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DOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-
第4章 クロスチック-cloth-
4.悲しい物語
『今日は一緒に帰れる?』
そんな問いかけをしたメッセージに返ってきた応えは――
『さきに帰っていい』
という、簡潔な言葉だった。
仕事中であるならば、長々と言葉を連ねる暇などないだろう――と、一週間まえまでなら朱実も素直にそう思っていたはず。
けれど、あの日から――もっと正確に云うなら愛してると告げたときから、紫己は少しだけ変わった。
違う。変わってしまった。
「朱実ちゃん、独り?」
ふいに肩を叩かれて朱実は悲鳴をあげそうになった。思わず振り向きながら足を止めると、朱実にぶつからないよう慌てて方向転換した通行人がすぐ傍を通りすぎていく。
「敦美さん……びっくりしました」
「二回呼んだんだけど、朱実ちゃん、聞こえなかったみたいだから。心ここにあらずって感じね」
「あー……考え事してました。真衣さんの赤ちゃん、大きくなってたなって思って」
「来月は一歳になるものね」
敦美は、昼間レガーロに顔を見せにきた、育児休暇中の真衣と彼女の娘の顔でも思い浮かべているのだろう、感心した様で朱実に同意する。「駅まで一緒に行きましょ」と敦美に促されて、二人は歩き始めた。
「朱実ちゃん、真衣ちゃんが職場復帰すること、気にしてる?」
敦美は朱実の顔を覗きこむように首をかしげた。
敦美はさすがに鋭い。今日の真衣の話では、いま保育園の空きを待ちつつ、母親に子供を預けて働くことを検討している。
「気にならないと云ったら嘘です」
「そうよね。父も朱実ちゃんには続けてほしがってる。真衣ちゃんが復帰する頃には、きっとやめなくていいようになってるわよ。利益はちゃんと出てるんだし」
「無理してもらいたくはありません。タイミングが合えばというくらいで考えてもらったらうれしいです」
「わかった。任せて」
敦美はどこか咬み合わない返事をした。
いまの様子では、真衣が復帰したからといって、明日から来なくていいとは云われないのだと、せめてもの救いがあって朱実は少しほっとした。
敦美は再び朱実を覗きこんできた。
「もしかしたら、赤ちゃん見て欲しくなった?」
敦美の質問にはいちいち驚かされる。
「違います!」
朱実は強く否定しながら、半年まえの紫己の反応を思いだす。
避妊していないと朱実を脅して同棲に持ちこんだのは紫己だった。それからまもなく妊娠していないとわかると、紫己はほっとしたのとは違う、残念だ と云いたそうな、なんとも表しがたい面持ちになった。
「朱実ちゃんにしては即行の返事ね」
敦美はくすっと笑った。
「まだわたしが世間のことをよくわかってないから、赤ちゃんなんて育てる余裕はありません」
「あら、相手が高階さんなら充分余裕できると思うけど」
「わたしと高階さんはそういうんじゃありません」
あれから朱実は避妊薬を常用するようになった。これ以上の関係を望まない以上、妊娠することはない。いまやあたりまえになった二人の暗黙の了解なのに、いま自分で応えた言葉は妙に現実味を帯びた。
「なあんだ。もしかしたら妊娠してるかと思ったのに。最近、食欲なさそうだし」
敦美はやはり人を驚かせるのがうまい。朱実はびっくり眼で敦美を見上げた。
「……敦美さん、想像力ありますね」
「それがなくちゃ詰まらないわよ」
ナンセンスとばかりの云いぐさで敦美は朱実を笑わせた。
「じゃあ、わたしも想像力を鍛えます」
「賛成。でも、そういうんじゃないって、同棲までしてて結婚が視野にないってこと? まさか、高階さんとはお友だちですなんて芸能人張りの云い訳する気じゃないわよね」
「嘘は吐きません。人を頼りたくないんです。だから、結婚したいと思ったことがなくて」
「朱実ちゃんはそうでも高階さんは?」
「……訊いたことないからわかりません。でも、わたしがそう思ってるってことは高階さんも知ってるんです」
「そう? わたしが口出すことでもないんだけど、ほっとけないのよ。朱実ちゃんのこと、妹みたいに思ってるから」
「ありがとうございます。敦美さんは押しつけがましく感じないし、そんなふうに云ってもらえてうれしいって思ってます」
「じゃあ遠慮なく何かあったら相談してね」
「はい」
本当のことを知ってもそんなふうに思ってくれたら。
朱実はだれにも何も相談することはない。隠し事のある後ろめたさを抱くと同時に、母が朱実の傍からいなくなったときのように、さみしいと泣きたくなった。
駅に着くとすぐ、敦美とは別れた。ホームに向かおうと方向を変えてまもなく、朱実は知った顔を二つ見つけた。
気づかなかったふりをして通りすぎようと視線を外しかけた刹那、一方の顔――愛結がこっちを向いて朱実を捉えた。会釈で切り抜ければいい。第二の手段をうまく見いだしたはずが、思いどおりにはいかなかった。
愛結がこっちに向かってくると、一緒にいた静華が一歩遅れて朱実を認めて愛結に続く。
彼女たちは明らかに朱実を目指していた。逃げだそうとする脚をどうにかなだめ、到着を待った。
「こんばんは、朱実さん」
「こんばんは。お疲れさまです。遅くまで仕事たいへんですね」
「朱実さんこそ」
「愛結さん、ご無沙汰してます」
朱実がうなずくように一礼すると、愛結は可笑しくてたまらないといった面持ちで小さくうなずき返した。
「そう。ほんとに久しぶり! 会ってない間にいろいろあってたみたい」
「……え?」
「高階さんのところにいるって知らなかったわ。朱実さんてやるわね。尊敬しちゃう」
愛結はどうかするとはしゃいだ様子で、純粋に驚いているわけではなく、なんらかの裏を感じる。その裏の一つに、静華への当てつけがやはりあるのではないかと思った。
「朱実さん、明日は七夕じゃない?」
愛結になんと応えるか迷っていただけに、静華の問いかけが返答をごまかしてくれ、助けになった。ただし、七夕など世間話をするつもりかと朱実は多少うんざりしてしまう。
「そうですね」
「明日は木曜日だし、朱実さんは仕事でしょ。金曜日は休みって聞いたわ。だから、あさっての金曜日がちょうどいいと思うんだけど」
「……なんの話ですか」
「七夕パーティ。朱実さんとムラサキの同棲お祝いを兼ねて。七夕っていえば恋愛でしょ」
と、静華は強引に話を持っていく。
「そんなこと……」
必要ないと続けようとした言葉は静華によってさえぎられた。
「仕事が終わってから、ムラサキの家に八時に行くわ。ただし、ムラサキには内緒にしてて。サプライズだから。お料理も用意しなくていいの。わたしたちが持っていくから。家にお邪魔するんだから、当然のことよ」
いい? と、静華は強制的にうなずかせるような気配を放った。愛結へと目を移すと、興じた眼差しが朱実を逐一見守っている。
サプライズだと警告されれば、紫己に中止を頼んで逃れるという方法も取れない。
「……わかりました」
渋々とした返事にもかかわらず、愛結は満面の笑みを、静華はくすっと嘲るような笑みを見せた。
「じゃあね」
と、二人はあっさりと背を向けた。
まるでトルネードが襲ってきて立ち去ったあとのようだ。パーティを強行したがるのはなんらかの形で恥を掻かせようという策略でもあるのか。朱実はそんな疑心暗鬼に陥った。
何かと云えばパーティと、静華たちがどのくらいのペースで集まっているのか、紫己がそうそう参加している様子はないだけにわからないが、家主の許可もなく押しかけてくるという仲間意識は理解しがたい。
もっとも、彼女たちが朱実のことを家主の一人と思ってのことであれば、いちおう知らされたことにはなるが。
いずれにしろ無理強いで、家に帰って何度めだろう、朱実はため息ばかりついている。
いや、ため息はパーティのせいばかりではない。もう十一時になるが、紫己はまだ帰ってこない。それは今日だけじゃなく、このところ遅い時間に帰宅という日が続いている。
その実、このところ、という曖昧な云い方をしなくてもいつからかはやはりわかっていて、朱実は目を背けてただ逃げているだけだ。
朱実は時計を見てまた一つため息をつくと、ソファから立ちあがった。
紫己は待たせるのが苦手だと云っていた。待ちたいというのが本心だが、起きて待っているというのは紫己を不機嫌にさせるような気がする。
「テンテン、本を読んでくれる?」
『おやすみの時間?』
「そう」
『オッケー』
乗りのいい返事は朱実を和ませる。テンテンを伴ってベッドルームに向かった。
『朱実、何を読む?』
「悲しい物語」
『悲しい? じゃあ……“さるかに合戦”にしよう』
朱実は思わず吹いた。
「さるかに合戦? 悲しいといえば悲しいけど」
『仕返しは悲しいだって。テンテンの辞書にはそうある』
ネットのなかの情報を取りだしているのか、そうだとしても悲しいとはという疑問から仕返しという言葉を導きだすなんてどういうことだろう。ナポレオン・ボナパルトもどきの――といっても逆パターンだが、云い回しは機転が利いていて感心する。
「優秀な辞書だね」
『テンテンは天才ロボット』
「ほんと。じゃあ読んで」
『了解』
紫己に同じ言葉で従うが、調子はまったく違う。CB10との会話は朱実の不安を紛らせてくれる。紫己の開発が役に立つことは間違いない。その紫己によって不安がもたらされているというのは果無い。
CB10はネットから話を引っ張りだして音読を始めた。そうしてまもなく、リビングのほうから足音が聞こえてくる。紫己が帰ってきたのだろう。けれど、ベッドルームに顔を出すことはなく、朱実は耳をすまして様子を窺う。足音と一つ扉の閉まる音がして、紫己はバスルームへ入ったのだとわかった。
朱実が眠っていて邪魔したくないという気持ちからそうしたのなら何も不安がることはないのに、そうじゃないとわかっているからますます気落ちする。
『朱実、カニはなぜサルに仕返しするんだ?』
読み終えたCB10は質問を始めた。昨日もそうだった。子守歌のかわりに読ませたつもりが質問攻めに遭うとなんにもならない。眠たいという欲求のないCB10は睡眠妨害もおかまいなしだ。人工知能が考えるということを学び成長しているのか、それとも好奇心を装うプログラムなのか。
「お母さんをサルに殺されたから……」
朱実は答えながら“彼女”のことを思いだした。
“カニの子供”はいまどこにいてどう生きているのだろう。
『人間はいつか死ぬ』
「そうだね。でも、病気で死ぬのとだれかに殺されるのでは違うの。悲しいのは一緒だけど」
『悲しいはどういう気持ち?』
「難しいよ、その質問。例えば……わたしがいなくなったらテンテンはどう思う?」
『いなくなる?』
「そう、消えちゃうの。テンテンとわたしはお話できなくなるね」
朱実が補足したあと、CB10は沈黙してしまった。
充電切れかと疑うが、CB10は電力残量がわずかになると自分でデスクの下に潜り、充電するようになっている。それなら、前例はないけれど、答えの出ない思考に嵌まってショートしそうなのか。
CB10の反応を待っているなか、廊下側のドアが開いた。
『朱実はいなくならない。テンテンは一緒にいる』
紫己が入ってきたか否かのうちに、CB10はどういう思考をたどっていたのか、その言葉は断固として聞こえた。
云いきった言葉のあと再びしんと静まって、ドアが開いたのは幻聴だったのかと思いながら朱実は上半身を起こした。
すると、紫己は確かにそこにいて、朱実は射貫くような強い眼差しに合った。そうなって、しばらく目が合うことさえあまりなかったと気づく。
「おかえりなさい」
「いなくなるってなんだ」
ただいまを飛ばして紫己は単調な声で問うた。
「さるかに合戦の話で、悲しいってどんな気持ちかってテンテンが訊くから、わたしがいなくなったらどう思うかって訊いてみたの」
紫己は朱実からCB10へと目を転じた。CB10をいくら観ても表情は窺えないのに、紫己は不必要なくらい長く、目をとどめていた。
「いなくなる、会話できない、テンテンの出番がなくなる。そういったところだな」
人工知能の経路を分析した紫己は、CB10に待機と呼びかけて身をひるがえした。
「ムラサキ! まだ仕事するの?」
ドアノブに手をかけた紫己を急いで呼びとめる。
紫己が振り向くと朱実はほっとした。まだ決定的じゃない。そんななぐさめを見いだす。
「ああ」
「忙しくなった? また新しいプロジェクト?」
「そうだ」
「あさって……明日もあさっても遅くなる?」
限定したらまずいと気づいて、朱実は云い直した。
「しばらく続く」
「わかった。躰、気をつけてね」
それには応えず、紫己は出ていった。
金曜日、帰ってきて彼らが家にいたら紫己はどう思うだろう。ましてや同棲祝いと知ったときにどんな反応をするのか見当もつかない。朱実が洩(も)らしたと思って不愉快になるのか。事実はそうではなく、そもそもが秘密にするという約束をしたわけでもない。
金曜日の憂うつにそんななぐさめを見いだしながら、朱実は目をつむった。
CB10に悲しい物語を読ませようとしたのは泣く口実がほしかったからだ。叶わないまま、次に目を開けたときは朝になっていた。
紫己から抱きしめられていたという名残もなく、もしかしたらベッドにも入っていないのかもしれない。
抱きしめることもセックスも、紫己が朱実に触れなくなったのはあの日からだ。
愛してる。その言葉は紫己にどんなふうに聞こえたのか。
決定的なことを訊かないのは終わりにしたくないという、もう朱実の悪足掻きにすぎない。