ラビュリントス
逆行
#4
#-008 受精
優衣、優衣が生まれた日――おなかのなかで息づいた日をわたしは知っている。
間違いなく、優も。
その日のことを、優は酔っぱらっていてよく憶えていないくせに、発情してたな、と、にやにやした顔で何度かわたしをからかった。
お互いさまだから。
そう云って、わたしはその話題を退けていた。
うれしくて、なぜかさみしくて、そして、もうそれだけでいいと思うような熱にさいなまれた。そんな重篤な日としてあの日はわたしの躰に染みついている。
優との間にはじめて覚えた、心のなかも躰も満ち足りた感覚だった。
早すぎた結婚。
自分がうなずいたくせにそう思ってしまう結婚生活のなかで、やり直せるかもしれない、そう希望を持った時間だった。
いつからだろう、気づいたときはわたしたち三人の間に優がいても違和感がなくなっていた。優の目当ては蝶子だろうと思いこんでいたから、高校三年生になったばかりのときに、おれもう二十歳になるし、という訳のわからない理屈をつけて付き合ってほしいと云われたときは心底から驚いた。
そうして、三人は高校まで同じ学校に通ったすえ、蝶子と多英が四年大学へと通っている間に、わたしだけ短大に進んで卒業した。それから北宮こども財団に就職したその年――二十一歳にもならないうちに優と結婚したのだ。
北宮こども財団というのは、北宮病院を筆頭とした医療法人・北宮会によって設立された公益財団法人だ。特に入院する子供たちのための模擬学校や読み聞かせなどの企画を主体として、子供育成の事業を運営している。安定した就職ができたのはひとえに“母のひと声”だ。
偉人とわたしが再会したのは、入社を直前に控えた研修の日だった。
わたしは財団のしがない事務員だけれど、ボランティアの都合がつかないときは駆りだされることもある。
そうして何度めか、就職して三カ月たった頃に、蝶子がボランティアをやってみたいと云いだして連れていったことがあった。そのときが蝶子と偉人の最初の出会いだ。
蝶子の父親は有名且つ優良大企業の重役で、そのせいか母親が異様なほどの安定志向を持つ。蝶子は大学を卒業する頃からお見合いを押しつけられると不満にしていた。結局、家事手伝いにおさまって就職はせず、母親の云いなりでお見合いを繰り返したすえ、大学卒業から一年後、お見合いパーティで偶然、偉人と遭遇したのだ。
そこで意気投合したふたりがすぐに結婚を決めたのは驚きだった。
一方で多英は、ちょうど財団で定年退職する人がいるところに滑りこんできた。
高校を卒業するときにいったん三人という纏まりは途切れたけれど、北宮会を軸にわたしたちは再生した気がして運命だと大いに盛りあがったのだ。隣同士で家を建てたのは、そういう乗りがあったかもしれない。
蝶子たちの結婚を一週間後に控え、わたしたちがひと足さきに引っ越した九月、新築祝いでみんながうちに集まった。
お開きになったのは何時だったのか、だれもが酔っぱらった。
そんな席で。
わたし、もしかしたら妊娠しちゃったかも。
蝶子がいきなり耳打ちした。
え?
ただの勘だけどそんな気がするの。萌絵もいつまでも怖がらないでそろそろいいんじゃない? 一緒に子育てできたら最高なんだけど。
そろそろ。その言葉はわたしの傷口を開く。
そうだね。欲しいんだけど……いまドクターに相談してる。
そう。よかった。
蝶子は無邪気に喜ぶ。
結婚は来週だから、だれも生まれる時期が早いなどと詮索する人はいないだろうけれど、もとい、今時、できちゃった婚は恥ずかしいこともない。
そんなことはどうでもよく、ただわたしはうっ蒼とした焦りのような感覚に晒される。それを払うようにお酒を呑んだ。もともとお酒に弱いから浴びるようには呑めない。まだみんながしらふといっていい頃から躰が火照り始めていたが、一気に飲んだところですぐにダウンした。
これ以上呑んだら吐きそう。
ちょっと休んできたらいい。
萌絵、そうしろ。気分がよくなったらまたおりてくればいい。
偉人に継いで、隣に座った優がなだめるように手のひらでぽんぽんと背中を叩く。
また、ってもう十一時だけど。
今日は飲み明かす。明日は日曜だしな。
そうだな。だれがいちばんの酒豪か試すのもいい。萌絵ちゃんが、友だちの縁切るって思うほどにはめちゃくちゃやらないよ。そこはおれが責任を持つ。
偉人のからかいを含んだ云い方は断りにくくさせる。
いいっすねぇ。
二十歳になったばかりの八(えいと)がすぐさま軽く乗って、
わたしも参加!
その相棒である多英も調子よく手を上げる。
八は半年まえ、多英が拾ってきた男の子だ。拾ってきたというと猫みたいだけれど、まさにそんな感じで八は公園のベンチに転がっていたという。
帰る家がないみたいだし。
八いわく家族と不和のようで、多英は八を養いだした。
頭が切れる多英は大学時代から株取引をやっていて、いまはどれくらいの利益を得ているのか、一端(いっぱし)のマンションに住んで生活には少しも困っていないふうだ。一時期はニートだった八も、いまはホストという夜の仕事をしだした。そんな仕事ができるくらい、見た目はきれいな子だ。
わたしも付き合うわよ。萌絵、適当にやるからちょっと眠ってきたら?
蝶子がそう締め括り、わたしは追いだされるようにして二階の寝室に行った。
新築の香りが充満した部屋には大きめのベッドがある。
加来田の実家は長男夫婦が後継していて、わたしたちは独立して暮らしている。結婚以来住んできたアパートは狭く、ベッドが置けなかったぶんこだわった。アンティーク調のベッドで、アイアンでデザインされた蝶が頭上と足もとを優雅に飾る。洋風の家に合っていて、輸入物で高価だったけれどささやかな贅沢だ。
わたしは不快な酔いも追い払えるほど幸せな気分になって寝転がった。
ふとベッドがたわむ。躰が不自然に揺れ、わたしは目が覚めたことで自分が眠っていたと気づいた。
けれど、目覚めたのに目が機能しない。きつくはないけれどやわらかい布みたいなものが目を覆っていた。
それに……。
訳のわからない状態にあってわたしの頭は混乱する。
優。
そう呼んだ声は自分でも怯(おび)えて聞こえた。
しっ。
なだめるような息がくちびるにかかる。優は伸しかかるようにして真上にいるみたいだ。
様子、見にきたけど……声はだめだ。
優は笑みを滲ませ、自らも声にはせずに息が喋るように囁いた。ワインの薫りだろうか、つい誘われるような香料を糾(あざな)いながら、耳もとにかかる息がわたしを躰の芯からふるわせる。
同時に、下には蝶子たちがいること、全裸に剥(む)かれていてもわからないほど自分が熟睡していたことを知った。
みんな泥酔してる。けど、念のためだ、声は閉じてろ。
でも優――。
眠ってる姿を見たら襲いたくなった。ただ感じればいい。ただ感じてほしいから自由を奪ってる。
そう云ってわたしのくちびるは熱い息に閉ざされた。
息苦しくても優を押し返すことはできない。そうするのに有効な手は左右それぞれに括られて動かせなかった。躰をよじりたくても、すでにはだけられていたふくらみがすくうように両手でつかまれ、逃れるどころか、触れられた感覚に過敏なほど反応して躰がベッドに沈む。
優の手のひらが、指先が、胸の上をさまよいだすと呼吸が続かなくなり、優の口のなかに呻き声を吐きだした。
ようやく、けれど離れがたいようにして、ゆっくり吸着したあとくちびるが離れていく。喘(あえ)いだ反動でわたしの口から悲鳴が漏れた。
しっ。
優が再び忠告した。その優自身が、わたしの快楽を煽(あお)りたてるように胸の先端を口に含み弄(もてあそ)ぶ。
片方の手は開いた脚の間に触れてきた。引きつる感じはなくて、なめらかに指先がそこを這った。
結んだはずのくちびるの間から呼吸が音になって漏れだす。
脚は縛られていなくても、優の躰が間に入っていて膝を折ることしかかなわない。そうしたら、逆に躰を開くことになってわたしは自分で自分を追いつめてしまった。
なぜ。
そんな疑問はつかの間、指が体内に潜り、無防備な突起に別の指先が擦りつけられる――たったそれだけで、わたしは一瞬の静けさのあと躰をひどくふるわせた。出しちゃいけない声がのどの奥で詰まる。
痙攣に襲われるなか、優の舌が躰を這う。額、頬、鼻、くちびる、顎、首筋、そしてふくらみを乗り越えるうちに全身が神経を剥きだしにされたようで、どこを這ってもぞくぞくと躰の芯を揺さぶられた。
顔から太股まで、余すところなくキスが這ったあと、脚の間に息が触れたと思った直後に温かさが交わった。
ずるりとした摩擦と吸盤みたいなキスに侵略され、わたしはまた躰を跳ねるようにして快楽の底でふるえた。
躰の中心から顔を離した優が、ひくひくするわたしの上に伸しかかってくるような気配がする。と思うと、含み笑いが耳もとに届いた。
おれはどうだ?
どんな答えが欲しいのか曖昧な問いかけに、考えられる力はなく、わたしは首を横に振る。
答えなくていい。躰が教えてくれる。
そう云った声は可笑しそうでからかっている。けれど。
萌絵。
そう名を呼んだ声はひたすらに聞こえた。
な……に……。
まだ呼吸は乱れていて、わたしは途切れ途切れで訊き返す。
愛してる。
そんなことを云われたのは何年ぶりだろう。
わたし――。
――も愛してる。そう続けようとした言葉はキスにさえぎられた。
そして、躰の中心が深く貫かれる。
ふたりの口から呻き声が発せられた。
きつく感じたのはしばらくセックスと疎遠になっていたせいだろう。思わず腰を引くと、優の手がウエストを捕らえて逆に引き寄せた。
そうしたまましばらく動かないでいた優は、わたしの躰から緊張が抜けると、おなかをぺたりとくっつけてきた。
両脇に腕をついたようで、互いの顔が近づき呼吸が混じり合う。
はじめてのときみたいにきつい。けど、大丈夫だな。
……うん。わたしのわがままだけど……赤ちゃん、欲しいの。
思いきって云ってみた。もしかしたら、快楽のためじゃない、そんな云い訳だったかもしれない。
額に触れてきた手が頭の天辺まで撫でるようにおりた。
おれもだ。
顔が近いせいだろうけれど、その囁き声は切実で熱く語りかけるようにわたしへと届いてきた。
そうして、優は動きだす。性急でも緩慢でもなく、ただ、求めるように刻みつけるように深く律動が繰り返される。
呼吸音と躰がぶつかり合う摩擦音、そしてふたりの中心が絡み合う粘着音のなか、わたしは制御のきかない快楽に満たされていった。
もういい?
んっ!
唸るように主張すると、息切れした含み笑いが降ってくる。
ちゃんと、云えよ。ただし、静かに。
もっと!
萌絵は嫌らしいな。腰振ってる。
知ら、ない!
しっ。わかった。
なだめる言葉は呻くようで、優も快楽に負けているのだ。わたしは安堵して感覚を優に預けた。
優の躰はこんなに分厚くて熱を含んでいただろうか。きつく腕に抱きしめられて、おなかの奥にくすぐったさを感じたのは二回。もはや快楽から逃げだすことはかなわないというのに、優はそれを植えつけるかのようにしつこい。声が出せなくてよけいに快楽を体内に引きこもらせている。わたしは追いつめられたすえ息を詰まらせた。
すべてがどうでもよくて、ただ腕のなかに閉じこめられていたいという欲求だけが募る。
愛してる。
その言葉に看取られるようにしてわたしは深い底に堕ちていった。
意識が覚醒したときは翌日、昼間近になっていた。
下着だけは身に着けていたし、目をふさいでいたものも手を縛っていたものも見当たらない。優も隣にはいなくて、もしかしたらわたしは抱かれたことを夢かと思った。
けれど、少し身動きしただけで体内から夢じゃない証拠が溢れだした。ベッドをおりると、明らかにオスの証(あか)しが脚の内側を伝っていく。
優はあのあとまたリビングに戻ったのだろう。下にいけば、優はソファの上に寝っ転がり、ほかのだれの姿も見えなかった。みんな酔っぱらったまま帰ったのだろうか。
優、風邪ひくよ。
腕をつつくと、優はぼんやりと目を開けた。何回か瞬きしたあと、ちょっと周りを見まわして現状に返ったようだ。優がまじまじとわたしを見つめた。
なんか……。
中途半端に切って優がにやりとした様を見せると、わたしは身構えた。
……何?
優が口を開こうとしたとたん。
云わなくていいから。
わたしは自分から訊ねたくせに優の発言を封じた。
意識を手放すほどのセックスはかつてなかった。
しつこくても昨日のセックスは嫌じゃなかったし、それよりもずっと愛してほしいと思った。
ただ快楽を求めるのではなく、愛させてほしい。
わたしと優はどこかずれていたから。
愛してる――その言葉を忘れることのないように。
ずっと憶えていたい。
そんなふうに思った日。
優衣は生まれたんだよ。