ラビュリントス

The heart of labyrinth

 生まれたばかりの泣き声を、何よりその躰の温もりをちゃんと憶えている。
 看護師の手を借りて、手術台の上でわたしの顔に寄り添った優衣の顔は似ていると感じてうれしかった。
 だんだんわたしから離れてパパに似てくるとちょっとさみしかったけれど、可愛いねってだれからも声をかけられてやっぱりうれしくなる。
 優衣という命に息を吹きこんだこと。
 それがわたしの唯一の自慢できること。

 優衣が誕生するためには、わたしは優と結婚していなければならなくて、優と出会っていなければならなくて、そのためには蝶子と多英がいなければならない。
 そろそろいいんじゃない? そうけしかけた蝶子と結婚する偉人がいなければならない。
 それなら。
 優衣が生き延びるためには、何が必要だったのだろう。
 違う。必要のなかったことは確かに一つある。

 わたしたち卒園生だし、受験まで期間なくてもきっと大丈夫。そんな言葉のもとに、わたしたち三人が通った三南幼稚園に子供たちは入園した。
 わたしを説得する材料として提示された清水幼稚園ではなく、最初から蝶子は母校を考えていたに違いなかった。
 蝶子は、器用にも不器用にも自分の思いどおりに人を動かそうとする嫌いがある。
 同じでなければならない。
 偉人はそう云ったけれど、正確には違う気がする。
 はじめは渋々だったわたしもだんだんとその気にさせられて、合格したときには優衣も一緒になって喜んだ。
 わたしが年長という当時に担任だった先生と会ったのは、ほんの二週間まえ、保育参観のときだ。

 アリスの萌絵さんよね?
 卒園してから二十年以上もたっているというのに、わたしの顔をしげしげと見つめて名前を云い当てた先生は、すっかりしわの増えた顔を綻ばせた。
 アリスというのは、物語“不思議の国のアリス”の劇の主役のことだ。幼稚園の一大イベント、発表会のなかで最も注目を浴びるプログラムで、年長になるとこの劇をやることが伝統となっている。主役は卒業アルバムにも大々的に載るのが恒例であり、中学のとき、幼稚園に妹がいた同級生が話してくれたことによれば、親たちは水面下で張り合っているらしい。
 そんな大役がわたしにまわってきたのだ。
 もともとはなんのセリフも持たないトランプの役で、そのかわり、もしも主役が主役をできなくなったらという代役要員でもあった。その“もしも”が起きて、大抜擢という事態がわたしに舞いこんだ。
 本来、主役は至極妥当に蝶子だった。一月の終わりという冬の真っ只中、風邪でうまく声が出せなくなったのだ。蝶子が張りきっていたのは知っていたし、大人になったいまでも思いだせばがっかりしているかもしれない。
 わたしは緊張と必死だったことで舞台に立っていたことはあまり記憶にない。ただ、誇らしげな父母の顔と、その夜、ハンバーグやピザやスパゲティと好物ばかりが食卓に並んだこと、そして翌日、いま目のまえに立つ水野先生から、こっそり褒められて抱きしめられたことを憶えている。
 わたしが自慢できること。それはもう一つ、この時にあった。
 わたしの名を呼ぶのに“アリスの”とついてしまうことに苦笑しながら、わたしは遠慮がちにうなずいた。
 はい。
 やっぱり! 試験のときからそうじゃないかと思っていたんだけど。
 先生はお元気でしたか。
 このとおりよ。卒園生に会うたびに大きくなっていて驚くけど、さっき鏡で自分を見たら、そのぶんわたしも年を取ってたみたい。
 先生はおどけて首を振った。
 いえ! すぐに水野先生だとわかりました。娘が今年からお世話になります。少し不安もあったんですけど、先生がいてくださって心強くなりました。
 優衣さんは萌絵さんのお子さんなのね。親子そろってアリスになれるかしら。二年後が楽しみね。
 社交辞令でもなさそうに本当にわくわくした様子で云った先生は、すぐ近くにいる蝶子と多英へと目を転じた。
 やっぱり蝶子さんに多英さんだわ。相変わらず三人は仲がいいのね。確か、アリスの劇からすごく仲良くなったんだったわよね? 蝶子さんがダウンして、萌絵さんが代役、それを支えたのがうさぎ役の多英さんだったわ。成功は三人の力ね。三南の伝統劇がきっかけで、それがいまもずっと続いているなんてうれしい驚きよ。
 蝶子も多英も華やかな笑い声を立て、それから言葉を交わす声にはうれしさを滲ませていた。
 ちょっとした休憩の合間の交流だったが、教頭となった先生の頭のなかに優衣の存在が確かにインプットされたと感じてわたしは安堵した。

 けれど。
 三人の通った軌跡をその子供たちがそろってたどっていく。それが運命だと感じてしまった安堵は長続きせず、経験のない絶望と喪失に入れ替わった。
 そうでなければならなかったこと――すべてがそんな条件のもとに成り立っているのなら。
 優衣はいなくならなければならない。その条件のさきに得られる何かが存在するとでもいうのか。
 そんなものは要らないから。
 優衣はいつもわたしの中心にいる。
 何も得なくていいから、優衣をわたしから奪わないで。
 アリスのように叫べばこの悪夢から醒めるだろうか。
 優衣は生きている!

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