NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第5章 カリギュラの枷鎖(かさ)
3.身代わりの神と罪人

 まどかの要望に添ってゆっくりすごしたあと、マンションを出たのは四時をすぎていた。その間、おそらく紫己がリードしていたんだろうが、うまく切り抜けられたのが不思議なくらい、朱実は何を話していたのかよく思いだせない。
 帰り道、車のなかでふたりが口を開くことはなく、けれど沈黙が気詰まりに感じないほど、朱実はやはり何一つまともに考えられなかった。
 家に帰り着いてもそれは同じで、リビングに入って何をしようもなく朱実は紫己と向き合って立ち尽くす。

「会社……戻らなくていいの?」
 思考力が働かないうちに訊ねたことは、紫己の機嫌を損ねた。もともと機嫌がいいわけでもなく、無表情だった顔に険しさがよぎる。
「おれが出てる間に、逃げる気か」
「そうじゃなくて……ムラサキと話したいの。でもいま……うまく考えられなくて……一人になって整理できる時間がほしいって……ちょっと思っただけ」
「いくら考えたって、波布川友里花も波布川孝雄も、生き返りはしない」
 ムラサキとシキは同一人物か。紫己の言葉はもう、朱実が思い違いだという理由を探そうとしても探せなくさせる、決定的なひと言だった。

「ムラサキ……じゃなくて……本当はシキ?」
「おれは事件に係わることは何もしてない。けど、お節介な連中がいる。干渉から逃れるには姓と呼び方を変えることが精いっぱいだった。朱実、きみの母親はおれから母親を奪っただけでなく、父親を自殺に追いこんだ。そして、おれからは名前を奪った」
「違う……」
「違う? 何が」
 それを云ったとしても、何も証拠はなく、そして紫己が云ったように彼らが生き返ることはない。ましてや、真実はいまさら云えなくなり、打ち明けて理解されたところで朱実のなかから友里花の痕跡はなくならない。
 朱実は、違わないとも云えなくて首を横に振った。

「きみの母親は刑務所から出てきても、精神科に入院しっぱなしみたいだな」
「……調べたの?」
「あたりまえだろ。丸腰で他人を家のなかに招く奴の神経が知れない。少なくとも、おれはろくに知らない人間を判断するのに、見せかけや直観を当てにするばかじゃない。朱実をなかに入れる時点で盗られたくないものはすべて別の場所に移した」
 紫己は無下に放った。何がショックかといえば、調べられたことよりも泥棒を働くかもしれないと疑われていたことだ。
 息を呑んだ朱実の心情はあからさまに外に漏れていて、紫己は非情にも嗤(わら)う。

「一人娘なのに、面談にも行かないって薄情だな?」
「わたしが行くと……母はよけいにおかしくなるから」
「なぜ?」
「わたしが父親を欲しがったから、あの事件は起きたの。母は殺人者になって、夫も失った。わたしのせい。はじめてムラサキのお母さんに会ったとき、気づいてた。わたしのお父さんになったかわりに、お父さんのいなくなった子がいるって」

 聖衣子の裁判が終わって刑が確定したあとだった。孝雄は車道に飛びだして跳ねられたすえ亡くなった。それが自殺だったのか事故だったのか、はっきりすることはなかった。
 最後に防犯カメラに写っていた孝雄は、うつむいて歩道を歩いていた。
 事件以後、孝雄はいつも深刻な顔でいた。朱実が話しかけても片言の返事しかもらえない。加害者の妻と被害者の元妻の間で、もしくは朱実と紫己の間で板挟みになっていたのかもしれない。きっと、紫己のもとに帰るのだろう。朱実は当時そう思っていた。否、朱実には孝雄の子供でいる資格は皆無で、返さなければならないという気持ちのほうが強かった。
 云いだせなかったのは、母との約束と、“シキ”から父親を奪ったように、母から夫を奪いたくはなかったからだ。
 案の定、刑務所に入っていた聖衣子は、夫の死を知って精神的に病んで、いまだに治癒することはない。

 無表情に戻った紫己はじっと朱実を見下ろしている。
 殴られないだけましだと思っているのに、紫己は感情を曝けだして罵(ののし)ることもしない。
「ごめんなさ……」
「朱実の謝罪は軽いな。何かあるとそう云って、ごめんなさいっていう価値を下げてることがわからないのか?」
 ぴしゃりとした言葉が朱実の謝罪をさえぎった。紫己の云うとおりだった。再びその言葉を云おうとして、朱実は開きかけた口を一文字に結んだ。

「復讐するは我にあり、って言葉を知ってる? 悪人は神が裁く――神が云った言葉だってされてる。けど、神なんていう存在はない。なぜなら、おれは両親を奪われるような罰を下される憶えがないからだ。それを悪魔のせいにするなら神はそもそも無能だ。ローマ帝国の皇帝カリギュラは愛する者を失って、自らが神のように振る舞った。人のなかに悪魔が潜むのなら、悪人を裁く神は自分のなかにいる。それが理にかなっていると思わないか」

 応えようがない。朱実は紫己が発した言葉の意味を必死で理解しようとしていた。
 紫己は薄く笑みを浮かべる。
「病んでる人間に対して神になってもしかたない。おれが両親にかわり神にかわって裁くなら、裁かれる罪人のかわりはだれだ?」
「……わたし……?」
 紫己は少しもおもしろそうじゃなく、鼻先で笑った。
「教えてやろうか、いかに愛が軽薄か。朱実のごめんなさいと同じでなんの価値もない。おれを愛してるって云ったな。最低の言葉だ。金目当てだとか云われたほうがまだマシだって思うくらいな」
「ムラサキのお金を当てにしてここにいるわけじゃない! すぐ出て――」
 出ていくから、と続けかけた言葉は――
「自分からは逃げないっておれは聞いた」
 という紫己の言葉に気圧されて消えた。

「罪から逃れようなんて許すわけないだろ。この半年、いい思いさせてやったんだから、今度はおれのばんだ」
 続けられた紫己の言葉はもしかしたらという疑惑を朱実のなかに淀ませる。
「ムラサキ……」
 思わずつぶやいた。
「紫己(シキ)だ。おれの顔は知らなくても名前は知ってたんだろ。おれの名はムラサキじゃない、紫己だ」
「……紫己」
 朱実はその名をはじめて声にのせた。感慨も何もない、ただ呆然とした感覚しかない。
「最初から……」
 朱実は云い淀んだ。信じたくないからだ。
「最初から、何?」
 朱実の気持ちを見透かしたように、紫己は挑発してくる。避けられない。否、避けるべきではないのだろう。きっと、いつかくると待っていた彼女――友里花の罰が下るのだ。

「最初から、わたしのこと、わかってたの?」
「逆から云えば単純明快な答えが出る」
 紫己はふっとくちびるを歪めた。
「波布川朱実だとわかっていなかったら、朱実みたいに貧相な女をおれが本気で相手にしたと思うのか?」

 紫己は桔平となんら変わりはなかった。
 紫己に感じていた親近感はきっと、朱実にやさしくしてくれた孝雄にどこかしら似たところがあったからにすぎないのだ。

「朱実が唯一利口なのは泣かないことだな」
「……わたしよりも、もっと泣きたい人がいるから。死んだ人も……生きてる人も」
「そのとおり、朱実が泣くのはお門違いだ。朱実が何者か、祖母にわかることがあったら許さない。本来なら、一人娘である母が絶えず祖母を訪ねているはずだった。母が活きていたら、祖母はケガをすることもなく、慣れ親しんだ家を手放すこともなかったかもしれないんだ。これ以上に悲しい思いをさせることはない」
「わかってる」
「もっとも、朱実にとっては黙ってるほうが都合いいな。わざわざ自分が殺人者の娘なんてことを云い触らすとしたら、よほどの愚者だ」

 見下した声は遠慮を知らない。
 けれど、たったいま朱実は矛盾に気づいた。紫己のなかに相対した葛藤を見たような気がする。
 苦しんだのは両家族のだれもがそうだ。朱実とて無傷ではない。そのなかで、紫己がどんな思いでやってきたのかを知りたい。なぜなら、紫己にはやさしさも思いやりもある。朱実を憎むことは別問題だ。
 今日、じかに見た、紫己のまどかに対する愛情は嘘ではなく、つい今し方も悲しませるなと念を押した。朱実が紫己の強引さに負けたのは、だれかと一緒にいたがった自分のせいであっても、朱実が紫己を信じたのは、まどかへの気遣いが見えたからだ。

「……ムラ……紫己はどうしたいの?」
「朱実を幸せにしない」
 まるで一語であるかのように平坦な答えが返ってきた。
「幸せにならないように見張るために、わたしを出ていかせないの?」
「まえに云ったとおりだ。おれと朱実は切っても切れない。最悪の状態でもな」
「……幸せになっちゃいけないのはわかってる」
「おれを愛してるって思うのは幸せだったからだろ。云ってることが違うな。朱実は口先ばかりだ」
「わたしは……違う」
「違う?」
 朱実は紫己をまっすぐ見上げてうなずいた。

「順番が違うよ。愛してるって思うから幸せなの。幸せにしてくれたから好きになったんじゃない」
「朱実が勝手に抱いた幻想だな。それをおれに押しつけるな」
「押しつけてない。わたしの勝手な気持ちだけど……本当に幻想なの?」
「どういう意味だ」
「いままでのこと……全部が嘘?」
 淡々としていた気配がふと揺らいだような気がした。
 けれど、話しているうちに、もしかしたら、と感じ始めたことが実ることはなく、紫己は呆れたようにせせら笑った。
「何を期待してるんだ。まだわからないのか? おれがなぜ朱実を犯したのか。男を知らない朱実にとって、思いだしたくもない最低のバージン喪失にしたかったからだ。それだけじゃない。思いだしたくないのに嫌でも思いださせる。それならクリスマスにすれば、毎年、嫌でも思いだす」
「……計画だったの?」

 紫己が何かを打ち明けるたびに、朱実は望みを挫かれたような気にさせられる。
 あのときの躰の痛みはとっくに忘れた。心の傷みも癒えていた。それなのに、土台が――紫己の気持ちがかりそめだったせいか、傷口はまた開きかけている。

「桔平の悪癖をはっきり云わなかっただろ。おれが黙っていたのは桔平に協力するためじゃない、朱実が傷つけばいいと思っていた。それに、桔平との関係が進展しないうちに奪う。そのために愛結ちゃんを嗾けたし、朱実に警告した。あとは臨機応変だ。パーティのとき、正直、あんなふうにうまくいくとは思わなかった」
 紫己は残酷にも、心底から可笑しそうに笑っている。そんなふうに見えたのは、朱実がやはり傷みを感じているからか。
 あのとき、紫己は出くわしたのではなく、朱実のあとをつけていたのだろうか。情景を思い起こしながら、ふと気にかかっていたことが甦る。
「もしかして……あのとき、わざと背中を押したの?」
「ちゃんと決別するべきだろ。顔も合わせず逃げられては、朱実のことだ、云い訳をする桔平のペースに引きずられる。おれに逆らえなかったように」
 違うか? とそう問うように紫己は歪んだ笑みを朱実に向けた。

「朱実、いまでも愛してるって云えるのか? おれが演じた偽物のうえに同棲はあったんだ。朱実の気持ちは幻想だ。人の言動も、感情なんてものも当てにならないだろ。思い知ればいい」
 紫己は云い放ち、背中を向けて話を打ちきった。
 朱実は思考と躰が分離したように動けず、言葉を発するのも怖い気がした。
 紫己の姿を追っていると、ダイニングテーブルの椅子に置いていたビジネスバッグを手に取った。
「どこ……行くの?」
「仕事だ」
 答えてくれただけでいい。朱実は自分をなぐさめながら玄関のドアが閉まる音を聞き遂げた。

 この半年、文句なしの恋人は、愛が軽薄であることを証明するために存在したのだ。
 呆然として、一方で混乱した思考は自ずと紫己の言葉をピックアップする。演技ばかり見せていたはずはない。まどかから車椅子生活になった経緯を聞かされた。少なくとも、まどかに関する話は嘘ではなかった。
 演技と本物とあるのなら、どうやって見分ければいいのか。朱実は途方にくれる。
 紫己から読みとれない。その判断はきっと朱実の願望が邪魔をする。
 願望なんて持つ資格はない。わかっているのに探している。紫己にはまだ知らないことがある。打ち明けたとき、紫己は今度こそ、出ていけというかもしれない。
 むしろ、そうすべきなのか。

 立ち尽くすような感覚のなか、ふと紫己が朱実を拘束していかなかったことに気づいた。
 どういうこと?
 その疑問に押されたように、朱実の思考と躰が一致して活動し始める。
 玄関に行くと、ドアは簡単に開いた。エレベーターに乗って下に行くと、エントランスを通るときもコンシェルジュに引き止められることもなく外に出られた。
 どういうことか、やっぱりわからない。
 マンションの部屋に戻ってベッドルームに行き、デスクの下にCB10がいるのを確認した。そうしながら、もう一つ、進武から本物の話を聞かされたことに思い至った。

 人工知能は嘘を吐かない。別れもない。期待しなくてすむんだ。

 朱実はたぶん試されている。それは、期待が紫己のなかにあるという証明かもしれなかった。

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