ラビュリントス

逆行
#2

#−005 羽

 いつもと変わらない一日の始まり。
 なんの変哲もない――違う、たまたま土曜日なのに仕事が入って、いつもとは違った。
 優は実家が経営するカクタ工業で働いていて、普通に土曜日は仕事だ。
 幼稚園は休みで、いつも急なときはそうするように、優衣は蝶子に預けることにした。

 蝶子はビジュアドールのように可愛くて――というのは小さい頃の賛辞だ。二十九歳という大人になったいまは美人と称えるほうが合っている。だれもがそう認め、華やかな雰囲気を持ちながら気も利いている蝶子。
 顔立ちは際立った美の要素があるわけではないけれど――もしかしたらそれは、蝶子を見慣れているから普通という部類に仕分けてしまうのかもしれないけれど――頭が切れて冷静なゆえにクールビューティと称され、凛としたきれいさを印象づける多英。
 そして、可もなく不可もない容姿と頭脳だけれど、それでいいと思っているわたし。人がいいね、と云われるけれど、あいにくと褒められている感じはしない。つまり、取り柄もこれといって浮かばない平均層。

 三人が仲良くなったきっかけはなんだったろう。これまで、些細な云い合いはあっても他愛ないことで、仲が危うくなるまでのけんかはなかった。
 同じことをするのが好きで、その究極は、三人ともが同い年の娘を持つということ。
 子供たちの名前までもが似通っている。
 わたしの優衣、蝶子の柚似(ゆに)、多英の結乃(ゆの)。
 今日の仕事は現地――北宮総合病院に赴(おもむ)くことになっていて、多英とは一緒に行くことにした。多英もまたいつものことで、職業がホストという同棲相手の八を伴って、結乃を蝶子に預けた。
 三家族はそれで一つの家族のような付き合いをしている。

 久しぶりのボランティアだろうし、気張りすぎないように。子供たちが疲れるから。
 北宮家を訪ねると、偉人はからかうように云った。
 三十四歳といういちばん年上のせいか、偉人はいつもわたしたちを子供扱いした云い方をする。
 大丈夫。いつまでも新人じゃないんだから。
 よっぽど萌絵の奮闘ぶりが印象に残ってるのね。
 わたしのささやかな抗議に重ねて多英がからかう。
 わたしはかまわないことにして、玄関先から家のなかに向かって、蝶子、と呼びかけた。
 ごめん、ちょっと待って。
 そう云いながらもすぐ蝶子は出てきた。彼女が手を繋いで連れてきた柚似は起きたばかりのようで、パジャマ姿のまま目を擦りながらとぼとぼとやってきた。
 柚似の姿が見えると同時に、遠慮もなく優衣と結乃ははしゃいで北宮家に上がりこんだ。
 優衣、お邪魔します、は!?
 えっと、お邪魔します。
 優衣と結乃は柚似に向かって云い、大人たちは吹くように笑う。
 じゃ、おれも。
 八、蝶子任せにしないで結乃の面倒ちゃんと見てよね。
 わかってるって。いつまでも二十歳だって思うなよ。
 まもなく二十五歳になろうかという八は顔をしかめ、ふざけるなといったしぐさで多英を指差した。
 いわゆる同棲関係ではなく、まるで姉弟みたいなふたりだ。

 蝶子、いつもごめんね。
 わたしはいつでも大歓迎。いってらっしゃい。優衣、結乃、ママに“いってらっしゃい”は?
 はーい。
 返事と一緒にリビングからぱたぱたと三人ともが戻ってきた。
 優衣がわたしのもとへ、結乃が多英のもとに駆けてくると、柚似は偉人に手を伸ばした。柚似も同じことをしたいらしい。それが蝶子ではなく偉人であるということが、パパっ子であることを示す。
 優が優衣への愛情に欠けているということはないけれど、偉人の柚似に対する可愛がり方は比べられないくらい、種類が違うように思う。そのことはだれもが承知するところで、柚似が“パパ大好き”なのはそのせいだろう。
 そんなことを思いながら、わたしは腰を落とした。
 優衣がわたしに纏わりつく。
 ママ、いってらっしゃい。気をつけてね。
 流暢(りゅうちょう)になったお喋りはコマドリが鳴くようで――わたしは優衣の羽にくるまれた。
 いってきます。いい子にしててね。
 うん!
 元気いっぱいにうなずいて、優衣はまた家の奥へと駆けていった。
 飛び立つように軽やかに。
 追った背中に本当に羽が見えた気がした。

 それは予感?
 繰り返される日常。
 今日、違ったことはわたしが仕事だっていうだけ。
 それなら、わたしの、せい。
 優衣――。
 どこまで時間を戻ったら、“今日”がなくなるのだろう。


#-006 違和

 この春、幼稚園に行き始めたばかりの優衣。
 やっと慣れてきたのに。
 でも優衣。
 優衣はお寺の保育園に行きたがっていたよね。
 それまでずっと通っていたし、大好きな望実(のぞみ)先生がいたし、何よりお寺の本堂の金ぴかな飾りが好きで、それを見る優衣の目もきらきらしていた。
 もし、いまも優衣お気に入りのお寺の保育園に通っていたら。
 いまごろは保育園でお昼寝していた。
 起きて。優衣、家に帰ろうね。

 もうすぐ運動会という、気温が春とは真逆の過程をたどり始めた九月の終わり、土曜日。
 北宮家のリビングでの昼下がりは、毎週タイマーをかけて決まった時間に再生されているような同じ光景が繰り返される。

 ねぇ、どこの幼稚園にする?
 出し抜けに蝶子が口にした。同時に三種類の願書がテーブルに並ぶ。
 え?
 わたしは隣に座った多英と目を合わせた。
 わたしたち、働いてるから幼稚園は無理だよ。いまのまま保育園にするよ。
 封筒に記された幼稚園の名にも目を留めず、わたしが突っぱねると奇妙な沈黙が漂った。
 蝶子の眉間にしわが寄り、きれいな顔が思いつめたように歪んだ。
 わたしは働いてないから柚似は保育園に行けないの。
 柚似は幼稚園でいいじゃない。そう云うつもりが、わたしが口を開くや否や、多英がさきに喋りだした。
 わたしは幼稚園でもいいわよ。行事ごともお迎えも八に任せられるし、どうしてもだめなときに蝶子が協力してくれれば。
 多英の言葉に蝶子の表情がぱっと晴れる。
 もちろんよ。何かあったらわたしがちゃんと預かる。それにね、預かり保育してくれるところもあるの。ここ、清水(きよみず)幼稚園。
 いいわね。夏休みも預かってくれるんだ。
 でもね……。
 母校の三南(みなみ)も捨てがたい、でしょ? 悩むね。
 蝶子をわざわざさえぎり、多英は早くも乗り気だ。

 加来田家よりもずっと広い敷地を持つ北宮家は、リビングに面した中庭にちょっとした子供の遊び場がある。ブランコやふた付きのお砂場、そしてすべり台。
 はしゃぐ子供たちを眺めながら違和を感じる。
 わたしの感覚がおかしいのだろうか。
 優衣の楽しそうな顔が眩(まぶ)しい。
 わたしは外に向けていた目を蝶子に戻した。
 でも、優衣はいまの保育園が気に入ってるし、お友だちと別れるのはかわいそう――。
 柚似も結乃もいるんだから問題ないはずよ。
 わたしの意見はぴしゃりとした声にはね除けられた。
 ……優に相談してみないと。
 だったらオッケーってことね。
 蝶子は決めつけた。
 優先輩、やさしいし。

 高校のとき、天文部に入って部長だった優と出会った。それ以来、いまだに蝶子も多英も優のことを“優先輩”と云う。
 優は蝶子の云うとおりやさしい。だからといって人に左右されるような優柔不断さはない。
 優衣のことを考えるのなら、むしろわたしの意見に賛成してくれると思うのに、蝶子はなぜ自信ありそうに断定するのだろう。
 子供たち見てくる。
 リビングから子供たちの様子は丸見えだけれど、わたしはそう云って外に出た。

 丸太の形をした砂場のなかで山をつくり、優衣はせっせとトンネルを掘っている。
 近づいていくと足音に気づいたようで――
 ママ!
 仰向いた顔にひまわりを思わせるような満面の笑みが浮かぶ。わたしはしゃがんで、優衣の位置まで顔をおろした。
 優衣、保育園、好き?
 うん!
 はりきって答えた優衣を見てわたしはため息をつく。

 同じことをするのが好きだな。
 しばらくすると偉人の声がした。
 リビングで話を聞いていた偉人は、呆れたのを通りこしておもしろがっている。
 わたしは立ちあがって肩をすくめた。
 好きっていうより……。
 そこで途切れさせると、偉人は首をひねる。
 同じでなければならない?
 偉人はわたしのあとをそう引き継いだ。
 漠然と感じてきた違和。それをこのとき、偉人によって明確にされた。
 蝶子はわがままだからな。……萌絵ちゃん。
 ため息混じりで云ったあと、わたしを呼ぶ声は不自然なほど真剣に聞こえた。
 首をかしげると、ふと偉人の手が伸びてきた。が、何をするつもりだったのか、途中で手は止まり、何事もなさずにおろした。そして、呼びかけられたまま中途半端に放られてしまう。再び私は首をかしげた。
 わがままって知ってて蝶子と結婚したんでしょ?
 ああ。結婚は後悔していない。
 じゃあ何を後悔しているの? そう疑問に思わせる云いぶりだった。
 そのときリビングの戸が開く。
 そっちに背を向けた偉人よりわたしのほうが早く蝶子と目が合った。
 何を考えているかわからない眼差し。蝶子はたまにそんな気配を見せる。
 偉人が振り向くと同時に、蝶子の視線はわたしから逸れた。
 偉人、ケーキが食べたいんだけど。
 オーケー、買ってこよう。
 偉人の口から、困ったもんだといわんばかりの苦笑が漏れる。そうしながらも偉人は即座に蝶子に応じるのだ。
 ありがと、とそう声をかけて蝶子はリビングに引っこんだ。

 憶えていたほうがいい。
 偉人は云い残した。
 なんのことかさっぱりわからない。
 訊く暇もなく偉人は家のなかに入ってしまった。
 それは偉人の警告だったんだろうか。それとも予感?

 でも、わたしはすぐ忘れた。
 優衣も、最初は駄々をこねていたけれど、柚似と結乃と一緒に通ううちにあたりまえみたいに幼稚園生活を楽しんでいた。

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