ラビュリントス

逆行
#6

#-011 矛盾する咎

 優はなぜわたしだったのか。
 恋人という三年の時間があって、結婚して、だから好きとか愛とかいう理由はあたりまえに出てくるはずなのに、わたしはそれが見いだせなかった。
 その瞬間瞬間に優といて幸せだと思わせられることはたくさんある。やっぱりやさしいのだろう、わたしがセックスを拒絶しても怒らないし、無理やりに迫ってくることもない。
 けれど、安心できていない。
 この人となら――悪魔のしるしとともに、そんな気持ちがわたしから一切なくなった。
 わたしはいつの瞬間も、優の言動を疑惑というフィルターでくるんで見ているかもしれない。
 そのフィルターをクリアにしてくれたのが優衣――だったのに。
 やり直せるなら。
 わたしのなかに潜む泣きたいほどの切望。
 例えば、優との結婚を決めたとき、何がわたしの背中を後押ししたのだろう。
 時を同じくして印象に残ることといえば、偉人との再再会だ。
 入社日二日まえの研修の日、入社するにあたって事務手続きについての説明をしたのが偉人だった。

 内定者が集められた部屋に偉人が入ってきて姿を追っていると、おもむろに室内を見渡したその目と合った。
 偉人に視線を置いたまま、小さく一礼して浮かべたわたしの微笑は、まるで風が通りすぎたのと同じ扱いで、何事も目につかなかったように偉人は手元の書類に目を落とした。
 もしかしたら視線が合ったことさえわたしの勘違いだったかもしれない。甘い夢のなか、抱きしめられる寸前で叩き起こされたかのような失望感を味わった。
 実際、わたしは躰に蜜が纏わりつくような甘ったるい夢をたまに見る。蜜を塗した手がくまなく全身を這い、そして、抱きしめようとする手が伸びてきた時点でそれがかなわないまま、ぷっつりと夢は途絶える。相手は優かもしれないし、芸能人などという曖昧な登場人物かもしれないし、偉人だということもあり得る。夢はそんなものだ。

 偉人とは母親同士が友だちという所以(ゆえん)で出会った。物心がつく以前も会ったことはあるらしいが、わたしの記憶のなかではっきり会ったと云えるのは中学三年生のときだ。
 母がわたしの中途半端な成績の愚痴をこぼしたらしく、偉人の母親が家庭教師を提案したのだ。通っていた学校自体は幼稚園からのエスカレータ式で、特別な問題がないかぎり大学まで進級できる。にもかかわらず、家庭教師の話は勝手に親たちの間で進んだ。
 そうして、大学二回生だった偉人は、翌年からのアメリカ留学が決まっていたからそれまでという期限付きで家庭教師をしてくれた。およそ一年後、予定どおり偉人は留学と病院経営の研修でアメリカへと発った。それから帰国した二年後にほんのわずかな時間だけ会って以来、三年ぶりの再会だった。

 偉人はもともと大人びていたと思うが、大学生だった頃とは違い、社会人としての自覚が加わって精神的にも外見的にも、いかにも頑丈そうな印象を受けた。
 けれど、名乗るまえからわたしはちゃんと偉人だとわかって間違わなかった。
 それなのに。わたしは偉人にどう見られたのだろう。まったくの見知らぬ他人?
 頼りない高校生はとっくに卒業して、メイクをするようになって、女の子としていちばん変化をしていく。そんな時期に会わなかったのだから、パッと見た目は気づかれなくてもおかしくない。ただ、もとがわからないほど化けてはいないし、家庭教師のときは一年間週二回のペースで会っていたのだ。面影も探し当てられないとしたら、よほど偉人はわたしに無関心だったということになる。
 自分が人より特別だと思ったことはないけれど、偉人とは普通よりも親密な距離にいたことは確かで、そんな偉人からも素通りされるという、わたしは自分の存在感のなさにもがっかりした。

 なんとか雑念を払って受けた研修は北宮会の組織説明から始まった。午後からは総合病院をはじめとした医療施設や医療関係の学校やら、グループ事業の見学をしてまわった。経営規模が大きいという知識はあったものの、設備投資が惜しみなくなされていることを目の当たりにすると、母から聞かされていた、北宮家は区内一の権力者だという言葉がまったく大げさではなかったとわかった。
 同時に、どんなに近い距離でも親密とはけっして云えない、そんな漠然としたさみしさを思い知った。
 そもそも普通に再再会できると思っていたのが間違いだったのだろう。三年まえに再会したときの偉人は突き放すようだったから。
 研修終了の挨拶を聞きながら、わたしは内心でため息をついた。

 萌絵ちゃん。
 解散後、だれもと同様、駅に向かいかけたそのとき、わたしは懐かしい響きで呼びとめられた。
 立ち止まって、それから足はすくんだように動かず、声がしたほうを振り向けない。すると、偉人のほうからわたしの正面にまわってきた。
 おれが無視したって拗ねてる? 怒ってる? どっち?
 偉人はまったく子供扱いして訊ねた。
 どっちも違う。
 即座に否定した口調は拗ねている。
 なるほど。
 そう云った偉人はものの数秒黙りこんだあと。
 さみしい、だ。
 偉人はずばりと云い当てる。
 そのときわたしがどんな顔をしたのか。
 あいつ――加来田とまだ付き合ってるんだろう? 幸せじゃないのか。
 偉人は皮肉っぽく口を歪めて問うた。
 いつからこんなふうに冷ややかな眼差しが注がれるようになったのだろう。
 家庭教師をやっているときにはなかった。アメリカに発つ偉人を見送ったときにもなかった。そして、いつから、という言葉が出てしまうのは、今日に始まったことではないということ。その二つを考え合わせれば、留学を終えて帰国した直後に会ったとき、ということに限定されてしまう。
 何が偉人にあっただろう。
 考えてもいまは思いつかない。
 いまは偉人の質問にどう答えるかのほうが重要な気がした。
 幸せとか、あとからじゃないと、そのときにはきっとわからないよ。
 だれの受け売りだ。
 云い逃れようとしたわたしにつっこんだ偉人は、皮肉っぽさから一転して可笑しそうにした。そして、なぜか満足げだ。
 今度、ふたりで食べにいこう。
 え?
 就職祝いだ。
 どうする? と問うように偉人の首がかしぐ。
 ……うん。
 そうしたら何かがわかるような気がして、わたしがうなずくと偉人もうなずき返し、また電話する、と云い残して偉人は建物へと向かった。
 揺るがない足取りで遠ざかる背中から目が離せず、振り向かないで、と祈りながら見送った。
 偉人が建物のなかに消えたとき、わたしの奥底にはほっとしている自分と、さみしいと思う自分がせめぎ合った。

 北宮会からの帰り道、一つ離れた駅で、待ち合わせの約束をしていた多英と合流した。蝶子は遅刻するという。ほぼ毎度のことであり、わたしと多英はさきに食事を予約した場所に向かった。駅から歩いて五分、スープカレー専門の店だ。
 研修はどうだった?
 サラダとともに、ざっくり切った野菜盛りだくさんのスープカレーが配膳されると、多英は好奇心たっぷりな面持ちで問いかけた。
 幼稚園からエスカレータ式という三人が通った三南(みなみ)学院は、短期大学と四年制大学に分かれている。わたしは短大に進んだけれど、四年制に進んだ多英と蝶子は三回生になり、就職を真剣に考える時期だ。
 明日でもあさってでもなく、わざわざわたしの研修が終わる時間に合わせて今日会いたがるなんて、よほど不安にしているのか。
 わたしが不安になることはあたりまえでも、多英や蝶子がそうなるのは少し意外な気もする。けれど、ふたりがいつも自信たっぷりに見えるのはわたしの勝手な、そして失礼な思いこみだろう。
 いろいろ説明されたけど、まだピンときてない。見学ツアーでこども財団に行ったら、バタバタしてそうな感じじゃなかったし、やっていけそうかなっては思ってる。
 伝手があっていいよね、萌絵は。看護師の募集はけっこうあるけど、北宮グループの総務系はなかなか入れないらしいから。
 三人を姉妹に例えれば、多英は長女で、いつも見守るような様でいる。いまも、嫌味でも嫉妬でもなく、多英はよかったねといったふうに首をかしげてみせた。
 うん、ラッキーだって思ってる。でも、プレッシャーにもなりそう。失敗とかしたら、北宮のおばさんの顔を潰しそうだし。偉人くんの家庭教師の時間、無駄だったって思われないようにしないと。
 北宮さんとは会ったの?
 うん。今度、就職祝いしてくれるって。
 ふたりで?
 そうしたら不都合でもあるかのように多英は眉間にしわを寄せた。
 そうだけど……何?
 優先輩、萌絵が男の人とふたりきりで出かけること、どう思うかなって思って。
 優はそんな束縛しないよ。
 理解がある、とかそういう立派な意味ではなく、恋人関係という概念について優はドライに感じる。
 多英はあからさまにため息を漏らした。さながら、禁止事項を突破したすえ、それ見たことかという状況に陥った子供に当てつけるような様だ。
 優先輩がそう見えるとしたら、萌絵をだれかに盗られちゃうからって警告しておくべきかな。
 優と付き合ってることだって奇蹟っぽいのに、だれかがわたしを盗るわけないよ。
 北宮さんも?
 え……。
 返事に戸惑っている間にわたしの頭はフル回転する。
 北宮家の構成は、偉人から見て祖父母、両親、そして兄という六人家族だ。そのうち、盗るということに関して常識的な範囲で考えれば、兄弟しかいない。偉人の五つ年上の兄は医者だが、見かけたという程度でしか会ったことはなく、そこに恋愛感情があるとは到底思わない。となると、多英の云う“北宮さん”は自ずと限定される。
 偉人くん?
 わたしは心底から驚いて多英を見つめた。一瞬後――
 ないない! そんなことないよ!
 わたしは笑いこけそうな勢いで否定した。
 そうなのかなぁ。
 多英は頬杖をついて、思考を巧みに構築しているような気配でつぶやいた。
 多英?
 少なくとも、萌絵は北宮さんのこと好きだよね。
 え……わたしが優と付き合ってるってこと、多英は忘れてない?
 じゃあ、好きだった、かな。
 多英は引き下がらず、認めないと終わらないようなしつこさを見せる。
 しばらく黙りこみ、それからわたしはため息をついた。
 ……中学のときの話してる?
 違った?
 ……たぶん、違わない。
 小学生までは男の子を恋の対象として見ることはなかったけれど、中学も三年生になれば、いつ恋が始まってもおかしくないほど、男の子を男の子として意識することも多くなっていた。
 そんなときに家庭教師として現れた偉人は、客観的に容姿も育ちも恋する相手としてなんら条件が不足するものはなかった。あとは好みの問題になるが、遠目で見るしかない、まったく他人の関係ならまだしも、一対一という距離で偉人を好きにならないほうがどうかしている。それくらい、偉人はよく面倒を見てくれた。
 わたしが認めると――
 だよね。
 多英は笑い声を出さないまでも、くちびるに最大値の弧を描いてみせた。
 告白、いまでも間に合うんじゃない? 食事に誘ってくれるくらいだから。
 多英の発言は、その意味とは別のところでわたしには意外だった。
 自分を騙してると結局、破滅するよ。優先輩はわたしと蝶子でなぐさめるし。
 多英はわたしの驚きを勘違いして助言する。
 多英は……あのこと、乗り越えられたの?
 絶対に口にしちゃいけない。その呪文に従い、記憶の奥底にしまっていたことをわたしははじめて口にした。
 多英は普段と変わらず至ってクールに肩をすくめた。
 乗り越えてなくちゃ萌絵とこうして一緒にいないかもね。
 ……うん。
 ためらいがちに返事をすると、多英はテーブルに身を乗りだして眉をひそめる。そして、責めるように首をひねった。
 まさか、だから萌絵は北宮さんとのこと遠慮したんじゃないよね? 北宮さんはわたしを助けてくれたんだよ。感謝はしても嫌いだって気持ちはない。それくらいわかるでしょ?
 確かに、“あのこと”としか云えない出来事に立ち会ってしまったわたしと付き合えている多英が、その状況から助けた偉人を嫌う理由はない。
 多英は躰を起こして椅子の背にもたれると嘆息した。
 もしかしてって思わなくはなかったけど……云ってくれれば応援できたのに。
 云えなかったのは多英のせいじゃないよ。
 だったら……。
 多英は云いかけて口を噤んだ。直後。
 遅くなってごめーん。
 謝るわりに悪びれた様子はなく、あっけらかんと蝶子が合流した。
 で、どうだったの、研修?
 わたしは多英と顔を見合わせてため息をついた。
 さっき多英に話したから!
 多英は聞いててもわたしは聞いてない。
 蝶子が遅刻するからでしょ。
 髪がうまくまとまらなかったの。萌絵に負けたくないから。
 わたしは呆気にとられる。
 蝶子にわたしが勝てるわけないよ。
 そんなことない。
 蝶子は断固として自分の主張を云いきった。
 じゃ、萌絵、話して。秘密はナシよ。多英、多英が聞いてて萌絵が云い逃したことあったらちゃんと指摘してよね。
 何を根拠にわたしが蝶子に勝てると思っているのか見当もつけられないまま、わたしはまた同じことを喋らされた。
 ただ、多英が偉人と会ったのはほんの偶然で――いや、それよりは運命の悪戯といったほうが適当かもしれないが、蝶子は偉人の存在は知っていても会ったことはなく、偉人の話までは繰り返し訊かれずにすんだ。

 どうだった?
 とっくに日が暮れて家に帰るなり、母が問いかけた。
 わたしはため息混じりで笑う。
 多英に蝶子、次はお母さんで、今日そう訊かれるのは三度め。今日は説明だけだったし何も問題ないよ?
 お母さんが云ってるのは仕事じゃなくって、偉人くんのことよ。ちゃんと会えた?
 会えたよ。
 それだけ?
 それだけ、って? 今度、就職祝いで食事しようって云われたけど。
 そう答えると、母の顔はぱっと晴れたかと思うと、夏の嵐がやってくるときのように急激に曇った。
 お母さん、どうかしたの?
 偉人くんと萌絵がくっつけばいいと思ってたけど。
 そう云って肩をすくめた母は、わたしが口を挟む間もなく続けた。
 偉人くん、いくつか縁談話がきてるのね。でも好きな人がいるみたいで、連れてくるのにもう少し時間が欲しいって云ってるらしいの。萌絵と結婚てことになっても北宮家にとってはなんの得もないけどあわよくばって……。
 なんの実にもならない母の願望がその口から延々と綴られていくなか、わたしの頭にはどんな言葉も入ってこない。
 偉人には結婚を考えている人がいる。それを受けとめるのが精いっぱいだった。
 たった数時間まえ、偉人に関した多英の発言を笑い飛ばしたはずが、その裏で淡い期待が芽生えていた。ずっと抱えてきた気持ちで、そんな自分の心にかなわないと思い知らされてから気づくなんて皮肉だ。
 お母さん、お嬢さまみたいにしてる蝶子ならともかく、うちは共働きでわたしはごく普通だし、生活レベル合わせられないよ。北宮家の恩恵に与(あずか)ろうなんて期待は迷惑だから。
 母は玉の輿を狙っているわけでもなく、純粋に偉人のファンであることはわかっている。案の定、わたしの言葉に母は顔をしかめた。
 それに、わたしには優がいるんだから。
 決定打を放つと母はため息をついた。
 わかってるわよ。優くんを否定してるわけじゃないわ。偉人くんは親友の子だし、信用っていう面でちょっとひいきしてるだけ。
 優を信用してないの?
 信用、っていうより、……正直に云えば、あなたたち四人でいると、優くんはほんとに萌絵のことが好きなのか、首をひねりそうなときがあるわ。
 云いにくそうながら、母はわたしが懸念していることを口にした。
 首をひねるときがどんなときか、わかっている気がする。
 優はクールなだけ。ベタベタ束縛されるよりずっといいよ。
 萌絵、あなたも同じよ。
 え……何が?
 あなたも優くんに対してクールだってこと。
 じゃ、お似合いじゃない?
 即行で返すと、母は呆れたように首を振った。
 お風呂、さきに入るよ。
 二階へと階段をのぼっているうちに来客を知らせるドアチャイムが鳴ったが、母が対応するだろうと任せて部屋に向かった。
 机にバッグを置いて、わたしはため息を深くついた。
 しこりが痞えているようなもやもやした苛立ち、もしくは大事なものを失った寂然とした焦りを感じていた。
 大事なもの、それは偉人との思い出ではなく偉人自身だ。
 偉人がアメリカに行ってからずっと封じてきた気持ちが甦る。けれど。
 偉人には好きな人がいる。
 そう思った瞬間にもう何も考えられなくなる。
 机のまえに立ち尽くしていると、階段をのぼってくる足音が聞こえた。
 萌絵、優くんよ!
 下から母の声がした。
 優?
 予告もなく優が来るのはめずらしく、わたしは独り首をかしげて疑問にしながらドアに向かった。開けると同時に優が目のまえに現れる。
 どうしたの?
 サプライズ。たまにはいいだろ。
 甘めのマスクにおどけた表情が加わる。釣られるようにわたしは笑った。
 モテるくせに気取っていない優は好きだと思う。ただ、偉人に対する好きという気持ちとは種類が違っている。どちらが正しくてどちらが間違っているのか、わたしにはわからない。わかっているのは、偉人とはどうにもならないということだ。
 べつにいいよ。ごはん食べた? わたし、蝶子たちと食べてきたけど。
 ああ、聞いてる。おれも食べてきた。
 部屋に入った優はベッドに腰かけた。
 どうだった、今日?
 優を正面から見下ろしながら、わたしは首をすくめて笑った。
 そう云ったの、優で四人め!
 萌絵のことを気にしてるんなら気になるのはあたりまえだろ。
 気にしてる?
 揚げ足を取るように問いかけると、優はわたしの左の手首を取ってわずかに首を傾けた。
 結婚しよう。
 それはひどく唐突に聞こえた。
 ……わたしと?
 無自覚に訊ねたわたしを見上げて優は笑いだす。
 萌絵にじゃないとして、萌絵に云ってどうするんだ。
 わかってる。驚いてるの。
 だからサプライズだって。
 どうして今日なの? なんだか……もう働くんだって思って頭いっぱいだったからよく理解できてない感じ。
 どうして今日かっていうより、今日をプロポーズ記念日っていう特別な日にしたらいい話だと思うけどな。
 優は完璧な答えを返してきた。
 まだそういうこと思ってなかったから混乱してる。仕事始まるし……。
 なら、考えろよ。真面目に。
 優の声は少し不機嫌に聞こえた。そうなってしまったのはわたしが即答できなかったせいだろう。
 うん、考える。
 返事を聞くなり、優はつかんでいたわたしの手首を引っ張った。
 あっ。
 優のもう一方の手がわたしの腰に周ってぐいっと引き寄せる。よろけた躰を半回転させて、優はわたしをベッドに倒した。
 すぐ……んっ。
 呼びかけた声はキスに封じられた。乱暴ではなく、やわらかく密着するような触れ方だ。わたしのくちびるに吸いつき、そして舌がくちびるの間を滑って口を開かせる。その間に、優の手はスカートからブラウスを引っ張りだすと、裾から腹部に潜りこんで素肌に触れた。手が這いあがってくる。胸のふくらみに達する寸前でわたしは優の手をつかんでそれ以上の侵略をさえぎった。
 首を横に振るとキスから簡単に逃れられた。
 ここじゃだめ! お母さん、下にいるし。
 囁くように抗議をすると、優はため息をついてあっさり引き下がる。
 この部屋で抱かれたことはなく、優が引いてくれたことにほっとしながら、こういうところはやっぱりドライだと思う。違った捉え方をすれば、わたしの意思を尊重するというやさしさの表れでもあるけれど、どっちだろう。
 なら無理やり襲うまえに帰るけど、返事、早くしろよ。
 本当に特別なことを云われたのか、疑うほど呆気なく優は普通に帰っていった。
 わたしにしろ、母の云うとおりクールだ。当然あるだろう未来がただ目のまえにシフトされたような感覚で、どきどきとかわくわくした気持ちが薄れている。
 今日じゃなかったら、もっと違っていたかもしれない――と思ったところで愚かしい自分に気づく。
 その思考を振り払うようにベッドから起きあがると、まだ数えるほどしか着ていないリクルートスーツのジャケットを脱いだ。しわを伸ばしてハンガーにかけていると着信音が鳴りだす。
 なんとなく勘が働いた。
 インスピレーションは違(たが)わず、画面に写るのは“偉人くん”という文字だった。
 わたしのなかに投げやりな気持ちがはびこる。偉人と話せたらわかるような気がしていた“何か”はすでに無理やり母に自覚させられた。
 ここじゃだめ、と優を拒絶したことも、夢のなかであっても偉人に抱かれた場所に偉人じゃないだれかを招き入れたくなかったからだ。
 はい。
 萌絵ちゃん、食事の件だ。今度の――。
 偉人くん、わたし、優と結婚するの。優を怒らせたくないし、だから、食事のことはキャンセルしていい?
 耳の向こうからはうんともすんとも聞こえない。沈黙という、怒りとは紙一重の抗議を受けているように感じた。いや、偉人の立場を考えると、不愉快とは云えても怒りは不似合いだ。
 ごめんなさい。ありがとう。
 それが届いたのか否かのうちに通話は途切れていた。
 あのとき、振り向いてくれていたら。
 わたしは駆けだしていたかもしれない。

 わたしがずっと目を背けていた過去。それはわたしのずるさとの対面でしかない。
 優衣のこと、好き?
 その試しをわたしは失敗したすえ、優衣を人形にしてしまったのはわたしだ。
 やり直せたら。
 やり直したら優衣とは会えなくなるのに。

NEXTBACKDOOR