ラビュリントス

逆行
#1

#000 アイ

喪失。
それはすべてを一瞬にして記憶に変えてしまうカナシミ。
ママ。
その、時、に――聞いてあげられなかった空耳が舞う。
もしかしたら、それは嗚咽(おえつ)かもしれない。
だれの?
そんなことはどうでもいい。
羽でくるむように――またママを抱きしめて。


#-001 謝罪

――加来田(かくた)さん、すみませんでした。
 北宮偉人(きたみやたけひと)はそびえるような躰を折って、わたしのまえで深々と頭を下げた。
 正確には、わたしとわたしの夫、ふたりに向けられたもの。
 なぜ偉人くんが謝るの。
 虚ろなつぶやき。
 偉人が顔を上げ、わたしに目を向けたことで、それが自分の発した言葉だと知る。
 萌絵(もえ)ちゃん。
 その呼びかけは嗚咽に掻き消される。
 隣を見やると、優(すぐる)は片手で顔を覆い、肩をふるわせている。
 なぜ優は泣くの。
 萌絵ちゃん。
 その声がわたしを呼び戻す。
 やさしい声とは裏腹に、瞳にはそこはかとなく冷たさがはびこっている。
 この人は心底から謝罪しているわけじゃない。
 謝罪……――優衣(ゆい)はどこ?


#-002 赤

 優衣がいない。
 どこ?
 わたしはここで何をしているの。

 梅雨の始まりは暑くもなく快適でもなく、じめじめとした空気が不気味に躰を纏(まと)う。
 ひどい雨の前触れだろうか。
 行きたくない。
 歩きたくない。
 そんなわたしを優は無理やりここに引きずってきたのだ。

 どこに行くの!?
 わたしは優の手を振り払う。
 優衣の傍にいたくはないのか。
 そんな叱咤(しった)が飛んでくる。
 そうして――
 傍にいてやろう。
 別人のようにやさしくなった声がわたしの肩を抱く。
 だれの、傍に、いろ、と云うの?

 人が暮らすにはあまりにも感情のない壁と床、そして低い天井に囲まれた空洞は、まるでロボットの修理に向かうかのようにカチャカチャと金属音を響かせている。
 尻込みするわたしたちのまえで重いドアが開き、修理を終えたワゴンが出てくる。
 どうぞ。
 ひょっとしたら、そう云った白ずくめの人もワゴンを押す人も、精巧にできたロボットなのかもしれない。
 三人……違う――わたしと優と、妙に優衣に似た人形が、冷たい箱に閉じこめられた。
 こんなもの、優は注文していたの?
 優衣はもうすぐ四歳の誕生日。だから、プレゼントに優衣そっくりの人形を?
 いや、ロボットだ。
 動かないロボットは人形にすぎない。
 彼らはロボット作りに失敗したのだ。

 優の口から溢れだしたすすり泣きが、からからに乾いた冷たさのなかに不快な湿気を生みだす。
 何が悲しいの?
 ひょっとして優もロボット作りに加わってた?
 ああ、そうだね。優は機械エンジニアだった。でも。
 ロボットの失敗作なんてどうだっていい。
 ねぇ。優衣を迎えにいかなくちゃ。さみしがってる。
 優衣はここに眠ってるだろう。
 云い聞かせるような声は平然と嘘を吐く。
 優衣は眠ってるときも笑ってるんだよ。それは人形じゃない? 優、どうかしてる。
 萌絵……。
 優は咽(むせ)び、だれに見せるためか芝居じみてよろけると、狭い部屋の片隅に並べられた椅子に座った。
 はい、カット! ワンシーンが終わった合図であるかのような、そんなタイミングでドアが開く。
 真っ先に見えたのは白いシャツに染みついた赤。
 ドアが閉まると、耳障りな金属音にびくりとしてわたしは目を上げた。
 偉人の瞳はいつも何かを訴えるように向く。それはこの人が大人になって身につけた癖だろうか。十四年まえ、わたしが中学生だった頃にはなかった眼差しだ。
 わたしはいつも目を逸らすのに思いきりを必要とする。
 いまも偉人が優に目を転じるまでどうにもできなかった。
 滑稽なことに、それから偉人は人形に向かい、手を合わせた。
 ゆっくりゆっくりと一礼をして躰を起こすと、偉人は拳を握った。
 人形……ではないの?
 またわたしを向いた偉人の瞳と、胸についた赤いしるしがそう教えた。


#-003 嘘

 赤いしるし。
 それがどこで刻印されたのかわたしの記憶は無自覚にその瞬間を探し当てる。

 萌絵さん!
 不吉な第一声。
 わたしを呼ぶ声は――わたしの名を叫ぶ声は、壁に阻(はば)まれたようにぼやけて聞こえた。
 気づいたときは駆けだし、気づいたときは結末を見ていた。

 優衣! 優衣っ。
 張りあげた声は、閉じこめられた箱のなかから聞こえるようで、膜に覆われてわたし自身の耳に届く。
 駆け寄り、膝が傷つくのもかまわず、横たわった優衣の傍にひざまずく。
 横向きにねじれた、小さな躰を仰向けた。
 ドアの開く音がやけに遠くに聞こえた。
 どうした!
 偉人さん!
 わたしの名に続いて偉人を呼んだのが、持田八(もちだえいと)だとようやく判断がついた。
 蝶子(ちょうこ)の泣きわめく声。
 うるさすぎて息が聞こえない。
 黙ってよ――わたしはそんな抗議もできないで、小さな額を流れる、黒とまがうほどの赤い血を目に焼きつける。
 くるんだ頬の熱が伝わってこない。それほどに熱いのか、冷たいのか――わたしの手は?
 八、救急車だ!
 蝶子、泣いてる場合じゃない。すぐうちの病院に電話しろ。早く! 警察もだ。
 偉人の声がだんだんと近づいてくる。
 そう感じていると、わたしの手は優衣から引き離された。
 偉人は優衣のくちびるに耳を落とした。そうしながら大きな手のひらは優衣の胸に触れる。
 優衣――舌が張りついて呼んでやることもできない。
 そして、わたしの視界のなか、優衣の胸の上で偉人の手は力をなくした。
 萌絵ちゃん。
 なだめるような声。
 わたしが反応できずにいると、偉人は優衣の上半身を抱き起こした。
 偉人はそっとその頭を抱く。そして、うなだれた。まるで懺悔(ざんげ)のように。
 萌絵ちゃん、抱いてやって。
 その意味を――認められない。
 違う。
 わたしはつぶやいた。
 大丈夫。
 わたしの腕を取り、優衣に似た人形を抱かせながら、赤を胸に張りつけた偉人は嘘を吐いた。


#-004 逃げる魂

 偉人は嘘を吐いた。
 そう思った時点でわたしは認めている。
 まだ温かかった躰を憶えているから。
 こんなに冷たい人形じゃなかったから。
 戻して。時間を。

 仕事から家に帰りついて、車を車庫に入れた。
 きっとその瞬間までは、優衣は笑っていた。

 エンジンを切るのと入れ替わりに、耳をつんざく、タイヤがすりきれそうな音がした。
 萌絵、ありがと。
 同じ職場に勤める、幼稚園来の友人、向塚多英(こうつかたえ)の言葉が掻き消える。肩をすぼめ、顔を見合わせながら、多英が助手席のドアを開けた。
 どういたしまして――いつもの言葉を無意識に返しながら、けれどその言葉は最後まで声にならず。
 タイミングを計ったかのように薄気味悪い金切り声が車のなかにまで入ってきた。
 血の気が引くような思いがしたのは、わたしの直感だったのだろうか。
 普段に出ることのない金切り声は、幼稚園のときからという長年の付き合いだからこそなのか、わたしは聞いたと同時に、北宮蝶子のものと確信していた。
 壁につけた棚に運転席のドアがぶつかるのもかまわず、わたしは多英を差し置き、すぐ隣の北宮家に駆けていった。
 宅地二軒分を買いとって建てられた北宮家のガレージハウスは、この分譲住宅地のなかで羨望の的だ。
 最初は憧れを抱いたけれど、隣同士、行き来も頻繁(ひんぱん)にするわたしにとって、いまでは生活の一部のような場所になり、そんな憧憬はとっくに忘れた。

 その見慣れた場所に踏みこんだ――とたん。
 けっして信じたくない光景がわたしの目に飛びこむ。
 止まった車。そのまえには――。
 わたしは再び直感する。
 小さな躰が魂を手放そうとしていた。
 無造作に伸びた手は、逃げる魂を追いかけようとしているのかもしれない。
 わたしの足は地に張りついて気道はふさがる。

 優衣、何がいつもと違ったの、……かな?

NEXTDOOR