NEXTBACKDOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-

第3章 恋中毒
5.リアルな夢

 あの夜は途中で意識をなくして、そのあと目が覚めるまでのことを朱実は知らない。シャワーを浴びるのにバスルームに連れていかれたときも、動揺してよく憶えていない。憶えているのは躰の中心の鈍痛とショックだけだ。
「行こう、邪魔になる」
 目を見開いた朱実に紫己は云い聞かせるようにしながら紙袋を持ちなおし、空いた右手で朱実の手を取った。朱実はどこに行くか訊こうという思考にも及ばず、紫己が人の間を縫って悠々と歩いていくのに任せた。

「化粧品も一式プレゼントだ」
 紫己はフロアを移動して、だれもが知っているブランドショップのまえで朱実を促した。朱実が断りかけると――
「おれからすると、一式くらいじゃ、朱実にとっての千円よりも安い価値しかない。悪いけど」
 紫己は一蹴した。
 肌チェックから始まってメイクアップまで延々と続きそうな店員の説明に辟易すること半分、感心半分、朱実はほとんどをうわの空で聞いていた。
 紫己はその間ずっと店の外で待っていた。いつ終わってもわかるように、店の正面でアクリル板の壁に寄りかかり、朱実から見える位置にいる。その視線に戸惑い、現実になれば深刻な問題に違いない妊娠についてもうまく考えられなかった。

 店を出ると今度はアンダーウェアの店のまえで紫己は立ち止まった。
「服も化粧品もどこがいいか、愛結ちゃんに教えてもらった。お礼のプレゼントを適当に買ってきてほしい。バストサイズはわからないから下だけでいい」
 突拍子もなく聞こえた。お礼をするのはわかるが、それがショーツになる理由がわからない。
 びっくり眼になった朱実を見下ろして、紫己はふっと笑みを漏らす。
「ちょっとした仕返しだ。少しは桔平を苛立たせてやればいい。自分勝手にやってるくせに独占欲はあるんだ。特に、あいつはおれにライバル心を持ってるからてき面だ。駅で鉢合わせしたときに気づかなかった?」
 紫己に云われ、桔平が責めるようだった口調の理由をいま気づいた。仲間内で付き合い方にルールがあるわけではなくて、単に桔平は、愛結が紫己といることが気に喰わなかったのだ。

「……あのときは気づきませんでした」
「あの日、レガーロに桔平がいるのは知ってた。帰りにちょうど通りかかって、桔平が目についた。すりガラスで下のほうは目隠しされてるからな、愛結ちゃんは気づいてなかったけど」
 紫己の挑むような眼差しと首をひねるというしぐさは、なんらかのニュアンスを含んでいるように見えた。
「もしかして……わざと駅で待ってたんですか」
「あのあと警告したのに、それでも朱実は気づかなかったな」
 直截(ちょくさい)には答えず、紫己は遠回しに仕組んだことだと認めた。
「早く買ってきて。退屈だ」
 紫己は顎をしゃくって促し、自分のほうが付き合わせているのに朱実のせいにした。からかっているのはあからさまで、不安にも嫌な気にもならない。逆に、少し気が晴れたように、かすかだったが朱実を笑わせた。

 朱実は独りで店に入り、自分のものでもないのに――いや、人にあげるものだからこそ迷ってしまって、紫己をまた店の外で待たせた。
 洋服を買うときは選ぶのに口を出したり、紫己は何気なく付き添っていた。だから、女性ものの店に入ることに頓着しないかと思えば、化粧品でも下着でも店内に入ってくることはない。そういう苦手意識は普通っぽくて身近に感じられる。おまけに大きな買い物袋を四つもぶらさげている姿を見れば、紫己の意向とはいえ、デートというよりは朱実が買い物に付き合わせている構図になっているのは否めない。

 そうしてショッピングモールを出た頃にはもう空は暗くなっていた。そんな自然の摂理に対抗するように、街中はどこも光に着飾られている。大晦日とあってイベントも多いのだろう、人は昼間と変わらず溢れていた。
 紫己と並んで駐車場に向かいながら、これほど街中は煌びやかだっただろうかと、朱実は幼い頃のことを思い返してみるけれど、東京にいたときの記憶は薄い。忘れたい、そんな気持ちが作用しているからかもしれない。いまになると、母とふたりで充分だったのに、とそう思う。

「食事は家でゆっくりできればと思ってる。馴染みのイタリア料理店にケータリングサービスを頼んでる。ふたりきりだ」
 ふたりきり、と最後に付け加えられた言葉は朱実を試すように聞こえた。朱実がそう聞いてためらったのは事実だ。
「同じことを繰り返すつもりはない」
 紫己は後悔を含んだため息を笑みでごまかした。
 朱実がためらう理由はいろいろある。同じことがないという保証はどこにもないし、紫己が桔平と違うという保証もない。朱実の側からしても、これ以上、近づいても何も生まない。
 ただ、うまく考えられずに途中で放棄して結着していないことがある。
「……今日は高階さんの好きなようにしていいって云いましたから」
 朱実はちょっとまえの紫己を見習って遠回しに答えた。紫己は可笑しそうにくちびるを歪めた。
「忘れてなかったようだ。帰ろう」


 紫己の車は光と光の狭間を走り、抜けだしたときはさながら空に飛び立った宇宙船で、限られた空間にふたりだけがいるような気分になった。さっき紫己は無意識に使ったのか、帰ろう、とそれはごく親密な言葉に聞こえた。それらが相まって、不思議なくらい安心感を覚えてしまうのは、朱実が単純で、そして愚かすぎるのだろうか。

 荷物を持ち紫己の住み処に帰ってまもなくケータリングサービスが来て、スタッフがキッチンを使い、温めたり盛りつけたり、ダイニングテーブルにセッティングまでして帰った。進武のところでもそうだったが、紫己の住み処でもパーティをやるときはこのサービスを使うと教えられた。
 スープや前菜からデザートまで、コース料理はレストランで食べるのと変わらず、文句なしに美味しい。もっとも、こんな料理が並ぶいかにも高級といったレストランに行くことなどなく、朱実にとってはこれまででいちばん贅沢な夕食だった。
 だから――

「朱実、一緒に暮らそう」
 紫己の言葉はひどく出し抜けで、朱実はあり得ない夢のなかにいるのかと訳がわからなくなった。

 夕食の間、話していたことといえば、大学生だった紫己が最初に手がけたアプリのことだった。
 レポートを書くときのストレスを解消するためのアプリは、C−BOXの漸進(ぜんしん)時代の開発だ。
 机に教本やら辞書やらを広げるのと同じようにパソコンの画面に一発で呼びだしたり、見比べたりできる資料管理アプリ。ネットで調べようとすれば、SNSのいいかげんな発言が邪魔で探し当てるまでに時間がかかるから、そういったサービスを避けて検索するアプリ。この二つも看板作という。
 朱実が調べ物をすることはそうないし、するとしても場所を調べる程度で大したことでもなく、気にしたこともなかったが大学生にとってそれらは切実らしい。
 そんな現実味のある話も夢だったのか。朱実は目のまえの紫己から目が離せない。

「……一緒に……?」
「そう。朱実は独り暮らしで、おれもそうだ。休みは合わせようと思えば合わせられるけど、合わせる手間を省くのもいいと思わないか」
「……妊娠してるかどうか、はっきりするまでってこと……?」
「いや、終わらせるつもりはない」
「でも……」
 そのさきはどう云ったらずうずうしいと解釈をされずにすむか。朱実はその言葉にたどり着けなくて尻切れとんぼのまま黙した。
 朱実が目を離せないように紫己もまた何も見逃さないとばかりに見つめる。
「でも、何?」
 朱実がためらっていつまでも口を開かないでいると、痺れを切らした紫己が促す。
「わたしは……だれかと一緒に暮らすなんて考えられません。ずっと独りでいます。そのほうがラクだし、人を当てにするのは嫌なんです……」
 紫己は微動だにせず、朱実を見据えている。真意を探るというよりは、その決心が本物かどうか見極めようとするかのようだ。

 やがて紫己はくちびるに薄く笑みを浮かべた。
「おれが嫌い? 朱実にひどいことをした。だから嫌悪感がある?」
「それは……もういいんです」
 紫己が強引に事を運ばなかったら、朱実はセックスを知ることはなかったかもしれない。痛いセックスもセックスがもたらす快楽も知らないままだったかもしれない。それ以上に、互いに素肌のまま抱きしめられることはなかった。それで痛みは帳消しにされた。
「もういい、か。どうとでも取れる云い方だ」
 紫己は首を振りつつ云い、ため息まがいの笑みをこぼして、けど、と続けた。
「こういうときはいいほうに取るのが得策だ。つまり、嫌いでもなければ嫌悪感もない」
 窺うように紫己は首を傾けた。

 朱実は応えようがなく目を伏せた。手持ち無沙汰に目のまえのワイングラスを持って口をつける。二十歳になってお酒を飲むのはこれが三回めだ。はじめてはビールで苦くて飲めなかった。二回めはクリスマスの日のカクテル。これは飲みやすくて美味しかった。そしていま口に含んだワインは、洗練された大人のイメージで美味しさがわからない。朱実がわずかに顔をしかめると、ふっとした吐息が聞こえた。
 視線を上向けると紫己と目が合った。

「ワイン、苦手みたいだな」
「お酒ってちょっと苦い感じです」
「カクテルは飲んでただろう? お酒に弱いってわけじゃなさそうだし、飲み慣れれば美味しく感じるようになるかもな」
「お酒じゃなくても、コーヒーで充分です」
 紫己はおもしろがって首をひねり、それから肩をすくめると生真面目な面持ちになった。

「正直にいえば……おれも、だれからも縛られる気はない。けど、朱実は違う。だれかと一緒に暮らしたことはないし、暮らそうと云ったこともない。朱実が独りでいようと思っているんならなおさら、おれと一緒に暮らしたからといって失うものはないだろう? いまは男女間でもシェアはあたりまえにある。それよりはちょっと近い関係で、それ以上は成り行きに任せればいい。朱実がその気になれるまでセックスを強要することもしない。独りがラクだっていうのはわかる。けど、失うものがないなら、試してみるのもいいと思わないか」

 紫己は自分のことを口下手じゃないと云ったけれど、そう云うには控えめすぎる。充分に雄弁だった。朱実が反論を唱える隙がない。それどころか誘惑してくる。
「わたしは……お……」
 岡田さんのことがだめになったばかりで――と、始まってもいなかったそんな口実が浮かんだものの、朱実は云わないまま口を噤んだ。
 紫己は、桔平が自分にライバル心を持っているとなんでもないことのように云ったけれど、反対ももしかしたらあり得て、桔平の名を発したとたん、このまえの二の舞になるのではないかと思った。
 もっと勘繰れば、桔平のことがあるから朱実を手に入れたくてしょうがないのかもしれない。そうしたら、終わりはもう目に見えている。
 そんな結論に達したとたん、朱実は虚しいような気になった。
 なぜ?
 自分で自分に問う。
 紫己は穏やかに見えていたのに、激情に駆られて無理やり朱実を傷つけた。計算をしてしたたかに動くこともある。やさしいながら自分の意向を曲げない強引さもある。
 こんなふうに紫己の欠点を並べ立てると怖い気がした。朱実が太刀打ちできるとは思えない。

「おれで試してみればいい。おれの云ったことが本当かどうか」
「……え?」
「世界が違うという無駄な言葉のことだ。客観的に見れば、おれと朱実は住んでる世界は違う。もちろん生活レベルもそうだ。そのハンデが本当にハンデなのか。確かめてみるチャンスだ」
 紫己はひたすら自分の意思を押しつけてくる。強引じゃないと朱実を動かすことはできない。それを承知しているかのようだ。
「一緒に暮らせば、待たせることも待つこともないんだ。それに、朱実は好きにしていいと云った」
 紫己は最後通牒というべき主張を放った。
「それは……今日のことです」
「だから今日、朱実を帰すつもりはない」
 再び朱実は目を見開いた。冗談だ、とその言葉を待ったが一向に紫己の口にのぼることはない。
「でも……」
「着替えは買っただろう。化粧品もすべてそろってる。下着だって買った。パジャマはどうにでもなる。歯ブラシはそこら辺に予備がある」

 今日の買い物は朱実のためじゃない。プレゼントと称しつつ実は紫己のためだった。やっぱり紫己は計画的で強引だ。
 怒るより呆気にとられた。呆れるよりもつい笑ってしまった。
 朱実の反応を見て、紫己はあからさまに肩の荷をおろしたような様で可笑しそうに笑い返す。
 その雰囲気が少年っぽくて、できないとは云えなかった。いや、云わなかった。


 バスルームから出てきてまもなく、祖母からの電話に出ると開口一番――
『正月は帰ってこないの?』
 問いかけた声はさみしそうだった。

 返事をするまえに足音が聞こえて振り向くと、朱実と入れ替わりにバスルームに入った紫己が早くも部屋に戻ってきた。
 下半身はパジャマを着ていながら上半身はアンダーシャツのみだ。結局、パジャマの上着は朱実が借りている。祖母を独りぼっちにして、朱実はまるであたりまえのように紫己といる。裏切ったような後ろめたさを覚えた。

「ごめん」
『それなら、成人式には帰ってこなくちゃだめよ』
「でも、おばあちゃん……」
『着物を借りてるんだよ。キャンセルしたら払ってるぶんが無駄になるからね』
 朱実からいい返事が聞けないことに業を煮やして、祖母は勝手に準備したらしい。
『朱実は何も悪くない。堂々として帰っておいで』
 本当のことを知らない祖母はきっぱりと朱実を無罪放免する。
「わかった」
 心苦しさを押し殺しながら祖母を真似てしっかりした声を装い答えた。ほっとしたため息が電話越しに聞こえる。
『躰には気をつけるんだよ』
「おばあちゃんもね。ありがとう」

 電話を切ったとたん、朱実は躰をすくわれた。
「高階さん!」
「ベッドは一つでもシェアするには充分に広い。けど、それよりはちょっと近い関係がいい」
 紫己は自分が云ったことを引用して、朱実をベッドに運んだ。
「一緒に眠るだけだ。それ以上のことは云ったことを守る。ただし、おれが反応するのはしかたない。そこは容認してほしい」
 ベッドに寝かされると背中から引き寄せられた。
「高階さん」
「呼び方、こういうことしながら他人行儀すぎる。ムラサキだ」
「……ムラサキさん」
 新しい呼び方で呼ぶと頭上で吐息が漏れ、背中に密着した胸が上下してくすぐったさを生む。
「それじゃ意味がない。ムラサキだ」
「……ムラサキ」
「何?」
「あ……云いたかったこと……忘れたかもしれません」
 紫己は吹きだすように笑った。
「寝るのには早いけどだらけるのもいい。おやすみ。いい年を」
「おやすみなさい。いい年を」

 慣れないことにどきどきするよりも心地よさのほうが勝る。朱実は目を閉じた。
 こんなふうにすごすのは今日だけです。そんな言葉を云おうとして云わなかった。
 そうしたことを後悔しながら、片方でリアルな夢を手に入れた充足感は手放しがたかった。一度そうなったら抜けだせない中毒のように、夢が朱実を侵していった。

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