NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第5章 カリギュラの枷鎖(かさ)
5.一つしかない選択肢

 仕事を終えてビルを出ると、かまえる間もなく不快な熱気につつまれる。仕事中は一歩も外に出ることなく、窓もないインドアですごすから日中がどんな天気なのか気にすることもないが、七月も終わりかけ、すっかり季節が夏になると太陽がギラギラしていたのか否かくらいは見当がつく。湿気をあまり感じないぶん、まだ耐えやすいほうだろう。
 外灯すらもうっとうしいほど熱を発散して見えるなか、朱実は駅へと向かった。急がずとも、少し歩いただけで汗ばんでくる。

「朱実さん」
 駅はすぐそこという場所でふと名を呼ばれた。
 朱実は足を止め、声のしたほうに目を向けた。ちょっとさきの、タクシー乗り場がちょうど途切れた歩道の脇に、ピンクっぽい色の車が止まっている。
 窓を下げて車から顔を出しているのは静華だった。
 静華とは、思いだしたくもない日以来、連絡はなく、もちろん会ってもいない。
 いま頃なんだろう。また、謀(はかりごと)でもあるのか。
 無視していいこともなければ、応じたところで朱実のためになるわけでもない。それでも、いつまでもここに立ち尽くすわけにもいかず、朱実は歩きだした。

「静華さん、こんばんは」
 どんな顔をして会えるだろう。本来、そう憂(うれ)うのは静華のほうだと思うのに、朱実のほうがそんな気持ちにさせられる。
 もっとも、桔平がしたことをどこまで知っているのか、あるいは静華がすべて計画したことで知っていて当然なのか、いずれにしろ人に知られたくない目に遭った当人の朱実からすれば、そのことに係わった人と顔を合わせるなど、当然、気まずさしかない。
「こんばんは、乗って」
 静華は助手席を指差した。
「……え?」
 唐突な誘いに朱実はなんの判断もつかない。
「話したいことがあるの」
「でも……」
「ムラサキが待ってるから? ちょっとですむわ。それに、ムラサキの将来に係わることだと云ったら?」
 そう云われれば避けるわけにはいかない。
 静華や桔平たちとの付き合いがあれからどうなっているのか、紫己に訊いておくべきだったと朱実は後悔した。いま、本当に避けられないのか、判断材料にはなったはずだ。

「朱実さん、人に聞かれたらまずいんだけど」
「……わかりました」
「じゃ、乗って」
 静華の車は左ハンドルで、朱実は車のフロントをまわって助手席に乗った。気が変わるまえにとでも思っているのか、静華はすぐに車を発進させた。
「あの……すぐ終わるんじゃ……」
「あそこでムラサキとばったりってことになったら困るでしょ。わたしたちに守られたなんて知ってごらんなさい。ムラサキのプライドが傷ついちゃうから」

 紫己を何から朱実が守れるというのか。
 何を訊ねるにしてもどう訊ねるか、下手なことは云えない気がして朱実は考えあぐねる。結局はふたりともが何も口にしないまま、静華はまもなく地下の駐車場に入って車を止めた。静かなエンジン音が止まることはなく、ただ夜景の煌びやかさがなくなり、景色さえ止まったことで狭い空間に閉じこめられた気分になった。地下駐車場という天井の低さに圧迫感も覚える。

「あの、話したいことって……」
「朱実さんて、意外と逞(たくま)しいわよね。桔平に愛結ちゃんという本命がいたってわかっても逃げなかったし、桔平からおかしなことされてもムラサキから離れない」
 朱実が目を見開いて静華を振り向くと、にっこりとした笑顔に合う。友里花のように口角を上げるだけのアルカイックスマイルとは違う。それが偽物だったら怖いほど、本物に見える。
「何があったか詳しいことは知らないけど、ムラサキが誤解するようなことがあったんでしょ?」
 静華はまるで無関係なことのように、しゃあしゃあと朱実の内心の疑問に答えた。その疑惑が顔に表れていたかもしれない。
「誤解しないで。桔平に協力したことは事実よ。でもそれは、わたしはずっとムラサキが好きだし、早く戻ってきてほしいから」

 静華の神経が知れない。信じられない気持ちで彼女を見つめた。
 紫己は静華のことを否定した。なお且つ、ぎくしゃくした、マイナス面しかない関係であっても紫己は朱実を放りださない。むしろ、家のなかでは拘束されて逃げられない。
「わたしは、し……ムラサキから離れないんじゃないんです。ムラサキが出ていけと云うんなら出ていきます。でも、いまはそうじゃないから……」
 静華はわずかに目を細め、それまで友好的に見せていた雰囲気を冷ややかに変えた。

「ムラサキが離さない、って云いたいわけ? ほんと、朱実さんてずうずうしいわね。犯罪者の子供のくせに」

 その言葉は耳もとで空回りして、脳内に浸透してくるまでに時間が要った。かつてはその呼称で、あるいは似た呼称で呼ばれていたのに、いまになっても慣れることはできない。
 ましてや、慣れる慣れない以上に、なぜ静華がそれを知っているのか。
 一瞬、凍りついたようだった鼓動がやけに鮮明になって、破裂しそうに痛みだす。

「なんの……ことですか」
「調べたのよ。気になるじゃない、ムラサキがなぜ朱実さんに関心を持つか。朱実さんはわたしたちとはまったく違うタイプでしょ。世界が違うせいだと思ってたけど……。何がムラサキを惹くんだろうと思って、その違う世界を覗いてみたくなったの。そうしたら、ほんと、驚いたわ。旦那さんの元妻を殺すなんて、元愛人がやりそうなことよね。旦那さんが、やっぱり奥さんのほうがよかったって云ったのかしら」
「違います!」
 思いのほか大きな声が出て、狭い車内に響き渡る。残響が消えると、ヒーリングミュージックがまるでそぐわず、滑稽に聞こえた。
 表情から驚きを隠せない静華だったが、すぐさま立ち直ってくすっと笑みを漏らすと首をかしげた。
「事情はどうでもいいの。親が犯罪者ってことが問題なのよ」
 その発言から、犯罪が紫己と繋がっていることまでは気づかれていないとわかった。朱実は安堵しながら、静華とふたりでではなく、静華から紫己を守らなければと自分に刻む。

「ねえ、朱実さん。ムラサキが出ていけと云わなくても出ていくべきなんじゃない? ムラサキはただの一般人じゃないの。まだまだ将来性のある企業の社長なのよ? 世間に知れたらどうなると思う? たとえ、朱実さんが犯罪者じゃなくても、お母さんが刑期を終えているとしても、そんなことは関係なくスキャンダルになってしまう。ムラサキに飛び火して、会社を潰したらどうするの? ムラサキがいないとやっていけないのよ、C−BOXは」

 こんなふうに朱実の過去が暴かれることははじめてではない。祖母の養子になったときは、当然ながら母の実家だっただけに程なく知られることになったし、就職してやめた理由も、だれかが知って、会社に知られて、居づらくなったからだ。
 独りでやっていこうと決めていたのに、自分の気持ちに負けた結果、またふりだしに戻った。

「行き先は相談に乗ってもいいわよ。ほら、最初に会ったとき話したでしょ。理沙がやってるレストラン、いくつかあるのよ。わたしたちが行くのは会社に近いところに決まってるし、そうじゃない東京の外れの店をお世話してもいいんだから。引っ越し先もお世話するわ。一週間もあれば結論を出せるわよね」

 つまり、一週間すぎたら知らないぞという脅しなのだ。静華の眼差しを見ればそうとしか取れなかった。

 クリスマスからの半年間は、つかの間の夢を授けようという神様の情けだったのか、幸せなど夢さえ見る資格はないという戒め、あるいはもっと手ひどく、幸せからどん底に落として分をわきまえよと思い知らせたのか。
 紫己は裁く権利は自分にあると云う。それでかまわない。
 ふたりの関係がいびつで救いはなくても、紫己が一緒にいることを望んでそうできるのなら、ずっとそれでいいと思ってきた。それさえも朱実には贅沢なのだ。

 マンションに帰りつくと、朱実はリビングに入って立ち尽くす。
 紫己の帰りはいまだに遅い。帰れば足錠で拘束されるけれど、それまでは朱実の自由だ。
 厳密に云えば、拘束などされていない。仕事に出かけられるのだから逃げようと思えば可能であり、朱実の意思に任されている。穿てば、朱実は逃げないと紫己から信じられている。家のなかで繋がれていようが、鎖の長さに制限されているだけでなんの束縛もない。
 紫己は朱実の不幸を望んでいても不健康を望んでいるわけではない。まどかに会いにグランドケアを訪れた日は、朱実が脱水症状を起こしていないか心配していたらしかった。三日後、これで好き勝手に飲み食いできるだろう、と云い、鎖の長さはいま変えられてキッチンまで余裕で行ける。
 朱実への接し方がぞんざいに変わろうと、紫己の本質は半年間に朱実が見てきたものと変わりない。確信できる。なぜなら。
 朱実は不幸ではないから。
 関係が変わろうと、ここは住み慣れて躰も気分的にもなじんでいる。まえに住んでいたみすぼらしいアパートもそう感じるようになっていたはずが、いま思いだしてもぴんとこない。

 立ち尽くした位置から一歩も動けなかった朱実を現実に戻したのは、玄関ドアの開閉音だった。
「紫己、おかえりなさい」
 リビングに入ってきた紫己は朱実を見て、冷ややかに顔をしかめる。
「いま帰ったばかりなの。お風呂はさきに入ったほうがいい? 洗ってほしいなら……」
「嘘を吐くな」
 紫己はぴしゃりとさえぎった。
「……紫己?」
「三十分まえには帰ってた。桔平とのことで学んでないのか」
 紫己は不在であろうと監視できることを忘れていた。紫己を裏切りたくないのに、嘘を吐いたと思わせてしまう、自分の至らなさを朱実は後悔した。

「……ごめんなさい。三十分もたってるって思ってなくて」
「ごめんなさい、か」
「ごめ……」
 紫己の嫌いな言葉をまた云いかけていると気づいて、朱実は口を閉じた。紫己は視線で朱実を縛り、つぶさに見つめてくる。何を感じとっているのだろう。
 朱実は不安が読みとられないように努めた。呼吸するのもままならず、息が詰まる。

「りんごが食べたい」
「……りんご?」
 あまりにも突飛で朱実は呆けたように問い直した。
「ああ。このまえ買ってきただろ」
「……うん、わかった」
 朱実はうなずいて、肩にかけていたバッグをソファに置くとキッチンに向かった。
 冷蔵庫からりんごを出して、まな板と包丁を準備する。その間にジャケットを脱いだ紫己がやってきた。
「りんごを切るだけなら包丁じゃなくてもナイフですむ」
 紫己はカウンター越しに朱実の手もとを覗きこんで口を出した。
 なぜわざわざそんなことに干渉するのか、朱実にはさっぱりわからない。
「……どっちでもいいけど、わたしは包丁のほうが使いやすいから」
 紫己は答えている間にカウンターをまわってキッチンに入ってきた。

「なら、プレゼントだ。よく切れるっていうナイフ。女が好きそうなデザインだろ」
「わたし……ナイフがちょっと苦手で……」
 云いながら、差しだされた紫己の手に釣られて、朱実は目を向けた。
 とたん、洗っていたりんごを流しに取り落とし、朱実は足をもたつかせながら後ずさった。
「やっぱり見てたんだな」
 紫己は感情のこもらない声でつぶやいた。
 実際は普通に声を出していたのかもしれないが、朱実には遠くで聞いているようにしか聞こえない。紫己の手から目が離せなかった。
 紫己はゆっくりとカバーを外していく。

「だめっ。来ないで!」
 一歩も動いていない紫己に向かって訴えるにはおかしな言葉だ。
 紫己は、乳白色の地に花模様を施したボーンチャイナの柄を握り、金属の刃をかざして見せた。
 それは、友里花の胸を貫いたナイフだった。――いや、それは警察にあるはずだから、似たナイフか。
「教えてくれ、何があったか」
 紫己が一歩踏みだしたとたん、朱実はまた後ろに下がった。けれど、背中はすぐ壁に当たって行き止まる。少しでもナイフから逃げようと、朱実はその場にしゃがみこんで躰を縮めた。
「朱実」
「……知らない。……わからないの」

 あのとき起きたことは憶えている。なぜそうしなければならなかったのか、わかっている。けれど、なぜそうなってしまったのかがわからない。
「朱実の母親も、裁判で同じことを云ったな」
 紫己は可笑しくもないのに笑う。
「嘘を吐くよりマシか」
 空々しく笑い声を立て、カバーでナイフの刃を覆うと――
「もうりんごはいらない」
 紫己はナイフを朱実の足もとに放り、身をひるがえした。
 投げられ、ことことと振動しながら、ナイフはやがてぴくりともしなくなった。あのときの友里花を彷彿させる。
 呪縛されたようにナイフに見入り、朱実は身動きできなかった。

 彼女の胸に突き刺さるナイフと、白いブラウスに滲んでいく濡れた朱の色は対照的だった。もしもあの瞬間に戻れるのなら、自分が何をするべきなのか。いまの朱実なら、それだけはわかる。

 七月の最終日、外は雲一つなく快晴だ。床にぺたりと座った朱実からは、外を見ても空しか見えない。空調の効いた部屋からは清々しく見えるが、実際は朝にもかかわらず、すぐに汗ばむほど暑いに違いない。
「朱実」
 ダイニングテーブルに座った紫己が、足もとで朝食を取る朱実にりんごを一切れ差しだした。一昨日、結局は食べなかったりんごだ。
 朱実が手でつかもうとすると、紫己はさっと手を動かして避ける。そしてまた目のまえかざされる。朱実は口を開けてりんごをかじった。
 ペット扱いでも一緒に食べられるぶんだけ、ささやかでもうれしい。そう感じながら会話もない朝食を終えて、片づけも終わった。
 朱実はベッドルームに向かう。すると、日曜日だというのに紫己はスーツを着込んでいた。
「今日も仕事行くの?」
 見たらわかるだろう、と云うかわりに紫己は朱実を一瞥した。

 最初は、朱実とふたりでいたくないから仕事に出かけるのだと思っていた。出ていかせないという強制とは矛盾していても、それは朱実の自由を許さないというだけの意味であり、一緒にいたがっているわけではない。なお且つ、ちょうどその頃から休むことがなくなったからだ。
 ただ、家に帰っても以前よりやはり仕事をしていることが多く、新しいことをやっていると云っていたから純粋に仕事で忙しいのだろう。紫己がくつろぐのは眠るときだけだ。

 紫己は躰を折ってベッドの脚もとから足錠を取りあげると、朱実のところにやってきた。正面でかがみ、朱実の足首に足錠を嵌める。不思議だが、この瞬間だけは紫己に尽くされているように感じる。実際は、拘束という虐げる行為なのにもかかわらず。
 一方で、紫己は主導権を持ちながらどうにもできない枷鎖(かさ)に繋がれているように見えた。その鎖はどこに繋がれているのだろう。

 紫己は立ちあがると、そっぽを向くようにベッドに向かい、ジャケットを手に取った。
「紫己。今日、夜はごはん作っておく」
「いらない。遅くなる」
「うん、待ってる」
 会話は咬み合っていない。紫己は取り合わず、うっとおしさを払うように首をひねると、朱実の横をすり抜けていった。
 朱実はあとを追っていき、紫己がリビングに置いたビジネスバッグを持って玄関に行くのを見守った。
「紫己」
 ただ呼んでも紫己が振り返ることはない。
「紫己、愛してる」
 思っていたとおり、靴を履いた紫己はゆっくりと振り向いた。睨みつけるような鋭い視線が向けられる。

「紫己が軽薄だって云うのもわかる。でも、いまわたしが紫己を愛してるって感じることに嘘はないから。だから心配してる。たまには家でごはん食べて。躰を休めなくちゃ。病気になってほしくないの」
「待たれるのは嫌いだって云っただろ。愛もいらない」
 紫己はひんやりとした声で拒絶すると、いま云ったことは本音でこだわりは欠片もないと見せつけるようにすっと背中を向けた。
「わかってる。どっちもわたしのわがまま。いってらっしゃい」

 云い終えたのと玄関のドアが閉まるのはどちらが早かったのか。
 あと二十四時間。紫己と暮らす期限はそれだけしか残っていない。朱実が自分で課した。その二十四時間のうちにも顔を合わせている時間はごくわずかだ。
 紫己の姿がドアの向こうに消えても、しばらく朱実はそこに残像を見ていた。

「テンテン」
 久しぶりに呼んでみた。即座にCB10は反応して傍にやってきた。
『朱実、おはよう』
「おはよう、テンテン」
 朱実はかがんでテンテンを持ちあげた。
「テンテンにお願いがあるの。内緒の話」
『内緒、秘密、テンテン、オッケー』
 軽快な口調に朱実は笑う。笑顔がこわばってしまうほど笑っていない。朱実も紫己も。
「紫己にも秘密。明日……八月一日のお昼十二時まではだれにも云ってはだめ。十二時をすぎたら、お喋りしてもいいよ。守れる?」
『了解!』


 夜になって八時をすぎても紫己は帰ってこない。遅すぎることはないが、時間がたつにつれて朱実は、有言実行するか、待たないほうがいいのか迷った。
 結局は迷っているうちに九時になって紫己が帰ってきた。
 待っていたことに怒ることはなく、ただ不機嫌そうに、食べろ、と紫己はダイニングテーブルの下の床を指差した。そこはペットの位置であり、即ち、一緒に食べるということだ。

 ありがとう、と云うと露骨に不快な顔を見せた。けれど、朱実のわがままを聞いて紫己が夕食に付き合ってくれることがどういうことか――紫己の根本に朱実への不快さはない。
 紫己が以前、嫌いだと云ったのは、待たれるのではなく、待つこと待たせることだ。穿てば、紫己は嫌になるほどだれかを待って、待たされていたのだ。その相手が母親なら、それはもう永久に終わりは来ない。紫己の鎖はたぶん友里花に繋がっている。
 紫己はやさしい。だから苦しむのだ。

 今夜も紫己は夢を見ている。
 夜中、朱実の悪夢とシンクロして、彼女の呻き声がリアルに聞こえた気がした。ハッと怯えて目覚めると、それは紫己の呻き声に変わった。紫己が云う『いい思い』していた間も紫己は夢を見ていたけれど、だんだんと間隔が狭まって、そしてうなされ方もひどくなった。
 紫己は眠っているときもけっしてくつろげていない。
 朱実は起きてベッドに上がった。静かな室内に金属の摩擦音が響く。それでも紫己は目覚めない。
 フットライトの薄明かりのなか、腹部辺りによれたシーツを右手でつかんでいる姿を捉えた。眠っているとは思えないくらい、拳(こぶし)はしっかり握られていた。

「紫己」
 声をかけると、紫己は瞬(まばた)きをしながら状況を探るように視線をさまよわせ、やがて朱実に焦点を合わせた。
「なんだ」
 紫己は睨めつけ、ぶっきらぼうに吐く。
「夢見てたみたいだから。……いつもの悪い夢?」
「いつも?」
「ごめんなさい……たまにそうかなって思うときある」
「意味のない謝罪をするな!」

 紫己はやはり知られたくなかったのだろう、つい紫己が嫌う言葉を口にしてしまった。あらためて、苦しめている原因は自分だと朱実は自覚する。
 打ち明けたほうがいい。
 朱実こそが、紫己が本当に憎むべき相手なのだと。憎むことを復讐することを、紫己が後ろめたく思う必要はまったくないということを。
 けれど、いざ伝えるのは難しい。もう未練も意味がないのに。二度と会ってはならないのだから。

「……はい」
 紫己はいまはもう、奉仕させるだけで朱実を抱こうとしない。
 抱きしめられたい。せめて、はだけた分厚い胸に頬を添えて眠りにつきたい。そんな未練を切り捨てて朱実は後ずさってベッドからおりた。
 ソファに寝転がってシーツを手繰り寄せようとした矢先、紫己がベッドから足をおろして、朱実の目のまえにそびえるように立った。
 その意味を察して起きあがり、朱実は紫己のオスに手を伸ばした。とたん。
「触るな」
 朱実の手は弾かれた。
 何を拒絶されたのかわからないまま、見上げると、「這えよ」と紫己は顎をしゃくった。

 うなずいて朱実は四つん這いになり、紫己がそこにかがむ。躰の中心に紫己の指先が触れる。久しくなかった感覚に、朱実の躰は過敏すぎるほど反応した。繊細な突起に指が絡むと、腰がぴくぴくと跳ねる。自分でも思いがけないほど、紫己に触れられて躰は喜んでいる。
 だんだんと摩擦が滑るようにかわり、それは自分の体内から溢れる蜜のせいに違いなく、あまりの快楽に躰から力が奪われていく。手で上体を支えていられず、朱実は崩れるように肘をついた。呆気なく快楽に負け、それどころか貪っているのは、これが最後だ、とそう思っているせいかもしれない。
 恥ずかしさを気にするよりも、ただ感じたかった。

「あっもうっ」
 堪えていた嬌声が飛びだす。紫己の指が花片に絡み、弱点をつつく。そして、揉みこむような動きに耐えられなかった。
「あ、だめっ……ん、く――っ」
 びくんと大きく腰を跳ねあげたあと、小刻みにお尻がふるえだした。体内の収縮に伴って、蜜が散った。
「し……」
 紫己、と呼びかけようとしたのに、次の刺激が朱実を襲った。
 紫己は口で躰の中心を覆った。
「あ、ぁあっ、ま、だ――っ」
 収束していない快楽が朱実の意思を無視してさらに果てを目指していく。紫己は花の蜜をすするようにしながら、舌を自在に動かした。漏れだしそうな感覚は朱実を心もとなくさせ、追いつめる。ソファカバーを握りしめたが、堪えることはかなわず、二度め、朱実を痙攣が襲った。

 膝が不安定に揺れ、倒れそうになったとき紫己が朱実の腰をつかんで支えた。直後、紫己の慾が朱実の中心を穿つ。
 あうっ。
 紫己が最奥まで到達すると、新たな痙攣がそこから発生する。なじませるようにじっとしていた紫己が動きだしたとたん、嬌声すら出ないほど感じすぎて目が眩む。自分が壊れかけている気がした。違う、気がするのではなく、まもなく自分の中心が欠けて壊れてしまうのだ。

 紫己、愛してる。
 それは言葉にできたのかどうか、はっきりしない。全身に激しい痙攣が走り、紫己の咆哮を背中に聞きながら、朱実の意識はなくなった。

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