NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第5章 カリギュラの枷鎖(かさ)
6.手遅れのアイ

 紫己、愛してる。
 残響が耳の奥でざわついている。
 昨日の朝、訴えるように。悪夢にうなされたあとの夜明け前、うわごとのように。そして、今朝もまた朱実は口にした。
 紫己が嫌がると知っていて、なぜ急に云いだしたのか。
 今朝は、不快感を露骨にして睨みつけたというのに、朱実は、たとえ銃を突きつけられてもびくともしないといった芯の強さと静けさを感じる笑みを見せた。脳裡からその残像が消えることはない。
 ざわつくのは耳の奥だけではなく、脳裡は支離滅裂な思考を繰り返し、そして胸騒ぎを伴う。
 もっとも、朱実に出会った瞬間から紫己に平穏はなく、そのざわめきがどの感情に属するのか、原因を探ることも難しい。ただ、朱実を幸せにしない――と、自分がやるべきことがわかっていただけだ。

 復讐は何も生まない。あえて云うなら、呼ぶのは復讐の連鎖だ。憎しみと歯がゆさと虚しさ、そんな傷みから生まれる復讐という感情を抱いたことのない者は簡単にそう口にする。
 紫己とて、心(しん)から復讐心を抱いているかと問われたとき、即答するにはためらわれる。だれが悪かったんだ。そんな根本的なことを問うたときに、真っ先に除外されるべきなのは朱実だ。
 わかっていながらどうしようもない。
 ずっと自分に云い聞かせなければならなかった。
 これは復讐するためだ、と。
 ずっと振り払わなければならなかった。
 それはだれのために、という疑問を。


「ムラサキ、本当にこれでいいのか?」
 ソファで向かい合い、テーブルに広げた書類から顔を上げた進武が念を押す。およそ一カ月まえ、紫己が云いだしたことを了承したにもかかわらず食いさがるつもりか。
「なんだ、自信がないのか?」
 紫己が冗談めかして問い返すと、進武は苦笑いをした。
「それとは別次元の話だとわかってるだろう」
「だれのためでもない。おまえには悪いけど、おれのためだ」
 そう云うと、進武はじっと紫己を見据えたあと、ため息をついて首を振った。
「まあ絶縁したいっていうおまえの気持ちはわかるけどな。ムラサキは揉め事を避けるタイプだって思ってたけどな、やるときは非情になれる奴だってわかって安心した」
 人とは表面的な付き合いしかやってこなかったが、いまの云い方から、進武だけは、と思ってきたことが間違っていないと確証を持てた。紫己は笑みを漏らす。
「おれもだ。おまえならなんの懸念もなく任せられる」
 進武は手を広げるというしぐさをして、光栄だ、とおどけた。

「おまえには嫌な役回りさせたな」
「いや、それはムラサキがおれを信用してるって証しだろ。それに、おまえのおかげで目が覚めた。ひどい連中だ。朱実ちゃんは大丈夫なのか」
「大丈夫だ」
 大丈夫じゃないとしたら、それは七夕の日のことではなく、紫己のせいだ。そんなことをふと思えば、解放してくれ、と無気力に陥る。
「まあ、おまえが大丈夫って思ってるんなら、朱実ちゃんもこだわることはないんだろうけど、そう単純に割りきれることでもないしな」

 必要に迫られて、進武には大まかな七夕の日の出来事は教えた。進武にさせたことは、これからさきを見据えた保険だ。
 これからさき?
 ふいに自分が使った言葉に疑問を持つ。
 これからさき、紫己と朱実の間に何も実るものがないのは歴然としている。失うものももうない。それでも自分が守ろうとしているもの何か。
 いや、守るためじゃない。だれにも干渉させないためだ。


 夕方五時をすぎると、進武との打ち合わせをいったん終わらせた。進武が持ち場へ戻ったあと、ほどなく内線コールが響く。
「高階だ」
『川合さまがお見えになっています』
「用件は」
 ずかずかと踏み入ってくる静華が、就業時間内であればこうやって受付を通し、良識ぶりを発揮するのはずる賢いのか、紫己はため息を押し殺し、受付に問い返した。
 送話口をふさがないというルールは徹底されていて、静華の声は筒抜けで聞こえてくる。受付からそのまま繰り返され、「五分しか時間は取れないと伝えてほしい」と云い渡して紫己は受話器を置いた。
 なんの用件か、静華が口にしたことを聞けば見当がつく。こっちから出向くまでもなく、これできっぱりと手を切れるなら、それは望むところだ。ともすれば脅迫としてさらに保険になる。
 まもなく足音が近づいてきて、ノック音がしたかと思うと返事も待たずにドアが開いた。

「お疲れさま」
「一刻も早くおれが知るべきことってなんだろうな」
 紫己は静華の顔も見ないまま挨拶を省いて、時間がないことを強調した。
「朱実さんのことよ」
 紫己は椅子に座ったまま、ゆっくりと静華に目を向けた。
 朱実を嵌めるため、紫己に無断で家にあがりこんだ。静華と最後に会ったのはそれ以前だが、ばつの悪さも後ろめたさも、彼女からは露ほども見られない。むしろ、こっちの心情を察せられず、ばかばかしいほど自信たっぷりの様子だ。
「それで?」
「あの子のお母さんに会ったことある?」
「いや。精神的な病気で入院中だ。朱実も会えないと云ってる」
「それはそうよね」
「彼女のお母さんがどうしたんだ」
 静華の望みどおり紫己は訊ねてやった。
 静華はしたり顔で紫己を見やり、思わせぶりに首をかしげた。

「波布川聖衣子。それが朱実さんのお母さんの名前だけど、その女、殺人者よ。妻子持ちの男と不倫したすえ略奪結婚をして、そのあとに夫の元奥さんを殺してるわ」
 端的に事件が説明されると、聖衣子は正気じゃない悪女にしか聞こえない。実態を知らないまま想像するなら、殺人者の娘である朱実のことを世間はどんなふうに見るだろう。
 紫己が口を結び、ひと言も発しないでいると――
「朱実さんはムラサキの足を引っ張る。世間に知れたら会社まで犠牲になるのよ。早く彼女から手を引いたほうがいいわ。いつかばれるんだから」
 紫己がショックで口がきけないとでも思ったのか、静華は意気揚々として忠告をする。それを悠長に聞いていた紫己だったが。
「ムラサキの立場をわかっているのに、だれも知らないと思ってのうのうと同棲だなんて」
 静華は云っているさなか、ふと紫己から注意を逸らした。何かを思い浮かべるようなしぐさだ、と、紫己はそう思ったとたん、すでに脅迫は行われているのだと察した。
 朱実が愛していると云いだしたきっかけはそれに違いなかった。

「だれがばらすんだ。十一年もまえのことをわざわざ掘り起こして」
 静華は紫己に焦点を合わせ、目を見開いた。
「十一年? 知ってるの?」
「朱実に非はない」
 内心で苦々しく思いながら、紫己は自分がやっていることと矛盾したことを云う。
「それでも――」
「桔平が朱実をレイプした。川合静華、あなたはその加担者だ」
「……なんのこと?」
「七夕の日、桔平と愛結ちゃんと一緒におれの家にあがりこんだだろ。防犯カメラに残ってる」
「それは同棲祝いをしようと思ってサプライズパーティをするはずだったの。でも桔平がクリスマスパーティの清算をしたいから、ふたりで話させてくれって、だから帰ったのよ。愛結ちゃんに訊けば……」
「ああ、愛結ちゃんに訊いたよ。静華さんが云いだしたことだってな。あなたがついさっきおれに云ったことは脅迫だ」
「待って、わたしはレイプしろなんて云ってない」

 静華はまだ平然として理性を保っている。自分の云い分がまかり通るとでも思っているのか。
 あのとき、目に飛びこんできた光景は紫己にとって決別する恰好の理由にできたはずだった。傷ついたまま、さらに紫己の真意を突きつけてめちゃくちゃに傷つけて朱実を放りだせばよかったのだ。
 それなのになぜいまになっても離れていない。逆に繋ぎとめている。実際に、足錠まで用いて。

「なら、薬はどう説明する? 朱実に無断で使った。静華さんが用意したんだ、医者だしな。云ってる云ってないは関係ない。桔平の性格はあなたも知ってる。加担したことは変わりない。いや、加担じゃなく、首謀者だ。桔平から聞いてないのか? 桔平の犯罪は映像になって残ってる。愛結ちゃんから静華さんのことを聞きだした。進武が証人としているし、録音した。おれはいつでも訴える用意はある」
「そんなことすれば会社にとってダメージになるわ」
「そんなことにはならない」
「甘いわね。世間は……」
「甘いのは静華さんだ。この会話もすべて録らせてもらった。いまの地位を捨てられるなら、匿名(とくめい)でもなんでも世間に曝せばいい。何を勘違いしてるか知らないが、おれは静華さんと個人的に係わった憶えはない。おれに、もしくは朱実に、また脅迫を仕掛けてくるつもりなら、それなりの覚悟をしろ。容赦しない」
 静華は紫己が本気であることを悟り、おののいて息を呑む一方で、口を一文字に結ぶという悔しさも見せた。

「五分たった。出ていってくれ、仕事がある」
「わたしがばらさなくても、こういうことは知れるものよ」
「だからなんだ。関係ない。名誉毀損で、あるいは人権侵害で訴えるまでだ」
 根比べのような無言の時間が続く。さきに目を逸らしたのは静華だった。
「お邪魔したわね」
 精いっぱいの虚勢なのか、静華はくるりと背を向けて出ていった。

 足音が去っていくのを待つのももどかしく、紫己はスマホを取りあげて電話番号を呼びだした。
 二回めのコール音がなる途中で相手に通じた。
『レガーロです』
 聞いたことのない声だった。育児休暇中だった女性が復帰する、と紫己は朱実から聞かされたことを思いだす。
「C−BOXの高階です。仕事中にすみませんが、水戸朱実さんをお願いします」
『水戸ですか』
 と、戸惑った声がしたあと、『申し訳ありません、水戸は土曜日までで辞めました』という、紫己にとって認められないことを聞かされた。

 電話を切って、再度、番号を呼びだす。
 だが、手遅れだった。まったくコールをすることなく、ただ機械的な声が応じた。

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