微笑に変えて辺りを見渡し、どこ行く? と訊ねた。
んー……っと雑貨屋さん。
わたしも辺りを見まわして、駅前にあるビルを指差した。一階から五階まで、いろんな雑貨が集まったところだ。
オーケー、行こう。
それからのちょっとした時間は、わたしにとって、偉人との思いがけないデートという最高のバースデープレゼントになった。
今日も病院でバイトをしていたというから、偉人の休む時間を奪ってしまうのも忍びない。悩むのもほどほどにして、わたしの等身大くらいあるウサギの抱き枕に決めた。
偉人くん、ありがとう。
独りっ子はさみしがりやだな。
店を出てお礼を云うと、偉人は首をひねってそう漏らした。じっと見下ろされているものの、わたしに云っているよりは独り言っぽい感じだ。
将来、……。
と、偉人が続けた言葉は尻切れトンボのまま終わった。
もう暗いな。帰らないと。送っていく。
通りは外灯やらショップ内の照明やらで明るいが、見上げた空は真っ暗だ。熱気を含んだ空気がよけいに空を濁らせている。
萌絵ちゃん、持とうか。なんか……なんだっけ……あ、アリスだ。追いかけてたウサギをやっと捕まえたって感じだな。
子供っぽい。偉人はそう云っているのだろう。
ううん、いい。
ちょっと拗ねた気分で返事をした。それが伝わったのか、偉人は含んだように笑う。
家庭教師が終わって、その二年後に会うときは変わってるのかなって、ちょっともったいない気がしてるだけだ。
もったいない?
意味がわからず、わたしは立ち止まって偉人と向かい合う。首をかしげた。すると手が伸びてきて、今度はちゃんとわたしの頬を手のひらが覆う。
歩くだけで汗を掻いてしまうくらい暑いなか、それ以上にカッとほっぺたが火照って、偉人の手を冷たく感じてしまう。じっと見られているのは明らかだけれど、外灯のせいか、その瞳が笑っているのかどうかまでは判別がつかない。むしろ、謎めかしている。
何か云わなくちゃ、と自分が自分を焦らせた。
ほ、ほっぺた! 何かついてる?
偉人はからかうでもなく答えるでもなく、ただくちびるに薄らと笑みを浮かべる。なんとなく怖い気がして後ずさると、偉人の手は離れた。
おれが怖い?
どんな意味が含まれているのだろう。そう思わせられるほど、声は深く響き渡るようだった。
……ううん。でも……アリス、幼稚園のときに劇でやったの。だから、偉人くん、超能力者みたいって思った。それはちょっと怖いかも……。
ははっ。
偉人が声を出して笑うのははじめて見た。同年代の子たちと変わらない少年っぽさが見えて、距離感がなくなった気がした。
再び歩きだすと、公園に差しかかったところでふいに影が飛びこんできた。
わたしが小さく悲鳴をあげるのと、
お姉ちゃん!
と、体当たりしてきた子の声が重なった。
よろけたわたしを斜め後ろから受けとめてくれたのは偉人に違いない。
だれだろうと、疑問にしながら見下ろした直後、女の子みたいな男の子だと気づいた。
どうしたの? またイジ……。
お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……っボクのせいだ。でも、そうしたらイジメないって云うんだ。だから、だからボクは……でも、でも――っ。
最初の“お姉ちゃん”といまこの子が云う“お姉ちゃん”は同一人物ではない。そんなことと、ひっ迫した事態が起きていることだけは察した。
萌絵ちゃん、この子、知り合いなのか? どうしたんだ?
助けてよっ。
偉人の言葉に被せるように訴えた男の子は、公園のなかへと駆けだしていった。
萌絵ちゃん、とりあえずそこの店のまえに――人がいるところにいろ。見てくる。
偉人は冷静に云いながらカフェを指差したと思うと、男の子を追っていった。
なぜ、わたしが“お姉ちゃん”と呼び止められたのか。そうしたら、もう一人の“お姉ちゃん”がだれなのか、自ずと答えは出てくる。
偉人の忠告は無視して、わたしはあとを追った。偉人の躰に見え隠れする小さな男の子はアスレチックのほうへと行く。そうして森のなかをイメージして造られた場所に踏みこむ直前、男の子はまるでそこに壁があるかのようにぴたりと立ち止まる。
偉人が足を止め、遅れたわたしは駆け足から歩きにかえて近づく。
走ったあとの呼吸はままならない。そんな自分の呼吸に紛れて、忍び笑うようなこもった声が耳に入ってきた。笑い声だけではない。呻くような声も聞こえる。
それらの薄気味悪い声に引かれるように偉人が歩きだした。そのあとをついていく。
そして、そこで繰り広げられていた光景は、まだ男と女という違いを漠然としか知らなかった萌絵にとって、恐怖という感情が曖昧になるくらい強烈なものだった。
メッセージを送っても返事がなかったこと。かけそびれてしまった電話。
そのときに駆けつけたからといって、返事がないという時点で、本当に助けるという意味では手遅れだったのだと思う。
けれど、多英が味わう苦痛も恐怖も、もしかしたら絶望も、少しは軽くできたかもしれなかった。
芝生の上に横たわった躰は街灯のなか、幻想を見ているみたいに白く浮かびあがっていた。
多英が着ていたシフォンの緩いブラウスは、透け感があるとはいえ黒い色だったことを考えれば裸に剥かれているに違いなく、そんなふうに目で見たものに根拠を付け加えなければならないわたしは、きっとこの光景を否定したがっている。目を覆いたいほどなのにその気持ちと裏腹に、わたしの目は、シャッター音を鳴らすことこそなかったが、細部まで一つ一つ脳裡に焼きつけていった。
多英の腕は十字架刑のように、左右それぞれ別の人間の手によって地に括りつけられていた。片方の胸は握りつぶしているかに見え、もう片側は顔が覆っている。下半身には三人の男が群がり、膝をつかんだ手で脚が無理やり開かされていた。その間で細いウエストをつかむ男が躰を揺らしている。多英は抵抗することもなく、ただ男の動きに合わせて躰を上下に揺すられていた。蒸すような空気中に、男の荒い呼吸と相まって、肉のぶつかり合う音、そして水を掻き分けているような音が立つ。
もうイクぞっ。
だれがそう云ったのか、五人の男たちは侵入者がいることに気づいていない。
わたしは――いや、おそらく偉人もまた呆然として立ち尽くし、それらの行為がどういうことか、判断するまでに時間を要していた。
早くしろよ。
おまえはもう一回終わってるだろ。がっつくなよ。そのまえにおれの弟のばんだ。女にありつけたのは、こいつのおかげだろ。
っていうより、あの女顔したガキのおかげだろ。
だから、そいつは弟のオモチャだって。
人間という認識が男に変わり、そして、おまえとかこいつとか、そんな響きに、男たちにはそれぞれ固有の顔があることにやっと思い至った。偉人と年がかわらないくらいの男たち四人と、ちょっと幼い――わたしと同じ中学生じゃないかという男が一人。そう判別したとき――
何やっ……
人が来た!
どういうつもりなのか、偉人の声に被せるように男の子が叫ぶ。
男たちから奇声があがるなか、偉人が男の子を振り向き、その視界の隅にいないはずのわたしを捉えたらしく、偉人はひどく顔をしかめて見つめ、それから睨むような目つきにかえた。
兄さんたちを連れてこい!
訳するまでもなく偉人の言葉のストレートな意味はわかるが、五つも離れた駅からいま偉人の兄を連れてこないといけないのか、わたしには偉人が何を云っているのかさっぱりわからなかった。
亨一(りょういち)! 来てくれ。警察呼べっ。
偉人の眼差しは叫ぶ間もわたしを射貫いたままだ。
ここにいない兄をすぐそこにいるみたいに呼んだことで、さっきの言葉は逃げろと暗に訴えていること、同時に、ほかにも人がいると男たちに思わせているのだとやっと察した。
ただ、足に根っこが生えたようにここから動けない。
くそガキがっ。見張りもできねぇのか!
ヤバいっ逃げるぞ!
罵(ののし)る声と怯えた声が交差するなか、偉人がひと際強くわたしを見やったあと男たちに向かっていく。多勢に無勢だ。止めなきゃ、と思ったけれど声にもならない。
多英の間から立ちあがった男は、そのオスの部分から粘液を垂らしながらはだけたズボンを直す。慌ててうまくいかないのか、聞きとれない悪態をつく。明らかに年上の男たちは皆ズボンをはだけていて、そのせいか、手を拘束していた二人と脚を支えていた一人は逃げだしたが、その足はもつれるようだった。少なくとも偉人が闘うとしたら三人は減った。
ためらいなく駆け寄った偉人は、ズボンを穿(は)くのに手間取っている男を放って、まず中学生だろう男の胸ぐらをつかんだ。
おまえのことは“オモチャ“に訊けばどこのだれだかわかるみたいだな。オモチャって、あの子か?
侮った声をほんの間近で投げつけると、偉人はその男を押しやるようにしながら手を放した。
てめぇ、弟に何しやがるっ。
そうして刃向かってきたもう一人の男の手は偉人に軽く払われた。年は同じくらいかもしれないが、上背は偉人のほうが遥かに勝る。偉人は男がよろけるくらいに肩を突いた。
汚い手で触るな。おまえ、こいつの兄貴か。なら話は早い。おまえもほかの連中も、だれかは突きとめられる。証拠はおまえら自身が彼女に残してるからな。彼女がどうするにしろ、警察に記録は残るんだ。せいぜい怯えてろ。
偉人は威嚇するように詰め寄った。
所詮、まだ小学生の子供を相手に脅す連中だ。虚勢を張っただけの卑怯者で臆病者なのかもしれない。男は意味不明な言葉をもごもごと吐き散らしながら、弟を連れて遁走(とんそう)した。
その足音が聞こえなくなると、この空間だけ時間の流れを遮断したように、しんとした空気が広がった。
偉人が振り返る。
萌絵ちゃん。
そのあとに、大丈夫か? もしくは、大丈夫だ、と云いたそうな気配を感じて、わたしはうなずいた。
多英!
叫んだわたしの声はかすれていた。
こもった嗚咽(おえつ)が応える。木の棒のように突っぱった足を動かして多英のもとに行った。その間に偉人は着ているシャツを脱ぎ、それで多英の躰を覆う。
傍に行ってかがもうとしたとき、わたしは自分がしっかりと抱きしめているウサギが邪魔だと気づく。思いきり力を込めて抱いていたのだろう、腕をほどくのにもこわばってすんなりとはいかなかった。
多英……。
大丈夫? と、わたしは偉人と同じことを訊きそうになって、とっさに口を噤んだ。大丈夫なわけがない。助かったのは命だけ。それくらい多英が心身ともに傷ついていることはだれだってわかることだ。
口に詰められた布切れを取ると、多英はむせび泣く。
警察……呼ばないで。
届けてたほうがいい。あいつらが逆に脅しに使ってくる可能性だってあるんだ。警察には父の知り合いがいる。悪いようにはならない。まずは処置しないと。わかるだろう? うちの病院に連れていく。お母さん、呼べる?
それがまた現実を思い知らせる要因になったのか、多英の嗚咽が激しくなり、わたしが多英の許可を取って電話をかけた。繋がると、多英の母に断りを入れて偉人に変わる。
それから多英の母親が到着するまで、偉人はタクシーを呼んだり父親に電話をしたりと冷静に取りしきった。
すぐにやってきた多英の母は涙を浮かべながらも気丈にしている。母親が持ってきたワンピースを多英が着せられているさなか、公園を見渡すと男の子はいつの間にかいなくなっていた。
多英もあの男の子も、これからどうなるのだろう。
つい三十分まえまでの時間といまはまるで別世界にいるようで、わたしは心もとなさのなか立ち尽くした。
タクシーに乗ってすぐわたしの家に着き、自分だけ降りるはずが偉人も次いで降りた。向かい合った偉人の瞳は陰っていながら、なんらかの意志を込めて鋭くわたしを見つめる。
萌絵ちゃん、このことは絶対に口にしちゃいけない。いい?
わたしはこっくりとうなずいた。
あとで行くから。おばさんには明日用事ができたからそのかわりに今日家庭教師するって云ってて。大丈夫だ。
偉人はわたしではなくウサギの頭を撫でると、行って、とわたしが玄関に入るまで見送った。