NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第3章 恋中毒
4.つぐないと脅迫

 翌日の大晦日、紫己がアパートのまえに現れたのは、約束どおりほぼ一時だった。およそ風景とは釣り合わない車が朱実のまえで止まる。
 デートという慣れないことの緊張と、紫己が何を考えているのかという――いや、自分がどう思われているのかという不安と、どう終止符を打ったら最善なのか策が見つからない昏迷(こんめい)。それらで混乱してじっとしていられず、朱実は外に出て待っていた。
 コートを着ているとはいえ、冬も真っ只中、それが暖かさをもたらしているかといえばそう役に立っていない。紫己はわざわざ車を降りて、白い息を吐く朱実を見下ろした。

「こんにちは……」
「外で待ってろとは云ってないはずだ」
 朱実をさえぎるようにして開口一番、紫己は呆れること半分、怒ること半分といった気配で咎めた。
「大丈夫です」
「安易な判断だな。風邪をひく。乗って」
 紫己は苛立ったような声音で朱実を急かした。
 さきに助手席側にまわり朱実を乗せてから、紫己は運転席にいって乗りこんだ。

 朱実がシートベルトをするのに戸惑っていると、紫己が躰を乗りだしてくる。顔が間近に来て、朱実は思わず身を引いた。が、すぐ座席の背もたれに阻まれる。かちりとベルトがロックされたあと、紫己は躰を起こすことなく、顔を間近にしたままとどまった。
「おれがまだ怖い?」
 伏せた目を上向けると、すぐ斜め前でわずかに上目遣いにした紫己の目と合った。
 顔が近くにあるだけの状況と見つめ合うのでは訳が違う。加えて、紫己はその時々で違う印象を与える。兄のようだと感じれば、まったく見知らぬ人のように感じる瞬間もある。クリスマスは、感情のないケダモノが現れて、そうかと思えばまっすぐに熱情をぶつけてくる。
 いまはなんだろう。心の奥底を読みとられそうな距離に戸惑い、朱実は顎を引いてかすかに首を振った。
「それが本当だといいけどな」
 紫己は独り言のようにつぶやくと躰を起こした。

 車はなめらかに発進して、やがて大通りに合流した。
 乗ったときから暖かかった車内は、さらに暖かくなった。かじかんでいた手と足は、血がめぐりだしたとわかるほどじんと痺れた。
 紫己は車に乗りこんですぐ、パネルを触っていた。とたん、暖房の音がし始めて、そうしたのは朱実の躰を温めるために違いない。さっきは怒ったのでも苛立ったのでもなく、心配したすえぶっきらぼうになったのかもしれない。
 朱実はふと保育園に通っていた頃を思いだす。
 物心がついたときには朱実の父親はいなかった。二歳のとき、交通事故で亡くなったという。母とふたりで暮らしてきて、父がいないことを疑問に思ったのは保育園に通うようになってからだった。たまにある参観日に片親しか来ないという括りのうちの一人だった。
 パパが欲しいと云って駄々をこねたのは年長のときだった。保育園に行きたくないと云って押し入れに隠れたすえ発見されると、探しまわった母からひどく叱られた。
 程度の差はあれ、そのときの母とさっきの紫己は似たような心境だったかもしれない。

「正月休みは三日までだったな」
 移動するなか、互いが黙りこんだままという静けさを破ったのは紫己のほうだった。
「はい。高階さんは? お正月も仕事ですか?」
「三日までは休むつもりだけどわからないな」
「ワーカホリック?」
「よく云われる」
 紫己は笑みの滲んだ声で云い、ちらりと流し目で朱実を見た。
「高階さんはIT職よりも営業マンみたいに見えますね」
「社長は似合わないって?」
「あ、いえ、そういう意味じゃなくて……例えば、商社とかで大きな仕事を簡単に取ってくるみたいな、フットワークが軽くて仕事をバリバリやってる感じです。あ……IT職はなんとなく机の上でやってるイメージだから」
「なるほど。C−BOXは確かに開発が主な仕事になってるけど、社長業は当然、あちこち交渉したり売りこみしたり、営業の仕事も外せない」
「あ……そうですね」
「といっても、いまはもう営業マンとしておれの出る幕はそうあるわけじゃない。最終手段とか接待じみた付き合いとか、そういうのに限られる。わざわざ出向いて営業するなんてことはやらない。おれは開発のほうが性に合ってるし、このまえ云ったように、プレゼン兼スポークスマンは進武にほぼ任せっきりだ」

「高階さんは、もしかして目立ったりするのは苦手ですか」
「なんで?」
「サングラス、会社で仕事の間はかけてますよね? でも、いまはかけてないから」
「あれはサングラスじゃなくて、色のついたただのグラスだ。度は入ってない。それに、あの眼鏡だとよけいに目立つかもな」
「……云われてみればそうですね」
 間近でも紫己が目を逸らさずに朱実をじっと見つめていたことを思うと、人と目を合わせるのが苦手というわけでもなさそうだ。それなら眼鏡はなんのためだろう。
「眼鏡は顔をはっきり晒さないためにかけてる。ネットに上がったら消えないだろ。プライベートを邪魔されたくない」
 確かに、レガーロで会うときといまでは印象が違う。仕事のときは眼鏡をかけて、髪は撫でつけて整えられ、わずかに横柄に見せている。プライベートのいまは素顔を見せて、髪は無造作に流れ、その辺りにいるような人となんら雰囲気は変わらない。ただ、背の高さと、一般人ではもったいないような整った顔立ちが、見過ごせなくしている。
「たいへんですね」
「過剰反応とも云われるけど、情報が流れることの怖さは知ってる。それが真実だろうと嘘だろうと関係ないんだ。そうだろ?」
「はい」
 ネットに限らず、周囲の噂話でもそれは同じだ。
 自由になれないということと同じで、紫己とはいろんなところで気持ちが符合する。

「実家はどこ? アパートは独り暮らしだったな」
 紫己は出し抜けに話題を変えた。
「実家は静岡にあります」
「正月は帰らない?」
「迷ってます。おばあちゃんが独りでいるし、だから本当は帰りたいんですけど……向こうには会いたくない人もいるから……」
「両親とは? うまくいってない?」
「……そうかもしれません」
 嘘を吐きたくはないし、本当のことも云いたくない。曖昧に答えたことで、問題があることを浮き彫りにしてしまったが。
「やっぱり話したくないことみたいだな」
 と、紫己は理解を示して追及はしなかった。

「祖父は亡くなったけど、おれにも田舎に祖母がいる。C−BOXを開発しようと思ったのは、祖母がきっかけだ。もともと視力が弱いうえに病気で視力を失いかけてた。携帯電話は便利だけど見えないと使いづらい。喋ってることが認識できたらその問題は解決する」
「……やさしいですね」
 紫己は首を振りながら薄らと気のないような様で笑った。
「いや、間に合わなかった」
「え……?」
「おれが早急に完成させなきゃいけないのは、盲導犬のかわりにライフサポートできるCB10だった。玄関のさきに鉢を置いていたのを忘れて、祖母はそれにつまずいたんだ。七十をとっくに超えてたし、複雑骨折は致命的だった。それからもうずっと車椅子生活だ」

 紫己の様子に深刻なところはなく、その声は淡々としている。そのぶん、後悔を隠しているようにも思えた。
 朱実は、気の毒だ、とそれ以上に言葉は見つからず、そう口にしたところで紫己のなぐさめになるとも思えない。そもそも、朱実のなぐさめなどなんの力にもなれない。
 車内は再び沈黙した時間が流れる。そのなか、朱実の思考には紫己のいろんな面が現れては消える。ただ、紫己は気がつく人で、自分のせいでもないのに祖母の不幸を後悔してしまうほど情を抱ける人だというのはわかった。
 無理やりの行為から目覚めたとき、紫己は嫉妬だったという理由を打ち明けた。それが、云い逃れなどではなく言葉どおりなのかもしれないと、やっと納得がいきそうな気がした。

 紫己は都心の駐車場に入り、ぽつんとそこだけ空いたスペースに車を止めた。通りに出ると、人も車も多い。オフィス街も通勤時は特に人がごった返すけれど、だれもが足早で、わりと秩序が保たれている。それが街中になると様々なペースで歩く人が入り乱れ、朱実は人を避けた次にはぶつかりそうになる。
「慣れてないな」
 紫己は可笑しそうにして、度々立ち止まりかける朱実を見下ろした。少し躰をかがめ、紫己は朱実の手を取った。
 こんなふうに手を握られるのは桔平に続いて紫己が二人めだ。桔平のときのどきどきとは感覚が違う。紫己とは、順番を飛びこえて素肌で触れ合ったせいなのか。朱実の手は大きな手のひらのなかにすっぽりと隠れて、安心感みたいなものを覚える。
 その感触を確かめたくてわずかに手に力を込めると、もっと強く握りしめられる。歩きながら、朱実は行き先よりも繋いだ手に気を取られていた。

 駐車場から十分もしないうちに紫己は駅繋がりのショッピングモールに入った。最近、リニューアルされて話題になっているところだ。
 ここなら、わざわざ紫己が迎えにくることもなかったのに。電車を利用すればすむ。
「ここで待ち合わせしてもよかったですね」
「人を待っているのが苦手なんだ。だから、あんまり人を待たせたくもない」
 だからアパートのまえに立って朱実が待っていたことが気に入らなかったのだろうか。紫己が不機嫌だった理由に合点がいきながら、一方では苛立つほど本気で待つのも待たせるのも嫌いなのか、と驚いてしまう。
「でも……家のなかにいても待っているのにはかわりないと思います」
 ため息なのか笑ったのか、そんな吐息が聞こえた。
「確かにそうだな。待ちくたびれてた?」
「そんなことありません。時間はぴったりでした。わたしが勝手に落ち着かなかっただけで……」
 言葉尻を濁して途切れさせると、まもなくして、そうだな、と紫己は相づちを打った。
「でも、丸井さんの家でパーティがあったときは、高階さん、一人遅れてました」
 取り繕うように朱実は話題をずらすと、紫己は笑った。
「粗探しの達人だな」
「そんなつもりじゃありません」
「ああ、わかってる。あれを遅刻というには事情が違う」
 朱実が覗きこむように首をかしげると、紫己はくちびるを歪めた。
「待つのも待たせるのも苦手だっていうのは、おれにとって大事な人かどうか。それに限る」
 つまり朱実を大事だと云っているのであって、朱実はますます困惑させられる。ただ、紫己にはそうさせるつもりがなかったのか、からかうこともなく黙りこむことで話は切りあげられた。

 ショッピングモールのなかは、すし詰めとまではいかないまでも人で溢れていた。紫己は、ウィンドウショッピングというにはゆっくり見られる歩調でもなく、目的地を目指しているようにただ歩いていく。
 上に行くエスカレーターに乗ると、見るまでもなく、上りと下りの間に設けられた吹き抜けのオブジェが目につく。
 レガーロのアルバイトの子から、ここが気に入っているという話を聞かされたことがあった。朱実は思わず見上げてしまう。ジャックと豆の木に出てくるような緑色の幹が、くねりながら上へ上へと伸びている。首をのけ反らせてもトップがどの位置にあるのかよく見えない。
「あんまり見上げると後ろに倒れる」
 紫己の注意を受け、朱実は子供っぽかったかもしれないと、わずかに顔を赤らめた。
「すごいですね」
「ああ。月ごとに飾り物が違ってくるらしい」
「そうなんですか。楽しそう」
 朱実はびっくり眼になって紫己からオブジェへと目を転じた。
 クリスマスをすぎて、あと半日もしないうちに新年が明ける。それを意識してに違いなく、羽根つきや駒に凧(たこ)と、正月の風物詩が幹や葉に絡んでいる。

「月が変わったらまた見にきたらいいな」
 紫己の言葉はどうとでも取れそうに曖昧だ。
 一緒に来ようと云っているのか、単にだれかと来ればいいと云っているのか。
 今日で償いは終わりです――と、そう云うには切りだしやすい。けれど、人に容易に聞かれてしまういまはタイミングがいいとは云いがたい。
 云うのは最後でいい。それまではデートという機会を楽しめばいい。幸せになってはいけないとしても、理不尽さに対する償いを受けるくらいのことは許されてもいい。朱実に罰を与える権利を持つのは“彼女”であって、紫己にはないのだから。

 エスカレーターを何度か折り返して紫己が連れていったのは、ファッション店の集まるスペースだった。そのなかでも、朱実の年代が好みそうな店を選んで入った。
「高階さん、わたし……」
 買えませんから、と続けようとした言葉は、プレゼントだ、と紫己にさえぎられた。
「償いの一貫。今日はおれの好きにさせてくれ」
「でも……」
 破られた服はレンタル店と話がついたと報告を受けている。朱実が服について損失を被っていることはない。
「おれのしたことは、これくらいで気がすむことはないし、朱実からしてもそうだ。それはわかってる」
 紫己は自分がしたことにかなりこだわりを持っている。そんながんじがらめになる気持ちはわからないではない。いや、はっきりわかる。たとえ許しを得たとしても、気が安まることはないのだ。
 ただ、『今日は』という紫己自身の言葉を逆手に取って終止符は打てる。
「いい?」
「……はい」

 了承したものの、それを二時間もしないうちに朱実は後悔した。
 試着を繰り返したすえ、最終候補に残った五着を眺めて迷いだしたとたん、紫己は、それを全部、と云って、朱実が唖然としているうちに紫己は精算をすませてしまった。
「高階さん、こんなに……!」
「もう買ったものだ。返品したら店が困る」
 店を出たとたん朱実が口火を切ると、紫己はあっさりと訴えを退けた。それに、と続ける。
「好きにさせてくれって云ったはずだ。朱実はいいと云った」
 あらためて紫己が云うと、それは脅迫に聞こえた。朱実は好意的に解釈していたけれど、もし紫己に裏があるとするなら、やりたいようにやるという宣言でもあった。

「……それはわかりました。でも今日だけです。高階さんの償いも、こんなふうに会うことも」
 結局は場所もタイミングも選ばず、ただきっかけだけを頼りに朱実は口走った。
 紫己は人の流れをさえぎるように立ち止まり、眉をひそめてしばらくじっと朱実を見下ろした。独りでさっさと行くわけには行かず、朱実もまた人をさえぎる。
「朱実は賢いのかそうじゃないのかわからないな。まあ、二十歳だし、まだまだ未熟だってことは確かだ」
 なんのことを云っているのか、紫己は含み笑う。
「いまおれを切って後悔するのは朱実のほうかもしれない」
「……え?」
「おれは避妊しなかった。妊娠してたらどうする? 堕ろす? 父親なしで産んで狭苦しい思いを子供にもさせる?」
 紫己の指摘どおり、まったく朱実は世間知らずだった。

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