NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第5章 カリギュラの枷鎖(かさ)
2.アルカイックスマイル

 洗濯ものを干したりチェストの天板を拭いたり、簡単な掃除をすませたあと、どうにか足首の輪っかを通して下着を身に着けた。短めのワンピースを着てメイクをして、朱実はいつでも出かけられる準備を整えた。
 紫己が仕事から戻ってきたのは十二時半をすぎたころだった。
 テレビをつけてソファに寝そべっていた朱実は、いきなり足首に何かが触れて目を開いた。そのしぐさが少し乱暴なのと、足もとにだれかがいる驚きで躰がびくっと跳ねる。足首を反射的に引っこめたせいで足錠が喰いこみ、朱実は呻いた。おののいたのはとっさに理解できなかったゆえの反応だったが――
「なんだ」
 紫己は気分を害したような声で問う。
「びっくりしただけ。寝てたみたい。ごめんな……」
「謝る理由がわからない」
 朱実の言葉をぴしゃりと封じて、紫己は足錠の鍵を開けて拘束から解放した。
「……口癖だから」
「行くぞ」
 そう云ったときには紫己はすでに廊下に向かっていた。朱実は慌てて起きあがる。
「外で食べる?」
「ああ」
「オレンジジュース、飲んでっていい? おなかが鳴るかも」
 キッチンに行きながら急いで口走ると、ふと紫己は何か引っかかったかのように足を止めた。朱実を見て、それからソファのほうへ目を転じた。釣られて見ても、そこにはテーブルがあってCB10がいるだけだ。紫己の視線はまた朱実へと戻ってくる。
「早くしろ」
 紫己はつぶやくように云い、待つことなくリビングを出ていった。


 グランドケアはシニア向けの高級マンションだと聞いていた。来てみると、朱実の想像以上に贅沢だった。食事付きで病院も娯楽施設もあり、マンションのなかにこもっても何不自由なく快適にすごせる。
 紫己の財力があるからこそ、紫己の祖母は贅沢な場所ですごせるのだろう。つい、朱実は自分の祖母と比べてしまった。古びた家で、曲がりかけた腰をさすりながらも趣味の野菜を作っている。自分のことに精いっぱいで生きている孫しかいないという、祖母が不憫になった。
 建物内に入ると、紫己は贅沢だという意識はあるのか、慣れた様で奥に向かった。
 マンションにはホテルのように窓口があって、警備上のことだろう、受付で訪問カードに名前などを書かされてからやっと部屋に向かった。
 個人スペースは五階から始まっていて、紫己の祖母は足が悪いからなるべく移動距離を減らそうとその五階に住んでいるという。
 エレベーターを降りると、フロアはクリーム色を基調に上品なイメージを受けた。壁の材質は上下にわかれ、上部分の鏡面仕上げといい、贅沢な雰囲気がある。

 紫己はエレベーターからそう離れていない引き戸のまえに立ち、ノックをした。こもった声が応じる。
 内側から鍵を開ける音がして、紫己は引き戸を開いていった。

「ばあちゃん、お邪魔するよ」
「待ってたわ」
 紫己が盾になって姿は見えないが、はしゃぐような声は想像していたより若々しくてしっかりしている。

 どんな人だろう。紫己と似ているならきっと美人だ、とそんな朱実の好奇心は――

「いらっしゃい、シキ」

 そのひと言で一瞬にして驚怖心に変わった。

 朱実と祖母を対面させるべく、紫己が躰をずらしながら振り向くしぐさはやけにゆっくりとして見えた。
「今日は連れがいるんだ。紹介するよ」
「連れ?」
 驚いた声が問い返すと同時に、朱実は車椅子に乗った紫己の祖母と顔を合わせた。予想どおりに祖母はきれいだった。しわがわずかにありながらも上品さの漂う顔は、朱実を見てさらに驚きに満ちた。
 その驚きが何から発生しているのか、朱実の怖れが真実で、それが原因だとしたらどうすればいいのだろう。

「あら、まあ」
 朱実への第一声が発せられる間に思いがけず、老婦人の驚きはうれしさに変わっていた。
 朱実が変化に戸惑ったのは一瞬、その笑顔には見覚えがあると気づいた。笑顔の裏にある気配はまったく違う。けれど、記憶にある面影を朱実はそこに見いだした。
「いらっしゃい。どうぞ入って。自己紹介はなかでゆっくりね」
 紫己の祖母の声には言葉のとおり歓迎が窺える。老婦人は云い終えると車椅子を手慣れた様子で操り、奥へと行った。

 朱実はその背から、視線を引き剥がすようにして紫己へと目を向ける。
 シキ、笑顔の形。怖れにとどまらない真実に符合するのはその二つで充分だった。
 紫己はじっと朱実を見つめている。口もとだけで笑うようなアルカイックスマイルの印象があまりに強烈で、彼女の顔立ちを見逃していた。紫己は彼女に似ている。そして波布川孝雄にも。紫己が満面の笑顔を見せてくれたら、母親の面影が見えて気づいたかもしれなかった。
 いま紫己は、冷ややかでもなく、もちろんやさしくもなく、感情のこもらない眼差しで朱実を射貫く。
 紫己は知っていた。朱実がだれであるかを。
 いつから?

「入れよ」
 祖母のまえだからだろうか、紫己の声は眼差しに反してやわらかい。それとも、知っていると思ったのは勘違いなのか。
 なかに入って一つ扉をすぎると、LDKの部屋があった。車椅子が移動しやすいようにだろう、ソファやらテーブルやら家具調度品はそろっているが、すき間が広く取ってある。
 キッチンを見ると、車椅子に乗ったまま作業ができるように低くなっている。室内をよく見れば、通常よりも低い位置で手が届くように整えられていた。
「座って」
 勧められるまま、朱実はソファに腰をおろした。
 朱実が部屋を見渡している間にキッチンに入った紫己は、お茶のペットボトルとグラスを三つ持って戻った。
 紫己がグラスにお茶を注ぐなか、並んで座った朱実と紫己をかわるがわる見たあと、やさしいまなざしは朱実に留まる。そして、やはり“彼女”と似た笑顔が向けられた。

「彼女は水戸朱実さんだ。朱実、おれの祖母で――」
「高階まどかよ」
 紫己の紹介をさえぎるようにまどかは自ら名乗った。
「……はじめまして、水戸朱実です。突然、ついてきてしまってすみません」
「謝ることないわ。むしろ、あなたの存在を隠しておくほうがさみしいと思わない? 紫己が恋人を連れてくるなんてはじめてよ」
「ばあちゃん」
「あら、恋人じゃないっていう野暮な云い訳はなしよ。紫己、あなたもいい年なんだから、そろそろおばあちゃん孝行でひ孫を見せる気になってもいい頃合いだわ」
「気が早いな」
 紫己の苦笑混じりの返事をおもしろがって、まどかは首をすくめるというしぐさをした。優雅さも彼女と一緒だが、滲みでる雰囲気は冷たさと温かさという対極にあった。

 朱実の名前を知れば、もしかしたらと思っていたが、まどかはなんの屈託もない。
 身を守るため、朱実が波布川姓から母の実家の姓に変わったように、紫己もまた姓を変えていた。もしくは、孝雄と離婚をしたときに母親ともどもすでに姓を変えていたのか。
 朱実は結局、姓を変えても身を守るには足りなかった。

「朱実さんはどう?」
「……え?」
 急にまどかに振られて、朱実は気の抜けた問いを返した。
「紫己と将来のこと、真剣に考えてくれるかしら?」
「あ……」
 いまや複雑すぎて、返事は合わせることも軽々しく答えることもできない。それでなくても、ぎくしゃくした紫己との関係はいつ終わってもおかしいことはない。朱実が出ていくのを嫌がっていたけれど、正体がわかったいま、紫己はそうなるように事を運ぶまで、朱実を出ていかせたくなかったという、それだけの理由かもしれなかった。
 朱実はどうしていいかわからず、隣の紫己を振り仰いだ。

「急かさないでください。彼女はまだ二十一歳なんだ」
「二十一歳ならいつでもいいと思うけど。友里花(ゆりか)が結婚したのは二十二歳よ」
 と、そう云った直後、朱実はまどかがわずかに顔を曇らせたのを見逃さなかった。
 友里花――紫己の母親が亡くなったことをまどかはまだ悲しんでいる。当然だ。
「じゃあ云いかえる。彼女とはまだ知り合って一年もたってない」
「時間も関係ないわ。あなたが朱実さんといることに答えは出てるんじゃないかしら」
「そう思いたければどうぞ」
 紫己は薄く笑い、お手上げと云ったふうに首を横に振った。
 安請け合いとも取れる返事をして、紫己はいったいどういう心境でいるのだろう。一切悟らせることなく、それはその場しのぎで終わらせるための言葉にすぎないのか。
 一方でまどかは本心から云っているに違いなく、そういうまどかを裏切ることになるかと思うと、朱実は後ろめたさに心底がひんやりとする。

「お昼は食べてきたの?」
「ああ」
「おやつの時間まではいられる?」
「かまわない」
「じゃあ、向かいのお店からメープルシロップをたっぷりまぶしたバームクーヘンを買ってきてくれないかしら。久しぶりに食べたいわ」
 紫己は何か気にかかったように首をひねり、程なくため息をついた。
「わかった」
 朱実は立ちあがった紫己を見上げた。
「朱実と二人にしてほしいって見え見えだ。そうしてやるけど、よけいなことはご法度だ」
 まどかに云っているようで、その実、朱実に向けたのだろう、あとの言葉は朱実を見て放たれた。よけいなことがあるというのなら、まどかは朱実の正体をまったく気づいていないのだ。

 紫己は出ていって、朱実はどこに目をやりようもなく、まどかに向けるしかない。まどかはにっこりと本当にうれしそうに朱実を見やった。
「女性だけじゃなく、紫己からは友だちの話さえ聞くことはなかったわ。一人だけ……会社の進武くんの話くらいかしら。ここに連れてくるってつまり、紫己があなたを大事にしていることは確かよ。独りぼっちの紫己の将来をわたしが心配していることは知っているし、あの子は人に期待させることを嫌うから」
 その言葉は、進武が教えてくれたことを朱実に思いださせた。
「独りぼっち、ですか……」
 思わずつぶやくと、まどかは悲しみにしか見えない微笑を浮かべた。
「紫己が高校三年のときだったわ。両親を相次いで亡くしてしまったの。つらいことだった。だから、人を慕ったり愛したり、そういうことが怖くなったのかもしれない。すぐに結婚したいなんて気にならないんだわ。でも朱実さん、気長に待ってほしいの」

 ここに来てますます紫己と自分の関係がわからなくなっている。はい、としか朱実には応えられなかった。

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