ラビュリントス

逆行
#5

#-009 悪魔のしるし

 優衣にはまだ云っていないけれど。
 優衣にはお兄ちゃんかお姉ちゃんがいた。
 でも、どっちなのかわかるまえにあの子はいなくなってしまった。

 どくん。
 何かがおりてくる。
 止めるすべもなく。
 魂が流れ堕ちた。
 復讐を抱く悪魔を産み堕としたかもしれない。
 滴る血を見ながら、そんな恐怖と似た感触を覚えた。
 わたしは懺悔した。
 ごめんなさい。
 産みたくなかったなんて嘘。
 欲しくなかったなんて嘘。
 まだ、って思っていただけなの。
 ごめんなさい。

 残念だったわね。
 そんな言葉で魂は葬られた。
 おなかのなか、きれいにしますね。
 わたしの躰。まるで悪魔の巣みたいに。悪魔が暴れないように眠らせられて。
 でも。
 悪魔に眠り薬は通用しなかった。
 わたしの躰には悪魔が巣くっていた。
 おなかの奥をつつかれる。
 痛い。
 助けて。
 意識の奥底でそう思うのに。
 声にできない。目も開けられない。躰も動かせない。
 苦しい、から……お願い…………助けて……。
 でも、そんな資格は、わたしには、ない。
 これは断罪。
 忘れるな。
 わたしの躰に悪魔のしるしが遺された。

 はっきり目が覚めると、わたしのなかからあの子の残骸と痛みが消えていた。
 そのとき、わたしのなかにあった感情は、悲しみよりも、後悔、だったかもしれない。

 病室に移されて、いつの間にかまたわたしは眠っていた。
 ふいに手を握られ、びくっとふるえながら反射的に手を引っこめた。
 驚かせて悪い。
 目を見開くと視界に優が入ってきた。
 萌絵、あんまり責めなくていいからな。流産は自然現象だって、さっき看護師さんから教えてもらった。だからさ。また……。
 優は半端なところで切って口を噤んだ。
 また。
 あんな、思いを、しろ、と。
 わたしの目に何を見たのか、優は目を逸らす。優はこめかみから梳(す)くように手を入れて自分の髪を握りしめると、やるせないように顔をうつむけた。
 優、明日には退院できるって。手続きとか精算とか訊いてきてくれる? あと飲み物もほしいの。コンビニのシェイクがいいな。
 いつものやつか?
 優はほっとした表情で訊ねた。
 うん。ストロベリー。
 わかった。あ、おまえのお母さんもあとから来るって云ってた。
 優はちょっと可笑しそうに受け合って病室を出ていった。
 独りになりたい。そう思って追い払ったのに、一分もしないうちに病室の戸が開いた。
 身内が入院しているわけでもない婦人科に気後れもせず入りこめるのは、オーナーという立場だからだろうか。偉人が入ってきた。
 たいへんだったな。
 わざわざ訪れたのは、オーナー陣として従業員への気遣い?
 それとも家庭教師の名残で心配してる?
 あの頃、偉人は何かに煽られたように心配性だった。
 いま、ベッドの傍に来てそびえるように立つ偉人は、わたしの気分とはかけ離れた、場違いな表情を覗かせる。
 泣けばいいのに。
 そう偉人は云った。
 嗤って、云った。


#-010 快楽の代償

 優衣が気吹(いぶ)いた日。
 あの日は特別だった。
 わたしはセックスが好きじゃないから。
 蝶子に云った、ドクターに相談しているというのは建て前で、流産して以来、わたしと優はセックスレスで妊娠するはずがない。
 あまり呑まないお酒がつかの間、気分を変えたのだろう、あの日だけで、わたしの躰はまた優を受けつけなくなっていた。
 正確にいえば、ずっと昔はセックス特有の快楽が好きだった。面と向かってそんなことを認めることはしないけれど不感症ではないし、最初の頃はともかく、セックスに慣れてくると優を拒む気持ちはなかった。
 優はだれが見ても恰好いい人だから、わたしみたいに付き合うのがはじめてではなく、それどころか女の子の扱いを心得ていたと思う。いろんな意味で。
 だから、なぜわたしが優と結婚まで漕ぎつけられたのか、蝶子でも多英でもなく、なぜわたしだったのか、いまだに理由はわかっていない。
 短大を卒業してまもなくプロポーズされたときは、もう? と、そんなふうに思った。うれしい気持ちがあったかどうか、いまや曖昧だ。
 ただ優はせっかちで、つまりそれだけ愛されているということで、それならきっと大丈夫だとふたりの未来に期待を抱いた。
 けれど、わたしと優の結婚はすれ違いの始まりだった気もする。
 結婚を、もう――とそう思った時点で、わたしは高校生の頃に好きだと感じていた気持ちがわからなくなっていたのかもしれない。

 あ……優、待って……っあ……っ。
 優のモノが最奥に触れて、痺れてしまうような快楽を生んだ。
 やめられないだろ。
 熱く息を漏らした優は腰を引いた。
 優の云うとおり、待ってという理性はほとんど快楽に侵されている。もっと。そう云うかわりにわたしの腰が無意識に浮いた。そうした直後に優がわたしの願いを満たす。そして。
 あっ。
 おなかの奥から全身へと痙攣が波及していった。跳ねる腰をつかみ、優は律動を加速する。
 快楽が極まったことで今度は理性が快楽の領域を取り返していく。
 優、待って。
 わたしの小さな抗議は無視された。
 優の身ぶるいと一緒に躰のなかが温かく濡れそぼつ。
 優が離れてしまうと、快楽から一気に覚めて不安と後悔に取ってかわった。
 優、避妊してって――。
 結婚してるんだし、何が問題なんだ。
 優は理解しかねるといった声だ。
 わたしだって将来はって思ってる。そういうことじゃなくて、わたし、働き始めたばかりだし、だからもう少し待ってほしいの。
 やめろって云われたら、うちで働けばいい。というより、従業員登録だけやっといて、子育てに専念ってことだってできる。気まぐれでつくったのがヒットしてるからさ、もう一人社員が増えたからってどうってことはない。給料は出せる。
 だから、そういう問題じゃないの。
 蝶子たちは優のことをやさしいと云う。
 どこかに行きたいって云えば連れていってくれるし、家事だって手伝ってくれる。
 でも、本当にやさしいと云えるのは、人の気持ちをわかろうとする気持ちのことなんだよ。

 妊娠がわかったとき、素直に喜べなかった。優を責める気持ちしかなかった。
 だから、あの子を失った。
 そして、偉人は嗤った。
 まるで、快楽に負けたわたしを責めるように。

 あの子、と、涙――その二つと一緒に、もう一つ、わたしから何かがなくなった。
 そのときは気づかなかった。
 優衣がそれを取り戻してくれた。
 そう思っていたのに。
 優衣、は、あの子、が、連れていった、のだ。

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