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DOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-
第5章 カリギュラの枷鎖
4.残酷な飼い主
自分のほうが仕事に行かないのかと訊ねたくせに、夕方にもかかわらずいざ紫己が出かけてしまうと、暗くなるのも早く感じられて朱実はいつになく孤独だった。
昼間の出来事があまりに凄烈(せいれつ)で、紫己と話している間に少し冷静になれた気がしていたけれど、やはり感情がついていけない。時の流れからはぐれたような気がしている。
孤独には慣れていたはずが――孤独があたりまえで、それでいいと思っていはずが、身の程知らずにも朱実は幸せを得ていた。贅沢だとわかっていたつもりなのに、いざ幸せがなくなってしまうと、全然わかっていなかったと思い知る。
幸せは紫己がつくりあげたもので、本物ではなかった。いまでも愛していると云えるのか。偽物だったと知ったからといって、すぐに気持ちがなくなるのなら、だれも苦しまなくてすむ。
紫己の母親だって、夫の裏切りを知ってもあんな許し方を選択することはなかったはずだ。紫己だって苦しいから裁こうとする。
愛なんてなかったら――。
そう思いかけて、朱実は紫己の云うことを理解できた気がした。
愛は軽薄で、それを抱いた自分に誠実じゃない。
ひょっとして紫己は朱実を試しているのではなく、逃げるなと云いながらも本当は消えてほしいのかもしれない。まどかがいま娘の死を受け入れて平穏に暮らせているように、紫己も朱実が現れるまでは成功者として充実した日々を送っていたはずだから。
なぜ現れたんだ。朱実は空耳でそんな叫喚を聞き遂げる。
けれど、もし朱実がいま消えて、いずれは紫己が以前の生活を取り戻すとしても、そうなるまでの過程で逃げたとは思わせたくなかった。
もしも、まどかが案じているように、このさき紫己が独りぼっちになるとしたら。できるならそんな姿は想像したくない。
消えるとしても、それはいまじゃなくても、明日でもあさってでもきっとできること。
朱実の未練にすぎないのかもしれないが、そんな結論を見いだした。
気づくと八時をすぎていて、朱実は三時間も思いつめていた自分に驚く。紫己が何時に帰ってくるのか、最近は九時より早いことはない。そのまえにシャワーでも浴びれば、もう少しすっきりできるだろうか。
朱実はベッドルームに行った。クローゼットに向かう途中、ベッドヘッドの上にあるアイアン製のオブジェが目に入る。
もう見慣れているのに、いまになって何が気にかかったのか――それは、紫己の腕と同じ蛇模様だからだ。
ただの蛇じゃない。波布(ハブ)だ。紫己は自分の腕に本来の名を刻んでいたのだ。
そこにどんな意味があるのだろう。あるいは、なんらかの決意なのか。
シャワーは気もそぞろに終え、すっきりすることのないままバスルームを出た。
髪を乾かすと習慣的にリビングへ足を向ける。引き戸を開けようとしたとたん、勢いよく勝手に開いた。驚いて丸くなった目に映ったのは紫己だった。朱実を視界に入れた紫己は唐突に立ち止まる。
朱実は、紫己が帰ってきたことにも足音にも気づいていなかった。真正面から射貫くような眼差しが向いて、朱実はたじろぐ。
「お……おかえりなさい」
痞えた言葉のせいか、紫己は顔をしかめた。
「何も食べてない。そうだろ」
不快そうな声だ。
「……おばあちゃんのところで甘いもの食べすぎてたから」
「飢え死にして、おれを犯罪者にする。それが朱実のおれに対する復讐か?」
「そんなこと、思ってない」
朱実は紫己の思考回路の行き着く結果に驚いてしまう。
「なら、食べなくても水分くらい取れ。病気になっておれの時間を裂くことになれば迷惑だ」
そう云いながら、紫己は手に持っていたものを差しだした。何かと思うと、スポーツドリンクだ。押しつけるように手渡された。
「……気をつける」
紫己は朱実から目を逸らすと、興味を失ったように朱実の脇をすり抜けてベッドルームのほうへ行った。
朱実が自分からは出ていかないと云ったことに、紫己はこだわっている。それを確かめようとしたのに、紫己は朱実を見てほっとした様子はなく、不快感だけがそこにあった。
そもそも紫己が打ち明けたとおり、半年間が復讐のためにあったというのならほっとするわけもない。さっきの尖った眼差しは怖いくらいだった。何をそこまで怒ったのか。それとも朱実がすることなすこと気に喰わないのか。それならふたりでいることは心的に不衛生でしかない。
背後を振り向くと、紫己はベッドルームに消えた。そのまま紫己の残像を見いだしながら、いまと似たような状況がちょっとまえにもそこであったことを思いだす。
あのときは、いるとは思わなかった、という反応に見えていたが、その実、逆の意味かもしれない。例えば、消えてしまったかもしれない、という焦りだ。
朱実はリビングに入ってソファに座ると、もらったペットボトルを開けた。飲んでみると意外にのどが渇いていたことに気づく。
朱実本人よりも紫己がわかっているとしたら、紫己は気が利くという以上に繊細だ。いろんなことを考えられる紫己が、事件をどう受けとめざるを得なかったのか、それを突きとめていけば、朱実にできることが何かも自ずとわかりそうな気がした。
ベッドルームに入った紫己はそのままバスルームへ行った。その足音に気づいて、朱実は急いで廊下に出た。
「紫己、ごはんは?」
問いかけたとたん、朱実をシャットアウトするように扉が閉まった。
「いちいちうるさい。おれが云ったことだけすればいい」
つまり、云ったこと以外何もするなと紫己は通告しているのだ。扉越しに声はこもって聞こえ、平坦な口調だけに感情を読みとることは難しい。
「はい」
朱実はすぐに引き下がってリビングに戻った。
このまま食べないでいれば紫己の機嫌を損ねかねない。かといって、食欲があるわけでもない。紫己に云ったとおり、おやつの甘さが尾を引いているのか、それとも、そもそもショックで感覚が麻痺しているなかで無理やり甘いものを食べたせいか。
朱実は冷蔵庫にあったチーズ入りのスコーンを温めた。食べ始めるとスポーツドリンクと同じですっとのどを通り、おなかが空いていたのだと自覚する。
ゆっくりと食べ終えた頃、入浴をすませた紫己がリビングに現れた。
紫己は、ダイニングテーブルに座る朱実からテーブルのお皿へと目を移す。無表情であればひと言も口にすることなく、紫己は朱実の横を通りすぎてキッチンに入った。冷蔵庫を開けて、お茶入りのボトルを取りだすとグラスに注いでいる。それを持って紫己はソファに座った。
「紫己」
こっちに背中を向けた紫己は、朱実が呼びかけても返事をしない。
「お父さんのこと、ごめ……」
云いかけて朱実は、それが紫己を怒らせてしまう言葉だと気づいて止めた。
「お父さんは紫己のところへ帰りたがってた。でも……わたしが引き止めてた」
「いまさらだ。父が帰ってきたところで、おれは逆に出ていった」
紫己は朱実の考えを断ちきるようにぴしゃりと放った。
「でも、刺青は蛇じゃなくてハブだってわかった。それなら……」
「べつに父を偲(しの)んで彫ったわけじゃない。自分が愚か者だと思いだすためだ」
「愚か者? ……紫己が?」
「こっち来い」
答えが欲しくて訊ねたことではないが問いかけをまったく無視して、紫己は朱実を呼びつける。
朱実が行くと、紫己はベッドルームのほうに向けて顎をしゃくり――
「足錠(レッグカフ)持ってきて」
拘束の時間を宣告した。
云われたとおりに足錠を引っ張ってくると、ソファのまえにあったテーブルが少し移動して、紫己の正面が空けられていた。
「脱げよ」
足錠を渡したあと、朱実がためらったのは一瞬で、慌てることも鈍すぎることもなく、服を脱いでいった。
云われるまま、紫己の腿に足を置くと、足首に輪っかが嵌まる。
カチッと施錠されるまでの間だけ、紫己のしぐさはまるで主君に仕える従者のようだと思う。実際の立場は逆であり、朱実は命令のままに動くしかない。仕方なく、ではない。それで紫己の気がすむのなら、そして何かできることがわかるまで、朱実はいくらだって従う。そんな思いはあっても――
「這ってお尻を上げろ」
その恰好は恥ずかしくてたまらない。
紫己は拘束するようになって以来、セックスはヴァージンを無理やり奪ったときと同じ獣の恰好を強いる。ペット以下で、朱実はまるでセックスするための家畜のような気がしている。肘をついて床に這いつくばり、お尻を差しだして、それは媚びているようにも見えるかもしれない。
紫己はソファに座ったまま、朱実の躰の中心へと手を伸ばす。入口からいきなり指を入れた。乾いた指にやわらかい皮膚が張りついて、引っ張られるような不快感に朱実は呻いた。体内の奥はわずかでも分泌物があって入口よりはましだった。紫己は何かを探るように動かし、それが快感に変わるまえに引っこ抜いた。
「快感を思いだして濡れてみろ。どこも触らずに、ただし、腰をくねらせるくらいはいい」
みぞおちがひんやりするような感触を覚える。
「……できない」
「朱実ならできるだろ。おれの躰を洗ったくらいで濡れてたな」
嘲った言葉が放たれる。
そのときはいまみたいに紫己に対する怯えはなかったからだ。
「いまは……違うの」
言葉が嗚咽に変わらないよう、朱実は精いっぱいで努めなければならない。
「なら、これでその気になるかもな。かなりエロティックに仕上がってる」
紫己はテーブルからリモコンを取ると、テレビをつけ、いくつかボタンを押した。
「顔を上げてテレビを見てみろ」
いまのままの姿勢ではきつく、朱実は手をついて四つん這いになった。すると、信じられないものが目に飛びこんできた。
画面のなか、いま紫己が座っているソファで、朱実は無防備に躰を開いている。胸の上に被さる男は紫己ではなかった。
目をつむった朱実は時折、わずかに表情を変え、躰をふるわせる。明らかに感じていた。抱くのが紫己でないなら、そうなるはずはないのに。
――ムラサキ、抱いてくれるの?
途切れ途切れで力なく朱実がつぶやいている。紫己と思いこんでいるからこそ――と、果たして紫己はそう思ってくれるだろうか。
薬を使われて一時的に眠っていたことはなんとなくわかっていたし、紫己にもそうだったと教えられた。それでも、桔平を紫己と間違えて感じていた自分が浅ましくてたまらない。
朱実は顔をそむけた。
「ちゃんと見てろと云っただろ」
すかさず紫己の声が飛んだ。
無理やり顔を上向かせることはなく、言葉で従わせようとしている。逆らったからといって紫己が暴力を振るうとは思えなかったが、罪人としてなら裁く権利を持った主に従うしかない。その覚悟が朱実にあるのか。やはり試しなのか、儚い。朱実は再び画面に目を向けた。
すると、躰の中心に顔をうずめ、音を立ててすする桔平の姿を見て、朱実は身ぶるいをした。
この辺りからのことははっきりと憶えていた。この直後、いまと同じ恰好をした朱実を桔平が犯す。
拒絶の言葉とそれを打ち消すような淫猥な音には耐えられない。堪えていた嗚咽が防ぎきれなかった。
それが合図だったかのように、映像は紫己が現れる寸前で途切れた。
「どうだった」
紫己は朱実の中心に触れた。
あっ。
指はやはり引きつった感覚を伴って体内に潜った。すぐに指を引き抜いた紫己は何を感じたのか。
「こっち向けよ」
今日は命令ばかりで、朱実は戸惑いながら四つん這いのまま躰の向きを変えた。
「触らせてやる。やってみたかったんだろ」
紫己は開いていた脚をさらに広げて煽った。
朱実はおずおずと近づく。紫己はソファに背をもたれ、尊大に朱実を見守った。
脚の間に入った朱実はハーフパンツに手をかけ、ウエストを絞る紐をほどくと下にずらした。ボクサーパンツの縁をつかみ、引きおろすと、紫己のモノが現れる。それはもうオス化しかけていた。
さっきの映像を見て単純に興奮したのか、獣的な独占欲が猛(たけ)ったのか。そんな紫己に品(ひん)などない。だからこそ、紫己だと思いこんで感じた惨めさが少し救われた気がした。
命令だから従うのか、自分がそうしたいからその欲求に添うのか、朱実は根元をつかみ、いざなわれるようにくちびるをつけた。手で触れてもくちびるで触れても、オスはぴくりとした反応を示す。先端に軽く吸いつくと、しょっぱさがくちびるに乗り、オスは手のなかで硬度を増した。紫己の呼吸がかすかに乱れる。
感じさせられているとわかる傍らでよかったと感じながら、朱実は本能のまま触れてみた。紫己が朱実にするように、全体に舌を絡めていく。そうしながら、紫己が指先で朱実の体内を煽る代替えとして、手を上下に動かしてみる。
最初はオスの反応しか見られなかったが、たまに紫己は呻き声を発するようになった。ぎこちない触れ方であっても反応してくれるだけで朱実は満ち足りた。
「咥えろ」
唸るように紫己は指示をする。
「はい」
朱実は口を開いた。めいっぱい開かないと含めず、顔をおろしていくとすぐに口の奥に届いてえずきそうになった。咥える以上の指示はなく、朱実は顔を上げていく。離れるぎりぎりのところまで来て、また含んでいった。その繰り返しのなか、くちびるにくすぐったいような刺激を生む。紫己のくぐもった呻き声が相まって、朱実の体内も疼いてくる。
そうして、受け身だった紫己が唸り、腰を突きあげてきた。
ぅんっ。
朱実はえずき、連動した舌の動きが紫己を刺激する。朱実の頬をくるみ、紫己は容赦なく腰を上下させた。
「イクぞ」
苦しいなかでもうねるような動きを感じた直後、のどの奥に熱が飛び散る。陶酔させるような濃厚な香りが鼻を突き、朱実は熱を嚥下していった。飲み下すたびに舌はオスに吸着し、紫己はまるで苦痛であるかのように呻いていた。
暴れるようだったオスは口のなかでやがておとなしくなった。紫己の手が頬から離れていく。
「離せ」
荒い呼吸のもと、力尽きたような声が命じた。
紫己を見上げると、首もとをソファに預け、目を閉じて顔を仰向けている。朱実が、果てた紫己を見るのははじめてだ。紫己が爆ぜるのはいつも朱実が力尽きたあとで、見たことがなかった。
躰から熱を発散しているせいだろうか、濃艶な雰囲気に朱実は触れたくさせられる。気づいたときは上下する胸に手を置いていた。手首がすぐさまつかまれる。紫己は気だるそうな眼差しで朱実を見下ろした。
「さわるな」
朱実の手を払いのけると、紫己は朱実の脚の間に手を入れた。
敏感な場所を指がかすめると、それだけで朱実は快楽に喘ぐ。そこが、体内の入り口から溢れた蜜でぬめっているのは、紫己から音を立てられなくても感触でわかっていた。
「触ってもいないのにすごいな。朱実は最高だ」
紫己は桔平の言葉を真似た。けして賛辞でもなければ悦に入っているわけでもない。
「寝ろ。おれは仕事がある」
邪険に朱実を目のまえから遠ざけ、紫己は身なりを整えるとダイニングのテーブルに行った。
抱き合ったあとに抱きしめられることがいかに幸せだったか、朱実は虚しいほど思い知った。