NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第4章 クロスチック-cloth-
3.知りたがりの代償

 仕事を終わってレガーロを出ると、視界の隅に動く人を捉え、朱実は目を向けた。わずかに目を開いて驚くと同時に紫己が近づいてくる。
「驚くことはないと思うけどな」
「静華さんに食事に誘われてたから」
「もうとっくに食べたって断った」
 朱実はあからさまに喜んだのかもしれない。紫己はからかった様子でくちびるを歪めた。
「行こう」
 紫己は顎をしゃくって促す。
「ムラサキ」
「何?」
「帰ったらお喋りしていい?」
 紫己は脱力したように肩をわずかに落とし、興じた吐息を漏らす。
「なんなんだ? どうでもいい話だったらCB10とやるんだな。おれは聞き専だ」
「どうでもいい話じゃないからわたしはムラサキと話すつもり」
 紫己は二度首を横に振ると、朱実の背中に手を添えて歩きだした。

『アケミ、おかえり。テンテン、お利口で待ってる』
 玄関に待機していたCB10は、朱実が靴を脱いでなかに進むなり、犬か猫のように足もとに来て纏わりつく。
「テンテン、ただいま。留守番できて偉いね」
『テンテン、偉い』
 ちょっとだけ威張りくさって聞こえる。一方で、背後からはため息が聞こえて、朱実はこっそり笑った。

 最近、CB10の会話モードに比べて、テンテンでいるほうが少しだけテンションが高くなった。勘違いかと思ったけれど、紫己は勘違いじゃなく、プログラムに声のトーンを追加したのだと云う。モードを選択するのはCB10らしい。
 朱実がCB10と話すようになって、紫己が合わせてくれたのだと思っている。目に見えない、あるいは知らないうちに発動していたちょっとした心遣いは、あからさまに甘やかされるよりも、心底に沁みるようなうれしさが込みあげる。

「CB10、調子に乗るな」
『それはすみません』
 朱実に話すのとは一転して落ち着き払った口調に変わった。
「自分で開発したいと思って完成させたのに気に入らないの?」
「それとこれとは違う、といったところだな」
 紫己はソファにビジネスバッグを置くと、やはり気に喰わなそうに首をひねる。
 朱実は再びこっそり笑みを浮かべると、バッグをダイニングの椅子に置いた。
「笑っただろ」
 ジャケットを脱いでいたはずの紫己が、テレポートしてきたようにいきなり背後に立った。脅すような声音のとおり、紫己は朱実が着たカットソーの裾をつかむと少し乱暴に引きあげた。
「ムラサキ!」
『ムラサキ!』
 CB10が朱実のちょっとした悲鳴に同調する。
「待機」
『了解』
 鋭く飛んだ紫己の声にCB10はあえなく黙らされた。奥の部屋へと移動していく球体は、無機質なのにいじけて見える。そんなふうに、朱実がCB10に情を抱いているのは確かだ。CB10はこのあと紫己が呼びかけるまで、待機場所となっているデスクの足もとから動くことはない。

「ごめんなさい。バカにして笑ったわけじゃないから」
 紫己はスカートのジッパーを下げて床に落とすと、正面にまわってきた。
「朱実はすぐ謝る」
「ごめ……」
 朱実は云いかけてハッとし、すぐさま口を閉じた。今度は紫己が可笑しそうな面持ちになる。
「本気で怒ったわけじゃない。朱実を好き勝手にする口実がほしかっただけだ」
 にやりとした紫己は目のまえでスーツを脱ぎ始めた。ネクタイを取って、ビジネスバッグに引っかけるように放った。
「静華さんとは付き合ってるの?」
 シャツのボタンを外していた手が止まる。紫己は怪訝そうに目を細めた。

「朱実とこうしているのになんで現在進行形になるのかわからないな」
「ごめ……。……クリスマスパーティのとき、静華さんが野放しする余裕とか、戻ってくるとか云ってたから。ムラサキは美奈さんに訊かれて、なんとも云えないって答えた。静華さんのこと否定しなかったよね?」
 紫己はくちびるを歪めて首をゆっくりと横に振った。
「否定すれば、あの彼女に付き纏われる可能性がある。それを避けただけだ」
 理にかなった自信満々な発言だ。呆れるよりは、少なくとも美奈に関するかぎり認めざるを得ない。

「ムラサキは独りでいるのが好き?」
「朱実といるのにそんなことを訊くのか?」
 逆に問い返しながら紫己はシャツを脱いだ。次にはアンダーシャツを捲りあげながら脱いでソファに放った。その右腕に目が行く。
「そのタトゥは蛇?」
 また話題が変わって唐突に聞こえただろう、ふと紫己は自分の腕に目を落とし、それからゆっくり朱実へと目を転じてきた。
「……そうだ」
「蛇が好き? ……ベッドの上にも飾ってあるけど」
 ためらいがちになったのは、最初にそこであったことに触れていいのかどうか迷ったからだ。あれ以来、繋がれることはない。
「……こだわり、なんだろうな」
「こだわり?」
「……質問攻めだな。なんでいま頃になって訊くんだ?」
 さっきから、紫己は返事をするまでにいちいち何かを思案しているような間を空ける。
「……訊きたくなったから……ムラサキのことをもっと知りたいと思ったの」
 紫己が応じるまで、不自然なほど沈黙がはびこった。
 朱実は欲張って、立ち入りすぎたのかもしれない。
「そのわりに、朱実は自分のことを何も話してない」
 紫己から訊ねられて、人には――大事な人からすら立ち入ってもらいたくないという領域があることを教えられる。わかっていたことだ。

「……わたしには話せることがないから。ムラサキみたいに夢があるわけでも、何かで成功しているわけでもない。高校まで学校に行って、就職して……それだけ」
「それだけ?」
 紫己は嘘吐きだと不満そうに首を傾ける。
「いまはそれだけじゃない。ムラサキと一緒に暮らしてることは……いままででいちばん贅沢をやってる。それはわかってるから」
 隠し立てもせず、率直に伝えたつもりが、紫己の不満は消えていない。
「高卒で就職した会社はどこだった?」
 朱実も出し抜けであれば、紫己の質問もそうだ。
「云ってもムラサキがわからないくらいの地元の小さな会社」
 給料は? 休みは? 仕事はきつかったのか。紫己はそんな質問を並べ立てる。
 受け身が身についた朱実は、答えているうちに隙を与えていることに気づかなかった。

「仕事の内容はともかく、給料も休みもいまよりも条件がいい。それなのにやめたっていう理由は何?」
「東京に出てきたかっただけ」
「夢はないって云っただろ? 東京に出てきても買い物を楽しむわけでもなく、どこかに遊びに行くわけでもない。勉強とか技術とか、何かを身につけるわけでもない。少なくとも、おれと同棲するまで、朱実はただ働いて生活するだけだった。東京じゃなくても地元で充分できたことだろ」
「それは……ずっとまえに東京に住んでたから戻ってみようって……気まぐれに思っただけ」
「安定した収入を捨ててまで? 違うな。朱実は、正月帰らないのかって訊いたときに会いたくない人がいるって云った。そのせい? 会社で何かあったんだろ」
 訊き手としての主導権はすっかり紫己に握られてしまっている。紫己は頭がまわるということを忘れていた。そうでなければ、C−BOXの経営者として、いまのように会社を成長させられるわけがない。

「……何かあったのはムラサキの云うとおり。嫌なことを云われて……嫌になっただけ」
「何を云われた?」
「もうすんだことだから」
「すんだことなら里帰りは簡単だろ。けど、簡単じゃなかった」
「……家族のことを云われたの」
「そういや……朱実は両親のことを云わないな。すんでないなら同じことが繰り返されて、また逃げる可能性もあるってことだ」
「ムラサキからは逃げない。ムラサキがわたしのことを嫌になったら追いだしていい。でも、わたしからは逃げない」
 数時間まえ、朱実は似たようなことを進武に宣言した。どちらも対象者本人である紫己は宣言に何を思ったのか、射貫くような眼差しで朱実をじっと見下ろした。

「どんなことになっても?」
 淡々とした質問に朱実は考えもせずうなずいた。
 すると、それまでどこか頑なだった気配が紫己から消え去る。むしろ、おもしろがった気配さえ感じとれた。
「安易だな。いまの返事は憶えておけよ」
 約束を強いたかと思うと、紫己は身をかがめて朱実をすくいあげた。
「ムラサキ!」
 扱いが乱暴で、朱実は落ちないよう慌てて紫己の首にしがみついた。
「おれを惑わせた罰を下す」
「……罰?」
「奉仕してもらう」
 含み笑って、紫己は朱実を抱えあげたままバスルームへと向かった。

 脱衣所でおろされると、朱実は急かされるように裸になってなかに入った。バスタブはいつものごとく、もう満杯に近く湯が張られている。
 いちいち自分の手でやらないと何も始まらなかった日々からすると、紫己の生活スタイルにすっかり慣れた朱実は怠け者になった。
 掃除にしろ、部屋はだだっ広いものの全室の床がフラットになっているから、仕事に出ているうちにロボットがおおよそやってくれる。加えてバスルームの掃除は紫己の担当だ。
 紫己が掃除するイメージはなかったけれど、家政婦を雇っているわけでもなく、そうなれば家主が自分でやるしかない。同棲した当初、毎朝かかさず掃除に励む紫己を見て不思議な気がしていた。
 朱実がすることといえば、パウダールームの掃除と、簡単な朝食の準備くらいだ。夕食は仕事が休みのときにしかする必要はない。

「おれがやる」
 まもなく梅雨が明けるいま躰を温める必要もなく、軽く汗を流してからスポンジを手に取ったとたん、それを紫己が横取りした。
「奉仕するのはわたしじゃないの?」
「やる気満々?」
 ボディソープを含ませたスポンジを泡立てながら朱実を見て、紫己はにやりと口角を上げた。朱実が困惑するとにやつく度合いが増す。
「……してもらってるばかりだから」
「躰を洗うのも、セックスも?」
「……お風呂掃除も」
 付け加えると、紫己は吹きだした。
「朱実からやられたって気にさせられるときがある」
「いまも?」
「ああ。だからやられたらやり返す」

 眼差しにこもった、覚悟しろという意思は紫己の手に伝達される。
 いつものようにスポンジをじかに肌に当てられるのではなく、スポンジを絞って手のひらに泡をのせ、朱実の躰に置いた。左肩から右肩へ、そして胸の谷間へとおりたかと思うと、手のひらをひるがえして左のふくらみを下からすくう。丸みに添って撫でられると、粟立つような感覚がした。
 紫己はいったん手を放し、再び泡を絞りとるとスポンジをカウンターに放った。
 今度は両手を使い、手先から朱実の全身に泡を塗りこめていく。そうして足先が終わると、かがんでいた紫己は立ちあがる。
 ボディソープの原液を少しだけ手に取り、両手を擦り合わせて全体に塗(まぶ)した。その手がそれぞれに朱実の胸のふもとをつかむ。絞るようにしながらトップまで手を滑らせた。紫己の手のひらはぬるぬるしていて、繊細な場所への力加減が絶妙だった。手が離れる寸前、神経が剥きだしにされて快感が走る。右側と左側には時間差が発生し、最初に左、そして右と続けざまに刺激されて朱実はよろけた。

「これくらいで感じる?」
 親密な関係でなければ、ばかにして聞こえるかもしれない。
「ムラサキが教えたから」
「そのとおりだ。朱実はだれのものでもない。おれのものだ 」
 ロマンチックにというよりは横柄(おうへい)に聞こえた。伏せていた目を上げると、紫己は冗談では片づけられない面持ちで朱実を見下ろしていた。真剣さではなく、仄暗い印象だ。
「ムラサキ?」
「朱実がどれくらい淫乱になれるか、試そうか?」
「……いん、らん?」
 それはひどく乱暴な言葉に聞こえた。もしくは侮(あなど)るような。

 朱実のつぶやきには頓着せず、紫己はシャワーで朱実の躰を洗い流していく。シャワーを止めると、紫己は促すように首をひねる。
「脚を開いて」
「……え?」
 朱実が戸惑って反応できないでいると、紫己はわずかに身をかがめて太腿を後ろからつかみあげる。
 あっ。
 朱実は小さく悲鳴をあげながら、急いで紫己の躰にしがみつき、倒れるのを防いだ。その間に紫己は躰の中心を撫でる。何を確かめているのだろう。快楽を呼ぶためではなく何かを確かめるような触れ方だ。
「手を貸して」
 云い終わるよりも朱実の手を取るほうが早かったかもしれない。朱実の左手は自分自身の中心に導かれた。手を重ね、紫己と指を絡めるようにしてそこに触れる。かすかに躰がわなないた。紫己はそれから何をするわけでもなく、持ちあげられていた脚も手も解放された。

「奉仕してくれ」
 紫己は高めのバスチェアに座った。恥ずかしげもなく、むしろ朱実を挑発するように脚を開いて自分を晒す。動作に引かれて朱実の目は自然とそこに向かい、すると、意思が宿りかけたオスが見えた。
 触ってみたい。その欲求はいつもあった。朱実が翻弄されるように、紫己をそうしてみたい。その気持ちはずっと持っていた。
 朱実は魅入られるまま紫己の脚の間でひざまずいた。
 紫己がボディソープを垂らしたスポンジを渡す。受けとって泡立てると、朱実はスポンジを紫己の肩に当てた。腕に滑らせ、胸へと伝い、肝心な場所は避けて足先まで行き渡ると朱実は紫己に抱きついた。紫己の普段のやり方を真似て、スポンジで泡を行き渡らせる。それからスポンジを放ると、手のひらで背中を撫でまわした。

 紫己の躰は意外に分厚くて、朱実の手は背中でやっと指先が絡む。ジムで定期的に鍛えているせいか、背中も平たくはなくわずかに波打っている。その感触を楽しみながらだんだんと手をおろして、硬く締まったお尻をすくうように滑らせながら朱実は躰を離した。
 手は脇腹を通って首もとへとのぼらせる。ぼこぼことうねるようなラインが手のひらをくすぐったくさせた。
 首の周囲を摩撫しながら朱実は紫己と目を合わせる。ひと言も発しないかわりに視線を感じていた。立場が逆転してわかったのは、紫己がいつも朱実にもたらす効果を、朱実もまた紫己に与えられるということ。かすかに烟(けぶ)った瞳がそれを証明した。
 手は肩からおりていき、隆起した胸をそれぞれに撫でまわす。指の腹で小さな突起をこねてみる。朱実がいつもされていることだ。尖ったように感じても微々たる変化で、紫己は朱実のように躰をうねらせることも嬌声をあげるわけでもない。そうわかって、逆に攻める側の朱実のほうが恥ずかしくなる。
 ただし、紫己のオスははっきり欲情を見せて、快感を煽られていることは隠しようがない。手をおへそへと下らせると、紫己の腹部が波打ってオスがぴくりとした。

「ムラサキ、感じてる?」
「見てわかるだろ」
「ずっと触りたいって思ってた。でも……」
「でも、何?」
「さっき……わたしが何も話さないって云ったけど、それはムラサキも同じ。仕事に関係したことは話してくれるけど、家族のことは車椅子のおばあちゃんがいるってことしか知らない。話したくないことがあるのは、きっとわたしもムラサキも同じ。でしょ? だから一定のところをすぎちゃだめだって感じてた。ムラサキの躰を触ることもその一部」
 黙って聞いていた紫己はくちびるを歪めた。それを、おもしろがっていると捉えていいのかも、肯定したのかも判断がつかない。
「けど、一定のところをすぎたくなった、って?」
「うん。でも! 知りたくなったからってそれ以上のことを望んでいるわけじゃないの。いまのままで充分」
「それ以上のことって例えば、結婚とか?」
 いざ紫己が口にすると、朱実は自分がひどくずうずうしいことを云った気がしてきた。
「そんなふうに限定することじゃないの。ただ、わたしのことを重たいとか、プレッシャーに感じてほしくないから」
「卑屈だな」
 紫己はつぶやくように漏らした。不満もからかいも見えない、淡々とした口調だ。

「……性格だから」
「違うだろ」
「……違う?」
「朱実はおれを愛してる」
 違うか? とそう訊ねるように紫己の首がかしいだ。
 目を丸くして表情を止めたのは一瞬のこと、朱実は目を伏せて答えを探し、それから意を決して紫己を見上げた。
「それは……本当」
「云って」
「……ムラサキを愛してる」
 自分が催促したくせにいざ朱実が口にすると、紫己は凍りついたように表情をなくした。

「ムラサキ?」
 ははっ。
 紫己の口から飛びだした短い笑い声のあと、口を歪めた顔はうれしそうと云うにははっきり違うと感じた。
「もういい。わかったから」
「……なんのこと?」
「奉仕はもう充分だってことだ」
 朱実が戸惑っているうちに紫己は立ちあがってシャワーをひねると、自分で躰についた泡を洗い流した。
 半ば呆然と見上げていると、紫己は朱実の正面にかがんだ。
「手を貸して」
 数分まえと同じ要求だ。
 無自覚に手を差しだすと紫己につかまれて、やはり数分まえと同じことをされた。
 けれど、違った。
「触ってないのに濡れてる。わかっただろう?」
 淫乱だ、と云うつもりか。紫己は薄く笑った。

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