ラビュリントス

リターン
夢の後先−one's affair− #1

 幼いながら記憶に残らないほど、アリスを無我夢中で演じたこと。それは自慢だけれど、幼かったからこそわたしのなかになんらかのストレスが染みついた気がする。
 わたしはアリスのように、現実との境目がわからないまま、いつの間にか夢を見ていることがあった。大人になっても異様な感覚に襲われたことがある。
 目が覚めてしまうと、あり得ないことだから夢だったとわかるけれど、リアルな感覚が居残っているのだ。
 優衣が生まれて以降は一度もなくて、それがよけいに優衣の存在がいかにわたしにとって支えになっているか、その証明になっていた。

 それが始まったのは中学になってからで、もっと厳密にいえば、“あのこと”のせいじゃないかと思っている。
 受け入れがたい光景。そこには偉人が立ち会って、偉人は男で、だから夢に出てくるのは偉人だったのかもしれない。

 中学三年生の夏休み、高校受験のないわたしたちは時間というものがたっぷりあった。
 勉強を口実にして、それぞれの家を回しながら三人で集う。ショッピングに出かけることもあった。一週間に最低三日、曜日まで決めているわけではない。建て前の勉強は宿題を少しすませるくらいで、お菓子づくりをしたり、その頃に限って嵌まっていたビーズ創作をやったり、あとは専らお喋りだ。

 その日はわたしの誕生日で、蝶子と多英は朝からバースデーパーティをやる気満々で家にやってきた。昼食のメインは、母が頼んでいたピザ店からの宅配分で充分だったが、三人はケーキやお菓子をつくってにぎやかにすごした。

 萌絵、そーいえば北宮さん、今日は来るの?
 今日は予定ないよ。
 なーんだ、遅くまでいたら会えるかなって思ってたのに。
 わたしも北宮のお坊ちゃんに会ってみたいな。
 お兄ちゃんの話じゃ、イイ線いってるみたいだけど。モテるって話だよ。
 多英には四つ上の兄がいて、やっぱり多英のように頭がよく、今年から偉人と同じ大学に通っている。
 大学で、しかも後輩が知ってるってことは目立つ人ってことじゃない?
 だよね。萌絵、いつか会えるようにしてよ。
 無理! まだそう云えるほど慣れてないし、偉人くん、忙しいみたいだから。
 偉人くん、ていう呼び方、慣れてないって感じじゃないよね。
 蝶子が鋭く突っこんでくる。
 それは偉人くんがそう呼んでって云ったから。来年は留学するから英会話とか、いろいろ準備でバタバタしてるみたい。お母さんの話じゃ、向こうの病院に入って経営の勉強もしてくるんだって。えっとTなんとかっていう……。
 環太平洋なんとかっていうTPP?
 あやふやにしか出てこない言葉は多英がフォローした。
 あ、それ。それで病院のやり方も変わってくるんだって。だから、普通の英会話だけじゃなくって専門用語とかホントにたいへんそうなの。
 ふーん。萌絵、いまのうちに捕まえてたら?
 捕まえる?
 だから、北宮さんのカノジョになっておけばって云ってるの! お金持ちで頭良くてイケメンとか、めったにそろわない条件だし、チャンスじゃない。
 多英の大胆なけしかけにわたしは思わず躰を引いた。
 カノジョ、もういるかもしれないし……。
 そうだよ。それでなくっても、留学で二年も離れちゃえば心も離れちゃうよ。
 多英がいつになく夢みたいなことを云ったかと思えば、いつもの多英のかわりに蝶子がごく現実的な指摘をした。
 ふたりとも想像しすぎだよ。偉人くんは家庭教師だし、リアルはけっこう単純に勉強ってだけで終わってるから。
 わたしの言葉に、なあんだ、と多英はがっかりした相づちを打ち、蝶子はそれに呆れたのかため息をついた。
 本当は会うたびにどきどきしている。けれど、叶わない恋をわざわざ口にする必要はない。わたしから偉人は恋の対象になっても、大学生の偉人が中学生にカノジョとしての関心を持つはずがなかった。

 陽が沈みかけている頃、わたしは見送りも兼ね、ふたりとともに家を出た。近くにあるアイス専門店に行ってカプチーノアイスを買うと、住宅街のなかにある公園に立ち寄った。
 低い緑の垣根に囲まれた公園はわりと広く、森のなかをイメージしたアスレチックコーナーがあったり、見晴らしのいい噴水コーナーがあったりする。
 わたしの家と同じく共働きという多英の家は、この公園を軸にすれば反対側にある。蝶子は二つ駅が離れたところの高層マンション住まいだ。
 八月になったばかりの夏の夕暮れ、日は当たらなくても、アスファルトからむっとした熱を放っている。そのせいか人はそう見当たらない。
 わたしたち三人は少しでも涼しさを感じられる場所を探し、噴水の近くのベンチに腰かけた。
 するとまもなく、小学生らしき男の子が目についた。
 最初は噴水の傍でわたしたちみたいに涼んでいるだけなのかと思いきや、よく見るとずぶ濡れだ。
 あの子……。
 ちょっとおかしいかも。
 わたしに続いて多英が云うと、逸早く蝶子が立ちあがった。
 考えるまえに動いている。そんなふうに見えるほど蝶子はいつも行動が早い。多英は結論が出るまでにゆっくり考え、わたしは迷うだけで終わる。
 どうしたの? 水遊びしてて噴水に落っこっちゃった?
 蝶子がかがんで話しかける。男の子が顔を上げたのと、わたしと多英が蝶子の横にかがんだのはほぼ同時だった。
 ラインと数字が入るというサッカー選手が着るみたいなTシャツとデニムのハーフパンツ。そんなあっさりした恰好は男の子に見えていたけれど、近くで見ると女の子だった――とわたしが思ったのもつかの間。
 ボク……。
 と、その自分を呼ぶ云い方から最初の印象どおり男の子だとわかった。
 おずおずとしていて、ずぶ濡れなのは蝶子が云った理由ではなく、だれかにそうされたのだと察した。それはふたりもそう思ったみたいで、多英が手を差しだす。
 送っていこうか。
 迷うようにしながらしばらくその手を見ていた男の子は、手を出したかと思うと多英の手をはね除け、立ちあがってアスレチックがあるほうへと駆けていき、やがて緑の垣根で見えなくなった。

 わたしたちは半ば唖然として男の子の姿を追ったが、やがて顔を見合わせると、肩をすくめたり首をかしげたりして気を取り直した。
 大丈夫かな、あの子。
 わたしがつぶやくと多英は小さく唸った。
 どうだろうね。中性的な男の子がからかわれるってけっこうあると思うけど。
 ふーん、大人になったらどういう男の子になるのかな。
 大人になったら、男の子、じゃないよ。
 多英は蝶子の言葉尻を捉えておもしろがった。
 じゃなくって、あのまんまだったらいつまでも男の子で通じそうな感じしない?
 すっごくカッコよくなってるってこともあるかも。顔立ちは女の子みたいに可愛いんだし。
 将来のことじゃなくて、いまどうなるかってことのほうが深刻な気がするよ。
 わたしは云ってしまうとため息をついた。
 そうだけど、どうしようもないでしょ。濡れて帰ったら親だって気づくよ。あの子の家があっちのほうだとしたら、わたしと同じだからまた会うかもしれないし、そうしたら気をつけてみるよ。
 多英は、それでどう? と問うように首をかしげ、真ん中に座った蝶子越しにわたしを覗きこんだ。
 べつにわたしたちが責任感じることじゃないと思うけど。だからいいんじゃない、それで。
 蝶子は簡単に片づけ――
 萌絵か多英があの子みたいなことされたら、わたしが仕返ししてあげるよ。大人になってもわたしたちはずっと一緒にいなくちゃいけないの!
 と、いかにも蝶子らしい、頼もしいのか不遜なのか区別のつかない主張をした。
 ぷっ。カレシとか結婚とかしたら、ずっとってわけにはいかないよ。わたしはカレシ欲しいと思うし、結婚もしてみたいし。
 そう云った多英を蝶子はパッと見やった。
 だめ! わたしたちのこと優先するってことが条件! それがだめっていうカレシも旦那さんも許さないから!
 蝶子、友だち優先でいいっていう人いないと思うけど。奥さんを愛してない旦那さんならわかんないけど。わたしは好きって気持ちのない人と結婚なんてしたくないよ。
 わたしは呆れつつ云ってみた。多英は賛同してこっくりとうなずく。
 だよ。云っとくけど、レズっ気なんてわたしはゼロだから。蝶子も好きな人できたら変わるよ。わたしたちのことなんてどうでもよくなったりしてね。

 それが聞こえているのかどうか、蝶子は宙を見て何やら考えこんでいる。
 蝶子?
 わたしが問いかけると、蝶子が反応するまえに、例えばさぁ、と多英が口を挟む。
 萌絵と北宮さんがうまくいって結婚したってするよ。そしたら、北宮さんの家っておっきいとこだけに仕事上とか大人の付き合いみたいなものあるわけだし。そういうのと、蝶子の夕食のお誘いを比べたら、萌絵は絶対お付き合いのほうを選ばなきゃいけないと思う。好きとか嫌いとか、そういう以前の問題。そうじゃない?
 多英は考え考えしつつ、もっともらしいことを論じた。
 それはあり得ないから!
 わたしはいちおう偉人との結婚という想定を否定してから蝶子に目を向けると、どこまで耳に入ったのか、それともまったく届いていないのか、変わらず宙を見ている。しばらくしてやっと飛んでいた意識が躰と融合したようで、蝶子はわたしと多英をかわるがわる見やった。
 大人の付き合いは置いといて、二番めだったらいいかもね。
 蝶子はどんな結論に達したのだろう。意味不明なことを云い、わたしと多英は顔を見合わせて首をひねった。

 それから話の繋がりで、学校のどの男の子が一番かなどというお喋りが続いた。三人がそれぞれの方向に別れたのは、外灯が煌々と目立つほど日が沈んでしまってからだった。
 家の敷地内に入ったところで携帯電話の着信音が鳴りだす。母の帰るコールだろうかと思いながら画面を見た。とたん、どくんと鼓動が痛いくらいに高鳴って、わたしは携帯電話を落としそうになった。
 電話をかけてきたのは偉人だった。五月から家庭教師で来るようになって、便宜上で番号の交換はしていたものの、はじめての電話で、だから驚かずにはいられない。
 もしもし。
 ちょっとびくびくしながら出てみると、まず吐息が聞こえた。
 ケータイが離せない中学生にしては電話取るのが遅いな。おまけにおれが不審者みたいに警戒心たっぷりだ。
 偉人の声には笑みが滲んでいるから、さっきの吐息は笑い声みたいなものだったのだ。からかわれて緊張感が少し和らいだ。
 はじめてだから。
 ああ。萌絵ちゃん、今日、誕生日だって? いまさっき母さんから聞いた。
 うん。
 なんで云わないんだ? 萌絵ちゃんがおれにそう云えないほど怖がらせてるんじゃないかって母さんに散々なじられた。
 散々というわりにおもしろがった声音だ。
 家庭教師には関係ないことだから……。
 ただの家庭教師ならそうだろうけど、おれと萌絵ちゃんは特別だろ。
 再びわたしは偉人に驚かされた。鼓動が慌てふためいて乱れ、反対に躰はすくんだように固まる。その意味がどういうことか考えつかないでいるうちに――
 母親が友だち同士っていう近さがあるからな。プライベートなことでも関係なくはない。
 と、偉人は真っ当な云い分を口にした。
 わたしが一瞬でも勘違いしてしまったのは事実で、電話の向こうにいる偉人が気づくはずもないのに恥ずかしさに躰がかっと火照る。それとはべつに、自分ががっかりしたのかほっとしたのか、判別できない気持ちがざわめいた。
 いま、そっちに向かってるんだ。もうすぐ駅に着く。カレシがいるかも訊いたことなかったな。だれかとお祝いしてて邪魔になるんだったら引き返すけど?
 ううん。友だちが来てたけど、さっき帰ったの。お母さんもまだ帰ってないし、いま外にいるからわたしも駅に行く!
 オーケー。何が欲しいか考えてて。それから気をつけて。
 うん!

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