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DOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-
第3章 恋中毒
3.恋とは戸惑うもの
十二月に入ってまもなくそわそわし始めていた気配は、クリスマスを間近に控えた頃からせわしさが加わっていた。いよいよ今年もあと一日を残すだけという今日――三十日ともなると、ほっとしつつ、クリスマスとはまた違ったわくわく感が入り混じっている。
独特の雰囲気だが、朱実にとっては年の暮れだからといって特別にやることはない。掃除を改まってやるほど住み処は広くもなければ物も少ない。仕事はいつものことを繰り返すだけだ。
ただ、ここ最近の朱実の心境は、どことなく落ち着かない街の様相とさして変わらない。
レガーロは年末まで営業して、年明けの三日間が店休になっている。レガーロに勤めだして連休ははじめてであり、ましてや今回はたまたまの四連休だ。何をしてすごそうと考えるまえに、まず紫己から誘われた明日がある。未来など見ることなく、その日暮らしのような毎日その時をすごすというのが朱実のスタンスだ。仕事以外で予定を入れることに慣れていないし、だから桔平のときと同じように、紫己と明日会うことを考えると、じっとしていられない気分で少しもすっきりしない。
そのもやもやも、仕事をしているときはまだましだ。店が閉まるまであと三時間、気を取られる暇もそうあるわけではない。
「いらっしゃいませ」
敦美の声がして、朱実は客が帰ったばかりのテーブルを片づけながら同じように発した。
テーブルを拭きあげ、食器の載ったトレイに手をかけながら、何気なく入ってきた客へと目を向けた。姿を確認したとたん、朱実の手がぴくっと小さくふるえる。まだトレイを持ちあげていなくてよかった。そう思えるのは、動揺するばかりではなく理性もちゃんと残っているからだ。朱実は自分で自分を励ます。
客は桔平だった。会うのは二十五日以来だ。しばらく時間が止まったように目が合ったまま動けなかった。実際はそう長く静止していたわけでもなく、朱実の感覚にすぎないのかもしれない。
「コーヒーを二つ頼んでいいかな」
いつもと変わりない調子で桔平は席を陣取るまえに注文をする。
「かしこまりました」
ちゃんと応じられるかと思っていた声は普段どおりに出てきて、朱実はほっとした。
昨日今日とさすがに客は少ない。桔平はまっすぐ朱実のほうへとやってきて、ほかの席が空いているにもかかわらず片づけたばかりのテーブルに座った。
間近にすると目を合わせるまでの勇気が出ない。朱実は目を伏せてトレイを持ち直す。
すると、持ちあげてしまうまえに桔平が朱実の手首をつかんだ。
トレイが揺れて食器がカタカタと音を鳴らす。
「岡田さん……」
「このまえは悪かった」
「……いえ。……気にしてませんから」
「ちゃんと謝りたかった。愛結の手前、ああ云わざるを得なかったんだ。母親が早く死んで、父親に甘やかされて育ったからわがままなんだよ。最初はそういうところが可愛いと思ってたけど、義理の妹だから無下にはできない。おれは朱実ちゃんみたいに控えめな子がいいんだ。朱実ちゃんに会ってそうわかった」
クリスマスの別れ際に見せた軽薄さと違い、桔平はごく真剣な眼差しで朱実を見上げてくる。
あのとき愛結に結婚すると約束していなかったか。それすらもあの場しのぎの返事なのか。
それに、最初は可愛いと思っても気が変わるように、いま朱実を本心からそう思っているとしても、いつ心変わりするかはわからない。
愛結の『初失恋』という言葉からしても、紫己の『初黒星』という言葉からしても、桔平がゲームじみたことをしていたのは明白だった。
クリスマスの夜から明けるまで、一度にいろんなことがありすぎた。桔平のことを考えれば気が沈んだ。そもそも一度めがあってはならないのに、二度と、と云ってしまう境遇に自分を置いた愚かさを後悔した。
せめていま、桔平の口車に惑わされず、自分で整然と考えられていることにほっとした。
「わたしはいいんです。岡田さんが誘ってくれなかったら、ずっと知ることなかった場所で……」
そのさきは言葉が見つからず、朱実が曖昧に濁すと、桔平は薄く笑って朱実から手を放した。
「それ、皮肉……じゃないよな」
「違います。でも、やっぱりわたしには合いません」
朱実がめずらしくはっきりと云うと、桔平はわずかに眉をひそめた。
「桔平、認めたくないのはわかるけど、朱実については無駄だってわかっただろう。もうこのへんで手を引いたらどうなんだ」
突然、人が割りこんで、それが紫己だと察するまでもなくわかって、朱実はパッと声のしたほうに顔を向けた。
パープルグレーのグラス越しに紫己と目が合う。
送ってもらって以来、会っていない。約束の明日まで紫己と会うことはないと思っていた。不意打ちのせいか、鼓動音がうるさいほど高鳴る。
会っていないからといってこの五日間、まったく音信不通になったわけではなく、毎日、仕事が終わって家に着いた頃に電話があった。
変わりない? 紫己からはそんな質問があって、真意も曖昧なまま、大丈夫です、と朱実は答える。そうして、『よかった。おやすみ』と呆気ないほど早く電話を切りあげられる。
「“朱実”?」
桔平は紫己の隙を聞き漏らさず、今度ははっきり眉をひそめた。
一方で紫己は、隙だと思っていないのか、口を歪めたような笑い方をした。朱実の背後をまわって、桔平の向かい側にゆったりと座ると肩をそびやかす。
「そういうことだ」
紫己の返事を受けて、桔平は朱実と紫己をかわるがわる見つめ、朱実は居心地が悪い。
「ちが――」
「もっとも、口説いてる最中だ」
朱実をさえぎって、紫己は恥ずかしげもなく云った。
紫己と桔平は互いをじっと見据える。あのきまり悪いシーンで垣間見えた、火花が散っていそうな気配と同じだった。それを、桔平が失笑して払う。
「やっぱりな」
「何が『やっぱり』なんだ?」
紫己の呆れた声以上に、桔平は呆れたように笑った。
「ムラサキ、おまえ、自分をわかってないのか?」
「なんの話だ」
「だから、朱実ちゃんだよ。おれが知ってるかぎり、おまえが好む女は朱実ちゃんタイプだ。おとなしい以上にどこか陰を持ってるような。最初ここに連れてきたとき、反応あるかと思ってたけどスルーした。結局は手に入れたくなったみたいだ。賭けでもしておけばよかったな」
桔平は揶揄したが、紫己はそうそう挑発に乗る人ではない。そう思ったとおり、云い返すようなことはなかった。けれど、何に反応したのか紫己がぴりっとした空気を纏ったのは朱実にも感じとれた。喋りたくもないのか、紫己は首をひねって返事をすかした。
桔平は単純に、あるいは嗾けるような意があるのか、おもしろがってにやついている。
「朱実ちゃん、忠告しておけば。ムラサキの好みは一貫してるけど、長続きしたためしがない」
古いアパートを見れば、紫己はうんざりしてもう近づいてこないかもしれない。朱実はそう思った。レンタル衣装はお金で解決できるだろうし、償いという名目の買い物だってだれかに頼むか、もっと簡単に送りつけるか、それですむ。
それなのにそうはせず、紫己は朱実の住み処を普通に住み処として捉えているだけのように感じた。
けれど、明日で終わりにしよう。やはり、桔平のときと同じことを決めている。
だから、桔平の忠告はまったく不要なことだ。
「わたしは……」
「安易な保証をするつもりはないけど、切っても切れない、そうなるのはわかってる」
紫己は奇妙なくらい永遠をほのめかして断言した。
桔平は笑った。かと思うと――
「後出しのくせに手を出すなって云ってるのか」
首をわずかに傾け、挑むように紫己を睨めつけた。
「手を出すなという以前に桔平、おまえは誠実じゃない」
「おまえは誠実なのか」
「いや、少なくとも、おれが誠実じゃないことを朱実は知ってる。けど、おれが誠実じゃないのは朱実に対してだけだ」
紫己の言葉を受け、桔平はひどく顔をしかめて、次には呆れたように首を振った。
「意味がわからないな」
桔平のひと言に、紫己は形だけの笑みを浮かべて肩をそびやかした。
朱実をそっちのけにしたふたりの会話に所在なく、場を離れるきっかけもない。もとい、仕事中という云い訳すらも思い浮かばないほど、朱実は困惑していた。
「朱実ちゃん、コーヒーいいよ」
マスターが声をかけた。仕事をさぼるな、という通達か、それとも救いだしてくれたのか。いずれにしろ、朱実はやっとこの場から解放されるきっかけを得た。
「ただいま、お持ちします」
紫己たちに向かい軽く一礼をするとカウンターに向かう。
「すみません」
朱実はマスターに謝りながら、漏れそうになったため息を押し殺した。
桔平が席に着くまえに注文していくのは通例のことだから、マスターは朱実が伝達しなくても注文を聞き遂げていたのだろう。カウンターに二つコーヒーが並ぶ。
どんな反応が返ってくるかと思いきや、マスターはおどけたように手を広げて、咎めるふうではない。少しほっとして朱実はトレイにソーサーをのせ、カップを上に置いて紫己たちのテーブルに向かった。
コーヒーを出す手がふるえることなく、そのことにもほっとしながらふたりの会話に耳を傾けた。すると、朱実が席を離れたわずかの間に話はまったく変わっていた。新年会の話だ。
「朱実ちゃんも内々でやるときは来たら?」
気持ちの切り替えを競う選手権でもあったなら、桔平は一番を取りそうだ。そう思うほど、桔平は屈託なく振る舞う。
「いえ。わたしは場違いなので」
「場違い? ムラサキといてそう思う奴はいないよ」
桔平は、朱実と紫己を認めたような云い方をした。
無意識に紫己へと目を向けると、朱実の視線を察したように目線が上向く。目が合えば合ったで、さっきのようにずるずるとここに引き止められそうで、朱実はさっと目を伏せた。
「ごゆっくりどうぞ」
桔平には応えることなく、朱実は頭を下げると奥に引っこんだ。
気分的に落ち着いてから思い至った。マスターに聞こえるくらいだからほかの人の耳にも届いていたかもしれない。せめて、彼らが何者かばれていなければ問題ないが、ただでさえ目立つ人たちだ。ましてや云い争っていれば人の興味を引く。
聞かれたとしても客は少ないのだから、と朱実は自分をなぐさめた。
まもなく、桔平がさきに帰っていくと、何気なく見た紫己と目が合った。パープルグレーのグラス越しだから、本当に合ったかどうかははっきりしないが――
「ミルクがほしい」
紫己は確かに朱実に向かって頼んだ。
朱実は慌てて用意して持っていく。
「すみません。ブラックだと思いこんでいました」
「それで合ってる」
ミルクをテーブルに置きかけた手を止め、朱実が目を丸くすると、紫己はその反応を見て可笑しそうにした。もしかすると、朱実を呼ぶためだけにミルクを要求してきたのだ。
「……今日は……今日も明日も仕事ですか?」
「ああ。トップになると自分で意識して休み取らないと、つい仕事しているということが多くなる」
「わたしも休みなんかいらなくて、仕事してるほうがいいんです。……あ、高階さんと比べるなんて間違ってますけど」
「間違ってることはない。需要があるかぎり、どんな仕事も仕事だ」
「はい」
朱実はうなずき、それを紫己は観察するような様で見ていた。
「明日は一時くらいに迎えにいく」
「はい」
「恰好は、パジャマとか裸じゃなければいい」
クリスマスパーティで悩んでいたことを引き合いに出して、紫己はまったく必要のないアドバイスをした。
ただし、朱実の緊張を解くには役立っている。あの日はいい思い出など何もないのにもかかわらず、朱実は自然とくちびるに笑みを浮かべていた。
*
「朱実ちゃん、岡田さんとはうまくいかなかったの?」
閉店後、率直に訊ねたのは敦美だ。やはり、様子を窺っていたらしい。
「そのまえに何も始まってませんから、失恋だとか気遣いはいらないんです」
「そう? 岡田さんとはお似合いだと思ってたけど、高階さんとふたりでいるのもなかなかね」
どうなかなかというのか、朱実にはさっぱりだ。
「そういうのではないんです。今度、高階さんが来てもからかわないでください。迷惑かけますから」
やはりほかの客が聞いていた可能性は高く、それに尾ひれがついて噂にでもなれば、後悔することは目に見えている。
「迷惑? それよりはオス同士の闘いが始まって、その気ありありだとみたけど」
敦美はおもしろい方向へとばかり運ぼうとする。年が明けて、紫己ともとっくに終わったと知ったらどんな反応をするのだろう。見方によっては、朱実が振りまわしているように思われる。
「暇じゃない人たちの暇潰しです。わたしがうまくかわせないから」
半ば自暴自棄になって朱実が放つと、敦美は笑いだした。
「朱実ちゃんもそういう皮肉っぽいこと云うんだ。発見」
「ペースが崩れてて、だからやっぱり戸惑ってるんです」
「恋ってそういうものでしょ。扉を閉ざすことないと思うけど」
何も事情を知らない敦美は、だれもがそう云うだろうということを口にした。
探られれば簡単に問題は浮上して、本当に迷惑をかけることになる。立場があればあるほどスキャンダルは打撃になるのだから。